新選組の舞台 司馬遼太郎 新選組血風録 燃えよ剣


   〜@京都編〜

 A東京編  B函館編  

屯所 跡    2012年.10月.15日  2013年.12月.24日

本光寺  下京区油小路七条を100m程下りる東側

慶応3年(1867)11月18日 伊東甲子太郎は 近藤勇妾宅からの帰途
新選組 大石鍬次郎 宮川信吉 横倉甚五郎らに襲われ 本光寺に
逃げ込むが門前にて絶命 行年33歳  

死骸は七条油小路辻に運ばれ高台寺党の誘い手とし 新撰組と高台寺党との大殺陣がおきた
新選組 永倉新八 原田左之助 島田魁 岸島芳太郎 三浦常三郎ら20数人
高台寺党 篠原泰之進 鈴木三樹三郎 服部武雄(討死) 藤堂平助(討死) 毛内有之助(討死)
加納道之助 富山弥兵衛

四人の亡骸は新選組によって 壬生光縁寺に葬られたが 翌年3月同志の手によって 
泉涌寺の戒光寺へ改葬された


「伊東は、酔いをさますために駕籠をもちいず、左手に菊桐の紋入りの提灯をさげ、
右手を垂れて歩いた。凍るような寒空であったという。折りから十六夜の月が中天にかかり
伊東の目の前に浮かんでいる東山の影をクッキリと輪郭づけていた。木津屋橋を東に渡るときに
伊東は謡曲をひくく吟じた。「竹生島」であった。左側は島原。 (中略)
伊東の口から、謡の声がやんだ。提灯が地に落ちてめらめらと燃えはじめた。右肩から
咽喉にかけて、ずぶりと突き刺されたまま、伊東はじっと立っていたのである。槍に吊りあげられて
いるような格好だった」        「新選組血風録」「油小路の決闘」より

このあと 過去に訪問した 新選組ゆかりの地 の
写真を随時掲載していく予定ですので 暫くお待ち下さい


〜京都関連ページ〜

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新選組の舞台

〜 B 函館 編 〜

おまけ  想い出の中央線沿線

牛込柳町  2018年10月6日


 司馬遼太郎
菜の花忌
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新選組の舞台

〜 A 東京 編 〜

壬生      旅した日 2005.7.22

久坂玄瑞の密談の碑 角屋東北の辻

啄木 土方 浪漫館

五稜郭タワーからの眺め

阿佐ヶ谷

吉祥寺

島原    2013年.12月.24日

「一団は夜の町を走った。池田屋の軒下に到着すると、
近藤は出口を原田左之助、谷三十郎らに固めさせ
「討ち入る者は」と あごで一人一人の顔をさした。
沖田総司、藤堂平助、永倉新八、近藤周平、それに勇自身である。
養子周平をのぞけばいずれも隊内きっての剣客であった。
いずれも、浅黄地にだんだら染めの袖印をつけた新選組のそろいの
羽織を着用している。(中略) 「会津中将様御預 新選組である。
御用のすじがあってあらためる」いうなり土間から床、床から階段へと
とびあがり、五六段駆けあがりざま、キラリと刀をぬいた。このときの刀が
二尺三寸五分虎徹である。 沖田、永倉がこれにつづく。
まっさきに二階にとびあがった近藤は、なにげなく出てきた土佐脱藩浪士
北添佶麿を出会いがしらに真向から斬りさげた」
    「新撰組血風録」「池田屋異聞」より


かねて徒党の多数(二十数人)を相手に、火花を散らして一時余の間、
戦闘におよび候ところ、永倉新八の刀は折れ、沖田総司の刀は帽子折れ
藤堂平助の刀は刃ササラのごとく、倅周平は槍を斬り折られ、下拙刀は
虎徹ゆえにや、無事に御座候。」
    「新撰組血風録」「虎徹」より

「新撰組から脱退した御陵衛士は十五人で、その名は慶応三年三月十日
伝奏の命をもって発令され、五条大橋東詰の長円寺に移った。その年の
六月八日には、高台寺月真院を本陣とし、「禁裏御陵衛士屯所」の表札を
かかげ、とくに朝廷からゆるされて、菊と桐の紋章を染めぬいた幔幕をめぐらした」
         「新選組血風録」「油小路の決闘」より

