仮面舞踏会 :折衷の、或いは過渡的な魅力

私が最初に音源(CD)を購入したヴェルディオペラです。しかし当時は全然駄目でした。「リゴレット」以降の11作中で最後までどう接すればよいのか、と個人的には迷っていた作品ですが、いいタイミングでスカラ座での上演がBSで放送されたおかげで、好きな部類に入ってきました。但し、今の自分の中での3強、「リゴレット」「運命の力」「オテロ」に割って入るでもなく、微妙な位置になるので、そこのところを書いてみようと苦吟しましたが、あまり上手く書けず竜頭蛇尾になってしまったかも。

 

折衷の筋立て:

 「運命の力」の主人公3人は、最後の場面まで真実の全てを知ることなく行動して破局を迎えますが、彼らは第2幕以降にて自分達が深い業を背負っていることを実感しています。「ドン・カルロ」「オテロ」にしても同様です。
 「リゴレット」の公爵と廷臣達は最初から最後まで、モンテローネの呪いも意に介さず、リゴレットの復讐の念に気付くこともなく、誘惑だ誘拐だと放埓な生活を送っていて、リゴレットの一人芝居のような復讐とは最後まで交差しません。

 この「仮面舞踏会」(粗筋はこちら)はどうか。最初から悲劇を背負っているのはアメーリアただ一人だけ、彼女がウルリカの所に行ったりするから、彼女一人だけの悲劇がリッカルドとレナートにまで拡散してしまうのです。
 そのリッカルドは、最後まで自分が悲劇の主人公であることに気付いていないのです。そしてリッカルドに対する反乱分子も、反乱をやり遂げられそうには見えない連中です。この両者の間には、仮面ライダーが毎週同じようにショッカーを蹴散らすのと同じような関係しか成立しそうにありません。

 あえていうと、リッカルドは本人的には悲恋の主人公であること、その悲恋を諦める名君である自分の姿に酔っていてたのです。ああそれなのに、最後の最後何かの間違いで刺されてしまう・・・。リッカルドとしては、自分が不倫の復讐の対象として殺されてしまっては自分自身の名君像を保つことができなくなるので、この殺人が事故であり、従ってレナートが罰されることがあってはならない、と言い遺したのでしょう。

 要するに、このオペラは「運命の力」のような一貫した悲劇ではないのです。むしろ、「リゴレット」の公爵がリゴレットの計画通り殺されてしまったような、ある意味間抜けな話なのです。悲劇本来の緊張感を持つ場面はレナート宅の場面(と幕切れ)だけなのです。リッカルドの最後のアリアは名場面とされていますが、あれは実はリッカルドが大きな勘違いをしていることを観客に伝えているのです。

・・・何をくどくどと、と言われそうなところですが、私自身がこのオペラに当初感じた当惑を克服してから振り返ってみて、

このオペラは並行して進行した喜劇と悲劇が最後に交差してしまった不思議なお話であり、ヴェルディが付けた音楽もその線に沿っていて、これをそのまま受け入れられるようになって初めて楽しめるのだな(という理解に達した)、

と自分に言い聞かせているようなものです。

 

 

過渡的な音楽:

「過渡的」というと、
  「リゴレット」「イル・トロヴァトーレ」「ラ・トラヴィアータ」の中期前半の3作と、
  「仮面舞踏会」「運命の力」「ドン・トルロ」の中期後半の3作と、
の間でいささか地味な、「シチリアの晩鐘」「シモン・ボッカネグラ」を過渡的、と呼ぶのが一般的らしいですが、

私にはこの「仮面舞踏会」が過渡的な魅力、と呼ぶに相応しいように思われます。独唱では、蕎麦屋の出前が鼻歌で歌っていたという伝説すらある「女心の歌」のような覚えやすくて歌いやすい歌は出てきません。そのかわり、「3時に行こうぜ!」と歌う第1幕第1場のストレッタ(コンチェルタートと呼んではいけないのね)や、第3幕第1場の緊張した場面の真っ只中で歌われる「復讐の歌」は、軽やかでやたらと元気良く耳に残ります。アメーリアだけは「運命の力」並みの重い表現になっていますが、全体の基調を支配するのは軽やかさの方のように思います。

