愛知県碧南市 油ヶ渕遊園の隠れた人気者 平成16年の台風23号により消滅する
<6月には碧南市の花「花菖蒲」が咲き誇る場所、油ヶ渕遊園。明和3年(1766)・文政4年(1821)と油ヶ渕の歴史を伝える石碑と並ぶようにして存在したユーモラスな木。平成16年(2004)に襲った台風23号でその姿を消す> 碧南市の市の花は「花菖蒲」である。その花菖蒲が盛大に咲く場所、そして「花しょうぶ祭」で有名なのが西端の油ヶ渕遊園。 昭和42年(1967)に完成し、以来、市内のみならず近隣市町村からも訪れる人の多い、憩いの場となっている。 園内の噴水ある場所から北に、油ヶ渕の名を記した石碑が2つある。1つは高さ135センチの角柱で「油淵」と刻まれ、右面には「三州西端村」、左面に「明和三年八月建立」との文字。明和3年は西暦でいえば1766年にあたる。 もう1つの石碑は高さ91センチ、幅62センチの大きさで、正面に「油淵之碑」の文字が刻まれ、建立年は文政4年(1821)9月である。 油ヶ渕の歴史を伝えるこれらの石碑に並ぶようにして一本の木がながらく立っていた。斜めに傾き、人が手を広げたような格好。 モシャモシャと葉をつける姿は可笑しく、明らかにまわりの景観から浮いていた。そんなユーモラスな姿の木も平成16年(2004)10月の台風23号により被害を受け、切り倒されてしまった。 切り株を見れば、中は空洞が広がり、随分侵食が進んでいたようだ。 空は広がったが、どこか淋しげな油ヶ渕遊園。いかにあの木の存在が大きかったかが今にして分かる。
<「西端には桃源郷があった」という話を聞きつけた。西端の未来を案じ、京都伏見より持ち帰った桃の種。西端藩主5代目・本多忠栄は西端の桃を目にすることなく没するが、西端の桃は着実に名産となっていった。だが、第二次世界大戦中の食糧需要により、米作への転化を余儀なくされ、西端の桃は姿を消してしまった> 西端がかつて「桃の産地」だった。桃の花咲く春の季節には、西端全体が桃色に染まり、「桃源郷」の言葉相応しい情景が望めたそうだ。 今現在、西端で桃の花を見ることが出来るだろうか? おそらく皆無に近いだろう。 今では忘れられた西端の桃。だがある想いが詰まっていた。安永6年(1777)、西端藩主である五代目・本多忠栄は、財政難に苦しむ西端の窮状を案じて、赴任先であった伏見の桃を西端に送り、村人達に栽培することを勧めた。 翌年の安永7年(1778)10月20日、西端藩主・本多忠栄は58歳で没するが、桃の育生は続けられ、享和(1801~)から文政(~1830)の時代には、桃生産の耕地は百町にも及んだという。 明治時代を迎え、昭和の時代に入っても西端の桃は名産品として作り続けらるが、第二次世界大戦による食糧増産の必要性に迫られ、桃の耕作地は田や畑へと変えられる。 戦後、再び桃の生産がされることはなく、西端の桃を見ることはなくなった。
油ヶ渕には、正体不明の未確認生物が登場する民話・伝承がいくつか伝わっている。油ヶ渕という名前の由来となった碧南の民話「龍燈」には北浦(閉じられる前の油ヶ渕)に棲む龍神が登場する。 油ヶ渕で釣りをしていて、大量の魚を持ち帰ろうとすると、「おいてけー、おいてけー」と不気味な声が恫喝する話。 今の見合い橋近くは、「のど首」と呼ばれる場所があって、そこは油ヶ渕でも水深の一番深い場所。 のど首の南岸そばには洞窟があって、大亀が棲んでおり、時折、水面に上がってきては人を驚かしたという。 これらの存在は「油ヶ渕の主」として語り継がれ、また油ヶ渕自体も人々は畏敬の対象としていたようだ。 時は変わって現代。「ヴィ~ン」と特有の爆発音を従い、水面を滑走するモーターボートたち。 彼らは漁師でもない。彼らは競艇選手であり、とある理由でこの油ヶ渕で訓練を受けているのである。 蓮如上人の弟子となる「如光」が藻に乗って現れたという水面を、今はモータボートが行く。 私達の後世には、どんな民話が語り継がれているのだろうか。興味はあるが、私達は知ることは出来ない。
< text • photo by heboto >