勤皇之士 中井正五郎殉難の跡 石碑
  下京区油小路花屋町  さくら旅館前 

慶応3年(1867)12月7日夜
新選組 大石鍬次郎 斎藤一 中村小次郎 中条常八郎 
梅戸勝之進宮川信吉(近藤の従弟 討死) 蟻通勘吾 
舟津鎌太郎 前野五郎 市村大三郎 
  (紀州 三浦久太郎の護衛として)

襲ったのは 陸奥陽之助(宗光) 中井正(庄)五郎(討死) 
松島和助 関雄之助ら 志士10余人
発端は 三浦が坂本龍馬を襲ったという噂が流れた為
三浦は 後年 貴族院議員、襲撃側の先導者 
陸奥は元老院議員・外務大臣になった

油小路の変    2012年.10月.15日  

近藤 勇  土方歳三  井上源三郎 のふるさと

  
 日野
     2015年12月15日        

御所周辺

本間精一郎遭難地

ご存知 ハーモニカ横丁と曼荼羅

試衛館 跡   都営大江戸線 牛込柳町下車 柳町病院裏
 天然理心流 近藤勇が道場主をつとめた剣術道場

  近藤一族の墓 
右から二番目が 勇の墓
左側には近藤辞世の句碑

日野宿本陣  JR日野駅徒歩10分

地下鉄 市バス 京都バス
共通一日乗り放題チケット1200円
 活用させていただきました

薩摩藩邸跡 同志社大学キャンパス
1866年(慶応2年)1月21日(22日説もあり)
薩長同盟会議地、 最終締結地は ここから
西500mの一条戻り橋 小松帯刀邸とされる

(現室町小学校付近)

               蛤御門
池田屋事件以後 激高した長州藩急進過激派が
御所警備兵と衝突したのが 1864年元治元年7月19日
の禁門の変
  久坂玄瑞も負傷・御所内鷹司邸で自害
この変以後 長州は朝敵とされた

参考にした書籍  子母沢 寛さんも はずせません

木戸孝允(桂小五郎)寓居 幾松

武市瑞山・吉村寅太郎寓居 四国屋丹虎 
池田屋事件時 副長土方らは四国屋にむかっている

酢屋 海援隊京都支社
二階左が龍馬の部屋

木屋町高瀬川 土佐藩邸跡  立誠小学校は現在廃校になっている

古高俊太郎邸 枡屋  現 志る幸
枡屋喜右衛門と名乗り薪炭商をしながら
尊攘志士を支援した

洛中       2014.年3月.31日  他


 会津藩主 松平容保が京都守護職に任じられ 文久2年12月24日 京に到着 ここ金戒光明寺に本陣がおかれた
  浪士隊(のちの新選組)は 「京都守護職会津藩預かり」の肩書きと任務を与えられ 「八月十八日の政変」で
  大任を果たし 「新選組」と命名し正式に武士、幕臣にとりたてられた。

小高い丘になっている黒谷は 自然の要塞になっており 西は山崎天王山、淀川まで見渡せ 黒谷古地図によると
大阪城まで望めたという。

  不動堂村屯所   下京区松明町 リーガロイヤルホテル角

西本願寺から不動堂村へ移転したのは、近藤勇らが幕府直参になった5日後の
慶応3年(1867年)6月15日 移転に際し、西本願寺と交渉の末、建築費・諸経費を
西本願寺が負担することとなった。これをみても西本願寺が一刻も早く出て行っても
らいたかったのがわかる    実際の場所は堀川通りを隔てた 塩小路堀川上がる
資生堂ビルあたりともいわれる        訪れたこの日も 熱心な歴女に出会った


「このあたりは、七条醒ヶ井、村名を不動堂村といい、北にすぐ西本願寺の塀がある。
南西に東寺の塔が見え、それまでのあいだは、洛中の人口を養う蔬菜の畑がつづく。
屯営のそばに堀川がながれている。」     「新撰組血風録」「前髪の惣三郎」より

