ネタコラム


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“『擬態〜MIMICRY〜』” “I MY 脳内デジタルデータ”
“黒後家蜘蛛の糸” “萌画更新と守株”
“蝶とスランプと蛹” “狙われた花園”
“猫と忠犬と焼き鳥と” “他人(ひと)に委ねしモノ”

“『擬態〜MIMICRY〜』” 06.2/17 メニューへ
 ある日、あなたの知っている人が、姿形はそのままに『別のナニか』に変わっていたとしたら・・・。
あなたにそれを見分けることができるだろうか?


 こう聞いて、今やっている仮面ライダーを思い起こす人は特撮好きかもしれない。
人の姿形だけでなく記憶までも『擬態』し、その擬態した相手を殺害することで完全にオリジナルと成り代わり、 人間社会へと潜伏するワームはまさにそんな存在である。
また朝起きたら、夫の頭がいきなり「あ・・・な・・・た・・・お・・・しょく・・・じ、ぱふぁ」と変形して齧り付いてくる「寄生獣」を思い起こす人は漫画好き、 要人候補がいつの間にかスケルトンT状のアンドロイドにすげ替わっている「スナッチャー」を思い起こす人はレトロゲーマーかもしれない。
宇宙ステーション事故で死亡した人が生前の記憶を持ったまま復元される「ソラリス」を思い起こす人はSF映画好き、 教師が宇宙から来た寄生生物に寄生され水スキーになる(違う)「パラサイト(原題:faculty=教員、学部)」を思い起こす人はホラー映画好き・・・だと思う、多分。
ちなみに私は、外見は元の人の擬態だが細胞一個毎に意思を持つ全く別の物体に変貌しており、 千切れた頭部から節足動物の足が生えてチョコマカ逃げる「遊星からの物体X」を思い起こしたジョン映画好きだ。
(「遊星からの物体X」は実によいB級=バカ級映画なので機会があったら是非視聴をお薦めしたい。)
 これらの設定・・・外見・記憶を擬態する存在が傍にいるという恐怖が創作において多く用いられるのは、翻せば人間のアイデンティティーが希薄であるからといえる。
つまりその人をその人たらしめている要素はなんなのか?という問題提起に明確な答えが存在しないゆえである。
姿形が同じであればその人なのか?それとも記憶がその人を定義づけているのか?
その両方を兼ね備えていれば『別のナニか』でもその人たりえるのか?
あなたは答える事ができるであろうか?

 だが現実において人の姿形・記憶を擬態する『ナニか』が存在しない限り、これはあくまで哲学的試行実験の一種でしかない。 そう『現実』においては。
現実(リアル)の対となっているこのネット世界においては実際に起り得る事態なのだ、『成りすまし』と言う形で。
この『成りすまし』については、以前のネタコラム“偽者、アラワル!”を読んで頂くとして、 なぜ現実においては起り得ない事態がネットにおいては成り立つのか?を考察してみよう。
 それはネット世界においては姿形を擬態する必要がないからである。
正確に表現するならば、我々が擬態の対象となる姿形を持ってこのネット世界に踏み入っていないからである。
では、我々はこの世界において、どのように自と他、また他における個の特定をしているのであろうか?
まずその識別を行う手段として用いられるのはHN(ハンドルネーム)である。
しかしこのHNは識別方法としては弱く、掲示板上に同じHNが二人以上存在しただけでその識別が困難になる。
また同じ人物による別のHN使用でも人物特定が困難になるのも逆説的にそれを証明しているといえる。
 この事態を避けるため?大規模掲示板によってはIPアドレスが表示されるところもある。 IPアドレスとはコンピューター毎に割り当てられた認識番号のようなもので・・・ 詳しくは自分で調べてください、スンマソンorz
 この場合、HNが同じでもIPが異なれば別人、異なるHNでもIPが同じならば同一人物と判断できる・・・はずなのだが、 接続の度にIPが変動するダイヤルアップの場合を除いてもそうとは言い切れないのが実情である。
なぜなら、これでは出先のネットカフェから書き込んだ場合、同じ人物でも別人ということになってしまうし、 同じパソコンから家族の誰かが書き込んでも同一人物と判断されてしまうことになってしまうからである。

