第32巻:シューベルト編曲集その2(白鳥の歌、冬の旅、他) お勧め度:A
シューベルト編曲集全3巻の看板です。本来9枚一組のようなシューベルト編曲集ですから、第31、33巻の紹介もあわせて御覧下さい。「白鳥の歌」で1枚ならばSにもしたのですが、まあAというところです。他の2枚が特に悪いわけではありませんが。
ヨーロッパにあってもシューベルトの普及には言葉無しの歌曲編曲が不可欠であったし、現在でもドイツリートのコンサートがドイツ国外でそう頻繁に開かれるわけではないらしいです。我々日本人はドイツ語には縁が遠いのに頑張ってしまうのでリートのコンサートも繁盛しているわけですが、やっぱりちょっと背伸びと言うものです。言葉抜き作品には言葉が欠けているという欠点もありますが、言葉不要と言う利点もあるわけで、我々日本人にとっては英米仏人よりも利点がさらに大きくなるはずです。
そういう歌曲編曲を集めたのがこの第32巻、魅力の源泉は一にも二にもシューベルトです。リストの功績はこれをピアノ一台用にしたというコンセプトに尽きるともいえるし、このコンセプトがなければシューベルトが音楽史から消えていたかもしれないと思えば大変な功績です。
CD1の冒頭が「4つの聖なる歌」(1840)はシューベルトのD343a, D651, D444, D797(”ロザムンデのための音楽”)の一部、の編曲で、最初のものだけが歌曲としてよく歌われているそうです。さもありなん。他のも悪いわけではないけれどちょっとくどい気がします。
「ハンガリーのメロディ」の第2稿(1846)は第31巻の第1稿の短縮&容易化版。20分で済みます。こっちの方がまだまともだと思いますが、第1稿と共に世界初録音、さもありなん。第2楽章はもちろんもはや耳タコ状態のハンガリー行進曲。
「”美しき水車屋の娘”より6つの選曲集(favorite melodies)」(1846)、白鳥の歌は全曲、冬の旅から半分の12曲、水車屋の娘からは6曲、という曲数の差が魅力の差、と言えなくもありません。「さすらい」はハワードが時々陥るガタガタとした弾き方、「水車屋と小川」はきれいです。「狩人」「嫌な色」はアタカで接続されます。「どこへ」「いらだち」(第2稿)と続く素直なところが「水車屋」なりの魅力なのでしょうが、私の趣味からは翳りが無さ過ぎます。
「海の静けさ」(第1稿、1837)、原曲D216は有名な曲らしいのですが、私には不思議の曲に聞こえました。「鱒」(第2稿、1846)は勿論有名曲、原曲は五重奏曲、ではなくて、D550dの歌曲です。ピアノソロで聴いても違和感ありません。「セレナーデ」(1880)は何と第4稿ですが、ばらばらに聞くとお互いの違いが分かりません。
CD2の「白鳥の歌」(1838-1839)はシューベルト編曲集中の白眉です。原曲集は本来歌曲集ではなく、シューベルトの遺稿の中で一綴りになっていた歌曲14曲を出版社が「白鳥の歌」と題をつけて出版したものです。レルシュタープの詩につけた7曲、ハイネの詩に6曲、ザイデルの詩に1曲、となっていますが、その曲順には詩人もシューベルトも一切関与していないのです。その曲順が実は無茶苦茶で個々の曲を生かしていなかったことが、リストによる並べ替えの結果を聴けば分かります。これ聴くまでは「冬の旅」の方が好きだったのですが、考えが変わりました。
冒頭いきなり、「町」(ハイネ)の減七のアルペジオが強烈な印象を残します。曲集全体の方向性を決めてしまう力のある曲を冒頭にもってきました。元の曲順とは一切関係なく別の世界を作るという意思表明のようでもあります。「漁師の娘」(ハイネ)、この曲に限ったことではないのですが、明るめの曲でもメロディが中声に回ると陰影が人声よりも深くつきます。「わが宿」、レルシュタープ組の先頭ということになりますが、ハイネの色に染まっているように聞こえるのは曲順のなせる技でしょう。
「海辺で」(ハイネ)、地味な曲のはずですが、ここで聴く方が私には存在感があります。「別れ」(レルシュタープ)、題名に反して?曲集中一番陽気でにぎやかな曲です。原曲ではこの曲がレルシュタープ組の最後で「アトラス」の前、木に竹を接ぐような曲順であることが分かってしまうわけです。「遠い国で」、レルシュタープとしては暗く動きも少ない曲が前曲との繋がりを壊すことなくコントラストをつけています。「セレナーデ」、余りにも有名なレルシュタープ歌曲の穏当な編曲です。どうせ曲集に組み込まれるなら重い曲の後で癒すように現れる方が良く似合います。
