“マリア様がみてる”についての考察 | 04.3/9 | メニューへ |
<最初に> 最近、サブカル方面に疎くなったので、その筋で話題になっているらしいものを字面だけで想像してみようと思う。 お題は「マリア様がみてる」である。予想が当たっているかどうかの判断は、読んでいる人に任せるものとする。 また決して元ネタを貶める意図はないのでご理解願いたい。 <序論> 「ダメよ。人がみてるわ。」 これは、安っぽいメロドラマの脚本家によって手垢が付くほど用いられている台詞である。 この「人がみてる」という言葉は、誰もが持つ衆人環視への羞恥心に訴えかけるものとして効果的なものである。 では、人が見ていない時の行動を律する言葉とは何であろうか? 古来より、日本ではそのような時に「お天道様がみてる」という言葉を用いる。 これは『人に隠れて悪事を働いても、超越的な存在(お天道様=天照大神)がそれを見ているためいつか裁きが 下る。だから人の道から外れるな』ということなのだろう。(多分) このお天道様とは、心理学的にいえば超自我のことを指すと考えられる。超自我とは社会通念上不適切なことへの 自己抑制というものである。この自己抑制は『己自身を律するは己自身!』という強い意志なくしては機能しない。 すなわち『ありのままの自分を太陽に晒しても恥じることがない漢として生きよ!』という言葉なのである。 現在の子供に対するダメなしかり方の代名詞である「お店の人に怒られるよ」という 善悪判断を他人に委ねさせるものとは一線を画すものなのだ。 (閑話休題) 私は宗教にはまったく縁がないが、朝はいつも宗教ラジオで目覚める。深い意味はない。ただの目覚ましなのだ。 そのラジオの中で牧師様がよくおっしゃるのが「神様がみてる」という言葉である。 宗教ラジオなんか聞かねぇよという人は映画などで牧師様が暴漢に襲われるシーンを思い出してほしい。 大概 牧師様は「神様がみてる」といって説得しているはずだ。(その後 殴られるが) この「神様がみてる」という言葉は、相手に己自身の行動に対して自問自答させるために 用いられるものである。(だが、映画の暴漢などは自分ルールで生きてるので恥じることがないのだ。) ちなみに善行をしたのに報われない場合、牧師様は「神様はいつも見守っている」とおっしゃるようである。 <本題> さて、お題の「マリア様がみてる」についてだが、これも先の例に類するものだと考えられる。 すなわち相手に己自身の行動に対して自問自答させるための警句なのだろう。 しかし気になることがある。 それは何故『マリア様』なのかである。私はここにこの言葉の持つ意味が隠されているように思われてならない。 ・・・そうかわかった!『マリア様』の特異性といえば、「聖母」そして「処女懐妊」だ。 その「マリア様」にみられて恥ずべきこと、それは性にまつわることなのではなかろうか? つまりこの言葉は、現代の性風俗の乱れを戒めるための言葉だったんだ!!間違いない! 多分 文部科学省等が現在の若年層の売買春に対する警句としてこれを流行らせようとしているのだ。 どうやらヤツラも本気らしく、本屋などで啓発用のポスターを多く見ることができる。 若者受けしようと今風の少女ちっくなイラストで攻めるあたり侮れないものがあるといえよう。 <使用例> 「ねえちゃん、5万でどう?」→「マリア様がみてますよ!」 |
“桜の木の下には・・・”を考察する | 04.4/3 | ネタ一覧へ |
“「桜の木の下には死体が埋まっている」” 日本の春の風物詩ともいえる桜・・・淡いピンク色の花をつけるその木を見るたびに 私の脳裏に浮かぶのは、冒頭の言葉である。 春といえば入学、入社等新生活の始まり。 だがその象徴である桜に対して、そんなイメージを抱いてしまってはとても不謹慎だとは思う。 これでは、せっかくの花見の名所も、たちまち死者をカウントする陰惨な場に早代わりだ。 「ああ、この五条川河畔には四千人近くもの先人が埋まっているのか」 などと考えてしまうと花見気分は台無し、むしろ桜を墓標に見立てた墓参りムードに突入してしまう。 誰だ!?誰なんだ!?こんな不謹慎なイメージを私に植え付けたのは!? その容疑者を、文学小説に詳しい人ならご存知かもしれない。 昭和初期に若くして亡くなった小説家『梶井基次郎』である。 ・・・と言いたいところだが、私は彼の小説をちゃんと読んだことはないので直接的な犯人ではない。 そもそも“桜の木の下・・・”が彼のオリジナルだとしたら、各地に残っている悲恋桜系の民話の説明がつかない。 えっ、悲恋桜を知らないとな? オトコに振られた若い娘が桜の木の下で自殺、後に桜と同化して、 そのオトコが別の女とチョメチョメしてる時に血の色をした桜の花びらで取り殺すとか、その手の話である。 (まぁ、これは伝承の伝わり方とかその手の話なんで詳しくは割愛させていただく。) それ以外にも桜に対する“死”のイメージは枚挙に暇がない。 同期の桜(歌詞)、サクラチル(受験生にとっての死)、特攻機「桜花」、 散華(桜の花が散る様=死)、桜田門外の変・・・は違うか。 ともかく、どうやら古来より日本人は桜に対して、その美しさを愛でると同時に複雑な感情も抱いていたようである。 ああ、よかった。自分だけが変なのかと思った。少し救われた気分だ。 そもそも、桜の何が“死”と結びつくのか? ・葉をつける前に花だけ一気に散ってしまうから(ヤマザクラはちがうけど)。 ・花の色が血をイメージさせる だが、それだけでは桜=死のイメージの説明にはなるが、木の下に死体があるという発想のルーツとはいえない。 死体が埋まっているのは地面である。となると桜そのものより、その地面に発想のルーツがあるはずである。 では、実際に桜の木の下を見てみよう。何かに気付く筈だ。 そう、桜の木の下には雑草がほとんど生えていないのだ!(違ったらゴメソ) 先人はこの光景を見て『桜の木の下には何かよからぬものが埋まっているのではないか?』と考えたのだろうか? 尤も、これは植物学的にいえば桜の根が放出する防御物質によるアレロパシー(忌地)効果という奴なんだろうけど。 (実際は桜の花に防御物質であるクマリンが多く含まれているそうだ。花の色もそれに起因するらしい。) ・・・などと考えていたらアラマタ先生の本に、どこかの住職が桜の樹勢回復に骨灰を使用しているという話が 書いてあったのを思い出した。そういや、何であんな本読んだんだろ?まぁ、いいか。 骨灰とは即ち人や動物を荼毘に付した際に出る灰のことである。PとCaがたっぷり入ってそうだ。 その住職の話では、樹勢回復のために骨灰を桜の根元の土と混ぜ合わせるのだそうだ。 すると衰弱していた桜が再び、花をつけるようになる。まるで死者の命を吸い取ったかのように・・・ それは“骨灰”=“死体”を桜の木の下に埋めるという発想そのものである。 気味が悪いと思ってはいけない。埋められた骨灰(死体)の生命は桜の木として引き継がれていくのだ。 『死は終わりではなく、始まりだ』などと のたまう輪廻転生的発想の真にお手本というべき事例だといえる。 まぁ、これも骨灰に含まれるP、Caとかその他諸々の効果によるアレロパシーの緩和とかなんだろうけど。 (アレロパシーは、他を拒絶する毒により自らの根もダメージを負うことがあるので) さて、この『骨灰による桜の樹勢回復』・・・どこかで聞いた話ではないだろうか? そう、昔話の『花咲かじいさん』である。 意地悪じいさんに殺されたポチの灰を、枯れた桜に振り掛けて再生するという件は、まさにそのものといえる。 昔話には、当時の生活習慣や知恵を物語という形で後世に伝えるという側面がある。 つまり『骨灰による桜の樹勢回復』という技術も、この昔話ができた当時、実際に行われていたことかもしれない。 ということは、現在の桜の名所の中には、その木の下に死体が埋まっているものもあるということになるのだ。 さて、このお話を信じるも信じないもあなた次第です。 |
“間違ったロリコンの定義”に物申す | 04.5/2 | ネタ一覧へ |