何と言っても主役が最後まで勘違いしたままですから、重量感のある音楽は似合いません。「運命の力」にも近い練り上げられた音楽で、「リゴレット」にもないような軽やかなメロデイを能天気に歌い上げるこのオペラ、自分の体験からしても、オペラ初心者向きではないです。

 

 

手持ち音源

ムーティ指揮スカラ座(2001年5月)BS放送録画
リッカルド:リチトーラ、アメーリア:グレギーナ、レナート:カプローニ
これはいいです。グレギーナは上が上がりきらないし、リチトーラは存在感が軽いのですが、それぞれバランスがいいです。ムーティの歯切れいい指揮を気持ちよく収録した録音が気持ちよく、何といってもこの演奏なら胸がトキメクのです。

 

レヴァイン指揮メトロポリタンオペラ
グスタボ:パヴァロッティ、アメーリア:ミッロ、アンカーストレーム:ヌッチ
ストックホルムを舞台にした検閲前の台本によっていますが、大した違いではないようです。これだけ聴くとまずまずの録音に聞こえるかもしれませんが、比べると広すぎるメトロポリタン劇場に向かって潤いに欠けた大きな音をばらまいている風の音に聞こえます。パヴァロッティをオペラ歌手としてあまり好んでいない(コンサート歌手なら大好きです)私ですが、このオペラは向いている方だと思います、が、パヴァロッティが出てくるだけで観衆が騒ぎ過ぎ。ミッロは少し重量感不足でしょうか。・・・こちらでは十分トキメカないので色々文句が出てくるのです。このDVD入手時の駄文を一応残しておきます↓

輸入盤を買いましたが国内盤も出ています。マリア・カラスが歌ったこのオペラのCDが私のヴェルディ初体験で、決していい思い出になっていなかった・・・のをまだ引きずっているようです。「シチリアの晩鐘」ほどではありませんが、グランドオペラ臭も少しします。パルマの「リゴレット」のような「よくない思い出を打破するだけの演奏」ではない、のかもしれません。舞台をスウェーデンに持っていった原典版の演奏ですが、ボストン版との歌詞の相違はわずかで、気にすることはないようです。(03.10.13)

 

ヴォットー指揮スカラ座スタジオ録音(CD)
リッカルド:ディ・スティファーノ、アメーリア:カラス、レナート:ゴッビ
ヴェルディ入門とカラス入門を兼ねるつもりで買ったCDですが、このオペラの楽しみ方を知らずに聴いてもさっぱりでした。反乱分子の音楽がリズミカルであるところですでに引っかかっていたりしました。そういう段階は乗り越えた時点でもう一度聴いてみましたが、今度はスタジオ録音というのが気になります。表情の付け方が観客を目の前にして演じつつ歌うのとは違ってくるのです。オペラのスタジオ録音の理想は映画仕立ての映像抜き、になってしまうのでしょうか。特に、実は悲劇の形を借りた娯楽大作だということが画面付なら分かる、というこのオペラだと、カラスが入念な表情を付けて歌うほどに違和感が増していくように思われます。

 

アバド指揮ウィーン国立歌劇場(Operashare)
グスタヴォ:パヴァロッティ、アメーリア:Gabriele Lechner、アンカーストレーム:カップチッリ
Operashare(詳しくはこちら)の、#48904 と #48911 からダウンロードしたもので、1986年の舞台録画がドイツで放送されていたものです。画質音質とも特に問題ありません。
演奏は圧倒的に素晴らしい。グレギーナの上がりきらないアメーリアでもカプローニのブクブクのレナートでも良いことにしていた自分が信じられなくなるような素晴らしさです。輸入盤DVDでは8種類(2008.06.28時点)も出ているのを1つしか聞いていないので「最高」と断ずるわけには行きませんが、しかし最高に近いのは間違いないと思っています。

