小 泊
「弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、
国宝に指定せられている。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙を
つけてくれているそうだ。 (中略) いったいこの城下町は、だらしないのだ。
旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪われている。
日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を
弘前市でなく、青森市に持って行かざるを得なかったところに、青森県の不幸が
あったとさえ私は思っている。(中略) 私は、ただ、この弘前市の負けていながら
のほほん顔でいるのが歯がゆいのである。」 「津軽」より
2013年のゴールデンウィークあけ、 若い頃 読んだ 小説「津軽」の舞台を訪れました。
太宰は三週間、私はたった一日の駆け足でのゆかりの地への訪問でした。
今回 時間の都合で行くことができなかった地へも またいつの日か訪れたいと思います。
風土記の執筆依頼から ふるさと津軽へのさまざまな思いを綴った、太宰の小説、紀行文としても
興味深いものがありますし またこの年は全国的にサクラの開花が遅れ 満開の
弘前公園、芦野公園 を堪能する事ができ それも旅の良き思い出になりました。
「このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢ってみたいひとがいた。私はその人を、
自分の母だと思っているのだ。三十年ちかくも逢わないでいるのだが、私は、そのひとの顔を
忘れない。私の一生は、その人に依って確定されたといっていいかも知れない。」
「津軽」より
昭和19年5月27日 午前11時 太宰を乗せたバスは小泊に到着した
「お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは本州の西海岸の最北端の港である。(中略)
ここは人口二千五百人くらいのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の
出入りがあり、殊に蝦夷通いの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはいって仮泊
することになっていたという」 「津軽」より
「ね、なぜ旅にでるの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、
長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七。」
「それは、何のことなの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。
作家にとって、これくらいの年齢のときが、いちばん大事で、」
「そうして、苦しいときなの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しはわかっているはずだがね。
もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、おれは旅に出るよ。」
「津軽」 本編 一 巡礼 の書き出しより
最勝院 五重塔
私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。
さらば読者よ、命あらばまた他日。
元気で行こう。絶望するな。では、失敬
小説「津軽」 結びの言葉
父、津島源右衛門は金貸し業で成功した人物で
農家へ金を貸し 抵当の田畑を手に入れ大地主になった。
金を借りた農家の多くが 自作農から小作農に転落した。
戦後 農地改革により 津島家はこの屋敷を手放すことになる。
それは玉川上水で太宰の亡骸が発見された一週間後のこと
だったという。
太宰誕生の部屋
二階の金屏風の日本間
この部屋で修治(太宰)が ごぶさたの詫びをした
入母屋造りの外観ながら和洋折衷で680坪の敷地に3mをこえるレンガ塀
1階は11部屋278坪、2階は8部屋116坪 ロココ調の階段
「あるとし(昭和19年)の春、私は、生まれてはじめて本州北端、
津軽半島をおよそ三週間ほどかかって一周したのであるが、それは、
私の三十幾年の生涯において、かなり重要な事件の一つであった。
私は津軽に生まれ、そうして二十年間、津軽において育ちながら、
金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見ただけで、
その他の町村に於いては少しも知るところがなかったのである。」
「津軽」序編より
時間がなく 小説に登場する
高流に行く事を断念せざるを得なかった
旧駅舎 現在はカフェ
立倭武多たちぶねたの館
乾 橋
中畑さんのひとり娘のけいちゃんと、
少年時代に遊んだ岩木川に架かる
乾橋を渡り岩木山を眺めた
「私は金木を出発して五所川原に着いたのは、午前十一時頃、五所川原駅で五能線に乗りかえ、十分経つか経たぬかのうちに、
木造駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちょっと見ておきたいと思っていたのだ。
降りて見ると、古びた閑散な町である。人口四千余りで、金木町より少ないようだが、町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が
どっどっと、だるげに聞こえてくる。どこかの軒下で、鳩が鳴いている。ここは、私の父が生まれた土地なのである。」 「津軽」より
かくみ小路 の路地 フォーク酒場も目についた
道を尋ねた横野たばこ店 タケの嫁ぎ先 越野金物店
太宰治 津島修治少年 越野タケ
観瀾山 「その山は、蟹田の町はずれにあって、高さが百メートルも無いほどの
小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかった。 (中略)
この蟹田あたりの海は、ひどく温和でそうして水の色も淡く、塩分も薄いように
感ぜられ、磯の香さえほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんど
それは湖水に似ている。浪は優しく砂浜を嬲(なぶ)っている。」
「津軽」より
JR弘前駅
タケとの再会をはたしたグランド
小説 「津軽」 〜太宰 治〜 を歩く
太宰治まなびの家(旧藤田家)
旧制弘前高校三年間の下宿先 芸者遊びもこの時期覚え
三年生の時最初の自殺を図った
この小さな部屋を修治は喜んだそうだ。初めての個室と聞き
あの金木の大邸宅にも彼専用の部屋はなかった事に正直驚いた
「あれは春の夕暮れだったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生だった私は、
ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、
夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとしたことがある。私はそれまで、
この弘前城を、弘前のまちのはずれに孤立しているものだとばかり思っていたのだ。けれども、
見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で
小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。
年少の私は夢を見るような気持ちで思わず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく
出てくる「隠沼」(こもりぬ)というような感じである。」 「津軽」より
「金木の生家に着いて、まず仏間へ行き、嫂(あによめ)が
ついて来て仏間の扉をいっぱい開いてくれて、私は仏壇の
中の父母の写真をしばらく眺め、ていねいにお辞儀をした。」
「津軽」より
「私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが
もとより返事のある筈は無かった。溜息をついてそのその家から離れ、
少し歩いて筋向かいの煙草屋にはいり、越野さんの家には誰もいない
ようですが、行先をご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは
運動会へ行ったんだろう、と事もなげに答えた。」 「津軽」より
JR津軽線 蟹田駅
「蟹田って風の町だね」 の看板
「やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、
気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでいない。ひっそりしていて、
そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、
この湖の面には写らぬというような感じだ。」 「津軽」より
十三湖
金木 昭和19年(1944年)5月12日に 東京を発った太宰は直接 金木には向かわず
ふるさと金木の生家についたのは一週間以上たった5月21日だった。
「金木は、私の生まれた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、六千の、
これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。
善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町という
ことになっているようである」 「津軽」より
太宰の生家 現在は 斜陽館 として五所川原市が所有し記念館として公開している
明治40年落成、2年後、この家で初めて生まれたのが津島家の六男修治でした
津島家の菩提寺 金龍山南台寺
金木山雲祥寺 子守り越野タケの
生家の(近村家)の菩提寺
津軽鉄道 金木駅
疎開の家・津島家新座敷
昭和20年7月31日、甲府から
家族と共に疎開して 翌年11月
上京するまでここに住み執筆活動もした
昭和17年秋には重篤の母をこの家に
見舞っている
少年 津島修治が よく遊んだ 芦野公園
太宰像と文学碑
津軽鉄道 芦野公園駅
「〜窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久くるめがすり留米絣の着物に
同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風ふろしき呂敷包みを二つ両手にさげて」
切符を口に咥くわえたまま改札口に走って来て、眼を軽くつぶって改札の美少年の駅員に
顔をそっと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、
まるで熟練の歯科医が前歯を抜くような手つきで、器用にぱちんと鋏はさみを入れた。」
「津軽」より
小泊のタケに会うため五所川原を朝一番の列車にのった時の 芦野公園駅の記述
本文の前の 金木町長と東京上野駅員とのやりとりの記述も面白い
五所川原 JR駅と津軽鉄道駅
木造 (きつくり)
太宰が「もくぞう警察」と読んだ
現つるが警察署
松木薬種問屋跡付近
現 木造郵便局
小説では父の実家をMとしている
JR五能線 木造駅 巨大な遮光器土偶
弘 前
東北最古の喫茶店 万茶ん
太宰もかよったという
「青森市からバスで、後潟、蓮田を通り、約一時間半、とは言ってもまあ二時間ちかくで、
この町に到着する。いわゆる、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千を
はるかに越えている様子である。 (中略) 私がこんど津軽を行脚するに当たってN君の
ところへ立ち寄ってごやっかいになりたく、前もってN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも
「なんにも、おかまい下さるな。あなたは、知らん振りをしていて下さい。お出迎えなどは、決して
しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは」。」 「津軽」より
N君とは 青森中学時代の同級生で 蟹田町会議員 中村貞次郎
太宰はこのN君と実家にむかうまで八日間程共にする
他に会うべき人も居ないという故郷への縁の薄さもうかがえる
道の駅 十三湖高原で
名物 しじみラーメン(800円)を
味は、微妙・・・
「その日、タケの締めていたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公していた
頃にも締めていたもので (中略) そのせいもあったのかも知れないが、 タケは
私の思い出と そっくり同じ匂いで坐っている。」
「私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまっている。足を投げ出して、
ぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。
もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の情態である。
平和とは、こんな気持の事を言うのであろうか。もし、そうなら、私はこの時、
生れてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。」 「津軽」より
太宰の 津軽の旅は 小泊が最終地ではないのだが
あえて タケとの再会のこの地を 小説の クライマックスとして
終結している
*おまけ 小泊といえば この人
「津軽富士と呼ばれている一千六百二十五メートルの岩木山が、
満目の水田の尽きるところに、ふわりと浮んでいる。実際、軽く浮んでいる感じなのである。
したたるほど真まっさお蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単ひとえ衣の裾を、銀いちょう杏の葉を
さかさに立てたようにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでいる。
決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとおるくらいに嬋せんけん娟たる美女ではある。」
「津軽」より
「津軽の旅行は、五、六月に限る。れいの「東遊記」にも「〜只ただ名所をのみ探らんとの
心にて行く人は必ず四月以後に行くべき国なり」としてあるが、旅行の達人の言として、
読者もこれだけは信じて、覚えて置くがよい。津軽では、梅、桃、桜、林りんご檎、梨なし、
すもも、一度にこの頃、花が咲くのである。」 「津軽」より
蟹 田
小説「津軽」の像 記念館 再会公園 太宰と タケ の像
☆今回は 一日で津軽半島を駆け足で周ったので「津軽」の舞台のうち
青森、今別、竜飛崎、深浦、高流 など まだまだ見所が未訪問でした。
機会があれば また訪れたいと思っています。
私の好きな 太宰が大切にした信条
「教養人って どういう人かわかるか? 人の辛さに敏感である
そういう人を 本当の教養人というんだよ 。」
太宰が好きだった 漢字ひと文字 「優」
優=人偏+憂 「人の辛さに敏感な事が 優しさの条件であり
人として優れている条件」
太宰 治 「冨岳百景」 クリック