 このようにネットにおけるアイデンティティは現実以上に希薄なため、他人への擬態が比較的簡単に行えてしまう。
だが「記憶までは擬態できないのだから、結局はすぐバレるのではないか?」と思われるだろう。
・・・果たしてそうなのだろうか?
確かに人の記憶を完璧に擬態することはできない。
しかし、そもそも完璧に擬態する必要すらないのではないだろうか?
 私達がネット上で出している記憶・人格等は本来の何割にも満たない氷山の一角である。
ということは水面下に存在する氷山がある日、別形状になっていたとしても一角が同じ形状であれば気付かないということになる。
 つまり『記憶の擬態』とはこういう流れになるだろうか。
まず過去ログを漁り擬態する対象がどういう話題を好み、どういう口調(文体)を用いるかを知る。
その対象が長く不在している間に、同HN&同じ文体で書き込みをするというものだ。
「でもどこかでボロが出るのではないか?」と思われるだろう。・・・そう、ボロは出る、間違いなく。
だが余程相手の推測する像から外れない限りは『本当はそういう人だったんだ〜』で済ませられてしまうだろう。
何しろ判断材料自体が乏しいのだから、ボロも氷山の形状を規定する要素になってしまうだけである。
このあたりは多少“トリニティ・バランス”の時の心の持つ防御機構が関与しているのかもしれない。
そして、この『擬態』が確固たるポジションを確立した後、オリジナルが戻ってきたとしてもオリジナルの方が『擬態』と認識されてしまうかもしれない。
もしプレイしていたらここでTOAでも例えに出すところだが「ほんまワイ、ダメなレプリカや〜」っていうマ○ルさん風のネタしか知らないので却下!
 このように?『記憶の擬態』すらも不可能ではないネット世界。
何が“アナタ”を“アナタ”たらしめていますか?

そして・・・

今これを書いている“私”も“私”ではないかもしれませんよ?

“I MY 脳内デジタルデータ” 06.4.30 ネタ一覧へ
先日本屋で、20歳前後の男性がエ○ゲー雑誌のエ○シーンのページを携帯カメラで撮影しているのを目撃した。
別段驚きはしなかったのは、以前女子高生がファッション雑誌を携帯カメラで撮影するのを見たことがあるためであろうか? もっとも本屋によっては携帯カメラでの撮影を禁止しているところもあるので店側から見たら歓迎すべき行為ではないのも分かってはいる。
しかし、あの手の雑誌はフルカラーだから高いのも事実。一部のページにしか興味がなければそれもまた仕方がないのかもしれない。
・・・などと色々な思考が脳裏を駆け巡る中、自分なら同じ状況でどうするであろうか?と考えた時、一つのツッコミが心の中で生まれた。
「そんなもん、目を皿のようにして眺め、脳裏に焼き付けろ!」と。

 「脳裏に焼き付ける」・・・携帯カメラの画像をデジタルデータ、紙媒体などに出力された画像をアナログデータとすると、 この行為によって作成される画像は脳内デジタルデータ(以下脳内DD)とでも呼称されるものであろうか。
私は先の例のような場合(・・・って別にエ○ゲー雑誌と言う意味でなく) 気に入ったキャラ、構図などを脳内DDとして記憶、それを引き出して自分で描いたりした。
そのため私の脳内My Picturesフォルダは無駄な画像データで一杯である。
 余談ではあるが私のMy Picturesフォルダの中に保存されている画像の大半は何故かかつての通学路などの風景である。 そして、その風景を思い出すとその当時のささいな出来事(流行)がセットで想起され、 同様にささいな出来事(流行)を思い出すと風景が浮かぶ、という不思議脳である。(閑話休題)

 もっともこの脳内DD、かなり欠点が多い。
まず画像データは容量が大きいため、脳内の容量をかなり食う。
それ以上に問題なのが、脳内から引き出そうとした際に表示される画像がサムネイル画像のようにボヤボヤなのだ。
所詮は人の記憶・・・スクリーンキャプチャーのようにはいかないといったところだろうか?
それゆえ携帯カメラやデジカメの普及で後で見たいものを簡単に撮影出来るようになった現在、 この「脳裏に焼き付ける」行為を意識的に行う機会は以前より減少しているのかもしれない。
それは最初に挙げた事例のみならず、子供の運動会などを目で直接見るよりもレンズ越しから見る機会が多いことにも表れている。
・・・不鮮明な脳内データに頼るよりも精度の高いデジタルデータを外部データとして保管しておく。
これだけデジタル家電が進歩した現在、至極当然な流れだと思う。

 この「見たい画像が必要な時にいつでも見れる」デジタルデータ。
脳内フォルダにその画像の脳内DDを保管しておく必要がないという利点を持つ。
先にも述べたように脳内DDは容量が大きい割りに不鮮明である。これをわざわざ脳内に保管しておかなくていいのは便利である。
同様の事例は、ワードなどのテキストソフトを用いれば漢字の暗記が以前よりも必要ないことであろうか。
ともかく人は記憶という曖昧な部分をデジタル家電に担当させつつあるように思える。
これは人と機械の融合、人の革新といっていいのかもしれない。

