愛知県碧南市 神と人とが共に歴史と誇りを創る 煤けた「住吉社」を訪ねて
<元文4年(1739)に浜尾の地へやって来た「住吉社」。煤けた姿は浜尾の民と共に生きてきた証。真っ黒になりながら一所懸命に働いた氏子たちと同じく自らも煤だらけになった。決して綺麗な姿と言えないけれど、誇りある浜尾の神様> 権江橋に程近い場所にある「住吉社」。大浜・林泉寺にあった鎮守の社を元文4年(1739)に浜尾へと勧請したことに始まりを持つ。 西の鳥居を越え、境内へと足を踏み入れば、どこかくすみのある景観に心を留める。 参道沿いに並ぶ灯籠には、煤が全体に染み付き妖しげな雰囲気。拝殿前の狛犬は顔半分が崩れ落ち、体には縦にヒビが入ってしまっている。 「これでも、きれいに洗ったんだけど」と申し訳なさそうに話す男性。 「でも、この煤は一緒に頑張ってきた証ですよね」と告げると男性は少し笑みを浮かべて帰っていった。 住吉社のある一帯は、明治期より土器・瓦製造が盛んになった土地。 環境保護の意識から煤煙を出す工場は減少した。遠い先、未来の浜尾住民は何故、住吉社は煤けて汚いのかと訝しがるだろう。 伝えてほしい。この煤けた姿には浜尾の歴史がある。先人達の築き上げてきた誇りがあるのだと。
<壁であっても壁ではない。新川右岸にある壁、50メートル。12段の赤橙瓦の積み重ね。絵画のように美しい情景を見せて道行く人を楽しませる。世界のどこにもない壁を見上げれば、きっと明るくなれる> 新川の右岸に出現した巨大な壁。約50メートルに渡り、赤橙色の壁が続いているのである。 その正体は12段に積まれた瓦。新川は低い位置に流れており、台地の砂止めとしての役割をして用いられたようだ。 さすが碧南市を代表する瓦製造の地である。一見無造作に置かれたように見える瓦の壁。 しかしちゃんと向きや突出具合も計算されており、不安定な印象は受けない。 これだけ多くの瓦が集まる光景は実に壮観。どこかの著名な芸術家が創作した芸術作品と紹介しても通じるだろう。 青空美しい新緑の季節には、青・赤・緑と素晴らしいコントラストを見せ、新川の辺は一枚の絵となる。 ベルリンの壁、嘆きの壁と、世界にはどこか悲しげの雰囲気ある壁ばかり。 だけど碧南市には心を明るくさせる壁がある。憎しみも悲しみもなく、見上げればゆっくりと雲が動くのみ。
住吉社(すみよししゃ) 元文4年(1739)に大浜・林泉寺の鎮守であった住吉社を浜尾へ勧請する。 明治23年(1890)浜尾の村民を乗せた船が志摩の沖合にて暴風に遭遇し、操舵不能に陥った。 難破の恐怖に怯えるなか、必死に故郷・浜尾の住吉社神様に懇願する。 奇跡は起こり、船は付近の島へとたどり着いたという話が残る。
住吉社の正式な入口は西の鳥居から参道を折れ、拝殿へと進む道筋である。 だが住吉社境内へ至る入口はもう一つある。それは新川西岸、権江橋に程近い場所にある。 住吉神社は台地の端に位置しており、境内東の側面は丸い石が使用されt石垣となっている。 丸い石といえば、鶴ヶ崎・山神社拝殿の土台。知多の伊勢湾界隈では丸い石が石垣・土台にごく普通に使われている。だが、碧南市では珍しい。 私の知る限り、先述の山神社とこの住吉社だけである。多くの優れた石工がいる岡崎市と碧南市は岡崎街道で結ばれ、石垣となる材料・技術も容易に調達できたはずである。 それなのに、わざわざ丸い石を使用する意味とは一体何なのか?知多と何らかの繋がりがあるのでは?謎である。
< text • photo by heboto >