愛知県碧南市 明治20年(1887)木造3階建ての劇場が誕生 「新盛座」跡を歩く
<大浜の蓬莱座に対抗して西三河最大級の劇場「新盛座」が明治20年に開館。演劇以外にも講演会・演説会など開かれ、公共施設のしての役割を果たした。惜しまれつつ昭和36年に閉館。伊勢湾台風時の「三波春夫」のエピソードは人々心に深く残る> 銀座通り商店街の一角、衣料品学生服の「大黒屋」裏に広がる駐車場敷地は、開館当時、西三河最大級の規模を誇る劇場「新盛座」のあった場所である。 明治16年(1883)11月26日に悲願であった北大浜村(新川)を誕生させた岡本八右衛門は、大浜の劇場「蓬莱座」(後の寿ヶ座)に対抗して、明治20年(1887)に劇場「新盛座」を賛同者6人と共に資本金2万円の株式会社として開館させる。 新盛座は木造3階建てという当時、西三河最大級の規模。演劇の他に公共施設的な役割も負い、人々に親しまれる劇場となっていた。 今も伝わる新盛座のエピソードがある。昭和34年(1959)9月26日、伊勢湾台風の来襲した夜に商店街の招きでやって来た「三波春夫」は停電中の新盛座舞台で、蝋燭の明かりの中、観客を楽しませていた。 次第に風雨が激しくなり公演は中止。三波春夫は翌年の出演を観客に約束し、本当に翌年やって来た。 三波春夫の律儀さに皆、感心したという。
<鶴ヶ崎に存在した古名「乙立」は”尾張から追われて来た人々”に由来する。碧南の民話「朝えまし」に登場する”池端七軒”との関連性は? 懐かしい風情を見せる軒の連なり、乙立と呼ばれた場所を歩く> 新川銀座通り商店街の和菓子「海月堂」脇を西光寺門前へと走る道は、なだらかな傾斜と共に古い家並みが懐かしさを憶えるものである。 海月堂の向かいには「大衆酒場・寿ヶ花」と書かれた看板が残り、賑わいのあった時代を物語る。 この付近一帯は、古名を「乙立」という。明治43年(1910)発行の新川町史では「寛永二年 乙立ニ居候百姓ハ 助左衛門・七三・弥十郎・弥助・惣左右衛門・次郎左衛門」と記される。 乙立の地名由来は、”尾張から追われて来た人々がこの地に住んだ”ことから、「追っ立て」が訛り、乙立となったとされる。土地を追われた原因は一体何だったんだろう。 鶴ヶ崎には碧南の民話「朝えまし」に登場する”池端七軒”という集落が存在したが、この乙立の人々を示すのかは不明。 だが、この鶴ヶ崎は乙立周辺を基として発展していった事は確かだ。
岡本八右衛門(おかもとはちえもん) 弘化4年(1847)、新川で木綿問屋を営んでいたカネハチの6代目として生まれる。本名は八治郎。 三隻の船を所有し貿易商として財を成す。本郷である大浜村の圧政に苦しむ人々を救うために私財を投じ尽力、明治16年(1883)、悲願の北大浜村を誕生させる。 明治期に大きく新川が発展した背景には、岡本八右衛門が新川の河口を整備した影響が大きい。町の基盤である銀行、郵便局、劇場などの次々建設した。。 明治38年(1905)に満州への航海途中にあった「東洋丸」が消息不明になり、以後、没落の一途を辿る。 大正5年(1916)4月5日、異国の地である朝鮮・元山で生涯を閉じた。 碧南市の偉人として伝えられることもなく、今や地元の新川でさえ功績を讃える人もいない岡本八右衛門。いつの日か新川の人々に感謝の心が生まれることを望む。
新川銀座通りを北へ、懐かしい風情の駄菓子屋「日本屋」が角にある交差点を左へ向かう。 途中、「松助寿し」のある本町通りを横切りさらに奥へ。坂道となり左手には4メートル超の高い石垣が見える。 この石垣の上は、かつて「カネハチの森」と呼ばれ、古くは岡本八右衛門の大蔵が建ち並んでいた。 岡本八右衛門が新川を去った後、手入れされず鬱蒼とした森となり、しばらくは誰も近寄らなかったという。 新川発展のために自ら犠牲となり尽力した岡本八右衛門。破産後、誰も救援の手を差し伸べなかったという後ろめたさが新川の人々の心にはあったのかも知れない。 現在あるボーイスカウトハウスの裏には、入出港する船を監視する見晴台の跡があったというが、いまは確認する術もない。
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