マラッカ

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 シンガポールの長期滞在を活用して、1996年8月下旬、日帰りで赤道の北に南北に伸びるマレー半島のマラッカを訪れた。 シガポールから車で約3時間のところに、マレーシャの古都がある。「マラッカを制するものはヨーロッパを制する」と言われた交易の要衝、オランダ、ポルトガル,中国など各国の史跡が残る街である。

 マレーシアは、首都がクアラルンプール (Kuala Lumpur) で人口が2,300万人、第二次世界大戦後の1957年にマラヤ連邦として独立し、1963年に現在のマレーシア (Malaysia) として建国した、イスラム教を国教とする多民族国家である。


 その古都マラッカは15世紀以降にまらっか王国の国際貿易港として栄えた歴史があるところで、 その後、1511年にポルトガルに占領されて王国がジョホールへ移り、1641年にオランダの東インド会社に占領され、1795年にイギリスの東インド会社に占領されたという複雑な歴史を有する。


高床式の住居
シガポールには国境を繋ぐ橋が2箇所ある。一箇所は北側、もう一箇所は西側で、この西側の税関を越えるとそこはもうマレーシヤである。
     
         シンガポールとマラッカの国境
現在のマラッカ (Malacca マレー語では Melaka) はマレーシアの一州であり、マラッカ歴中心部の人口が約30万人で、マレー系が最も多く、ついで中国系、インド系、その他で占められている。 この古都にはサンチャゴ砦、チェン・フ・テン寺院(青雲亭)、セントポール教会跡、キリスト教会等がある。マレー半島とスマトラ島との間のマラッカ海峡が有名で、海峡は長さが900Kmにおよび、幅は狭い所で65Km、水深が浅くて120m以下の所が多く、島も多くあり船の航行には注意が必要な海峡である。


中国の丘 ブキッ・チナ
中国の丘ブキッ・チナ (Bukit Cina)
「スタダイス」の北東にある広く大きな丘で、中国以外にある中国人墓地としては最大の規模を誇る。
1460年代、北京の宮廷に派遣されていたマラッカの大使が、明の皇帝の娘ハン・リー・ポーをイスラム教君主ハンスール・シャーの妃として連れ帰った。その時に伴った何百人もの臣下や侍女たちの居住地としてこの丘を与えたことに始まる。そのためマレーシアでも最古の中国史跡が多く、今でも貴族の墓などがそのまま保存されている。
丘の南麓には「ポー・サン・テン寺」が建ち、寺の入口わきには「サルタンの井戸」がある。この井戸はハン・リー・ポー王女が毎日飲料に用いたもので、どんな時にも涸れることがなかったという。コインを投げ入れると再びマラッカを訪れることができるという言い伝えがある。

丘の南麓に行く途中には中国寺院が立ち並んでいた。

チェン・フン・テン寺院
チェン・フン・テン寺院(青雲亭)Cheng Hoon TengTemple)
マラッカ川西岸のトコン通りに面して建つ、マレーシア最古の中国寺院である。
1646年に建てられたもので、約4,600平方mの広さをもち、この寺院は、観音様と漁民の守護神として信仰されている媽祖を祀っており、内部はほうろうやガラスで細工された動物や花で飾られ、陽の光に反射すると大変美しい。屋根に色とりどりに彩色された竜や麒麟などの装飾が配されている。
正面には、1403年、明の鄭和提督が寺院を訪れたことを記念した碑文もある

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17世紀に建てられた中国南方様式の寺院で、すべて中国から運ばれてきた資材でつくられ、以来マラッカの信仰厚い信者たちに守られてきたマレーシア最古の中国寺院とされている。

本堂の屋根の上や柱は、陶器やガラスをあしらった精緻な彫刻で飾られ美しい。本堂内部には、明朝の遺臣といわれる創建者・李為経の肖像画がかけられている。漁民の守護神として信仰される媽祖も祀られている。境内に線香の煙が絶えることはない。


チェン・フン・テン寺院内部

サェン・フン・テン寺院からキリスト教会までの散策の街
スタダイス (The Stadthuys)
       
マラッカ川河畔のコタ通りに面した、サーモン・ピンク色の建物で、17世紀半ばに建てられた東南アジア最古のオランダ建築物である。
かつては教会として使用されていたが、その後、政府高官の住居、市庁舎として利用され、現在では、「マラッカ歴史博物館」および「民族博物館」として公開されている。
通りを挟んで向かいの広場には、同じようにピンク色をした時計塔が建ち、マラッカのシンボルとして人々に愛されている。