 だが、ふと思った。外部データに頼ることは本体そのものの革新といえるのかと。
もしも撮影したデジタルデータが失なわれた時、「脳裏に焼き付けた時」程度に脳内でその時の映像を再現できるのだろうか?と。
または常に鮮明な画像が参照できる状態において、「うろ覚絵」による素敵アレンジが起こるのだろうか、と。
 その答えは私の中にはない。それはよりデジタル化が進んだ時に明らかになるであろう。

 人の記憶は曖昧で儚い。
だが儚いがゆえに、消したくない記憶を必死に心に繋ぎ止めようとするのではないだろうか・・・。
それゆえに“覚えている”ことに重みがあるのではないだろうか?
おぼえていますか?目と目があった時を・・・。


 ちなみに今回の話の脳内DD、当てはまらない人もいるかもしれない。
例えば見たものをスクリーンキャプチャのように完全に脳内DDとして保管できる人もいる。
かの山下清もそうであったといわれている。
彼は旅先で見た風景を完全に記憶し、施設に戻ってからでも描写できたという。
これはサヴァン症候群の一種なのだろうが(以下略)
 またかつて私の友人がこんなことを言っていた。
自分は物語を考える時、文字が脳裏に浮かぶと。
それゆえ漫画を描こうとしたとき、その文字を映像に翻訳しなければならないと。
詳しく聞いていないので分からないが、彼の脳内DDは画像ではなくテキストなのかもしれない。
そうなると先の話はまったく通じなくなるのであるが、彼以外でそのパターンの人を知らないのでなんともいえない。
もし、これを読まれた方で自分もそのパターンだと思われたら、お教えいただければ幸いです。

“黒後家蜘蛛の糸” 06.5.18 ネタ一覧へ
 余所のサイトにふらふらと立ち寄ると、日記などで時折「最近、訪問者数が増えたor減った」という記述を目にすることがある。 自分もHP運営者なため、訪問者数の動向を気に掛けるのはとてもよくわかる。
過去よりも増えてくると頑張ろう!という気になるし、減ってくると何がいけないんだろう?と訪問者数減少に歯止めをかける対策を考えてしまったり。
ここでその【対策】について脳内シミュレートした時、ふと気付いた。
・・・と言っても訪問者数を増やす方法とかではなく(当たり前)HP運営タイプと蜘蛛の性質の共通点についてである。

 蜘蛛には大きく分けて二つのタイプがある。
一つは、網を張り獲物を待ち構える造網性の蜘蛛。蜘蛛と言われて一般的に浮かぶのはこちらだろう。
 このタイプの利点は、網を張れば獲物が自ら巣に飛び込んできてくれること。
欠点は、網に狙った獲物がかかるとは限らないこと、
また巣を張る場所次第で獲物が掛かる可能性が左右されること、巣の出来次第では掛かった獲物に逃げられること。

もう一つは、自ら動いて獲物を捕食する徘徊性の蜘蛛。
こちらはアシダカグモやハエトリグモに代表されるが・・・虫に多少興味がないと意識しないかもしれない。
窓のサッシや壁などを歩いているタイプといえば少しは分かるだろうか?
 このタイプの利点は、餌場を自ら選べること、その結果、獲物のタイプをある程度自分の意思で決定できること。 (ハエトリグモであればハエの多そうな場所を餌場にしているということ)
欠点は、捕獲量が蜘蛛自体の捕獲能力や餌場の状態に左右され過ぎること。

 これを何故HP運営タイプに当てはめようとしたのか、察しの良い人ならお分かりになるかもしれない。
要するにネットにおけるリンク網が蜘蛛の巣の網と同じ役割を果たしているのではないか?ということである。
先の蜘蛛のようにHP運営タイプを分類してみよう。
【造網性運営タイプ】:検索サイトや同盟リンク等に登録し、そのリンク網を辿って来る訪問者を待ち構える運営。

【徘徊性運営タイプ】:自ら余所の掲示板やオエビに足跡を残し、興味&交流を持った人の訪問を待つ運営。

もっともこの両方の性質を持つサイトも多くあることは想像に難くない。
ちなみに私は後者の運営タイプである。
そのため、余所のオエビの状態と自らの投稿率と絵の完成度が訪問者数に反映されるようだ。

 さて、これを読まれたあなたがもしHP運営者ならば、
あなたは自分のHPのタイプをどう判断しますか?そして・・・

“萌画更新と守株” 06.7.13 ネタ一覧へ
『タイミングを外した時節ネタほど 無意味なものは無い』 〜M.K.Ryuhyou

 春、テレビ欄を賑わす【新】の文字に心躍らせる人も多い事だろう。
その中の、特に深夜アニメ帯における新番組の題名から『萌えアニメ』とおぼしきものが多く見て取れる。
それらの番組紹介などを見ると、
『主人公の部屋に美少女(型の何か)が(複数)来たり、
主人公が住むことになった施設(寮等)に美少女がてんこもりだったり』

