愛知県碧南市 春の到来には桜と菜の花が出迎える 小川流れる「水源公園」
<人工的に作られた小川は歴史に基づいているのかも知れない。鷲塚・水源公園のある辺りは、昔、鷲塚の人々が野菜を洗ったり、衣類を洗濯したりした場所。今は外国人が多く集まるインターナショナルな雰囲気?> 何処からアクセスすべきが迷ってしまう水源公園。上塚橋の手前、家具屋さんを目印に下り道を左手に進めば見えてくる「水源公園」の文字。 岩石山から溢れ出る水は、幅1メートル程の小川のせせらぎとなって日時計のある池へと流れ込む。 小川は水深浅く、身近に寄れるという構造は、かつてこの場所が鷲塚の人々が利用した「洗い場」に由来するのだろう。 園内テラスのバーベキュー施設では、休日を楽しむ外国人の楽しげな声。閉鎖的といわれる碧南市でも国際化の波は確実に押し寄せている。
<碧南市・鷲塚と西尾市・上町を結ぶ427メートルの上塚橋。碧南市内では「鷲塚橋」という名で呼ばれる事が多い。上塚橋の下流では、昭和の初め頃までは舟紡績が行われていた> 碧南市・鷲塚と西尾市・上町の文字を一つずつ取って名付けた「上塚橋」。碧南市民の間では、「鷲塚橋」とも呼ばれる。 この上塚橋の由来は、明治12年(1879)に鷲塚対岸の西尾市・上町にある紅樹院(西尾に茶の栽培を広めた寺院)の住職、足立順道と鷲塚の渡船業者が協力して、板橋を架けた事に始まる。 その後、明治17年(1884)により頑強な有料橋となり、再び無料となったのは、明治45年、旭村と西尾町が橋を買い取りしてから。この頃より、「上塚橋」と呼ばれるようになる。 明治15年(1882)から上塚橋の下流では水車を利用してガラ紡機を稼働させる「舟紡績」が行われ、昭和8年(1933)まで続いていた。
碧南市・鷲塚と西尾市・米津との間には、かつて「野銭(のせん)」という集落があった。 矢作川開削により出来た砂州を利用して寛保3年(1743)に、小田甚兵衛が耕作した事で始まった新田である。 寛政5年(1793)頃には、10軒ほどの集落であった。大浜から岡崎へ向かう「大浜道(岡崎街道)」が集落内を通るため、野銭新田は多くの人馬が往来した。 明治45年(1912)に集落内の秋葉社が天満神社に合祀され、昭和8年(1933)には5軒、第二次大戦後には全ての世帯が他へ転居していき、野銭新田に住む人はいなくなった。野銭新田の出身者には、日本一祷斎がいる。 野銭新田を語る逸話に面白い物がある。集落にある一軒の造り酒屋が出来、あまりにも美味しかったため、農民達は昼間から酒浸りになり、働かなくなってしまった事があったという。 今は幻となる野銭新田の酒、一度味わってみたいものである。
< text • photo by heboto >