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高山 八郎 氏 (81才_撮影当時) |
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” 立派な顔 ” ではなく
” ええ顔 ” を描くことが難しい
高山八郎 |
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鐘馗さま 高山八郎・作 |
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愛知県碧海郡平七町に大正11年生まれる。
旭土人形の創始者 高山市太郎氏の四男。
農作業の合間に父(高山市太郎)に6歳の時から土人形を学ぶ。
戦後には年間500〜800個も売れたこともあったそうですが、
雛人形が、華やかな談飾りの衣装人形に移り、廃業する人が増えていく中、
リヤカーに土人形を積み、行商したそうです。
農業と人形造りでの生計は厳しく、高山鉄工(株)を興したため、
土人形作りは昭和30年代初めに休止。現役引退後、余生を人形造りに専念。
現在は高山さんだけとなった “ おぼこ ” の作者。
半年以上後まで予約が入っているそうですが、
ひとつひとつ心を込めて手づくりするため、全国からの
注文に対応しきれないようですね。でも、何年待っても欲しいな〜。
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高山市太郎 |
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明治24年頃、13〜14才で、当時、乙川から移住して、豊橋で
土人形(吉田土人形)を制作していた、杉浦幸次郎に師事しました。
修行を終えてのち、その後独立して、旭村平七に窯を築き
旭土人形の創始者となり、三河土人形として制作、
多くの弟子を育てました。
現在製作されているのは 八郎氏のみです。
棚尾土人形の渋く重厚な人形に対して、高山家の作品は
彩色に明るい緑と朱に近い赤を用い、鮮やかな彩りで、
明るい雰囲気を持ち、瞳が特に大きいことが特徴です。
販路は おもに足助 豊橋 蒲郡方面であったようです。
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吉田土人形 |
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吉田土人形は,明治13(1880)年,地方歌舞伎の旅役者であった
杉浦幸次郎(1834〜98)が,豊橋札木町に窯を築き制作したことに
始まるそうです。杉浦幸次郎が人形を制作していた期間は10年ほどで、
現在では天神,俵持童子,唐童子,鯛金時,達磨,狆(ちん),
招き猫などの作品がわずかに現存しているにだけとなりました。
人形作りは,明治25(1892)年に杉浦幸次郎に師事した吉田孫吉
(1878〜1929)によって継承され,吉田土人形の基盤が確立しました。
吉田孫吉は明治32(1899)年に独立して豊橋町曲尺手(かねんて)町に
窯を築き,吉田土人形約250種の型を創作しました。
大正年間(1912〜26)が制作の最盛期でした。
吉田孫吉の創作した吉田赤天神は,豊橋を代表する土人形として
現在も愛玩されています。 |
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高山八郎さんにお会いしました。にこやかな笑顔で
どんな話にも、やさしく答えていただき、感激しています。
81歳(その当時)になられるとのことですが、
お話していても大変お若く、バイタリティを感じます。
あの若さと、たくさんの人形たちを生み出すお元気の源は
どこにあるのでしょうか?
80余年の人生を、穏やかに消化しつつ、残りの半生(?)を
筆に託して、土人形の顔に息を吹き込んでいく姿は、なんだか
輝いていて、私にはとてもまぶしく美しく映りました。
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・・・Happy ママ
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↑ 工房の人形たち ↓ |
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「三河旭土人形」制作者・人形師の高山八郎さん(89歳)が
2012年7月5日、虚血性心疾患のためお亡くなりになりました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます
土人形を深く深く愛された、熟練の人形師の存在はあまりにも大きく
心にぽっかりと大きな穴があいてしまったような気がしています
工房に通いつめ、窯からあがったばかりのまだ「ぬくもり」が感じられる
人形たちや、ずっとそこに居座り続ける、冷めてもなお暖かい人形たち。
「どれでも好きな子、もってけや〜」と素敵な笑顔で手を動かす八郎さん。
人形たちの中央・奥に居座る尺の猫、この子が欲しくて通いつめる・・・
「窯が壊れてしまい、もう、このサイズのネコは焼けん」とつぶやき
ゆずってくれない八郎さん。「この子が欲しい〜」と何度通ったことか。
ある日、とうとう根負けし、「持ってけよォ〜」と
微笑んだそのお顔。嬉しくてその子に抱きついた私。
その日の攻防(?)が今でも忘れられない
楽しい一コマのドラマのように焼きついています。
あなたが命を吹き込んだ土人形たちは、これからも
ずっとずっと皆から愛され続け、私たちの次世代、
そのまた次の世代へと伝統のぬくもりと想いを
語り続けてくれることでしょう
ありがとうございました
心よりご冥福をお祈り申し上げます
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