近年、増加の一途をたどる幼女への性犯罪。 その度に行われる恒例行事はワイドショーなどにおける、訳知り顔のコメンテーターによる 「犯人はロリコンだった!」の一点張りである。 だが、私はこれに物申したい。非常に物申したいのである。 何を物申したいかというと、その手の趣向をお持ちの方の意見を聞けとかそういうことではなく、 “犯人はロリコンではない”というまさにソレなのだ。 では、犯人は一体何なのか? 『それを知っているものは幸せである。 それを表す適切な言葉を、人は本来持ち合わせて生まれてきたにもかかわらず、 思い出す術をなくしてしまったから・・・』(若本規夫の声) 冗談はさておき、犯人たちは皆“ぺドファイル”なのである。 “ペドファイル(以下ペド)”とは英語で『幼児性愛者』のことを指すものである。 つまり、ちっちゃい子に対して人並みならぬ劣情を抱いてしまう方々を指す言葉なのである。 対してロリコンは、出典である「ロリータ」が近所に住む15〜17歳くらいの少女に劣情を抱く話なので、 しいていえば『少女性愛者』のことを指す言葉なのである。 (もっともロリータは年の割りに大人びた少女だったので、どっちにしても現在の用法には当てはまらないが) 要するに私が物申したいのは、適切に表現する言葉がありながら、なぜその言葉を用いず十羽一絡げにするのか ということである。事件の本質をより理解しにくくなるにもかかわらず・・・。 まぁ、その理由は判らないこともない。 人は理解できないもの、したくないものをまとめて扱うことで、その存在を心のウィルス定義に加えるのだ。 次からそれに関する情報が来てもシャットダウンできるように・・・。 だが、今後も増えるであろう(増えないに越したことはないが)この手の事件のために、 せめてここを読んだ人位は“ロリコン”と“ペド”の違いを認識してもらおうと思う。 さて、この二つを分けるものはなんであろうか? それは対象である少女が第二次性徴前ならペド、途上ならロリコンということである。 えっ、わかりにくい? 前も後ろもわからんような娘が好みなのが、ペド。 少しふくらみかけた娘が好みなのが、ロリコンってことである。 ・・・ダメだ。とても頭が悪そうな回答。第一 胸についてしか言及していないじゃないか! そういえば、少女の成長(性徴)を蝶に例えることがあるなぁ。それでいこう! 女性における第二次性徴とは、蝶が幼虫から蛹、そして美しい蝶へと変態(メタモルフォーゼ)するように、 少女から大人へと脱皮するための通過事例である。 蝶の発生段階に例えるなら、蛹になる付近までの幼虫が好きなのが、ペド。 羽化寸前で黒ずむまでの蛹が好きなのが、ロリコンである。 これで理解して頂けただろうか? ちなみにこの発想ならば、ある理解不能なその手の事例に一つの回答が生まれる可能性がある。 その事例とは、幼女を誘拐して自室に何年も監禁するというなんとも奇妙な事件である。 「なんのために?」―育成ギャルゲーのやりすぎ等諸説あるが、現在までその明確な見解は出ていないと思う。 なぜなら、これを対人間における心理だけで理解する自体にそもそも無理があるものだからだ。 そこでこの事件を、子供の頃の虫遊びの視点で捉えてみることとする。 虫が嫌いな人には理解できないかもしれないが、虫好きな人は野山で何かの幼虫を見つけると、 ソレがどんな成虫になるのか、飼って確かめてみたくなるものなのだ。 頑張って飼育して、最終的に綺麗な蝶が大空を羽ばたく様を見ると、えもいわれぬ達成感が得られる。 (まぁ、時々羽化寸前の蛹から数匹の蛆が出てきてトラウマになることもあるが・・・。) これと同じことを自室という飼育ケースで行おうとするのが、先の幼女監禁事件の真実であると私は考える。 ただ、その不完全な成長を遂げた蝶は、飼育ケースから解放されても 大空を羽ばたくことができないであろうことが・・・悲しいわけだが。 |
“ごんぎつねと火縄銃” | 04.5/13 | ネタ一覧へ |
皆さんは、『ごんぎつね』を知っているだろうか?多分、小学生時代に一度は触れていることと思う。 そして、感じたはずだ、あのラストのやるせなさを・・・。 少し前のことだが、私は、急にあのやるせなさにノスタルジーを感じて、 小学生時代の国語の教科書を遺跡から発掘してみた。 色褪せた表紙・・・すべてが懐かしかった。 ページをめくる。すると件の『ごんぎつね』がその姿を現した。 少しひらがなが多いと感じるのは、私が以前より大人になったからなのか。 次々と開かれるページに呼応して甦る記憶、そして、最後のシーン・・・。 ページを開く、するとそこには当時の自分が書いたであろう、走り書きがあった。 「農民が火縄銃なんかもってるわけねぇ〜じゃないか!」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 どうやら当時の私は、『ごんぎつね』のラストをありきたりのものとして粗探しをしていたようである。 むかつくガキだな、って自分か。 こいつは困った。この粗を解決しない限り、今後『ごんぎつね』で感動できないではないか! これは小学生の自分との対決である。だが、勝算はある。奴の時代にはないもの・・・それはネットだ! ・・・というとあっさり疑問は解決してしまうので、まずは自力で『ごんぎつね』を検証してみよう。 ごんぎつねのストーリー概略は以下のとおりである。 「兵十がイベントアイテム“うなぎ”を手に入れようとしていたら ごんの邪魔に遭い、母の死亡フラグが立ったので母は死んだ。 兵十は、ごんを恨んで、いつかシメようとおもいました。 ごんは母の死亡保障で、兵十のところに物品を運んだが 等価交換の原則に反していたため、兵十に火縄銃で撃たれて、死んだ。」 ん?今頭の中にデンパが・・・。まぁ、いい。 とにかく ごんは、農民だと推測される兵十のもつ火縄銃によって命を落とすのである。 その時代背景は、火縄銃が存在するということから、種子島に鉄砲が伝来した1543年以降、 「おしろ」「との様」という言葉から明治以前だと推測される。 そして、作品の雰囲気から平穏、ある意味での停滞感が感じられることより、 江戸時代それも中期以降が舞台なのではないだろうか? この「士農工商」がはっきりしていた時代に農民?の兵十が自前の火縄銃を持てたのだろうか? 正解はCMのあと・・・ この「士農工商」がはっきりしていた時代に農民?の兵十が自前の火縄銃を持てたのだろうか? 実は持てたようである。なんでも「江戸時代17世紀の新田開発等に際しては、農民の間に広く普及し、 大名所持量の3倍もの量が農村に存在したという説もある」そうなんだと。 つまり、『ごんぎつね』の時代、農村では一家に一丁火縄銃があったかもしれないわけだ。 こいつは、とんだフロンティアスピリッツですな。自分の身は自分で守れってか? こうなってくると、一般的に搾取の対象として描かれがちな江戸時代の農民も、 実は自衛のために侵入者を射殺していた可能性も否定できなくなるのだ。 『ごんぎつね』・・・それは遥かなるフロンティアスピリッツが行き過ぎたがために 起こってしまった悲劇だったのかも・・・知れません。 |
“金で貸せる勇気” | 04.5/23 | ネタ一覧へ |
♪勇〜気を 金で貸すの! これは 十年以上前に流行ったあるアニメの主題歌のワンフレーズである。 私は このアニメはろくに見ていなかったが この曲は好きだった。 だが、このフレーズを聴くたびに なんて子供向けらしくない歌詞だろうと首をひねっていた。 なにせ 金で勇気を貸すのである。むじん○んやアイ○ルでも そこまではサポートしていない。 ましてや 何でも貸してくれるという近藤○興(ローカル?)でも扱ってはいないだろう。 では、勇気を金で貸すとは何を意味しているのか検証してみたい。 まず勇気とは「物事を恐れない心」である。 そして、それは「この本から勇気を貰った」「あなたにも勇気をあげたい」という表現から受け渡しが可能なものらしい。 またベーブ・ルースがホームランで少年に勇気を与えたエピソードもその例だろう。 だが、勇気を貸し借りするというのはあまり聞かない。 その理由は、勇気が無形のもので、返すことが出来ないからだと思う。 そのため勇気の貸し借りは、現物への投影を余儀なくされているのだ。 例えば、ヒーロー物などでよくあるシュチュエーションで解説してみよう。 主人公Aの留守中に強敵Bが現れる。 普段は頼りない仲間Cが善戦するもBに敗北し、戦闘不能になったときにAが到着。 そして、Bとの戦いに臨むAが、落ちているCの所持品を手にとり「お前の勇気、借りるぜ」という場面がある。 この場合、Aは借りたCの所持品にCの勇気を投影させているため、それを手にしている間Aの勇気はCの勇気分増加している。 そして、戦闘後Cに所持品を返した時にAの勇気は初期値に戻るのである。 つまり勇気を投影するものの使用返却をもって、勇気という無形のものの貸し借りは可能となるのである。 このことから、勇気を金で貸すという言葉の意味するところが推測できる。 それは、手にすることで物事を恐れない心を得られるものを金銭でレンタルすることだといえる。 それがボディガードでもいいし、防弾チョッキでも、要はその人を一時的に恐怖から守ってくれるものでいいのだ。 ・・・となると、先のアニメは金で誰かを守る危険代行業の人たちの話なのだろうか? 幸い、その謎を解決すべく?そのアニメが再放送されていたので見てみた。 ・・・・・・・・歌詞を聞き間違えていたらしい。 |
