愛知県碧南市 高度成長期の産物である新幹線に 大浜街道断たれる!? 

旅する大浜街道

第28回 大高・新幹線に塞がれた入口

新幹線に大浜街道は断絶された? 冷たいコンクリートに阻まれた道

新幹線に阻まれた大浜街道

<昭和39年(1964)10月に開業した東海道新幹線で大浜街道は寸断される!コンクリート壁に立ち入り禁止の警告。かつての入口には山神社。その小さな社は、木々に囲まれて静かに存在している> 「うん、確かにこの道が大高の奥へ行く道だった。昔は通る人も多かったよ。新幹線が出来て行き止まりになっちゃったけどね」と答えるのは県道50号沿いで雑貨商を営む女主人。 大府市を出て名古屋市緑区に入る大浜街道は、東海道本線と並行して進んでいく。この辺りは戦国時代に幾多の戦いがあった地帯で史蹟も多く残る。そのうちの一つ、丸根砦を過ぎたあたりで左に見える黄色の店舗「タカケン」前で、大浜街道は左へと進路を変える。 しかし、先は行き止まり。東海道新幹線の厚いコンクリート壁が立ちはだかる。右手に鬱蒼と茂る森、奥に小さな社を発見。 山神社である。道は寸断され、前を通る人もいなくなった山神社だが、木製の小さな社前には新鮮な榊が供えられていた。

川沿い、大浜街道に黄色い花が咲く

<山神社側の行き止まりとは異なる雰囲気。歴史に見る大浜と大高の繋がり。寸断された大浜街道の悲しみに答えるべく、冷たいコンクリート壁にジッと手を添えてみた。大浜より、はるばるやって来た大高の地、壁の間に行き来した御先祖達の姿を思い浮かべる> 東海道新幹線の厚い壁に阻まれてはどうする事も出来ない。県道50号を北上し「西丸根」の交差点を左折、 行き止まりとなっていた道の反対側に行く。埃舞う場所に威圧的な東海道新幹線のコンクリート壁。 高く続く壁は、分断された道が二度と繋がる事がないという事実を突きつける。 実は明治の後半までは大浜街道の終着地は大高であり、鳴海へは常滑街道を使って往来していた。 また徳川家康(当時・松平元康)は、桶狭間の戦いで今川軍が総崩れになった後、大高から大浜へ向かっている。 そんな歴史の繋がりをみせる大浜と大高。大浜街道は、東海道新幹線のコンクリ壁から西へ、大高の旧市街へと入っていく。

ヘボト自画像ヘボトの”ここもぜひ見ておきましょう”コーナー

県道50号と平行する東海道線 「東海道本線に残る大浜街道は?」 共和インターから大高の入口にあたる雑貨商「タカケン」まで、本文中で”東海道本線と大浜街道は並行する”と記載しました。 ですが、刈谷市郷土資料館蔵の明治24年(1891)地図によると、この区間では直線の東海道本線を蛇行する形で大浜街道は右へ左へと進路を変えています。 東海道本線脇の保線作業用地に一部大浜街道が残っているとの事ですが、今回は発見出来ませんでした。区間ただ一つの踏切と大きな「水ヶ主池」がヒントであるのは確かです。 この区間は単調な景色が続いて体力を消耗させます。特に夏期、徒歩・自転車で大浜街道を往来する時は水分補給に気を付ける事!

次回予告です、お楽しみに!

突き当たりの薬屋

第29回 「大高のまちを行く」

大浜街道は大高中心部へと進む。「天神」、「鶴田」と交差点を越えて行く度に幅員は狭くなっていき、同時に往時の雰囲気を醸し出してくる。 古い黒板壁や屋根のまだら瓦の現れる頻度が次第に多くなり、大浜街道は大高町の旧市街へと入ったことを伝える。 「止まれ」の標識の向こうに『大学堂薬局』という看板が見えた。町の喧噪とは無縁の穏やかな空気が漂い、道行く人もゆっくりとした歩調で足を進める。この地点は、明治39年(1906)まで大浜街道の終着地だった場所である。 ■ 第29回 「大高のまちを行く」 へ

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