愛知県碧南市 乳母車の溢れる街に穏やかな風が吹く 「乳母車解放区」の夢
<我が物顔で走る自動車を排除し、老齢者の支えとなる「乳母車」が安心して往来できる「乳母車解放区」を設定。部屋に閉じ籠もるざるを得ない老齢者が再び陽の光を浴びた時、訪れる安寧秩序の社会。不安を生む”若さ”追い求める風潮を省み、”老い”を尊ぶ精神を誇りにしていく> ”老いを生きる”ことは辛く悲しい事となった。寿命を全うするならば、誰しもが避けて通れぬ道だというのに、誰しもが自らは老いる事はないと幻想を抱く。 街は若者だけのために成長し、いい年をした大人は若さばかりを求め媚び諂う。見本を失った子供達は戸惑い自らの殻に閉じこもるばかり。 世代間の交流は希薄となり、相互扶助を理念とする社会は崩壊寸前だ。 進むべき道筋さえ見出せぬ現状に未来をどう生きようか。打開策はある。 「乳母車」を世に放つ。自動車の通行を制限し、老齢者の支えとなる乳母車を最優先とする「乳母車解放区」を誕生させるのだ。 道路に安全が戻ってくれば、それまで外出を躊躇していた老齢者が街へ出てくる。 異世代との交流が始まれば、老齢者の培ってきた叡知が異世代に継承される事を意味する。 戸惑う子供達は、老齢者から人との折り合いを付ける術を学び、自立の心を育む。乳飲み子を抱く母は頼りとなる老齢者に安堵の思いを抱くだろう。 また老齢者の側にも異世代と交流する事で張り合いが出来、自信の健康をも増進させる。 これで行く末の医療費問題も解決する。世の退廃を招く要因は「人の心に生まれる不安」である。「乳母車」の主となる老齢者が全ての鍵を握っている。
<性犯罪予備群と侮蔑された独身男子諸君よ! 君たちの献身は「子ども安全都市・碧南市」を築く礎となる。冤罪を背負い耐え抜いた者だからこそ出来る事がある。”イージスの盾”のごとく子供を守る決心。「彼らは子供を守るために、同時に世間の偏見とも闘った…」の讃辞をいつの日か> いやな時代である。子供に道を尋ねようものなら、犯罪者として疑われる時勢となった。特に結婚適齢期を過ぎた独身男性に対する風当たりは強く、犯罪歴の有無を問わずに”幼児性犯罪予備群”として烙印を押され、一挙手一投足を監視される日も近そうだ。 生存競争の勝者が放つ「子供の人権」ばかりが優遇され、敗者となる独身男性の人権は足蹴にされ、存在そのものを淘汰されていく。神の定めた摂理は弱者を決して許しはしないということか…。 神に見放されし諸君よ! 決して世を憂い腐るなかれ! 君たちだからこそ「未来の碧南市」を創造するのだ。 血は紡ぐこと出来ぬとも、志や勇気、行動は語り継がれる。今こそ”子供”を君たちの力で守るのだ。 教師でも親でもなく、「子供達は俺たちが守る」と気概を示せばいい。 目指すは「子ども安全都市・碧南市」宣言。君たちは無縁仏となるかも知れぬ。だが悲しむことは無い。 追悼となる「独身塚」の墓碑には言葉が刻まれるだろう。「彼らは未来を築く子供達を守る為に戦い、同時に自らに向けられた偏見とも闘った。なにより彼らは”人としての尊厳”が万民に保障される世が訪れることを信じた。 ここに眠る彼らを讃え、その精神を永劫として後世に紡ぐことを約束する」と。
蓮如上人の教えが息づく西端は、人の温かさ感じる家並みと訪れる人への優しさ溢れる街。 かつて集落の本通りであった旧道に懐かしい標識を見つけた。 「あいさつ運動 このまちはよい子を育てる…」とあり、中央には子供の頭を撫でる大人の姿を抽象した絵。 「530運動」と共に昔より実践されていたが、近年の子供をめぐる凶悪事件の増加から、見知らぬ大人に挨拶する子供はいなくなり、あいさつ運動は衰退したようだ。 だが、あいさつ運動は何も「大人対子供」だけに限らない。挨拶は万人に許された権利。道で挨拶することは田舎の特権である。 気まずく通り過ぎるより、目を合わせて挨拶することのほうが何より心地良い。 挨拶は「あなたの存在を確認しましたよ」という意志の表明。言葉に出来なければ、頷くだけでもそれが挨拶。 「あいさつのできるまち、碧南市」として是非とも有名になろう。
< text • photo by heboto >