田園と甲子園って字面が似てない? | 04.6/12 | ネタ一覧へ |
この間、水田で代掻きを手伝った。大変だった。おわり。 ・・・では話にならないので、この時に思ったことをネタにしようと思う。 「代掻き」とは、田植え前に鋤などを用いて水田の土を整えることである。 そのため、長靴を履いて直接水田内に入ることになるのだが、これがまた動きづらいのなんの。 例えるなら、足に水田で水死した人(いるのか?)の霊の手が無数に絡みついているというか。 この世の全てのしがらみが具現化しているというかなんというか。 あれは水田ではなく、一歩進む毎に体力が奪われる毒の沼地だといっていいだろう。 この足腰にくる、農耕器具が人力から機械に取って代わった現代では考えられない作業をしながら 私は考えたのだ。「ああ、野球漫画に出てくる農林高校のチームが足腰強いのもわかるなぁ」と。 野球漫画の相手チームというのは往々にして類型的である。 情報系の高校なら、コンピューターによるデータ解析。 不良系の高校なら、反則スレスレのラフプレー。 北国の高校なら、冬の実践練習不足と基礎体力の充実。 そして、農林高校なら、足腰の強さによる投手力と打撃という具合である。 この足腰の強さというものは、どんなスポーツにおいても重要なものである。 近年の野球選手に故障が多いのも、基礎的な足腰の強さがないがために、 ヒジや肩に負担がかかる投げ方、打ち方をしていることが原因のひとつだと思う。 その足腰の強さを農林高校の選手たちは毎日の実習の中で育んでいるのである。 女の子とイチャイチャしているような主人公たちのチームに負けるはずが無い! だが、彼らは常に負ける。お話の都合といってはそれまでだが・・・。 彼らは、日々の実習に時間をとられ、チームプレーの練習が不足していたのだ。 なんということだろう。彼らの足腰を育んだ実習がかえって仇になろうとは・・・。 彼らが勝つためには、彼らに有利な舞台である、雨中のぬかるんだ球場での試合が望ましい。 その状況では女の子とイチャイチャしているような足腰の主人公チームでは歯が立たないはずだ。 (女の子とイチャイチャしないような主人公チームには負けるが・・・) ただし、気をつけなければいけないことがある。それはグラウンド復旧用の砂切れによるドローだ。 泥試合でドローとなってはいただけないだろうから。(6月9日のヤ−横戦) おあとがよろしくないようで。 |
オエビ上での荒らし考察 | 04.7/11 | ネタ一覧へ |
【序論】 6月4日、深夜。 はじめてお絵かき掲示板(以下オエビ)に手を出した。 HNは漂着者。ググって行き着いたのでその名にした。・・・安易である。 (その板以外では漂流者。これも安易であるといえる。) そして、現在に至るまで様々なオエビを見た。時々練習用掲示板に書き込みながら・・・。 その漂流の軌跡はこちらで見れるので詳しくは割愛するが、 その中でひとつ気付いたことがあるので、それを考察してみたいと思う。 【本題】 あなたは掲示板における「荒らし」というものをご存知だろうか? 私はネット歴が浅いため、それほど多くの事例を見てきたわけではないが、 一般的には、その掲示板の空気、雰囲気を乱す投稿のことを指す。 だが、一概に場の空気を乱すことが悪いわけではない。 なぜなら適度に新しい風が空気を乱して換気が行われないと 場の空気が澱んでしまい、停滞感と排他的思考の虜囚となってしまうからだ。 そうなると活発な議論や上昇志向が失われ、掲示板は衰退の一途をたどるだろう。 だが、余りに空気にそぐわない投稿は場の空気をかき乱すだけで、換気役にはなりえない。 それどころか今まで形成してきた場の匂いを悪臭に変化させてしまう可能性すらある。 ゆえに掲示板における「荒らし」は、その掲示板の空気、雰囲気を悪循環させる投稿だと定義する。 普通「荒らし」的な投稿はどんな掲示板においてもほぼ「荒らし」となりうる。 だが、オエビにおいてはその原理が当てはまるとは言い切れない。 あるオエビにおいては荒らしと思われるような絵が、別のオエビにおいては一般的だったりするのだ。 具体的にいえば、ウマウマな人が集うオエビにガキの落書きレベルの絵やテキストのみ絵を出せば、 間違いなく「荒らし」決定、はい!削除となる。 逆にガキの落書きレベルのオエビ(こういうのは管理人も小学生か中学生なんだろうか?)に 激ウマな絵を出せば、住人は自分たちの秘密基地を大人に荒らされた気分になる(かもしれない)。 もしくはメダカの群れの中にブラックバスを放ったような状態になるだろう。 つまり、オエビにおける「荒らし」は相対的なものでしかないのだ。 なぜ、「荒らし」が相対的価値基準において定義されるのか? これを詳しく解説するにはオエビにおけるコロニー形成を考察する必要がある。 オエビにおけるコロニー形成とは、要するにどんな人がどのように集まるのかである。 ここでひとつシミュレーションをしてみる。画力は自分基準の相対的なものであるとする。 あなたの画力は最大値100中の30である。 ある時、管理人さんの画力80のオエビが立ち上がった。 あなたがこの管理人さんの知り合いならば書き込むかもしれないが、 そうでなかった場合、あまりにも上手い管理人の絵に嘆息してしり込みしてしまうのではないか? 往々にして人は、相手とあまりに差がありすぎる場合、比較されぬよう同一の場にいたくないものだ。 となると、このオエビに書き込む人は画力80±αの人たちとなる。 そして、画力80より低い人でも、上手い人の中に飛び込むような人間は上昇志向が高く、上達も早い。 こうして平均画力80以上のオエビコロニーが形成される。要するに上手い人同士で集まったわけだ。 もし、あなたが全く成長せず画力30のまま、このオエビに書き込めば 周りはあなたを「荒らし」扱いするかもしれないので書き込む気が起きない。 ここで管理人さんの画力50のオエビが立ち上がった。 あなたはこのレベルなら何とかなると思い、書き込んだとする。 ここである程度評価されれば、互いに切磋琢磨が図られるだろう。 多分あなたの画力は50に近似し、平均画力50のそこそこのオエビコロニーが形成されるだろう。 だが、このオエビでもし評価されなかったとする。 あなたは管理人の画力10のオエビを見つけて、ここならば自分も上手いだろうと書き込んだ。 するとあなたは画力10付近の住人にかなり評価された。こうなるとおしまいである。 あなたは現在の画力で満足してしまうかもしれない。なぜならどんなヘボ絵でも評価されてしまうから。 その結果、平均画力10の落書きオエビコロニーが形成されるだろう。 【結論】 かなり偏見が入っているが、大体こんな感じでオエビコロニー形成が行われるのではないだろうか? この状態で形成されたオエビにおいて「荒らし」とは、なんであろうか? それは、そのオエビの平均画力を大きく変化させるものである、それが上方修正でも下方修正でも。 つまりこれがオエビの「荒らし」を相対的なものにしている所以なのだろう。 ということは平均画力50のオエビがもっとも懐が広く、荒らしに強いともいえる。 さて、あなたが「荒らし」にならないためにはどうすればいいか? それはオエビの空気と平均画力を読み取れる目を持つことである。諸君らの健闘を祈る! |
“脳内ブラウザ ver.4.0” | 04.7/17 | ネタ一覧へ |
