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愛知県碧南市の大浜地区は室町時代から大浜湊(おおはまみなと)として
栄えました。このあたりを散策すると古い寺や酒・みりん製造地として
立派な古い蔵が立ち並び、路地に入るとむかし、むかしの時代にタイムスリップ
して、なんだか、懐かしいような、そして心が和むような感じをうけます。
通称「寺町」と呼ばれていて、この地区が国の「歩いて暮らせる街づくり」の
モデル地区に指定されたため、ウォーキングコースとして親しまれています。 |
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碧南市羽根町3-12 |
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深称寺(じんしょうじ) |
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妙念尼が寺を創建し、深称庵としましたが、宗制により深称寺となりました。
当初は尼寺でしたが、現在は男僧のお寺となっています。浄土宗のお寺。
御本尊は貞女で知られる加藤菊女や加藤四郎左衛門が
崇拝していたと伝えられる阿弥陀如来です。
観音菩薩、勢至菩薩と共に阿弥陀三尊として祀られています。
大浜熊野大神社に加藤菊女の記念碑が建てられています。 |
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こじんまりした庭がきれいに手入れされていました。 |
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狭い路地を入ったところで、見逃してしまいそうにひっそりとしていました。
ご住職(たぶん)は、とてもソフトでやさしそうな方でしたよ! |
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碧南市羽根町1-12 |
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大浜陣屋広場(おおはまじんやひろば) |
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明和5年(1768年)に水野忠友が一万三千石の領地をもらい大浜に陣屋を構えたのが
始まりだそうです。江戸中期以降水野家が大浜陣屋を拠点にして、
碧南はもとより安城、岡崎、豊田、刈谷、西尾、吉良を加えた三河地域を
管轄し行政の中心を担っていました
大濱陣屋は徳川家康が築いたといわれている羽城の跡に明和5年(1768年)
水野忠友によって築かれ、廃藩置県の明治4年(1871年)まで約100年続きました。
水野家は徳川家康の母である於大の方(伝通院)の実家で譜代大名の中でも
他の譜代の家臣の家とは遠い外戚の家として特別の位置を占め幾多の時期に
徳川政権の動向を左右する存在でした。
於大の兄弟の子供で水野忠清は家康、秀忠に仕え松本7万石の大名となり以後、
松本藩水野家は83年続くのですが、6代忠恒が江戸城で刃傷事件を起こし
松本と江戸屋敷は没収となりました。しかし家康の生母を出した家柄に配慮が
なされ家名断絶は避けられ、長野県佐久に7千石の旗本となっています。
この家を復興させたのが忠友(8代)と忠成(9代)で、幕府のかかり老中を努め
幕閣のトップに居続けました。1768年に西三河領6千石を受け1万3千石の大名と
返り咲き、その後沼津に領地を拝領 5万石の大名となった為、
大濱藩は廃止され沼津藩大濱陣屋となりました。水野家以前の大濱は
西尾藩領、岡崎藩領、幕府領、旗本領と領主が代わっていましたが、
水野家の殿様になってからは大いに発展したと言われています。
1867年大政奉還にて徳川慶喜の領地が沼津城に掛かる為、
水野家は明治2年(1869年)菊間移封となり菊間藩大濱陣屋となりました。
その後の明治4年(1871年)廃藩置県により廃止されました。 |
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裏側に「陣屋跡」について書いてあるのですが、
読みにくくて解説が判りません。
たぶん上記の一部が含まれているのではないでしょうか? |
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大浜陣屋広場 |
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周りは公園になっています。 |
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碧南市本郷町1-40 |
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正覚院(しょうかくいん) |
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龍松山 正覚院 准四国八十八ヶ所 札所 六十二番 真言宗醍醐派 御本尊は大日如来だそうです。
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碧南市本郷町3-8 |
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三河新四国第八十五番札所 |
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林泉寺(りんせんじ) |
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徳川幕府の朱印寺であり、菊間藩の武士からも帰依を受けた禅寺です
本堂の奥に開山堂があり、その下が座禅堂になっています。毎週土、
日曜日 朝6時より誰でも参加出来ます。坐禅の後、作務(清掃)、話し
合いが開かれ、7時30分には解散です。
明治大正期の儒者・文人画家・富岡鉄斎も閑静な書院を画室とし裏手
がすぐ海で衣浦の眺めを気に入り生涯2回も大浜に逗留しています。
古来より、港を中心として海運業、塩田、漁業、農業、
醸造業などの産業集積地で栄えた大浜にあります。
毎年10月に「てらまちウォーキング」が開催されます。
弘法様の三河新四国霊場八十五・八十六番札所です。
毎週土・日曜日の早朝に座禅会が、
毎月第2.第4木曜日の午後に写経会が開催されています。 |
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この山門には前方、後方に立派な飾り瓦が乗っています。 |
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天の邪鬼をこらしめる鐘馗さま |
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こちらも天の邪鬼をこらしめていますね。 |
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百寿観音 |
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鐘 楼 |
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三河新四国第八十六番札所 弘法堂 |
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碧南市本郷町3-38 |
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三河新四国第八十三番札所 |
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常行院(じょうぎょういん) |
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岡崎の大樹寺八代目住職が隠居寺として創建しました。
寺宝の日限地蔵は武田信玄公が陣中で守り本尊としていたもので
高さ50cm程の木像で秘仏の為 一般公開されていません。 |
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三河新四国第八十四番札所 聖道殿 |
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碧南市浜寺町2-19 |
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西方寺(さいほうじ) |
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鎌倉時代に開基された、真宗大谷派の大坊。宗教哲学者 清沢満之ゆかりの寺です。
1203年棚尾村に光照寺として建立され、明応5年(1496年)現在の大浜の地に
移り西方寺と改称されました。親鸞、蓮如の血縁の慈寛を二十八世として
養子に迎え、以来現三十八世迄血脈が受け継がれています。
山門に立つと境内いっぱいに枝を広げた黒松の名木がありました。
樹齢400年と伝えられていましたが、平成21年より枯れはじめ多くの樹木医に
手当を受けましたが、翌22年6月大法要にいとなまれ伐採されました。
現在は次の400年に向け若い松が植えられています。
太鼓堂は新民序の校舎で、碧南の学校教育の発祥の地です。
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鷹と松 |
鯱 |
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飾り瓦 ↑「花しょうぶ」と「菊の花」↓ |
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玄武に乗った仙人 |
鯉に乗った天女(?)一部破損 |
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「弥陀の松」・・・碧南市の文化財、黒松
樹齢四百年、高さ10メートル、根廻り4メートルの黒松。
見事な枝ぶりを主題にして句会が開かれることもありました。
寺に参詣する人々は「ありがたい松」だといって、拝んでいくそうです。
※ 私が撮影したこの松は、平成22年頃枯れたそうです。とても残念です_(._.)_ |
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様々な形の唐獅子がたくさん乗っています。 |
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