という・・・かつてどこかで見たパターンを換骨奪胎(キャラや設定の入れ替え)した内容であることが少なくない。
 また最近だと
『さっきのパターン、ヤローはノイズになるからいらなくね?』という思い切ったものや

『少し幼げで可愛らしい少女がお嬢様学校で実権を握るお姉様に気に入られたり』

『少し幼げで可愛らしい少女がイケメソ満載の施設(or団体)でチヤホヤされたり』
というのもここ数年以降新たに見られるようになったパターンだろうか?
 少しアニメの歴史に詳しい人であればこれらのパターンを眺めた時、過去にヒットした作品の派生作品、 つまり表面的には最近のものだがその根っこは昔の作品と変わらないものであることに気付くと思われる。
系統樹 先の『美少女おしかけモノ』の原典は『三畳一間でもラ○ちゃんがいれば〜』と言われたとか言われなかったとかの『うる○やつら』を、 『美少女パラダイスにヤロー単身特攻』は『めぞ○一刻』の管理人さんを複数にしたものともいえる。 もっとも『天○無用』あたりのパイ○ニア作品からの流れから本格化したものだろうけれど。 それ以外に挙げたパターンにも多くの原典、その派生から枝分かれした本流、傍流という位置づけ可能な作品が多くある事が推察できると思う。 これらをまとめると、何らかの作品を始祖とした『萌えアニメの進化の系統樹】が作成できるだろう、しないけど。 ちなみに進化の系統樹とは、始祖から派生した流れがいくつか枝分かれし、途中で分岐したり途切れたりを繰り返しながら形成され、樹のような形状をとるものである。
 だが、なぜこれほどまでにヒット作の派生作品が換骨奪胎の類似作品として複数作成されてきたのだろうか?

 ここでそれを読み解く手がかりを探るために、一端テレビから目を離し春の雑木林を覗いてみよう。(強引)
萌芽更新 鬱蒼とした雑木林に足を踏み入れた時、、所々光が差し込むような開けた場所で 切り株の側面から複数の芽が生えているのを目撃したことはないだろうか? 右に模式絵を用意したが、これは萌芽更新(ぼうがこうしん)と呼ばれるもので、 雑木林を形成する広葉樹の多くは古くからこの方法で人々の利用に堪えてきた。 もしかしたら「雑木林の地面には沢山のどんぐりがあるので、何故それらを植えて育てないのか?」と思われるかもしれない。 そうしない理由は“哀恥窮薄 開催迫る!”で説明したように 雑木林の林床においては種子が発芽してもその成長に必要な日光が得られないためである。 要するにそれなりに成熟した土壌において新たな種が根を張り成長することは難しいので、 既に地面に根を張っている切り株から伸びる芽を樹に成長させ利用するという安定した方法をとっているのだ。
 さて右の萌芽更新の模式絵、何かに似ていないだろうか?そう、先に説明した進化の系統樹とそっくりなのである。
だが、そっくりなのは形状だけではない。なぜ古くから人々が萌芽更新を行ってきたのか?
それは、萌芽更新とは栄養生殖、分かりやすくいえばクローンであるため、 元の材木と同性質のものを持続的に供給することが可能だからである。
さらに先に述べたように雑木林内において新たな種子を芽吹かせ育てるのは容易ではないということも理由のひとつであろう。
わざわざ述べるのも野暮であるが、 これは一度ヒットした萌えアニメ(に限らず創作作品全般にいえるが)の類似作品が多く作られる理由の説明にもなっている。
 情報精度を高めるために萌芽更新について調べていて、もう一つ面白い共通点があることに気付いた。
萌芽更新において、切り株から出てきた芽を数年後、勢いのある数本を残して間引く『もやわけ』という作業がある。
これは成長の悪い芽に余計な栄養がいかないように切除することで伸びそうな芽の成長を促進する処置であるが、 これと同じことが萌えアニメにおいても見られるのではないか?
「あ、妹の次は女性教師なのか?」と思ったら案外その後が続かなかった、 というような例があったとしたら、その芽はもやわけにより処理されたと考えられるのである。
ちなみに現在もやわけによって残された芽は『ツンデレ』だと 思われるが、これも持続的に利用可能であるかは保証できないだろう。