【序論1】 あなたは、自分の発言が他人に意図しない方向に解釈されたり、 また他人の発言の意図を把握しきれず、曲解してしまったということはないだろうか? これは、発言が脳内で誤変換されてしまうことによるものである。 そして、それは相手と直接相対している時より、電話やメール等間接的接触の際におこりやすい。 それはなぜか?早い話、互いの情報量の差であるといえる。 直接相対しているときは、相手の表情、間、声の大きさ等情報量が多い。 そのため、多少知らない言葉が出てきても、ニュアンスで正解に近似した内容を解釈することが可能である。 しかし、声や文字だけでは情報量が少ないため、各々の解釈に大きな差が生まれやすく、 単純に言葉そのものを知らなければ発言の意味を理解することもできない。 一つ例を挙げてみよう。 「ドラ○エって、FFより“HP”が少ないね」 あなたはこの文中の“HP”をどのように解釈しただろうか? あなたにRPGの知識があれば、「HP=体力が少ない」と解釈するかもしれない。 また、ネットの知識があれば、「HP=ホームページが少ない」と解釈するかもしれない。 そのどちらの知識もなければ、解釈のしようもなく、あなたの目には意味不明の文と映るかもしれない。 このように、文字の解釈は人それぞれであり、その解釈次第で文の意図そのものが変化してしまうことをお解かりいただけただろうか? 【序論2】 あなたは、家庭にあるパソコンで見ていたHPを職場や学校で見ると、 フォントや表示が異なったり、下手をすると何も表示されなかったという経験をお持ちだろうか? その原因は、HTMLの知識をお持ちならば、お解かりだろう。 そう、ブラウザごとのHTMLタグのサポートの違いによる誤変換、表示不能状態によるものだ。 この文章も序論1の例と同様、人ごとに解釈のバラつきがありそうなので、一応解説を。 ただし、私はネット初心者なので専門用語に誤用があるかもしれないがあしからず。 あなたが見ているこのページ、私は付属のメモ帳で「この字はこのサイズ、このフォント、この色でこの位置に」などを 指示するHTMLタグを用いて書いて・・・ダメだ。自分が完璧に理解していないことを人に説明なんてできやしない。 (私にも)わかりやすく表現するなら、 「HPのデータは暗号によって書かれ、そのページを見ているパソコンの中にあるブラウザ(暗号解読機)によって 今あなたが見ている状態に解読されている。」 「そして、その暗号解読機には様々な種類があり、解読できる暗号とできない暗号がある。」 「解読できない暗号は本来の意味とは異なって表示されたり、解読不能と表示される。」ということである、多分。 このため、様々なブラウザを持つ人が訪れる可能性があり、またそうでなくては意味の無い公官庁のHPなどでは、 できるだけ簡単な暗号を用いることが望ましいとされている。要はバリアフリー的発想なわけだ。 だが、その簡単な暗号では凝った表現ができず、地味な印象のHPになってしまうことも事実である。 (ちなみに、このHPもバリアフリー的な発想に立って作成されているので地味なデザインなのである。大嘘) そのため、企業のHPなどイメージ優先なものでは複雑な暗号を用いることで派手なデザインを実現している。 その結果、その暗号を解読できるブラウザをお持ちの人には強烈な印象を与えることができる一方、 解読できないブラウザの人では、その企業の情報に触れることさえできなくなっている。 これは、選ばれた人のみが情報を取得可能であるため、先のバリアフリー的発想の真逆に位置している。 要するに、HPとは、誰でも閲覧可能なように一般化すれば陳腐になり、 限られた人のみが閲覧できるように特殊化すれば高尚なことも可能だが、排他的になりがちだといえる。 【本題】 序論1と序論2から、私は人の脳内にもパソコン同様ブラウザがあり、 外界からの情報をそのブラウザの機能を用いて解読していると考える。 これを「脳内ブラウザ」と名付ける。そう勝手に名付ける。名付けさせて。おながいします。 この「脳内ブラウザ」 当たり前のことだが個体差、年齢差が激しいものである。 にもかかわらず、存外バリアフリーは図られていないように思う。 だが、それはしかたのないことなのだ、世の中が円滑に回るためには。 例えば、学会などで小学生でも理解できるような言葉しか用いられなかったら、議論が遅々として進まない。 また、小学校の先生が学会レベルの専門用語で授業を行ったら、速攻クビになるだろう。 このようにその相手のブラウザが推測できる状況においてはそれに合わせた暗号を用いればよいのだ。 だが、ネットのように相手の年齢層が不明、まちまちである場合はどうすればよいのか? それは・・・アレ? その点について私の脳内ブラウザでは解読できないようである。画像データも、赤い×が表示されている。 仕方が無い。メーカーに問い合わせてバージョンアップさせてもらうとするか。 私:「trrrr・・・すいません。脳内ブラウザの型が古くなったのでバージョンアップしたいんですけど?」 メ:「お客様の脳内ブラウザの種類をお教え願いますか?」 私:「MSX−ぴゅう太−X68000ですけど・・・。」 メ:「申し訳ございません。お客様の脳内ブラウザは、現在サポート対象外となっております。」 私:「ガビーン!」 どんとはれ(『この話はこれでおしまい』という意味の東北弁) |
“ピノキオは幸せになれただろうか?” | 04.8/7 | ネタ一覧へ |
「・・・だが、ピノキオは人間になって ほんとうに幸せになれたのだろうか・・・・・・?」 これは、石ノ森章太郎「人造人間キカイダー」のラストシーンのフレーズである。 なんともペーソスに富んだ言葉ではないか。そして、限りなく深い。深すぎる。マリアナ海溝よりも深い。 ・・・いきなり読んでる人 ほったらかしなのも何なので、一応解説を。 「人造人間キカイダー」は「ピノキオ」をモチーフに描かれた作品である。 光明寺博士が死んだ息子そっくりに作り上げたロボット「キカイダー」=「ジロー」は、他の光明寺製ロボットと異なり、 いい命令と悪い命令を判断でき、悪い命令を聞かないようにする良心回路を搭載していた。 だが、彼のもつ良心回路は不完全であった!! ・・・ってイカン。イカン。キカイダーはあくまで話の導入(つかみ)なので、とりあえず本題に。 「ピノキオ」は現在においても、幼児育成に適したお話として、 絵本、ビデオ、人形劇等ひっぱりダコなコンテンツであるため、誰でも一度は聞かされたことがあるだろう。 一応簡単に解説をすると、主人公ピノキオは、ゼベットじいさんによって作られた木人形である。 彼は妖精に、嘘をつくと鼻が伸びるという余計な機能を追加されるものの、 ゼベットじいさんの言うことを守っていい子にしていれば人間になれるといわれる。 そして最終的に(はしょり過ぎ)人間となって、じいさんと幸せに暮らすのだ。 つまり、めでたし、めでたし、なのである。だから前述のような疑問を呈するのは無粋だといえよう。 どの位無粋かというと、“「桃太郎」は鬼達に都の財宝を奪わせて、 ソレが一ヶ所に集中したところをかっさらう強盗団であり、首謀者は爺さん達である。 ソレは、最終的に都の財宝を着服していることから明らかである。”といってしまう位無粋である。・・・ってごんぎつねの時といい、無粋の塊みたいな存在だな、私。 だがある時、甥の幼児育成用ビデオ「ピノキオ」を見ていて、私は思ってしまったのだ。 「・・・ピノキオは人間になって、ほんとうに幸せになれたのだろうか・・・・・・?」と。 何故そう思ってしまったのか。その理由は簡単だ。 それは私が『人の親ではないから』だ。 ・・・とまた結論が先にきてしまった。順を追って説明しよう。 私はピノキオというお話を、極めて人間らしくないことを遵守した結果、人間にさせられる不条理な話だと考える。 その見方を無粋の一言で片付けるのは簡単だが、時に物事を逆の側面から捉えると見えてくる真実もあるのだ。 では、ひねくれ視点によるピノキオ解釈スタート! ピノキオが人間になるためにはいい子であり続けねばならず、その善悪判断の基準はじいさんのソレに委ねられている。 そして、その善悪基準から逸れた行動をとると、鼻が伸びるという罰が与えられる。 そのため、ピノキオはじいさんのいうことは何でも素直に聞いてきた。いや聞かざるを得なかった。 そして、それは家庭という小さな社会、じいさんの庇護の下での社会においての全てだったのだ。 そうしてさえいれば、ピノキオは何不自由なく日々を暮らしていけたのだから・・・。 だが、そんなピノキオが「人間になる」=「じいさんの庇護の及ばない社会」に出た時どうなるであろうか。 それは社会にとっても、ピノキオにとっても決して幸せな結果を生むことはないだろう。 