愛知県碧南市 「唐傘松(からかさまつ)」は昭和初期に枯れる 人々の記憶に今も
<大正3年に撮影された写真には、大浜港から権現岬の唐傘松まで見渡せる風景があった。唐傘を広げたように見える一本の老松は往時、衣ヶ浦を行く船の目印となった。もはや望むべくもない写真の風景だが、大浜の西浜町沿いの道路には、かつての海岸線であった風情が未だ残る> 碧南市の古い写真を集めた本の中に、素晴らしく構図に優れた写真を見つけた。 大正3年(1914)頃に撮影された写真で、大浜港より南の権現岬を写している。 松木の点在する海岸線に、美しい帆を張る和船と穏やかな凪の水平線が写真中央で重なる構図。 大浜熊野大神社鎮守の森には、ひとつ飛び出た大樹の松、これはあの「竜宮の松」だろうか。 海岸線突端には「唐傘松」の姿。昭和4年(1929)に発行された「大浜町誌」は唐傘松について、「傘松は東西の差渡六丈四尺 南北の差渡六尺七尺 高さ約三丈三尺あり」とある。 メートル換算にすれば、「東西約19.4メートル、南北約20.3メートル、高さ約10メートル」という大きさ。 一本の老松大樹で枝を広げた姿が「唐傘」に似ていたことから名付けられ、往昔、衣ヶ浦の海へ入る船の目印とされた。 現在、写真の撮影された地点から権現岬を見ることは到底不可能。 だが、国道247号線「築山町」交差点から南、権現岬へと向かう道にかつての海岸線の面影を見ることが出来る。 同じような高さの屋根が続き、道は右へと弧を描く。一歩小道に入れば、黒壁ある海辺の町を思わせる風情。 遠い昔、唐傘松まで見渡せた世界を少しだけ垣間見せてくれる。
<かつて2キロほども続いた堤防も今は300メートルあまり。旧海岸線沿いに天日干しの風景。知多の豊浜ほどには知られていないが、碧南市も「ちりめんじゃこ」の名産地。広げられたシラスの絨毯は太陽の光を浴び、美味しさを蓄える> 「いつまでも海の面影を偲ぶべきではない」といった風潮か、海の在った時代の遺物は年々、姿を消している。 権現岬へと通ずる旧海岸線に築かれた堤防を歩いてみる。 築造された頃には2キロほどあった堤防も、区画整理や道路整備により、現在は300メートル余りになってしまった。 堤防上は車の往来できる道路となってはいるが、幅員が狭く、今日の自動車では離合に困難を要する。 時折、タイヤ半分を堤防斜面に落として進む曲芸的な走行も見かけるが、転落したという事は聞いたことがない。 堤防下に、いくつものパイプを縦に繋げた構造物を見る。 これは、シラスなどを天日干して「ちりめんじゃこ」をつくる加工場。 西浜町・宮町・権現町といった旧玉津浦海岸に面していた区域には、水産加工を営む業者が今も多く存在する。 晴天に恵まれた日に散策すれば、一面に広げられた「ちりめんじゃこ」天日干しの光景を目にする。 運が良ければ、一面ピンク色になる「桜エビ干し」の光景に出会えることも。
遠い昔、私はフランス第2の都市「マルセイユ」を訪れたことがある。 幼少の頃見たアニメに感化され、「マルセイユ」と聞けば、旅愁を誘う港町風情を期待していたが、現実は退廃感漂う港湾都市であった。 無機質な海岸線は、コンクリート特有の匂いと砂埃、遠くで何かがぶつかり合う轟音が響き渡る。 「どこかで見た風景」だった。時代は過ぎ、私は碧南の海を調べる内にマルセイユでの妙な感覚の理由を知る。 5市4町にまたがる衣浦港は、フランスの「マルセイユ港」を手本として計画され、開発されたというのだ。 私がマルセイユの港で感じた「どこかで見た」という思いは、必然の帰結だったのである。 今日の衣浦港は、衣浦湾内にあった7つの港を統合し、昭和32年(1957)5月20日に「重要港湾」に指定された事に始まるとされている。 だが、衣浦湾内の港を統合する計画は、昭和18年(1943)4月に「衣浦総合港湾計画」として既に存在していた。 当時の「衣ヶ浦湾修築計量平面図」では、現在とほぼ同じ位置に埋め立て造成地の計画線が引かれている。 敗戦がなければ、もっと早い時期に衣浦港は誕生していた。
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