 さて、この萌芽更新ならぬ萌画更新。
利点は先に述べたように、一度当たった作品と同系列のモノを求めるニーズに応えられるということである。
それゆえ、一度ブームが来るとその芽はガンガン伸ばされていく。
また時には接木や挿し木によってその派生作品そのものが始祖として用いられることも少なくない。
こうして土壌には多くの切り株と、そこから生えた芽が散在することになるのだ。
欠点はクローンであるがゆえに環境が大きく変わった時に全滅してしまう可能性があることである。
もっとも現在までにおいてはその切り株まで死滅するほどの大きな環境変動は起っておらず、
せいぜい起っても『妹ブームが去ったため、それに便乗した関連作品に閑古鳥が鳴いている』 程度の被害で済んでいるが、もし将来的に『萌え絵』『劇画調』に取って代わられるという劇的変動が発生した場合、今までの萌えアニメ土壌に根差す切り株達は全滅してしまうかもしれない。

 ともあれアニメの新番組が始まる度に
『○○の二番煎じだ』
『○○の下の二匹目のドジョウを狙っている』

と揶揄されがちであるが、実は本来一番似合う故事成語は色々な意味において
『守株=株を守る』なのかもしれない・・・というのがオチ。

“蝶とスランプと蛹” 06.8.17 ネタ一覧へ
 絵を描く人に限らず創作活動を行う人にとって避けることのできない、しかしできれば避けたいものが存在する。
それはスランプ・・・一時的にそれまで出来ていたことが思うようにならなくなる期間、である。
私も一応絵を描く身であるので、何度もこのスランプとの付き合いを余儀なくされている。
ふと自分がスランプの時期を思い返していて気付くことがあった。
それは絵を描き続けている時ほどスランプに陥る頻度が高い気がするということである。
 だが、先に挙げたスランプの定義
『それまで出来ていたことが思うようにならなくなる』
のは本来、絵を描いていない状態から描こうとした時に陥る方が自然の流れであるように思える。
何故描き続けている時ほどスランプに陥りやすいと感じるのか?
ここにスランプの持つ意味が隠されていると私は考える。
 ちなみに私以外にもこのように感じる人がいなかったら、この後の話はなかった方向で。
一応いたということを前提にお話を進めさせて頂こう。

 多くの人はスランプに陥ると、がむしゃらに絵を描いたり、普段と違う絵柄に挑戦したり、いっそ一時期絵から離れてみたり・・・ 様々な解消方法でその期間が過ぎ去るのを待つ。
そして自らスランプが明けたと感じた時、
以前より自分の絵が洗練された・・・そんな錯覚を覚えた事のある人もいるだろう。
勿論ソレは本当にただの『錯覚』であった場合の方が多いのかもしれない。
この錯覚はスランプ時に絵から離れすぎた結果、絵の技量と審美眼そのものが低下し起ったものであろう。
 だが、実際にスランプ後に一皮向けて『自分の絵』を確立した人もまた多いのではないだろうか?
つまりスランプとは、絵が進化する直前に訪れる準備期間なのだと定義できるかもしれない。
その準備期間にそれまで蓄えたものをより高度なものに昇華できれば、スランプ前より洗練された絵に変貌できる。
そう、言ってみればスランプに陥った状態とは 芋虫がそれまで食べた葉の栄養を元に蝶へとメタモルフォーゼする前の、サナギのような状態なのだろう。

 さてサナギといえば、なんかのサナギ・・・ではなくて、どうしてあの、言ってはなんだが不恰好な芋虫がサナギを経る事で 美しい蝶となるのか、不思議に思ったことはないだろうか?
この不思議には生物の細胞が持つ、ある機能が関与している。
それはアポトーシス・・・運命付けられた細胞の自殺機能である。
・・・と別に生物学的なアポトーシスについて説明することが目的ではないので 一般的な細胞死を壊死(ネクローシス)、生命活動上必要な細胞死をアポトーシスと定義しておく。
一応この後の話のためにアポトーシスと壊死の違いだけでも説明しておこう。
壊死は病気や怪我等で細胞そのものが崩壊して周囲の細胞にまで影響を及ぼす細胞死、 対してアポトーシスはプログラムによって発動し、他の細胞に利用できるような形に分解される細胞死である。
端折って説明すると、蝶は幼虫からサナギへと姿を変えた時、次の段階である蝶の姿を形成するためにサナギの中で アポトーシスによって不必要な細胞を自殺させ、一時的にドロドロの状態になる。
そして、不必要な細胞の栄養を新たに必要となる器官の細胞の糧とし、蝶という高次な存在へと昇華するのである。