人間とは自己判断ができて、はじめて一人前だと認められる。 だが、ピノキオはその自己判断を自らの保護者により阻害されたまま人間になった。 これでは、社会で通用するとは到底思えない。 例えば、上司の命令を、親の教えと異なるという理由で無視する人間が社会において役に立つだろうか? その親の教えというものが絶対的に正しいなどありえないのにもかかわらずだ。 ・・・となると、彼は社会に適応できないまま無為の時を過ごすか、 社会に適応するために、じいさんの教えと社会規範との狭間でもがき続けるかの選択を迫られることになる。 これでも「ピノキオは幸せに暮らしました」といえるのだろうか? そして、そんな話が、何故子育て用に推薦されるのか? それは「ピノキオ」が親の視点から描かれた都合のよいおとぎ話だからであろう。 いってみれば子供は親のいうとおりにしていればよいという前時代的な親の支配願望の表れだといえる。 または、世界が「獣の国」「人の国」「神の国」の三つで構成され、子供は最初「獣の国」に属し、 大人になるにつれて「人の国」の住人となるという西洋的な世界感のもたらした産物であるともいえる。 東洋的思想でいえば、荀子の「性悪説」(人は生まれもって悪または純粋無垢な存在であり、成長に従い善になる・・・だったかな?)に基づく発想だろうか。 ともかく、それ故に人の親でもなく、かといって幼児でもない私にはその根底に流れる親のエゴが鼻についたのであろう。 最後に、出だしの一文をこう結ぶことで結論としたい。 「いや、ピノキオの真の不幸は、人間になったその時にはじまるのだ・・・。」と。 |
“型通りの血液型論”ってほんと? | 04.8/22 | ネタ一覧へ |
先日、人生二回目の献血を行った。採取量は400cc。血液型は「O型」として。 だが、一回目の献血を行うまでの人生、私は「B型」として過ごしてきた。 つまり、私は献血というイベントを経て血液型がまるっきり変わってしまったのである。 これは一体どうしたことか? そう、実をいうと私は成長過程で血液型が変化する特異体質だったんだ! Ω ΩΩ<なんだってー!? 『その症例の名は「変母黒瓶(へもぐろびん)」といい、発症確率は100万人に一人である。 それを発見した医師によると、大怪我を負った息子に輸血を申し出た母がいたそうである。 母によると息子の血液型は自分と同じであるそうなので、医師は輸血が可能であると判断した。 だが、念のため検査用にと母の血液と息子の血液を保存瓶の中で混ぜまわせたところ、なんと凝固して黒く変色してしまったのである。 つまり息子の血液型がまるで生みの母親が変わってしまったかのように変化してしまったのである。 別の輸血によりなんとか息子は一命を取り留めたが、医師はこの事例を研究することを心に誓った。 そして、この症例を先の事例から「変母黒瓶(へもぐろびん)」と名付けたのである。 現在、血液中に含まれる酸素を運ぶタンパク質のことを「ヘモグロビン」と呼ぶのはこの事例が発端であることはいうまでもない。 (民明書房刊「新鮮組血風録」より抜粋)』 ・・・もちろんそんな症例はない。『』内の話を信じた人がいないことを心から願う。 だが、一昔前まではこれに類することがまことしやかに噂されていたのも事実ではある。 「赤ん坊のときの血液型と成長したときの血液型が違う人がいる」と。 だが、この原因は、昔は生まれてすぐの子供の血液型を検査する時、母親の血液が付着している状態で検査していたため 母親の血液型と子供の血液型が異なる時に、母親側の結果が出たことによるものだというのが定説である。 私の身に起こったことも、これと同様のことであろうか?実はもっと簡単な心理的陥穽だったのだ。 身内の産婦人科医によると親が希望しないかぎり、乳児の血液型検査は行わないらしい。 詳しくは知らないが、血液型を調べるのは義務ではないということだ。 となると子供の血液型はどのようにして決めるのか?それは両親の血液型からの推測ということになる。 私の場合、父母、兄ともにB型であったため、必然的にB型ということになってしまったらしい。 その後、大きな怪我もせずに成長してしまったため、献血をするまでB型として生きてきたわけである。 (もっとも生物の実験で血液型検査をした際、限りなくO型に近い結果が出たので、自分の血液型に疑念がなかったわけでもないが。) 問題なのは、いままで血液型別性格判断などで、実に自分はB型的な人間だなと思ってきたのだが、それが嘘であったことである。 これは血液型性格判断など信用に値しないことの証左であるといえよう。 そもそも人間を血液型による4パターンに類型化すること自体チャンチャラおかしいのだ。 皆さんもご自分の血液型が本当に正しいと胸を張って言えますか? もしかしたらあなたの両親いやさらに上の祖父母の思い込みで間違った血液型として生きているかもしれません。 何が言いたいのかといいますと、「献血できる人はできるだけ献血した方がいいよ」ってことです。(オイ) |
“偽者、アラワル!” | 04.9/1 | ネタ一覧へ |
『偽者・・・バッタもの、パチもん。』 偽者とは、その対象となる相手になりすますことで、 対象の持っている権威、イメージ、知名度を利用するものである。 本質的には許されざる卑劣な行為である。だが、偽者とは一種、有名税的な側面も持っている。 例えば有名ブランドバックの偽者しかり、各種パチりもんが世には溢れているが、 それらに共通するのは本物の知名度が高いということ。 また芸能人においてはその偽者が現れたかどうかがある種のステイタスであることは否定できない。 それは、逆説的にその対象になりすます価値があるということの証明だからである。 だが、やはり偽者といえば、ヒーローの偽者を外すわけにはいかない。 具体的には、ショッカーライダー、ザラブ星人が化けた偽ウルトラマソなどが挙げられる。 彼らは総じて「本物とマフラーの色が違う」、「本物より目つきが悪く、靴の先が反り返っている」など 子供にも分かりやすい特徴がある。それらの特徴が自らが偽者であることを全力でアピールしているのである。 ・・・本末転倒も甚だしいことは確かである。 まぁ、それでも劇中の登場人物はモリモリ騙されて、本物に攻撃を加えちゃったりするのが笑えるのだが。 ホントはどちらが偽者であるか気付いてるのに、 「正義の味方気取りで町を壊しやがって、肝心な時にはお空に逃亡たぁ、虫が良すぎらぁ! こちとら、テメェのせいで今月何枚始末書書かされたと思ってんだ!野郎共やっちまえ!!」 という具合で本物を攻撃しているのかもしれないが・・・。 で、話を本題に戻そう。 遂に私にも偽者が登場した! 有名になった証拠である。・・・んなわきゃ〜ない。 ともかく状況を説明しよう。 私はあるオエビで絵を描かせていただいた。(オエビイラストのその他掲示板作品の月をバックに竜が飛んでる奴) その絵以降、いつものマイ・スタンド「スローリー・ブルース」(こちら参照)発動により誰の絵も存在しなかった。 だが、最後に管理人さんが書き込んだコメントから二週間後、私の絵のコメント上にいきなりソレは出現した。 「(直リンアドレス)ここで、私の描いた絵が載ることになりました。 絵を描いてお金をもらったのははじめて、TOPに載る事になるみたいですが、 明日か明後日でしょうか、次回の更新からデザインが一新するようです。」 HNは私自身、HP指定は前述の直リンアドレスと同様である。 察しのいい人はお分かりかもしれない。要するになりすましスパムである。多分出会い系サイトと思われる。 場所がオエビだったので前述の文章だったのだろう。多分文字掲示板なら 「○○中心のHPを作成しました。掲示板もあります。一度遊びに来てください」 とでもなっていたのだろうか。 書き込まれて直ぐに気付いたため、踏まないように注意を促せたが、もし気付かずに放置していたらどうなっていただろうか? ・・・多分、誰も踏まなかっただろう(笑) だって、私の絵だよ?どうやって「絵を描いてお金をもらった」ってことに説得力持たせるつもりなの? いままで絵を描いてもらったものといえば、ホールインワン保険のテレカと昼飯と一般人の白い目だけだってのに。 大体、絵を載せてもらうサイトと本人のHPが一致してるのもおかしい。 さらにトップ絵になるはずなのにアドレスの末尾が「/in.php?id=〜」であったのも変である。 このようにヒーロー番組の偽者並に文章全体から偽者臭がモリモリと漂う構成なのは、 スパムを作った人間の良心の一欠片がそうさせたからなのか?性善説を唱えるものとしてはそう願いたいものである。 ともかく、近年のスパムやらオレオレ詐欺やら架空請求やらの手口の多様化にはある種感歎を禁じえませんなぁ。 もしかしたら、オエビにおいてもなりすます相手の絵柄を完璧に模倣するスパムが登場するかもしれないなどと 今回の件から想像してしまった私でした。 どんとはれ |