パヴァロッティはメトに出演すると登場だけで拍手喝采、その時点で天性のエンターテイナーは思わずニヤついてしまうのですね。この表情のアップを見てしまうと、その先の演技を真面目に見る気が萎えてしまっているような気がします。それがウィーンの聴衆の前だと他の歌手同様普通に登場できるので、カメラ越しに見ても違和感がありません。違和感に妨げられることなく素晴らしい声に達者な演技を堪能できました。オペラの舞台のパヴァロッティをこれまで見た中で断然気に入りました。
一方カプッチッリは余り演技していません。舞台稽古に参加できなかった?。それを全部カバーして余りある豪快な声です。この役ではヌッチよりずっと合っているようです。
ウィーンの舞台でヒロインを演じているソプラノが無名なはずはない、と思って探して見ましたが、日本語でレヒナーを紹介しているまとまった文章は見つかりませんでした。しかしミッロよりもグレギーナよりもずっと良いと思います。プリマドンナ体形で二重あごですが元は奇麗な人ですし、重い声での美声の理想にかなり近いように思われます。
Nadorのオスカルもいいですし、Schemtschukのウルリカでは迫力満点のコントラルトを堪能できます。このウルリカで気になるのは唯一、アップになると声の迫力に全然似合わない可愛いお顔が写ってしまうことだけです。アバドの指揮もいいのでしょう。
字幕無しですが、他で慣れて字幕不要の域に達してから取り組んで見てはいかがでしょうか。(08.06.28追記)

 

 

アバド指揮スカラ座(Operashare)
リッカルド:パヴァロッティ、アメーリア:ザンピエリ、アンカーストレーム:カップチッリ
Operashareからダウンロードしてみたら、昔ダウンロードしていたものと同じでした・・・画質音質とも悪すぎて見る気をなくしていたのが、それぞれ多少改善されていて、今度は最後まで見る気になったのですから、これで良いのですが。86年と比べると、やはり音質画質とも落ちるのですが、それでも中々のものです。

パヴァロッティは86年と大きくは違わないように思います。カプッチッリは声が若くて演技は丁寧で、こちらは86年と大分違います。どちらかというとこの77年の方が好みですが、86年も衰えたのではなくて、重い豪快な別の声で、とにかくどちらも物凄い声です。不世出という言葉は未来に対する不遜とも思えるのですが、それでも「不世出」と呼んでみたくなるような存在感です。
ザンピエリは一流のソプラノとして名前を記憶している割に聞く機会がなかったのですが、メゾに近い迫力ある声のままハイCがちゃんと出ていて、姿も美しく、レヒナー以上に好印象です。オブラツォワは声も見た目も十分に怖くて、少なくとも顔の迫力ではSchemtschukを上回っています。
86年と比べてしまうと録音のノイズと歪っぽさが気になるのですが、これも他で慣れて字幕不要の域に達してから取り組んで見てはいかがでしょうか。

*交互に繰り返し見て分かったのですが、この私、第3幕のリッカルドのアリアから幕切れまでが全然好みではありません。すぐ睡魔に襲われてしまいます。リッカルドのアリアは、冒頭に書いたような筋立ての馬鹿馬鹿しさがいよいよ露呈するところですし、音楽も高水準とは言え、ドン・アルヴァーロ(運命の力)のアリアには大分及ばないと思います。舞踏会の場面の音楽は、こちらは壮年期のヴェルディとしては、はっきり水準未満ではないでしょうか・・・異論はあると思いますが。

Un ballo in maschera
La Scala - 30/12/1977
Cond. - Claudio Abbado
Prod. - Franco Zeffirelli

Amelia - Mara Zampieri
Riccardo - Luciano Pavarotti
Renato - Piero Cappuccilli
Ulrica - Elena Obrastzova
Oscar - Daniela Mazzuccato
Silvano - Luigi De Corato
Samuel - Luigi Roni
Tom - Giovanni Foiani
(13.01.20追記)

 

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