碧南市築山町1-77 
「大浜下の切の道は全て薬師堂前に通じる」
 自動車の通られない道、つまり幅の狭い路地を「乳母道」と総称する。
その乳母道が各地より集まってくる地点が妻薬師堂前なのである。

~と大浜のおばあちゃん達に教えていただきました。
 
妻薬師堂(つまやくしどう)
寛文7年(1667)創建と伝えられていますが、詳しい由緒はわかって
いないそうです。大浜には寺院にまつわる2つの謎が存在していて、
そのうちの1つがこの妻薬師堂だそうです。
鳥山牛之助という松江代官の妻が難病を患い、17日間祈祷したのち、
治癒したことから「妻薬師如来」と呼ばれるようになりました。
本尊である薬師如来は秘仏で、固く厨子の中へ収められています。
脇侍である日光・月光の菩薩、十二神将をはじめ、
阿弥陀如来・釈迦牟尼像・釈迦涅槃像があります。、
他に右眼を潤した弘法大師坐像、庚申講が行われていた事を示す
青面金剛力士像等、数多くの仏像が安置されています。
 



碧南市築山町2-66 
三河新四国第七十七番・称名寺  「家康公 幼名 竹千代 命名の寺」
 
称名寺(しょうみょうじ)
家康公幼名竹千代命名の寺
松平家ゆかりの寺と言われる称名寺、松平家初代当主はこの寺から
むこ養子に行った親氏です。親氏は2人の子に松平本家と
宗家(後の徳川家)を継がせ徳川家康公は松平宗家の9代目となります。
幼名・竹千代は十五世一天和尚が命名しました。
また聖観音菩薩(県文化財)は6代松平信忠公の息女の御持仏です。
境内には三州大浜東照宮が有ります

称名寺境内の広さは2000坪、平成21年茶室と食事処が建立され
精進料理も提供されています。(予約が必要)

三州大浜東照宮
大浜東照宮祭礼 毎年5月5日に開催される祭礼です。
時宗の寺で徳川家と縁が深く隆盛をきわめました。
聖観音菩薩立像など数多くの宝物や古文書が秘蔵されています。
 
 
三河新四国第七十八番・東照殿
 
 
子連れ獅子
書院



 
碧南市音羽町1-60 
三河新四国第八十一番…海徳寺

江戸時代には徳川家の御朱印寺として栄え本尊・阿弥陀如来など
 数多くの像が安置され、十二支戌亥霊場としても知られています。
海徳寺(かいとくじ)
本尊阿弥陀如来坐像は国の重要文化財です。
明治初年の廃仏により伊勢の菩提山神宮寺から譲り受け海路大浜に
運ばれました。大仏様は2.78mの座像で平成になってからの調査で
平安時代の作と判明し平成15年に国の重要文化財に指定されました。
山門には市内唯一の金剛力士像(市文化財)が安置されています。
 
 
山 門
金剛力士像
 
三河新四国第八十二番札所・大浜大仏
木造阿弥陀如来坐像(大浜大仏)は平成15年5月29日
国の重要文化財に指定されました。
 
木造 不動明王立像 (碧南市指定有形文化財)
伊勢神宮寺に祀られていた仏像の一躯で、
廃仏殿釈の折に請来されたと伝えられているそうです。



碧南市音羽町1-48 
細い路地の入り口に建っている、寺名が刻まれた石柱
宝珠寺(ほうしゅうじ)
戦国武将 永井直勝の生誕地です。
徳川家康に仕え21歳の時小牧長久手の戦いで敵の池田恒興を打ち取る武勲を
上げ7,200石の大名へ、後には下総古河藩(7万2千石)の藩主となっています。
直勝は長田重元の次男として生まれたのですが、家康の命を受け改名しています。
宝珠寺は羽城の主 長田重元が城の東南の角に建立しました。
後に鎮守の稲荷を、有縁の医聖「永田徳本」の遺徳を偲んで
「徳本稲荷」と名付け建立しています。
この稲荷は現在まで「トクホンサン」の愛称で親しまれています。
 「トクホンサン」
     曹洞宗のお寺。
天文年間羽城の主長田重元は城の北西の角に宝珠寺を建立。
後に鎮守の稲荷を有縁の医聖「永田徳本」の遺徳を偲んで
「徳本稲荷」と名付け「トクホンサン」の愛称で親しまれている。

長田・永井家ゆかりの寺、後の永井家からは、小説家永井荷風、
三島由紀夫、高見淳、タレント高見恭子、能楽師野村万作らを輩出。
 
 ゆかりの武将
永井直勝(1563~1625) 
当寺で生誕、下総国古河72,000石城主。
徳川信康(家康長子)・家康・秀忠に仕えた。
長久手合戦時池田恒興の首を取ったことで一躍名を上げた。
長田重元
羽城主、大浜熊野大神社神主、直勝の父、織田信長と敵対
永田徳本(1513~1630?)
重元実弟で医聖、武田信玄の侍医や徳川将軍医として仕えた。
(株)トクホンは翁の名前から付けられた。
 