“違いのわかる”はわかってない? | 04.9/24 | ネタ一覧へ |
<序論> 一昔前、テレビで外国映画を見ていた時のことである。 お話の中でスーツに眼鏡、首からカメラをぶら下げた背の低い貧相な男がいた。 彼が登場人物に紹介されている。 「こちらが日本から来たケン・スズキ(仮名)くんです。」と。 ・・・・・・・・・・? 「えっ、これが日本人?思いっきり香港人じゃねーかっ!!」 と製作者に全力でバックナックルをお見舞いしたくなってしまった。 だが、彼はお話の中では完全な日本人。多分、これを見ている主に欧米人で構成された人々にとってはそれが真実なのだろう。 彼らには日本人も香港人も同じ民族に見えているに違いない。 だが、これは何も欧米人だけに限ってのことではない。 我々日本人も日本映画で欧州人が出てきた時に、彼がフランス人にも関わらずイタリア人の役をやっていたとしても違和感なく受け止めてしまう人が大半だろう。 つまり日本人にとっては自分に近い顔の特徴をもつ香港人との区別はついて、自分たちとかけ離れた顔の特徴を持つ欧州人の顔の区別はつきにくいということである。 普通に考えると逆のような気がするが、これはその対象の差異を見極める目は普段から対象群に接していないと育まれないことの一つの証左といえるだろう。 だが、ただ普段から接していればいいというものではない。別の例を挙げてみよう。 映画「プ○トーン」等ベトナム戦争を扱った映画で鬱蒼とした密林のシーンがある。 我々はそういう密林のシーンを見る機会自体は多いが、その密林が本当にベトナムなのか判別する術を持たないので何ら疑問も持たずスルーしてしまう。 だが、植物学専攻の教授などは樹上に生えている宿木などからそこがベトナムではなく南米のジャングルであることがわかってしまうらしい。 これは普段からそれに接し、ある種体系的なものを自己の中に構築していった結果起こることであるといえる。 端的に既存の言葉を用いるのであれば“違いのわかる”という状態である。 逆に“違いのわからない”という状態は私自身の例かつこの言葉の元ネタからいくと、 コーヒーを良く飲むにもかかわらず、使ってる豆に対する知識とそれを照らし合わせて飲んだ経験がないことから、 どのコーヒーを飲んでも「コクがちょっと違うかなぁ」程度しか認識できない状態である。 要するに“違いのわかる”ことは、その人がその分野において大なり小なり成熟している象徴だといえるのである。 <本題> だが、“違いのわかる”というのはある意味諸刃の剣なのかもしれない。 何故そういえるのか? それは“違いのわかる”一方で、“違いのわからない”人のことを念頭から排除しがちになるからだといえる。 私は一応イラストを描く身であるので、絵を見ればある程度どの絵師さんの作品か判別できる。 また私は時々別人のフリをして絵を描くことがあるが、お絵かき仲間には一発でバレてしまう。 これは絵を描く人同士ならば誰しもクセがあるし、それを見極める目を持っているためである。 というか持っていなくては自分独自の絵というものは描けないのである。 故に我々(※以下、イラストを描く人の総称)の目には現在のキャラ絵というのは多様な種類の絵で溢れていると捉えられている。 だがある時、年配の“違いのわからない”女性に必ずしもそうではないことを教えられた。 「○○(私の名前)さんの絵って、アレに似てない?」 「えっ、どれです?(そもそも貴方に依頼されるチラシにはいつもの絵柄はまったく使ってないっスよ)」 「ほら、コレ。そっくりじゃない?」 その人の指したのは「タッチ」の絵であった。 ・・・え?全然似てませんが、何か? だが、その人の目には同類項として認知されているのである。 すこし試してみたところ、その人にとっては「目が一般的な絵より大きい、髪の毛がパーツ分けされている、鼻の穴がない」などの 項目にヒットする絵はすべて同類項に見えているようである。 いや正確にはもっと大まかに「写実的かそうでないか」「そうでない場合、(主観的)アニメ調であるかそうでないか」という位のレベルで判断されている感じである。 ということは我々が「やっぱり××は○○先生の作画じゃないとね」とか 「△△先生が表紙だったから普段買わないアレ(雑誌)買っちゃったよ」などと有難がっているのも“違いのわからない人”から見れば物凄く滑稽に見えているのだ。 いや、それどころか人によってはアニメ調=ダメということも多いのである、残念ながら。 そう考えると合点がいくことがある。それは行政などが発行する冊子やチラシなどが微妙に絵心がないような絵を用いる理由である。 行政などの冊子は基本的に“違いのわからない”人も対象に含めて制作される。 故に反発を招きかねないアニメ調の絵はできるだけ避けたいところなのであろう。 我々はこういう視点があることも考慮に入れて絵を描いていかねば、いつか絵を描くことが“違いのわかる”人同士の馴れ合いのみになっていってしまうかもしれない。 それは成熟とは程遠い、排他的な発展といえるのではないだろうか? <蛇足> しかし、電車内でスーツの男性が漫画雑誌を読んでいるだけで新聞の投稿欄のネタにされた時代と異なり、 現在はアニメ調の絵(その区別はつかなくても)に対する理解は増してきているように思える。 いや、単に今まで反対する立場にいた人々が生来アニメ調のものに触れてきた人々に取って代わられただけかもしれないが。 かつて私が成人式の時にもらった市役所が発行している国民年金の冊子などは思いっきり同人上がりの人が描いた漫画であった。 当時失笑していたが、それに携わった人たちが主査クラスになったりしたら、そういう冊子が当たり前になってしまうかもしれない。 ガクガクブルブル。本来そういう側に身を置く者としてもあまり想像したくない未来図である。 |
“持つものと持たざるもの”の狭間 | 04.10/21 | ネタ一覧へ |
土曜の朝、何気なくテレビをつけるとウルトラマソの新作がやっていた。 子供向けとして放映するにはどうかと思うほどのグロさ炸裂のナメクジ状の怪獣が出ているのを見たときは、 初期の平成ライダーに感じたものに似た何ともいえない背徳感に、不覚にも少しワクワクしてしまった。 だが、そんなことよりも気を惹いたのは、そのナメクジがナイトレイダー(ウルトラ警備隊みたいなの)の持つ通常兵装に対しては蚊に刺された程度だったにも関わらず、 ウルトラマソに寄生された?宿主が持つ妙ちくりんな短身の銃の一撃でバラバラに吹っ飛ぶというプロットであった。 かつて、これに似たプロットを見た記憶があったのだ。 それは「ヒドゥン」という洋画である。(ちなみに2もあるのだが、そちらはB級以下だと思う) 「ヒドゥン」は意訳すれば、隠れ棲むもの・・・となるであろうか、 その名の示すとおり人の死体に隠れ棲む異星人を巡ってのSFホラーである。 人の死体に寄生するナメクジ型の犯罪者を追ってきた精神生命体が、 殉職した刑事の体を借りて任務を行うのだが、ナメクジ型の犯罪者を倒すことのできる唯一の方法が、 精神生命体の持っている妙ちくりんな短身の銃から発せられる光線だけなのである。 ・・・と流れだけを見ると先のウルトラマソのプロットと似ていることがお分かり頂けただろうか? だが、実は初めて「ヒドゥン」を見たときに私が思ったことは、 「これって原作:初代ウルトラマソってエンドロールに書いてあるんじゃないの?」 ということだったのである。 初代ウルトラマソ第一話のプロットを端的に説明すると 「脱獄した怪獣を追って、地球にやってきたウルトラマソが『偶然』命を奪ってしまったハヤタ隊員の体を借りて怪獣を追い、 通常兵器とは比較にならない威力を持つ光線で怪獣をしとめる」というものである。 特に“地球ではその姿を維持できないが故に地球人の死体に寄生する”“犯罪者に効果的なものは寄生者の持つ光線” という発想は両者が無関係とは思えない程のものである。