拓のプロフィール6 |
小学一年生 入学しても、7月ごろまでは、通学バスには、乗せてもらえませんでした。 片道1時間の道のりを2往復することは、とても私には、出来ませんでしたので、 授業が終わるまで、待っていました。 その間、同じく、待機しているお母さん達と、とても仲良くなる事が出来ました。 この頃の私は、拓を待っている間に、洋裁をしているに方に、いろいろ教えてもらって、 拓のスモックや、ズボンなど、いろいろな物を作りました。 拓には、歩行器を作ってもらいましたが、足を少しも運ばないので、 学校では、使えないと言われ、かと言って、家の中で使えるものでもなく、 学校が終わってから、1時間ほど、廊下を行ったり来たり練習してから、帰りました。 朝、バスに乗せてもらえるようになってからも、迎えには、行かなくてはいけませんでしたので、 歩行練習は、毎日、行なう事が出来ました。 そのかいあってか、2年生になった頃は、足も随分しっかりしてきて、 学校の移動に使ってもらえるようになりました。 歩行器といっても、腰を置けるバーの付いたもので、上半身を歩行器に持たせかけ やっと動いていると言うものでした。 |
岡崎養護学校 拓の入学した学校は、県立の肢体不自由児の養護学校で、学区でも、はしっこにあり、 家は、学区の中でも、もっとも遠くでしたので、通学に1時間かかりました。 小・中・高のそろった学校で、山の斜面に建っていました。 中・高の校舎の1階は、小学部の3階より上にあり、運動場は、 中・高の校舎より、さらに上にありました。 急な斜面になっている校舎の周りの道路は、とても、車の止められる坂では、ない所もありました。 これが、車椅子で通う子供の学校だろうか? 造る時、こんな場所しかなかったのだろうか?と、どう考えても、おかしいと12年間、 思いながらも、もうすぐ、卒業です。 |
訓練の選択 学校の訓練は、3歳からずっと行なって来た動作訓練法でした。 私は、動作法のPTAの親子訓練会にも入れてもらいました。 このころ、あまりにも、いろいろな訓練に手を広げすぎた私は、迷いを覚えていました。 そんな時、センターの院長先生は、 「お母さん、訓練法は、何でもいいんですよ。 一生懸命する事が、大切なんですよ。」と、教えてくれました。 私は、この言葉で、訓練法を学校の訓練法と同じ、動作訓練一本にしぼりました。 |
伊吹山 我が家の夏は、山と決めていました。 勝手な私の理由は、海はべたつくからと、自分の泳げない事を棚に上げて・・・ 小さいころの拓は、ベビー用の背負子に入れて、お父さんの背中でした。 大きくなると、ベビー用では、重心が高くなりすぎるので、 お父さんが、市販の背負子を加工をして、拓用に作ってくれました。 これで、いつでもお父さんの背中にオンブされて、鈴鹿の山などへハイキングに行きました。 小学校の4年生の頃、伊吹山へ出かけました。 と、言っても、駐車場から、1時間ほどで、頂上です。 山頂は、岩が、ごろごろしている所でした。 お父さんに抱かれていた拓が、ふざけて落ちそうになったので、 岩の上に落としては大変と、お父さんが、下敷きになって転びました。 その時、お父さんの肋骨には、ひびが入ってしまたのです。 拓の体重、24キロの時でした。 これを最後に、拓が山に連れて行ってもらえることは、ありませんでした。 |
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