    前川邸  中京区壬生賀陽御所町

古高俊太郎を拷問した土蔵や、山南敬助、野口健司が
切腹した部屋などがあります この時は屋敷内には
入れませんでした

      壬生塚    壬生寺境内
局長・近藤 勇の胸像と遺髪塔 
屯所で暗殺された隊士・芹沢鴨と平山五郎の墓、
勘定方・河合耆三郎の墓の他、隊士7名の合祀墓があります

宝泉禅寺  六番組隊長 井上源三郎墓所  JR日野駅すぐ

  三条河原
1864年 局長近藤勇は板橋で処刑されたのち
この河原にその首が晒された

土方歳三 終焉の地  一本木関門跡地(若松緑地公園)

♪ 僕は今 阿佐ヶ谷の駅に立ち 電車を待っているところ…
    ああ 中央線よ 空を飛んで あの娘の胸に 突き刺され… ♪

   拓郎さんをして ジェラシーを感じさせたという 友部さんの詩の一節

♪ 一本道 ♪

高田渡さんの行きつけだった
 いせや本店

又吉さんの「火花」でも登場した
井の頭公園に続く階段と
いせや公園店

♪ 吉祥寺 ♪

板橋

永倉新八の墓と  JR板橋駅 東口

近藤勇 土方歳三墓所と 新選組隊士供養塔
 近藤はここ板橋で斬首され 首は京都三条河原に
 さらされた。近藤の墓は数か所あるといわれ、
 ここは永倉新八が整備したといわれる

近藤 勇 生家跡(近藤神社)
 生家宮川家跡 昭和18年
 陸軍調布飛行場からの戦闘機の
 妨げになるとの理由で取り壊された

 西武多磨駅から徒歩15分 又は
 小田急バス5分 野水1丁目下車

龍源寺  新選組局長 近藤勇墓所

 JR中央線三鷹駅から小田急バス20分 龍源寺下車
 又は 西武多磨駅から小田急バス10分

三鷹 ・ 調布

高幡不動尊金剛寺  土方歳三菩提寺 土方像と 近藤・土方顕彰碑
       京王電鉄 高幡不動駅すぐ

河原町御池交差点北東 京都ホテルオークラの角に立つ
木戸孝允像と 長州藩邸跡の碑

黒谷     金戒光明寺         2014春

    池田屋事変跡     中京区中島町  三条小橋西

元治元年6月5日(1867年7月8日)新選組は長州藩過激派が
前年の8月18日の政変以後 京の市中に火をはなち
天皇を長州に連れ去ると言う計画の情報を入手(古高俊太郎拷問)
陰謀密議のため、浪士たち30名が三条小橋の旅籠・池田屋の
2階に集結しているのを 近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助
の4名のみで斬り込んだ
  吉田稔麿 宮部鼎蔵 北添佶摩
等が死亡し 明治維新を1年遅らせたといわれる
「新選組血風録」の「池田屋異聞」の山崎燕の活躍も興味深い
事件後100年近く旅館として存在していたが 取り壊されたのち
パチンコ屋などを経て、現在は居酒屋となっている

左から 古高俊太郎   大村益次郎   高杉晋作   木戸孝允 の墓 

 鷲峰山高台寺                   月真院   東山区下河原町

     慶応3年(1867)6月8日 新選組を離脱した伊東甲子太郎によって組織された「御陵衛士」
      (孝明天皇の御陵を守護する組織)は  高台寺・塔頭の月真院を屯所としたために、
      「高台寺党」ともよばれた
  同年11月18日の油小路の変にて事実上 高台寺党は崩壊した

天満屋騒動

   島原大門(おおもん)

「花街」と「外界」を結ぶ出入り口、江戸の吉原とは違い、
客はもちろん遊女・芸妓たちの出入りも比較的自由だった。
大門は、嘉永年間の火災で焼失し、慶応3年に建て替えられた

  角屋  寛永18年(1641)創業  下京区西新屋敷揚屋町

京都の花街・島原 角屋は当時の揚屋建築が残る唯一の遺構とされている。
久坂玄瑞や西郷隆盛もよく訪れ 新選組の遊興の場としても有名で、
局長芹沢鴨は、土方らが角屋で芹沢を泥酔させたのち屯所で土方、沖田
、山南、井上によって暗殺された

