拓のプロフィール5 |
弟の育 拓が、2歳5ヶ月の時、弟が生まれました。 1ヶ月から、拓のおまけで、あっちこっちと連れまわされ、2ヶ月にならない内に、 オンブされて、遠足にもついて行きました。 今にして思えば、昼中は、母の背中か、車の中でしか寝せてもらえない、 可哀想な赤ん坊だったかもしれません。 拓が、母子分離の日は、育を公園で、思いっきり遊びに連れていってやる事が出来ました。 この日だけは、育の専用の母でした。 |
耳が聞こえない 4歳頃の拓は、お座りは、出来るようになっていましたが、這う事は、まだ出来ませんでした。 移動は、寝返り。 ごろごろ転がって、途中で向きを変えて、また転がって行くと言う方法で、移動していました。 この頃、笑う事も増え、食欲も結構出てきました。 食べ物を見ると、食べたいと言う意志があり、手でつかむ事は、しましたが、 自ら、口へ持って行くと言う事が、出来ませんでした。 そこで、作業療法の先生に、食事指導と言う事で、お世話に、なりました。 同じ頃、言葉どころか、なん語もない拓は、言語療法を受けました。 そこで、先生から、言われました。 「拓ちゃん、耳、全然聞こえてないよ。」 今まで、呼んでも、振り向かないのは、発達の遅れ、 本人に、気が無いからだと思っていたのです。 何で、聞こえないかもしれない・・・と、疑ってかからなかったのでしょうか? それから、県の保健センターの耳鼻科に通うようになりました。 |
滲出性中耳炎 保健センターから、大学病院を紹介されました。 滲出性中耳炎は、意志の通じる子供なら、外来で、鼻から、耳へ空気を送るという方法 (又は、注射器で、水を抜く方法)で、治療されますが、拓には、それは、出来ません。 拓の治療法は、チュービングと言う、鼓膜に穴を開けその穴が、ふさがらないように、 チューブを通して、そこから空気を通わせ、内耳をいつも乾いた状態にしておくというものでした。 口蓋裂のあった子供は、その当時の手術法から、滲出性中耳炎になりやすかったのだそうです。 せっかく、チュービングの手術をしてもらっても、しょせん異物です。 数ヶ月で、抜け落ちてしまいました。 すると、また、手術 ⇒ 抜ける ⇒ 手術・・・ 幼児期から、小学校の低学年まで、何度となくこの手術は、繰り返されました。 |
養護学校入学 まだまだ、体力のなかった拓を遠くの学校に通わせるのは、ためらわれました。 肢体不自由の学校は、片道車で、1時間かかります。 家から、20分の所に、知的障害の養護学校がありました。 出来れば、ここに入れてほしいと、何度となく足を運びました。 が、入学出来るのは、独歩出来る子と、当時は、ラインが、引かれていまいた。 この頃の拓は、まだ、立つ事さえ出来ませんでした。 そんな時、生まれた時から診て下さっているコロニーのO先生に、 「せっかく入れてもらえたとしても、拓ちゃんだけ、皆から置いてきぼりになったら、可哀想だよ。」 と、言われました。 大変だったら、毎日通わなくてもいいか〜。 やっぱり、この子にあった内容で決めようと・・・ 拓は、肢体不自由の養護学校に入学しました。 学校は、作業療法や、リハビリ・言語訓練しているセンターの隣です。 拓が、入学する時、兄ちゃんが、 「何故、自分と同じ小学校に、入学出来ないか?」と、尋ねました。 私は、「拓ちゃん、歩けないから、歩ける様にしてくれる学校に行くのよ。」と、答えました。 兄ちゃんは、「じゃあ、拓ちゃんが歩けるようになったら、ぼくが、転校出来る様に、 校長先生に頼んであげるからね。」と、言ってくれたので、 涙が止まらなくなった事を今でも、嬉しく思い出します。 |
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