キリスト教会  (Gereja Christ (Christ Church)
「スタダイス」前の広場に面して建つ真紅のプロテスタント教会で、正面入口には白い十字架が見える。

17世紀の中期、オランダの統治時代に着工され、1753年に完成した。オランダから運ばれたゼーランド産のレンガを使用、扇形の窓や重厚な木の扉など、オランダ建築様式が随所にみられる。高さ30mの教会の梁は1本の木から切り出されたもので、組み合わせに釘を全く使用していない。
祭壇は大理石でできており、中央には「最後の晩餐」のタイル画が飾られている


マラッカ・キリスト教会

リンタクに乗って林さんと私
イギリス占領時代には英国国教会の教会として使用され、現在も同教会に管理されている。礼拝は、英語・中国語・タミール語で行われている。

教会の前では、リンタク屋が営業し、写真撮影にも撮影料が必要とする。

セント・ポール教会 St. Paul's Church (Gereja St.Paul)
「スタダイス」の南、セント・ポールの丘にある教会。ポルトガル統治時代の1521年、礼拝堂として建てられた。

日本にキリスト教を伝えたことで有名な「フランシスコ・ザビエル」もこの教会に滞在したことがあり、中国で没したザビエルの遺体が、インドのゴアに移されるまでの9ヶ月間埋葬されていた墓も残っている。教会の前には、大理石で造られた「フランシスコ・ザビエル像」もある。


セント・ポール教会

セント・ポール教会内部
オランダの占領後、一時砦だったこともあり、オランダ人がキリスト教会を建立した後は、著名人の墓として使われている。
丘の上からの眺めはすばらしく、マラッカの美しい街並みを楽しめる。この坂を下りた所が、サンチャゴ砦である。
セント・ポール教会の高台より望む

サンチャゴ砦
サンチャゴ砦 (Parta De Santiago)
セント・ポールの丘の麓に残る、かつての要塞跡で、1511年、ポルトガル軍によって築かれたもので、サンチャゴとは「ポルトガルの守護神(聖ヤコブ)」の名に由来する。
ポルトガル、オランダの統治時代には東洋一の強固さを誇ったが、ナポレオン戦争影響下の1808年、マラッカを占領したイギリス軍により破壊された。

マラッカはヨーロッパ各国の支配を受けて、東西貿易の中継地として繁栄してきた。ポルトガルがマラッカを占領した16世紀はじめに造られたサンチャゴ砦も、次にマラッカを支配したオランダに要塞として使われた。当時は東洋一の堅牢さを誇る、セントポールの丘全体を取り囲むほど大規模なものだったといわれる。

しかしイギリス統治時代には破壊され、現在は門を残すのみ。サンチャゴ砦にのぼってマラッカ海峡を見渡せば、400年以上にわたる植民地支配の歴史が胸に迫ってくる。


サンチャゴ砦入り口に立つ私

日本軍(?)の装甲車
その麓には第2次世界大戦の時に使われた日本軍(?)の装甲車が、記念として展示されていた。
マラッカ文化博物館(マラッカ・スルタン・パレス)
(Muzium Budaya)
かつてのマラッカのサルタン(王様)の王宮をマレーシアの歴史書に基づいて復元された建物。文化博物館になっている

マラッカ文化博物館

マラッカ文化博物館の夜景
民族衣装や、かつての王宮の調度品などの歴史的な品物が展示されている。
海軍博物館と船の博物館
時間の問題で車窓より、海軍博物館と隣接する海洋博物館の外観を眺めた。ここには、幾多の飛行機と船が展示されている。


イスラム教を導入し、スルタンが統治するまで王国であったマラッカ朝は、今日のマレー世界の原型を作ったといっていいだろう。この王朝の反映を支えたのは、海峡そのものである。
季節風を利用して東西へ貿易船が訪れシルクロードに匹敵する海上の道として発展した。以後それに目をつけて覇権取得の抗争が繰り広げられる。町に残る各国の残した史跡は、その事実を今に伝えている。

1日の旅であったが、歴史を知るに連れて、400年以上にわたる植民地支配の歴史が胸に迫ってきた


この地はピューターが有名で、記念品として、日本の七福人に似たピューターを買い求めた。

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