愛知県碧南市 一向一揆の悲劇 強い「信仰心」が今も残る願隋寺を訪ねて
<別名”鷲塚御坊”と呼ばれる南松山・願随寺。蓮如上人御手植えの「さかさ杉」が有名。三河一向一揆には拠点となり、焼き討ちに遭った歴史あり。掲げられた提灯に今も残る不屈の信仰心> 上塚橋へと向かう道沿い、軒先に挟まれた参道は薄暗く、砂利を踏む足音だけが響く。 白木の輝きと金ぴかの装飾が眩しい山門、鷲塚御坊と呼ばれた南松山・願隋寺の入口である。 右手に書院・庫裏と続き、蓮如上人が植えたとされる「さかさ杉」。枝が下に向かって伸びていた事に由来。現在見られる”さかさ杉”は2代目である。 この願隋寺は戦国時代、三河一向一揆の拠点のひとつであり、兵火に遭い焼失した過去を持つ。本堂前に掲げられた提灯には「鷲塚御坊」の文字。権力者に屈しない鷲塚の信仰心を物語る証である。
<何故に歌舞伎坂という名が付いたのか?「鷲塚町」交差点から安城方面へ下る坂は昔、「歌舞伎坂」と呼ばれていた。今は付近に立つお地蔵様に名が残るのみ。歌舞伎役者が付近に住んでいたという話もあるが…はたして> 碧南市教育委員会が文化会館で主催した地図展を訪れた。厳重な展示ケースに収められた地図の中に、心惹く文字を見つけた。 それは江戸時代に作製された鷲塚地図、寺院が多く集まる一画の下に「歌舞伎坂」の文字。 古くから発達した鷲塚でも歌舞伎を興行したという史実は見あたらない。西尾・新川線の「鷲塚町」交差点から北東へ下る坂道、酒屋さんの斜め向かいに六地蔵が鎮座していた。 微かに「歌舞伎坂地蔵尊」と読みとれる。 お地蔵様のある一体には、背中に龍が舞、旗とも幟とも思える物体をくわえる姿。これは何を意味するのだろうか? 碧南市内で初めて見た。 背後には畑が広がるのどかな風景。 風変わりな行動・身なりをする事を「かぶく」という。はたしてこの「歌舞伎坂」で何が起こったのだろう。実に興味深い場所である。
願隋寺(がんずいじ) 創建年月日不明 本尊は阿弥陀如来 開基は遠江国の信浄と言われている。 親鸞上人が三河の地へ来られた時、弟子の信浄を残して鷲塚に一字を建立させた。 鎌倉時代の事である。その後、三州本宗寺という寺号になったが、七代・恵性が応仁2年(1468)に、 蓮如が三河の地に布教に来た折り、本願寺派に転ずる。寺号は三州本宗寺鷲塚御坊となった。 三河一向一揆の時、焼き討ちに遭い、焼失。禁教が解かれてすぐに再興、願随寺となる。 本堂は元禄15年(1702)になってやっと再建される。
願随寺界隈は鷲塚の集落で最も古い場所。古来は「八町」という名だった。 矢作川開削以前、油ヶ淵がまだ入海だった時代、鷲塚の地は松林茂る島であり、鷲が数多く住む不気味な場所だったという。 碧南に伝わる民話「鷲にさらわれた子供」から由来して”鷲塚”と付いた説がある。(菅原道真公にお供した鷲臣命が当地で亡くなった故にという説もあり) 願随寺の南一帯には、かつて鷲塚を代表する名家、片山家の屋敷があった。鷲塚騒動時、役人と僧侶が話し合いをし、交渉決裂した場所である。 以前は屋敷跡の石垣が残されていたが、現在は住宅が建ち並び、往時を偲ばせるものは何もない。
< text • photo by heboto >