  輪違屋 元禄元年(1688)創業 
     下京区西屋敷中之町114


隊士と関わりが深く、山南敬助と明里、
平間重助と糸里、伊東甲子太郎と花香太夫
が馴染みの仲だったとか

「新選組血風録」の「前髪の惣三郎」
 輪違屋錦木大夫との物語も。
 

維新の道

東山

    西本願寺 太鼓楼   下京区門前町  西本願寺北東角

元治元年(1864)の池田屋事件で一躍脚光を浴びた新選組は
幕府からの支援も厚くなり新規隊士の募集で200人を超える
大所帯となったため、慶応元年(1865)2月末 壬生から屯所を西本願寺に移転した
寺内 北集会所建物は維新後 姫路本徳寺に移された
親長州だった西本願寺への移転は 幕府の分断措置といわれる 


「西本願寺は当時、宗政の主務に立つ者のあいだに長州領寺院の出身の僧が多く
さらに西本願寺は京都移転のむかしから宮廷との関係がふかく、尊王、というよりも
尊王過激派の長州的色彩が濃かった。 (中略) ちなみに東本願寺は左幕派であった」
  「新撰組血風録 沖田総司の恋」 より

京都駅から リーガロイヤルホテルに立ち寄り
油小路から西本願寺を経て 島原に向かい
JR山陰線丹波口駅まで歩いて JRで京都駅に
戻りました

 八木邸 中京区壬生梛ノ宮町    壬生寺正門北には現在も屯所跡が、当時のままの形で残っています

浪士組から分かれて八木邸に留まったのは、芹澤鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三、
沖田総司、山南敬助、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、野口健司、
平山五郎、
平間重助の13名
芹沢鴨が暗殺された奥座敷には、当時の生々しい刀傷が残っていました


「新選組血風録」の第二章は「芹沢鴨の暗殺」

「近藤らが、この夜、宿舎の前川荘司屋敷にもどったのは 午後九時すぎであった。芹沢の宿舎である
八木源之丞屋敷とは、せまい道路一つを隔てている。この二つの屋敷をあわせて、新選組屯所という。
屋敷の塀ではさまれた道路に、容赦もなく雨が降りしぶいていた。(中略) 羽織をぬぎ、たすきをかけた。
足ははだしである。一同、ひそかに前川屋敷の裏門から出ると、一気に道路を横切り、八木屋敷の玄関に
おどりあがって、ふすまを蹴倒し、真暗の屋内に突入した」

   壬生寺   中京区坊城仏光寺北入る

新選組は文久3年(1863) 3月に、ここ壬生の地において
結成された   境内は兵法調練場に使われ、武芸や大砲の
訓練が行こなわれたとのことです

新選組ふるさと歴史館    JR中央線 日野駅徒歩15分 月曜休

   光縁寺   下京区四条大宮町

 山南敬介墓所 沖田氏縁者墓所
縁者とは
 「新選組血風録」の「沖田総司の恋」にて

近江屋
1867年慶応3年11月15日 坂本竜馬、中岡慎太郎が
醤油商近江屋で襲われた 
         

中岡慎太郎寓居跡  書店菊屋跡
近江屋とは河原町通りをはさみ
土佐藩邸すぐ 現在和紙店 象

朝9時 まだ開店前でした

   祇園 八坂神社前

新選組血風録「槍は宝蔵院流」の
終末に 七番隊長 谷三十郎の最後の地と
なっている
 1866年慶応2年4月1日のこと

幕末維新ミュージアム霊山歴史館 東山区清閑寺霊山町          坂本龍馬と 中岡慎太郎 の像と墓

土方歳三資料館  万願寺駅すぐ  
                 開館日注意

石田(せきでん)寺  土方歳三墓所

墓所一帯 土方姓が並び たまたま墓参にみえていた地元のかたに
歳さんの墓を教えていただいた。聞けば墓の7割が土方姓とのこと
境内のカヤの大木は有名   多摩モノレール万願寺駅より徒歩5分

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池田屋事変

      油小路をてくてく


「新選組血風録」の第一章は「油小路の決闘」です

池田屋の変以来の40人を超す隊士の動員 
油小路の決闘の章で詳しく書かれています

七条油小路交差点(辻)現場付近
       2014.12

  壬生めぐりは 四条大宮より徒歩にてむかいました
左:阪急大宮駅  右:京福電鉄(嵐電)四条大宮駅