 つまりスランプ状態がサナギと同じであると考えると、
それまで絵を描き続けてきた時に新たに掴んだコツから更に高次の絵を創造するためには、一度それまでのコツと新たなコツをない交ぜにする必要があるということだろう。
その状態においては今までのコツが一時的に消失しており、当たり前で済ましていた部分に違和感を覚えるため思ったような絵が描けない。
だが、そこから不必要な部分をアポトーシスにより分解、絵柄形成のための栄養と変えることで洗練された絵へと変貌を遂げる、ということではないだろうか。
 こう考えれば、スランプに陥った時にも気が楽になるとイイネ。
ただし注意が必要なのは、絵を長いこと描いていない時の
『コツを忘れて思ったように絵が描けない』
状態をスランプと勘違いしてはならないということである。
 スランプ状態における身に付けたコツの一時的消失をアポトーシスとするならば、
この状態でのコツの消失は壊死(ネクローシス)なのだから。

“狙われた花園” 06.9.30 ネタ一覧へ
【最初に】
私は元来ネット上で性別をはっきり明示することに意味がないと考えている。
しかし今回、それでは都合が悪いので一応私の性別は『性染色体が不揃いな結合をしている方』の性別として話を進めさせて頂くことを予めお断りしておく。

 先日、あるアニメを見ていた時のことである。
一人で喫茶店に入ったその筋の方風の渋い男性が恥ずかしさを隠すため、ぶっきらぼうにデザート系(パフェか?)を注文しているシーンが私にあることを想起させた。
それは確か黄金週間時に、かつてのサークル仲間同士のダベリ会の二次会でファミレスに行った時のことであった。
私はいつものようにパフェ系を注文したのだが、運んできた店員は迷いなく隣の席にその注文相手を求めた。 あきらかなミスであるが、それは無理からぬことだったのかもしれない。
私達の座った席の隣は、フリルがこれでもかとついた日常生活には適さない格好をした方々の会合の場。
対してこちらの席は空席の関係上、女性メンバーと分断された男オンリー席。
『どちらの席がパフェを頼みそうか?』と聞かれれば、店員の勘違いを支持する人の方が多いのではないだろうか?
だが、生憎とこちらも伊達や酔狂でパフェを頼んだわけではない。しっかりアピールして自らの注文品を店員の勘違いから救い出した。
そして、やや憮然としながらパフェを頬張る私の脳裏に浮かんだのは、
『パフェを食べたくなると高校生の娘さんを連れて喫茶店に行き、娘さんに注文させる』という私より二周り近く年の離れた方が以前仰っていた話である。
そうまでしてパフェが食べたいのか?という話ではない。
いい成人男性がパフェを頼むために乗り越えなければならない敷居はそこまで高い、ということなのだ。
 そう、これらの話から分かるように世間一般の認識では
『男が喫茶店でパフェを頼むことは恥』であるようだ。
男のパフェ好きが肩身の狭い思いをしなくてはならないとは、何とも不条理な話である。
だが男尊女卑の時代に、女性達が受けてきた『女が○○するなんて恥知らず』といったいわれのない中傷と比べれば、この程度の偏見は可愛いものだと思われる。
またこの偏見が、女性の好むパフェ等のスウィーツ系という花園が男性の手で荒らされるのを防ぐ温室の役割を果たしてきたことも否めない。 (まぁ、実際そのスウィーツを作ってるパティシエには男性も多いのだろうが)
 だが、哀しいかな。
温室の花園に植わっている花が“売れる”と知れると・・・
花園は荒らされるものなのである。

 以前取り上げた近年増加の一途を辿る幼女への性犯罪事件
その系列の事件が起こるたびに、居た堪れない気持ちと 『美少女ゲームに嵌る犯人。美少女ゲームの規制強化の必要性アリ!』という類型的な偏見に苦々しさを覚えながら、 ある仮定が頭をよぎるのである。
「もし、小さい男の子が犠牲になる事件が発生し、その犯人の女性宅から大量のベーコンレタス系作品が発見されたら・・・どうなるのだ?」と。
 なぜこのようなあられもないことを考えてしまうのか?
それは先のような事件があるたびに叩かれる男性向けジャンルと異なり、 近年エスカレート気味の感が漂う女性向けジャンルが温室の中の花園の様相を呈しているからである。
つまり「女性向けジャンルがマスメディアに槍玉に挙げられることはない!」という確信ゆえに、それに対する嫉妬に近い感情から 先のような仮定が脳裏に浮かぶのである。
 ところが最近『乙女ロード』等、女性向けジャンルを揶揄するマスメディアが増加しており、 その扱いに苦々しさを覚える女性(女性向けジャンルに属している、いないにかかわらず)もいるのではないだろうか?
「違う!○○は違う!そんな偏った場面だけ紹介したら誤解される!謝れ!○○に謝れ!!」と。
だが、その苦々しさは今まで男性(男性向けジャンルに属している、いないにかかわらず)が味わってきた偏見をなぞっているに過ぎないのだ。
そして、それは女性向けジャンルがマスメディアの槍玉に挙げられる程の知名度と社会的地位を確立した証拠であるといっても過言ではない。