路地を入ると山門です。
 
本堂。石柱には「永井宣勝生誕地」と刻まれています。
 
 
   
と刻まれた歌碑



碧南市音羽町1-48 
 
徳本稲荷は、⑯宝珠寺境内、北側に鎮座しています。
江戸初期の甲斐国の名医、永田徳本を祀った神社です。
永田徳本は貼り薬「トクホン」の由来になった人物で、
大浜の出身という伝説があります。
 
 



碧南市音羽町2-26 
狭い境内に山稲荷社、弁財天社、白山社、天神社、白龍社が同居しています。
弁財天
大浜弁財天(おおはまべんざいてん)
貞女加藤菊女ゆかりの大浜弁財天です。弁財天は加藤菊女の夫、加藤友右衛門が
流刑の地より罪を許され帰郷の途中江ノ島の弁財天を勧請したものです。
加藤家の屋敷神でしたが後に加藤家は廃れ、山稲荷社と合祀し現在に至ります。
孫市事件
1718年江戸日本橋の白木屋で高価なけさを盗み貞照院に隠れ住んだ若い僧に
捕吏の役人が白昼寺に突入した。寺側は盗賊と勘違いし鐘を付き緊急事態を
知らせ集まった農民たちが役人に暴行を加えてしまった。
西尾の賭場の孫市は仲裁に入るふりをして相手側より金を取り僧を逃がしてしまった。
孫市は死罪、責任を取らされた看守宗心と伏見屋代官は流罪となった。
ただ代官の加藤四郎左衛門は高齢だった事もあり息子の友右衛門が身代わりとなった。

友右衛門は貞照院看守宗心と共に伊豆大島の新島村に渡った。
友右衛門と共に厳しい境涯にあった宗心は、憂悶の幾年かを経た
享保11年(1726年)1月、再び故郷の土を踏むことなく、この地で相果ててしまった。
その後も、友右衛門は今日の生、明日の死を覚悟して、辛苦みちた月日に耐えた。
一方、菊女は、伊豆大島にある夫を想い安らかにできず、嘆き悲しんだ。
菊女は大変信心深く、それからというものは大浜村熊野権現に日参祈願を決意し、
毎夜裸足参りのお百度を踏み風雨霜雪も構わずに拝伏して夫の無事帰国を祈願した。
家にあっても留守を守り、両親に仕えた。また、心魂を捧げて写経に打ち込み、
毎日の様に手紙と写経の一部を竹筒に納めて、これを伊豆の方に向かい、
海中に投じて夫の元へ届く様にと祈った。

孤独な身の友右衛門はある日、釣り舟を浮かべて釣り糸を垂れていた。
そこに小さな竹筒が流れて来て舟に近づくので、何度も押しやった。
いくら避けても寄せてくるので、奇異を感じ拾い上げてみた。
そして中を開けてみると、妻菊女の手紙と法華経の写経の一部が入っていたのだ。
友右衛門は、驚いて早速このことを島の役人に申し出た。

報告を受けた上司も感激して、更に幕府に上申したところ、貞女の一念に
幕府も深く感銘し、節婦の殊勝な行跡に免じて、友右衛門を赦免した。
8年間の流囚の苦難の生活を許されて、なつかしの故郷大浜に着いたのは、
享保11年(1726年)宗心の亡くなったその年の12月であった。

参考文献・・・碧南人物小伝 
雅の龍石 弁財天琵琶の石
白へびの石 山稲荷社の力石(約70キロ)
  昔このふきんの若者たちが集まって、
  この石を持ち上げて力自慢を競ったと
  いう伝承があります。
  昭和の始め頃まで行われたとの事です。
 大浜弁財天 白へびの由来
 昔、山稲荷社は小高い丘だった。前は塩田が堀川まで続いていた。
裏には農業用水が流れ、へびが多く棲んでいた。
明治の中頃より白へびが一匹、本堂の下に棲むようになった。
村人は、弁天様のお使いものだといって白へびを崇めていた。

 春夏秋にかけてよく姿を現すようになった。村人は白へびを
見ると幸運にめぐまれるといって、お参りがつづいていた。
その白へびが昭和の始め頃より姿がみえなくなった。

 白へびが脱皮した白皮が本堂には祭ってあります。

この白へびの石は、村の旧家に昔より有る、白へびの石です。
白へびなきあと弁財天に寄進されたものです。
 
縁結びの夫婦岩
へびの石
  このへびの石をなぜると霊験により
  願ひごとがかなうといわれています。