愛知県碧南市 道場山を越え 宝永2年(1705)に開削された「新川」を渡る
<新川の入口、有名な五差路に差し掛かる。さて、どの道が大浜街道なのか?正解の道を行けば、見えてくるお地蔵さんに観音さん> 新川の集落、大浜街道は左から2番目の急坂の道。坂を登りきり、急なカーブに差し掛かると見える2体の石像。 この辺りの旧字名は”乙立”と呼ばれた。由来は尾張地方から追い立てられてきた人々が移り住んだからと言う説。 新川で一番古い地区である。集落の中心を通る大浜街道。東の小道・西の小道を行けば、どちらも下り坂になる。 つまり、大浜街道は尾根伝いに一番高い場所を通っている事にもなる。
<明治期の郵便局があった辺りに赤ポストを残す。古き良き時代の面影が少しだけれども残っている。> 洋風な建物が続く中に少しだけ残る昭和の遺産。暖かいグレー色をした印刷所の建物。パステルグリーンの鉄工所。堅く扉を閉ざした町医者さんの建物、鮮やかな瓦の朱色。 現代の色彩感覚でいえば、飛んでしまいそうな色ばかり。長年に渡る風雪が、瞳に優しい色へと変化させ、周囲にとけ込んでいる。 山神社の森には火の見櫓が錆びたまま、森の陰に隠れていた。”自分の感覚を発見する”楽しみながら、大浜街道は北へと向かう。
「松江の渡し」 大浜街道が「新川病院北」交差点の角に差し掛かると大きな常夜灯が見えてきます。足下には2体の古いお地蔵さん、さらに背後には古風な作風の狛犬ある秋葉神社。 ここから西に続く古道は対岸の亀崎への渡船場「松江の渡し」へ向かう道でした。交差点角の常夜灯は松江の渡しに向かう人々の目印として、回線問屋を営んでいた「両口屋半助」が文政7年(1824)に建てたものです。 松江の渡し付近には鋳物師「国松十兵衛」の工房と屋敷が存在していました。また道を東へ向かえば、その国松十兵衛を松江の地に呼んだ代官「鳥山牛之助」の「松江代官所」がありました。現在では、どちらも面影すら存在しません。この常夜灯だけが往時の賑わいを知っています。
明治期に大きく発展し、近代碧南市創造の礎となった新川地区を後にする。大浜街道は「六軒」という”六軒の集落があった”に由来する場所を走る。付近一帯は自動車工場や瓦生産業者の建造物が建ち並び、今やどれが”六軒”であったのかも想像できない。 次の目的地、高浜市の旧市街への道程は高浜川を越えなくてはならない。高浜川は、昭和の初期に油ヶ淵の悪水を抜くために掘削された人工の河川である。 その高浜川に架かる高浜橋を大浜街道は渡る。しかし、橋の手前に奇妙な道を発見する。これはひょっとして河川が開削される以前の大浜街道の名残なのだろうか? ■ 第3回 「古き高浜の世界」 へ
< text • photo by heboto >