何もパクリだなどと無粋なことをいうつもりはない。 だが、「ヒドゥン」に対して覚えたウルトラマソへの既視感を、 その最新作によって思い起こさせることになるとは、何とも因果なものであると思っただけである。 ・・・とここまでが前フリ。 この後の話に必要なのは“ウルトラマソ系の人は、通常兵装が効かない敵を倒せる唯一の武器を持っている”という部分だけである。 先日、我々はアシナガバチの巣の始末のために出動した。 夏頃から数回その手の話があるのだが、多くの依頼者たちは自らの手で事態を打破しようとはしない。 彼らにもキン○ョール等の通常兵装があるのだ。それでまずは戦えばいいはずである。 だが、実際キン○ョールで戦ったことがある人は分かるかもしれないが、巣に直撃させても焼け石に水、 かえって刺激を与えてしまうことになる。 その点、我々の持つハチ○ックは威力抜群。 直撃させた瞬間、バタバタと数十匹のハチが地に落ちる様は一種カタルシスを感じる程である。 欠点は一本3,000円と値が張ることだが、この威力では仕方がない。 何せ対ハチ用に特化した特殊兵装なのだから。 だが、我々と依頼者との差はそこしかない。つまり対象への攻撃力の差のみである。 にもかかわらず、それを手にしているだけで戦うことを義務付けられるというのは正直おかしい。 これも特殊兵装という大きな力を持つ側の支払うべき代償だとでもいうのだろうか? ならばハチ○ック貸してやるから、お前が戦えといいたい。心からいいたいのである。 「戦う力を持つ者が戦わねばならないのか、 それとも戦わねばならない者が戦う力を持つのか。」 ・・・以上がハチの件と、短身銃と変身道具を使えるものが ウルトラマソの宿主になるという最新作の設定を知った時に私の脳裏に浮かんだことである。 近年のヒーローものが概ねこのようなテーマを内包しているように感じるのは、やはり9.11以降の世界情勢からであろうか?・・・等とたまには風刺でシメたいと思う。 |
場乱主(バランス)or 闇場乱主 | 04.11/2 | ネタ一覧へ |
先日かつてのお絵かき仲間達に会った際、色々と興味深い話を聞いた。 その中で現在ほとんど絵を描かなくなった子から聞いた話はこれから絵を描こうとする人、 現在絵を描き始めている人にとって興味深い話であると思えたので紹介したいと思う。 ちなみにその子の絵は個人的な意見ではあるが、爽やかな少女漫画系の結構好みのキャラ絵で 当時の仲間内でも中の上・・・少なくとも私よりはレベルが高かった。 その子の話は大体こんな感じであった。 『絵を描いている時は、もちろんその時にも気付くほどの駄作もあるが 大体は満足して描き終わることが多い。だが、その当時気に入った絵も 数年後に見るとバランスの悪さが目につくようになってしまう。 (多分その当時裏から見てもバランスがとれていたように見えたにもかかわらず・・・。) しかし、中にはそういう場合にも絶対的にバランスが取れていると認識できる絵も存在する。』 これは絵を描きつづけている最中は、自分の中に理想の絵・バランスが存在し、 それに近づこうと努力している過程故の現象なのだろう。 それは次の対照によって証明されているといえる。 『だが、次第に絵を描かなくなるにつれて、当時の絵を見るとなぜ当時これほどの絵が描けたか分からないようになった。 その感覚は、最初絵のレベルにおいてだったが、次第にポーズそして絵そのものにまで侵食しはじめた。 まるでガン細胞のように、全身がその感覚に侵されていくと絵を描くことそのものが怖くなる。 だが、今このタイミングで絵を描かなくなってしまえば、 下手をするとこのまま一生描けなくなってしまうのではないかとも思う。』 これと同種の感覚を私も記憶している、苦い実感として。 そうかつて絵に真剣に向き合うよりも馴れ合いを選んでしまった時に。 ゆえに私にとって共感できる内容のため、要約ではあるもののそれ程本質を見誤ってはいないと思う。 この話は、キャラ絵のバランス感覚は、その人の中で絶えず変動するものだが、 その人の目指すベクトルによってある程度規定されるものであることを示している。 そして、そのバランス感覚は常に磨き続けていなければ、錆び付いてしまうものでもあるようだ。 そのバランス感覚が錆び付いてしまうと、理想とする絵・バランスを描くことができなくなってしまう。 いわばこのバランス感覚とは、心象世界にあるバランスを現実に、紙上に具現化させる際の フィルターの役目を果たしているといえるだろうか。 そもそもキャラ絵におけるバランスとは何であろうか? 仮にも私は「花鶏絵」でお絵かきのコツを提示している以上、その答えを持っている。 だが、「花鶏絵」の中でも再三指摘しているようにあくまでそれは私自身の経験やお絵かき仲間とのやり取り 、プロ絵師の絵から見切った法則性などから私独自に解釈した私の中のバランスでしかない。 これは恥ずかしながら私自信の技量不足のためもあるが、仕方がないことでもあるのだ。 例えば、現実にあるものの質感を忠実に再現することに重きをおく 人物画や静物画においては、現実のモチーフそのものがバランスの絶対基準として存在している。 または元絵に忠実に描くことに重きをおく模写や劣写の場合、元絵こそがバランスの絶対基準になるのだ。 しかし、キャラ絵の場合はそのモチーフの持つリアルでのバランスを描く人自らのフィルターに通して描くため、 そのフィルターの性質の違いによって、紡ぎ出される絵は様々な変化を見せる。 結果、これほど多様なキャラ絵が現在存在するに至っているのだろう。 これは人それぞれによって理想となるバランスが異なることの一つの証左である。 だから、「バランスがいい、悪い」という言葉は、観ている人と描いた人とではその意図する内容にズレが生じるため 正確な指摘にはならず、互いの認識の違いすら浮き彫りにしない。 では、もし相手の絵が自分の目から見て「バランスが悪い」と写ったときはどうアドバイスすればよいか? 結局は「そのポーズをとる場合、もう少し手の位置が体よりになるような気がしますけど、どうでしょう?」や 「そういう絵の場合はこういう描き方も存在しますが、一度試してみては?」 等というように、具体的な部分を挙げつつも自分のバランス感覚と相手のそれとが異なることも考慮に入れた文に なってしまうような気がする。 絵を描かない人はいうに及ばず、どれほど絵を描いている人でも、 その人のバランス感覚が他人のそれと同一ではない以上、判断は相手に委ねるしかないわけだから。 さて、この話をどのように判断するか、それは読んでくれたアナタ次第です。何しろ絶対的な判断基準などないのですから。 |
地域密着型(ローカル)“萌え” | 04.11/15 | ネタ一覧へ |
以前「“違いのわかる”はわかってない?」で私はこう結んだ。 『キャラ絵が当たり前の世代が行政においてそれなりのポストに就いたら、 ソレ系の絵の冊子等が普通に発行されるという未来がくるかもしれない』と。 ・・・だが、その未来は我々のすぐ傍までその歩みを進めていたのである。 先日、役場が作るローカルヒーローの話題から転じて、 『この前テレビでやってたけど“萌え”って知ってる?』系の話題になった時のことである。 「えっ、“萌え”って何?」「すごいお金つぎ込むんだって」「ゲームの女の子に話しかけるなんてキモイよねぇ〜」 「そんなの信じられない」「ああいうのって犯罪に結びつかないの?」という意見が多数であったことをまず明記しておく。 あと何故か私が解説役を務めさせていただいたこともまた明記しておくべきだろうか。 「“萌え”というのはそういうのに対する趣味嗜好を一言で解決させてしまう思考停止の言葉です」 「女性が冬ソナのヨ○様関連のものにお金つぎ込むのに近い部分もあるのですが・・・」 「そういう犯罪に走る人間がアレにハマるのか、アレにハマるとそういう犯罪に走るのかは難しいところです」 「実は女性向けに逆バージョンのも増えてきているのですが、男児監禁事件とかないから話題にはなりませんねぇ」 「ああいう番組は“現実の女性にも目を向けて欲しいですね”という結論先にありきで製作されてますから」という具合である。 これで私がその“萌え”側の人間であれば只のイタイ人であるが、 一応それ系に詳しいだけでそうではないという認識がされているという解釈でイイのかな?イイと信じたい。信じさせて。 