愛知県碧南市 国重要文化財となった「大浜大仏」さんに会う「海徳寺」を訪ねる
<寺の格を伝える二重門、両脇に仁王の存在。凄まじい形相をして仏世界へと入る者を審判する。寛正3年(1462)に守翁西演和尚が草庵を結んだ事に始まる浄土宗西山深草派「南面山・海徳寺」。巨大な本堂は嘉永元年(1848)に4年の歳月を掛け完成> 「山門からどうぞ」の文字が目に入る。白壁続きの入口とは関係なしに、二重門が南を向いてたっている。 もとは西を向いていたが、昭和37年(1962)に大浜街道の幅員拡張工事をした際に現在の配置となった。 両脇に鎮座する金剛力士像は阿形と吽形に分かれ、いわゆる仁王門の体をなす。像の前には手作りの草鞋が供えられ、無病息災を願う。 2階部には阿弥陀様の掛け軸を奉ると伝えられる。「南面山」と誇らしげに掲げられた額の向こうに見える海徳寺本堂。 4年の歳月をかけたという壮大な建築は、嘉永元年(1848)建立当時、海徳寺がどれ程の力持っていたかを伝える。 昭和34年(1959)の伊勢湾台風による損傷を受けて降ろした鬼瓦は、あまりに大きすぎて修復不可能になったという逸話が残る。
<誤解された神仏分離令により、廃棄される寸前であった。明治2年(1869)4月、時の海徳寺住職「寂空」が檀家の「角谷大十」と共に迎えに行く。「大浜大仏さん」と歓迎され平穏の時を長らく過ごす。後の調査で貴重な仏像だと判明し大騒ぎ> 平成15年(2003)5月29日、海徳寺の本尊が国重要文化財に指定された。 江戸時代の作と長らく伝えられてきたが、平成14年(2002)の本格的な調査により、平安時代後期の作と判明したから故に。 廃棄される運命にあった仏像が海を渡り、大浜の地へやって来て「大浜大仏」さんと皆に親しまれた134年後の出来事である。 とたんに「写真撮影禁止」、さらに国際化か「shoes off」の注意書きが現れ、一時は物々しい雰囲気になった。 本堂の引き戸を少しだけ開けると、胸のまんじマークが見えるだけで大仏さんの顔は見えない。 本堂内にはいる。光背が天井を突き破るほど巨大な大仏さんは、金ぴかの顔をして半眼の視線をこちらに投げかけている。
海徳寺(かいとくじ) 寛正3年(1462)、守翁西演和尚がこの地に草庵を結び、「海徳寺」とした事から始まる。 現在の本堂は4年の歳月をかけ、嘉永元年(1848)に再建されたもの。 本堂西脇段にある旧本尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代のもので、 三河十二支巡りの戌・亥年生まれの守り本尊である。 他に曾我兄弟の守り地蔵と伝えられる地蔵菩薩像がある。
海徳寺の山門向かいにある小豆クリーム色の建物、「一行庵」。 薄暗い堂内を覗き見る。ガラス引き戸の向こうにキラキラと光を放つ仏像群。 鱗のような法衣をまとうのは、毘沙門天さんか。この一行庵にある仏像の多くは海徳寺の大仏さんと同じく、明治の神仏分離令により危うく廃棄される所を角谷大十商店が譲り受けたものである。 碧南市教育委員会によれば、高さ130センチの平安時代後期作とされる不動明王立像が碧南市指定文化財に認定されるほど貴重な仏像らしい。 だが注目すべきは左端にある3人の像、「雨宝童子立像」である。これは天照大神の15,6歳頃の姿といわれ、神仏習合思想を表す、この地域では珍しい仏像。 難しいことはさておき、雨宝童子立像の靴が単純に可愛い。
< text • photo by heboto >