愛知県碧南市 瓦にある「千福レッド」は未来へと繋がる色として「千福寺」
<千福の人々の切なる願い。待望の寺院「紫雲山・千福寺」は、千福の誇りであり、団結心を表す歴史である。白壁に掲げられた黒板には、手書きの”ありがたい言葉”。信仰心が希薄となる現代においても厚く信仰される千福寺> 水門橋からの旧道を北東へ約260メートル、鼬橋からの道との交差にある「紫雲山・千福寺」。 千福の名が示すとおり、千福地区の人々が心の拠り所とする寺である。 昔、千浜と呼ばれた地が2つに分かれ、浜尾・千福となった。故に千福を南浜尾と呼ぶ人もいる。 元禄11年(1698)の千福においては、既に40戸の集落が出来ていた。 古い歴史を持ちながらも、ながらく千福の地には寺院が存在しなかった。心の拠り所を求める人々の願いにより、天保元年(1830)に創建されたのが千福寺である。 旧道沿いの白壁に掲げられた黒板には、何時もありがたい言葉が書かれる。 千福の人々の迷い・不安を解決へと導く姿勢は、現代においても脈々と受け継がれている。
<連なる赤い瓦は、千福の精神を表す「千福レッド」。鼬橋から来る道と西端へ向かう道の交差上にあることから、多くの人が目にしたことだろう。情緒溢れる赤瓦の築塀に先人達の想い> 鼬橋から来る道が千福寺の脇を通る時、人は素晴らしい景観に心打たれるだろう。 千福寺の南には赤色瓦を使用した風流な壁が連なっている。 境内からの緑と相まって、その鮮やかなコントラストは千福寺の魅力の1つ。 赤色瓦は「塩焼き瓦」とも言い、この地方では明治後期から研究され、本格的に生産されるのは大正3年(1914)頃から。 大正13年(1924)建造の旧大浜警察署も赤瓦を使用した代表的な建築物。碧南市内の寺院で築塀に黒以外の瓦を使ったのは、この千福寺以外に道場山の法淋寺がある。 あちらは釉薬を使用した鮮やかなブルー。もとは大浜村の端に位置し、文化文明にも隔たりのあった千福の地。 待望の千福寺に対する喜びと希望は、この鮮やかな赤にも受け継がれている。
千福寺(せんぶくじ) 天保元年(1830)、浜尾の精界寺の三男として生まれた佐々木勧実が千福の人々の願いにより、「千福講堂」を建立。 佐々木姓が2代続いた後、天王に住んでいた山田恵海が3代目を継ぐ。山田恵海の時代は、明治の仏教排斥運動盛んな時勢であったが、 山田恵海は千福の人々と共に団結し、寺を守り抜いた。戦後の昭和22年(1947)に現在の「千福寺」と称するようになる。
千福寺の南にある交差の一画に「千福地蔵」と刻まれた石柱あり。敷石4枚が並べられ、松の枝傾く庭に小さな御堂。 かつては交通の要所であった場所にあるお地蔵さん。額の文字は長年の風雪により消え失せる。 薄暗い中を覗けば、坐像のお地蔵さんがこちらを向いていた。上部にはどこの風景か分からぬ絵画。 由緒は不明で隣の千福寺とは関係が無いという。しかしこのお地蔵さんの存在は大事だ。 向かいにある酒造会社の倉庫、千福寺とこの地蔵堂がもたらす景観は、版画の題材にでもなるような一枚の作品風。 8月の地蔵盆には「南無地蔵尊」と書かれた幟が赤白交互に並び、賑やかに祭が催される。
< text • photo by heboto >