閑話休題、そこでふと私は考えたのである。 『ローカルヒーローみたいに“萌え”で売ろうとする役場があるだろうか?いやないはずだ』と。 だが、「萌え 役場」でググった際、その忌むべき未来は現実として私の前にその姿を現したのである。 名付けるなら、地域密着型(ローカル)ヒーローならぬローカル“萌え”とでもいうべき未来が。 先のキーワードでググると、何故かは○わが歌にしている県の某町のHPのことが書かれているブログに多数ヒットしたので その役場HPに行ってみることにした。 正直ビビった・・・ ・・・いきなりトップページからしてショタとロリのダブルコンボのお出迎えとキテいる。 肝心の役場の利用法や課毎の情報等が少ないにもかかわらず、あらゆる所に萌え絵?が散りばめてあった。 おまけに「スク水」「ブルマ」「巫女さん」「猫耳」に扮したキャラのトップ絵ギャラリーが ずらずらっと並ぶ様はどうみてもその筋の方の個人HPとしか思えないほどである。 一応その筋に左足の小指程度は突っ込んでしまっているかもしれない私が見ても 眉をひそめる・・・ある意味乾いた笑いを催すレベルだったので、 試しに先の年配の女性らに見てもらった、仮にも役場のHPだし・・・。 で、皆さんの反応はというと 「ゴーサイン出した奴誰だよ?」「これ描いてる人が異動したらどうするつもり?」 「やりすぎ」「仕事時間に描いてるのなら問題」「議員から質問来たらどうするんだろ?」 「フォトショとペインターで描いてるっぽいけど、備品パソにそんなものインストール するのが許されるとも、予算おりるとも思えない」などと、 行政がやることではないという結論しか出なかったわけである。 あ、一部は私の意見だが・・・。 これらの意見を聞くと地域密着型(ローカル)“萌え”が今後世間に浸透していくにはまだまだ壁が多いことが分かる。 だが、ローカルヒーローとて最初は「税金の無駄遣い」と罵倒されていたのである、今でもそうかもしれないが。 だからいつか各市町村役場毎にローカル萌えキャラが誕生し、年二回の巡礼日に一堂に会する・・・ そんな未来がやってくるかもしれない。 でも担当者は最悪だろうな。いきなり町長室に呼び出されて 「キミ、イラストが趣味だそうだね。 今度新たに発足した“○○(名物の名前)たん製作委員会”の一員にキミが選ばれることになった。 一週間後に何枚か○○たんのラフを提出してくれ。」 とか言われたら、速攻で町長の樫作りの机に辞表を叩きつけたくなるだろう。 いや、それを乗り越えられるものが真のニュータイプかもしれない・・・そんなニュータイプ、嫌だが。 |
玩具レイヴ〜親の懐が苦しみます〜 | 04.12/7 | ネタ一覧へ |
紅に染まった葉も役目を終える頃になると、大型スーパー等はある種独特な雰囲気に包まれる。 赤や緑、金色の装飾類、街路樹をきらびやかに演出するイルミネーション、 店内に流れる荘厳な聖歌に彩られ、周囲はクリスマス色に染め上げられていく・・・一月も前から。 段々と前倒しになってきているのは色々と経営的な大人の事情が見え隠れするが、 クリスマス(イブ)当日に客足が空洞化しそうなのは気のせいだろうか? 今回はそれと関係があるような、ないような話。 先日、クリスマス色に染まった大型スーパーの玩具コーナーで、 いつものようにプラモのパッケージを眺めつつメカ描き用の目を肥やしていた時である。 ふと、見慣れた人影が特撮のおもちゃコーナーで佇んでいるのを発見した。 よく例に挙げる年配の女性である。手には現在の仮面ライダー(以下:剣)のフィギアが2体握られていた。 声をかけると、女性は「子供がこういうの好きで、買っていってあげようと思ってね」と言った。 私は「子供?お孫さんのことですよね?」と心の中で突っ込んだが、口に出したのは別のことだった。 「あれ、そのおもちゃでいいんですか?」と。 なぜ、そんなことを聞いたのか?決して剣に不満があるとかそういう他意はない。断じてない・・・多分。 実はその女性のお孫さんが剣を好きなのは、春先から聞き知っていた。 そのため手にしているフィギアの内一体が春先から出ている主役の一人だったことに違和感を覚えたのである。 春先からはまっていて、時々今回の様に買い与えているならば既に持っている可能性が高いのだ。 その旨を伝えたところ、女性もそうかもしれないと思い、別の関連フィギアを買うことにした。 「どれも似たようなのばかりで区別がつかないから」と言いながら。 子供へのプレゼントの際に大人が犯す過ちの大半はこの発言のような背景に起因していると思われる。 例を挙げよう。子供が欲しがっているAという玩具がなかった場合、大人はAに似たA’を手に取り、「これで我慢しなさい」という。 それは先の発言にもある通り、AとA’の区別がつかず、同じAに違いはないという認識だからである。 だが、子供にとってその’の違いというものは大人が考えている以上に大きい。 子供が欲しいのはあくまでAであって、それに似た代替品ではないのである。 もっと分かり易い具体例を挙げると、フォースインパルスガンダムが欲しいのに、 安いという理由でエールストライクガンダムで我慢しろといわれるようなものである。 ・・・ってなんか普通にありそうな話だなぁ、私も遠めでは区別つかないし。 でも子供にとっては、今の主役メカが欲しいわけだから、エライ違いであるわけだ。 子供同伴でさえ、こういう事態に陥るのである。況や先の女性の例のようにプレゼント用に買う場合は、 その誤差がさらに大きくなる可能性が高い。実際、今回私が指摘したフィギアはやはり以前買っていたようで、 まかり間違えば「これ持ってるよ、おばあちゃん」とお孫さんに言われていたかもしれないのである。 今回はその筋に詳しい私がいたからよかったが(ある意味よくない)、 こういう過ちは子供・孫にとって親との信頼関係に亀裂を生じさせるに十分なものである、多分。 この悲劇を回避するためにはどうすればよいか? それは大人がその筋に詳しくなればよいのである・・・って無理か。戦隊ものとライダーの区別もつかないのに。 そうなると頼れるものは、玩具コーナーの店員だけである。だがここにもう一つの問題がある。 別の子持ち男性の証言である。 その人が子供同伴でメリケン系列大型玩具店(〜999円とか好きな所)にクリプレ(略しすぎ)を買いに行った際、 子供が自分の欲しい物について名前程度の認識しかなく、それがどの売り場にあるかも分からない状態だったらしい。 困って店員を探したが、レジ以外にはいないためわざわざ時節柄混雑するレジに並んで聞いたそうだ。 その人曰く「昔はもっと店員が売り場を巡回していて『何をお探しですか?』とか聞いてきよったもんなのにな」だとか。 そう不景気の煽りなのか社員(バイト)教育の不徹底のためか、以前より店員が積極的に売り込みにこないのだ。 この少子化社会、玩具店にとってドル箱の子供の求心力をいかに確保するかが勝負であろうに。 この小さなパイの奪い合いに勝利するためには、玩具店がいかに子供側に歩み寄れるかではなかろうか? そこで私は考えた。宝石や紳士服売り場にいるような「玩具コーディネーター」をつくればよいのだと。 子供のニーズを読み解き、それに沿った的確な玩具を提示。 親御さんの懐具合とも相談し、微妙に安い代替品を魅力的に見せる等の子供騙しも図る。 子供同伴でなくとも、親への質問のみで的確に対応できる知識量を誇る店員。 そうだ、それだよ!さっそく脳内シミュレートしてみよう。 親「ロボットのおもちゃが欲しいのですけど。千円くらいの。」 コーディネーター(以下:コ)「お子様がご覧になられている番組の名前などお分かりになりますか?」 親「確かガン・・・何とか。白いロボットが戦う奴です。」 コ「そうですか。お子様が欲しがっていたのはどういうロボットかお分かりですか?」 親「確か赤い色をした一つ目の・・・銃をもっていたような。」 コ「そうですか。コレのことではないですか?(ガナーザクウォーリア・ルナマリア機を差し出す)」 親「いえ、もっと大きくて、子供の背の高さ位あるものです。確かシャアなんとか・・・」 コ「やめてよね! 本気で買おうと思ったらアナタのサイフに適うわけないじゃないかッ!!」 ・・・コーディネーター違いですた。(1/12シャア専用ザクは約20万円) |
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