「彼女の絵姿」、ハイネのやはり暗い曲ですが、前の曲の気分をうまく受けています。そのままアタカで「春の憧れ」、レルシュタープらしい明るい曲につながります。「愛の便り」(レルシュタープ)は原曲集の冒頭のやはり明るい曲です。冒頭で明るい気持ちに導くよりも、中途にあって奈落の底に落ちる前の幻影のように現れる方をリストは選択したわけです。明るくても「陽気」「にぎやか」ではありませんから次曲にきれいにつながります。
「アトラス」、原曲集にあってもレルシュタープ歌曲からハイネ歌曲への転換点を強く印象付ける(前曲とつながっていないということでもあります)曲ですが、「影法師」の前の方が遥かに所を得ています。その「影法師」(ハイネ)=ドッペルゲンガー、冬の旅の「ライエル回し」の遥か上を行くシューベルト歌曲中最も異様な曲、トリをつとめさせるわけにはいかない程に異様、とさえ言えそうです。原曲ではその直後に「鳩の便り」(ザイデル)が来て妙に幸せに終わってしまい、そこのところは誰しも違和感を感じるところ、と思うのですが、リストは「影法師」の後という順序は変えていません。「影法師」から一旦救済する必要は認めて、そのまま終わることが間違い、という判断には脱帽です。メロディラインをピアノの中声でとっているので、原曲のように明るくなりすぎることなく抑制が最後まで効く点も、原曲より好きです。
そして最後が「戦士の予感」、レルシュタープですが重苦しい曲。冒頭の「町」と枠組みをなして、曲集全体の印象を重苦しく染め上げます。「アトラス」「影法師」が出てくる曲集を曲集として一まとめにするのに、「愛の便り」「鳩の便り」という枠組みにする方が余程不自然であることが分かってしまいます。・・・何だか曲順解説になってしまいました。原曲のCDをお持ちであれば、プログラム再生でリストの選んだ曲順だけなら体験できます・・・私はやってみたことはありません。
この後フィルアップ2曲、「春の思い(第1稿)」もかなりいい。またか、の「ハンガリー行進曲」(1879)もこれが一番いいでしょう。
CD3は「冬の旅」から、ただし12曲しかありません。「シューベルトの”冬の旅”より12の歌曲集」(1839)です。これは抜粋した上で並べ替えがやはり大胆ですが、元の曲順が何の根拠もなかった「白鳥の歌」での成果に比べれば評価しにくくなるのはやむを得ません。原曲はまずミュラーの12の詩が発表されて、その曲順どおりにシューベルトが曲をつけた、その後ミュラーが12の詩を元の詩集に割り込ませる形で発表したが、シューベルトは追加分をその順番のまま元の12曲の後につなげた、という由来の曲順です。元の曲順になじみがあると、リストの曲順にはちょっと取り付きにくい。あと、個人的には「からす」を入れて欲しかった。まああれは誰がソロ編曲しても同じかもしれませんが。「モノトーン」という印象の強い「冬の旅」の中でここまで変化が豊かであるというのは、シューベルト以外の、リスト自身も含めた他の作曲家の歌曲編曲集と比べて、シューベルトの卓越が分かるというものです。
冒頭は原曲と同じく「おやすみ」、これは誰も文句無しでしょう。でも冒頭が一緒であればなお続く曲順の違いが気になる、という面も否定できません。ピアノソロならではの装飾が美しい。その次にいきなり「幻の太陽」、原曲では最後から2番目がいきなり出てきてたまげます。大胆な編曲自体は悪くない。「勇気」もかなり手が入っています。
「郵便馬車」、こういう明るくなり過ぎる曲で抑制が効くところがピアノソロ版のいい所と思います。「かじかみ」はもっとスピード感ある方が好みです。単にフィッシャー=ディースカウがもっと速いテンポで歌っている、というだけのことかもしれません。かなり難しそうではあります。「あふれる涙」は素直な編曲です。有名な「菩提樹」は素直な編曲に始まり、段々手が込んでいきます。
その菩提樹のあとに原曲の最終曲「ライエル回し」が始まって、びっくりし、さらにアタカで「幻」につながってさらにびっくりなのですが、「ライエル回し」は最終曲でなくなると凄み半減のような気がします。「宿屋」もかなり手が入っている方です。元気のいい「嵐の朝」を一旦出して、「村で」の後でもう一度「嵐の朝」を繰り返したのが最終曲・・・うーむ、なじめない。
続いて「フランツ・シューベルトの6つのメロディ」(1844)ですが、その1曲目がいきなりシューベルトの曲では無いそうです。どちらかというとペトラルカのソネット風。「乙女の嘆き」「葬列の鐘」「しぼめる花」「いらだち(第1稿)」「鱒(第1稿)」と佳作が続きます。
最後はこれでもか、の「ハンガリー行進曲」(1840)です。