 温室の花園でひっそり愛でられていた花々。
そのうちの一本が誰かの手によって大衆の眼前に晒された場合、
その花園は荒らされるものなのである。

“猫と忠犬と焼き鳥と” 06.11.18 ネタ一覧へ
猫は家につき、犬は人につく
 私がこの言葉を認識したのは、ある猫に関するエピソードからである。
今は昔、サークル棟の各ボックスを餌場にしている猫がいた。
私の所属するサークルでも責任者により餌やり表まで作られ、私も時折餌をやっていた。
その猫は、ボックス入口付近で見かけるとこちらにのそのそと歩み寄り、 餌をくれとばかりに地面に寝転がって愛想を振りまく愛いヤツであった。
 だがある時、自分の学部裏でその猫を見かけ近づくと、ヤツは明らかに異質な雰囲気を放っていた。
『キシャー!』と背中の毛を逆立て、縄張りに入るな!と威嚇しているのである。
そう、ヤツが私に対し愛想が良かったのは、私が『餌をあげたことがある人間』だからではなく、 あくまで『餌場であるサークル棟付近にいる人間』だからだったのである。
まさに猫は家=場所につくを感じた瞬間だった。
 逆に犬における『飼い主を追いかけての遠き旅路、そして再会』というエピソードは枚挙に暇がない。
この点から猫は家につき、犬は人につく は多少の信憑性を持った共通認識であるといっても過言ではないのかもしれない。

 さて、これと同様の感覚を人同士のコミュニケーションにも感じたことはないだろうか?
例えば、学校・職場等で親しい間柄にある人と街で出会った時に、 挨拶なしでスルーされたり、逆に普段と同じノリで話しかけられて戸惑ったりなど。
これを人の性格を猫っぽい、犬ちっくと表現することがあることから、
場所に依存する猫型コミュニケーション
相手に依存する犬型コミュニケーションと呼んでみることにする。

 この猫型・犬型コミュ。 ネット上(といってもオエビ位しか実例がないのだが)においても度々見受けられる。
例えば、オエビAにおいて交流のある相手を別のオエビBで見かけても、素っ気無いレスをつけたり、 そもそもレス自体つけなかったり、というのが猫型コミュ。
またオエビAで交流のある相手を別のオエビBで見かけた時に 「まさかこんなところで○○さんの絵を拝見できるとは〜」等のレスをつけたり、 その相手or自分のサイトにおけるやりとり時の呼称・口調を用いるのが犬型コミュと分類できるだろう。
 ちなみに私は比較的猫型コミュであるため、 閲覧のみのオエビで相互リンク管理人さんの絵を見かけてもレスをつけるようなことはしない。
また知り合ったオエビでのレスをその相手先サイトさんに持ち込むこともしない。
これは匂いつけが済んでおらず餌が貰えるどころか石を投げつけれるかもしれない往来や他人の庭で、 寝転がって愛想を振りまくのは周囲にも迷惑であろうと考えるからである。
しかし、犬型コミュを求める方にとっては素っ気無いと映っているのだろうことは推察され複雑である。

 ふと、この猫型・犬型コミュ、どちらに類するのか不分明な事例が浮かんだ。
 あるうら寂れたオエビ。
かつては栄華を誇ったであろうことが窺えるのは、
1〜2分で描かれたであろう蚯蚓ののた打ち回ったような絵の羅列につけられた 作者でなく閲覧者の『昔は綺麗な絵が沢山あったのに。』『アノ頃の絵師はどこにいったのだ?』という哀惜のレスのみであった。

かつて見知りそして嵐とともに去っていった絵師達の帰りを同じ場所で待ち続ける・・・
何となく亡くなった主人の帰りを駅で待ち続けたという伝説の忠犬を彷彿とさせるエピソードである。
だが、先に述べたように不分明なのである、
閲覧者が哀惜の念を抱いているのが『素敵な絵を描く絵師達』なのか、それとも『素敵な絵が投稿される場』なのかが。
前者であれば、何もその場で待つよりも『もしかしたら他のオエビで描いているかもしれない』と消息を探る方が理屈にあっている。
また後者であれば、現在栄華を誇っているオエビの中から自分にあったオエビを探せばよいのだ。
そのどちらにも割り切れず荒地で特定の相手を待つということは、『場』と『人』が不可分な忠犬コミュタイプと言ってよいかもしれない。
・・・と思ったが、荒地にかつての素敵絵師達とは異なる素敵絵師達が新規参入しても閲覧者は満足する、といういくつかの例を見たことがある。
これは、その『場』で美味しい餌をくれる相手であれば誰であろうと構わないという、猫型コミュに他ならないのではないだろうか?

 こうなると疑問が出てくるのである・・・
忠犬は本当に『駅』で『主人』を待っていたのかどうかを。
(蛇足:実は駅前の焼き鳥屋から貰える焼き鳥を待っていたという説があるのだ)

“他人(ひと)に委ねしモノ” 06.12.20 ネタ一覧へ
 時は夜、普段乗り降りしない停留場(駅)。
初めてみる時刻表は、数刻後バス(電車)が到来することを告げている。
・・・だが、なかなか来ない。
ふと胸に沸き起こる『本当に来るのか?』という疑念。
その疑念を払うかのように路線上に姿を現す車体。
だが、自分の前で停車するそれのステップに足を掛けながら、さらなる疑念がその足元から鎌首をもたげる。
『本当に自分の考えている行き先のバス(電車)なのだろうか?
実は乗ったが最後、まったく知らないどこかに連れて行かれてしまうのではないだろうか?』
だが、その疑念自体がある種、願望の裏返しであることに気付き・・・


 この駄文自体は私の実体験に基づくような基づかないようなお話であるが、 この手の『馴染みのない停留場や駅で行き先不明の乗り物が来る』というエピソードは創作においてよく見られる。
代表的なものでは、鬼太郎の幽霊列車やトトロの猫バスなどが挙げられるだろう。
前者は妖怪(鬼太郎)をバカにした会社員二人が駅で電車を待っていると、時刻表にない列車が来てそれに乗った二人が 盛大に懲らしめられるというお話。
後者は夜、雨の中田舎の停留場でバスを待っていると、目当てのバスが来たと思ったら猫バスだったというお話。
どちらも待っている時もしくは乗ってしまった後の漠然とした不安の描写が秀逸である。

 これらを考えていて、ふとあることに気付いた。
この漠然とした不安の発端となっているのは、どれも『公共交通機関』であるということに。
ここから、先の漠然とした不安・疑念を生み出す要因を探ってみようと思う。
『公共交通機関』・・・決められた時刻に乗れば決められた時刻に目的地に降りることができ、 燃料交換やメンテのわずらわしさから無縁でいられる存在。
普段それらの恩恵を受けていると、先の不安の発端となっているとは到底思えないのではないだろうか?
だが、それらの恩恵は翻せば『発車時刻・速度・経路等に自分の意思が反映されない』ということなのだ。
それが何故漠然とした不安に繋がるのかは、電車(バス)に乗った時のことを思い出して欲しい。
予定時刻に間に合うようにと乗車した電車(バス)が事故等で予定時刻より低速度で運行していた時、 電車の中でどんなに走っても電車自体の到着速度には影響しない。
また反対の路線に乗ってしまったとしても、電車の中で逆方向に走ったところで行き先は変わらない。
『このままでは間に合わないor目的地に行けない!でもどうしようもない・・・。』
この言い知れぬ焦りは『状況の決定権が完全に相手に掌握されていて、自分の意思・力では状況の変化に寄与できない』 という無力感から生じるものであろう。
極端な話、運転手がカ○ハメハ大王のような人で『雨が降ったらお休み』だったり、 常に時速30キロをキープしていたり、気まぐれで行き先が『メイ』に変わったりしても、待っているor乗ってしまった人はどうしようもないわけだ。
・・・そういえば、学生の頃の帰りのバスは『雪が多めに降ったらお休み』だったなぁ(遠い目)

 規則どおりに動くことが当然であるものほどイレギュラー時の反動が大きい。
それが公共交通機関を猫バスや幽霊列車にしてしまう原因なのかもしれない
・・・と構想していた傍から朝の電車が10分以上遅延したのがオチ。

【蛇足】
論を飛躍させれば、今回の話は『ロウ(法):他人の定めた法に従う(わざるをえない)側』と 『カオス(混沌):自らの意思・力で道を切り開く(かざるを得ない)側』における『ロウ』の問題点 『イレギュラーなロウほど始末に負えない』ともいえる。
世間的には『カオス』より『ロウ』が安定していると捉える傾向にあるが、一概にそうともいえないかも?ということで。
カオス=自サイトオエビ、自家用車通勤、自営業者
ロウ=大規模オエビ、電車(バス)通勤、被雇用者
に当てはめてみると別の面が見えてきたり見えてこなかったりするかもしれない。

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