2012年5月28日より1ケ月間、イギリスに住む娘夫婦の家に泊まり、ここを基点として、首都ロンドン及びイギリスの中央部の田舎町、そしてスペインのバルセロナ、スイスのツエルマットからのマッターホルン,ドイツのミュンヘン等の見学をしてきた。

イギリスは今の季節が一番良いと聞いてきたが、世界中の異常気象の影響か、思ったより寒かった。
この1ケ月間、色々な場所、及び 千恵子の知り合いの人に出会い、一期一会を大切にしてきた。

この大切な思い出を胸に刻み込み、6月28日帰国した。
これは、この1ケ月間の思い出を残したものである。

イギリス滞在記

トップページ戻る


千恵子と家内
5/28 (月) Empty Travel of 14 Hours

早朝、長男、和彦、孫の菫、花乃に安城駅まで送ってもらい、そこから、中部国際空港行きのバスに乗った。 搭乗手続きをして、Lv.10:10、 NH6009便で離陸し、ドイツのフランクフルト(Frankfurt)で乗り継ぎ、NH6139便でイギリス ヒースロー空港(Heathrow)に向かった。

到着ロビーでは娘、千恵子が待っていてくれた。息子、Gregの車で、娘夫婦のスティーブニッジ(Stevenage)の家に向かった。


千恵子夫婦の家は、右の写真の通り、イギリス風の家で四軒1棟の一番隅に位置し、前と後には庭も配置され色々な花が植えられていた。

今年は異常気象か何時もなら一番良い季節で、玄関の両脇にバラの花、ラベンダー そして前の庭にはバラを含めて多くの花が咲いている頃だが、今年は寒く、バラも蕾で綺麗なバラの花を見ることが出来なかった。

千恵子夫婦の家

千恵子夫婦の家付近
千恵子の家の住所は、Stevenage、Hertsで北緯51度53分、日本の北海道の札幌(北緯43度)より北に位置し、寒いはずであるが、イギリスを取り巻く海流が暖流のため、それほど、寒さが厳しくなく、又 積雪も多くない。

家はロンドンより北に位置し、ヒースロー空港より車で50分程度、電車ではロンドンの主要ターミナル駅キングス クロス(King's Cross Station)から30分程度でStevenage駅に来ることが出来、それより車 若しくはバスで10分程度である。
5/30 (水) Shopping at the Garden Center

今回の目的の一つに、娘夫婦の庭の剪定、手入れ、植栽があった。

早速、近くのガーデンセンターに行き、剪定ばさみ、肥料 そしてモミジ(Japanese Maple)と牡丹(Peony)を購入してきた。

ガーデンセンター内

剪定する小生
南側の前庭の木の剪定をしているところで、大きくなり過ぎた木々を形よく剪定し、庭の見栄えを良くした。娘夫婦は恰好が良くなったと非常に喜んでくれた。
ガーデンセンターで購入してきたモミジをGregと一緒に、大きくなっても良い場所を選び、一緒に植えた。右の写真が植え終えたモミジとGreg そして私である。
Gregと一緒に植栽

バスターミナル付近でのひと休み
6/1(金) Shopping

スティーブニッジ(Stevenage)のバスターミナル付近の町で家内と千恵子が買い物に行った。小生は興味がないため、この付近の中心部で時間を過ごした。
6/4 (月) Visit to Hatfield House

千恵子がGregと結婚してから、2年位住んだ前の家を見に行った。右の写真が、前に住んでいた場所で、狭い部屋であったという。

場所はハットフィールド(Hatfield)で、現在住んでいるスティーブニッジ(Stevenage)より車で20分程度走ったところにある古い住宅街で、この街には古い建物があった。

千恵子夫婦が前に住んでいた家

ハットフィールドハウス
この写真は、千恵子の住んでいたハットフィールド(Hatfield)の家のすぐ近くにあるハットフィールドハウスである。
このハットフィールドハウスの一部を覗いたら、今夜、晩餐会でもあるのか、テーブルの上に食器が並べられていたのを、こっそり撮影をしたものである。

ハットフィールドハウス
ハットフィールド ハウス(Hatfield House)は エリザベス1世(Elizabeth 1、1533〜1603)が王位を継承する以前に暮らした場所として有名で、バーリー卿ウイリアム・セシルの次男、ロバート・セシルが建設したもので、この次男は王族との結びつきが強く、ここには王族にまつわる品が多く残されている。

このハウスの西側にオールド・パレスと言う建物が残されているが、モートン枢機卿というヘンリー7世の閣僚だった人が建設し、そこではヘンリー8世の子供たち、即ち、後のエリザベス1世が育った場所である。
建物も庭もとても歴史を感じ、英国貴族の面影が偲ばれる。庭にもエリザベス1世を模したレリーフが置いてある。

右の写真、下の写真 そして右下の写真も、このハットフィールド ハウス(Hatfield House)の広大な庭の一部である。

ハットフィールドの庭園

ハットフィールドハウスの庭園
ハットフィールド ハウス(Hatfield House)をバックに広大な庭の一部である。
エリザベス1世はイングランドとアイルランドの女王(在位1558年〜1603年)でテューダー朝第5代にして、最後の国王で、別名処女王(The Virgin Queen)と言われた。
   
         
この広大な庭の一部で、娘夫婦、Gregと千恵子を撮った写真である。
ハットフィールドの庭園

エリザベス1世が女王を告げられた木の下
ある日、エリザベスは少女の頃からお気に入りの場所、館から少し離れた庭の樫の木の下で本を読んでいたところに使者が来て、「陛下、たった今、あなたは女王になられました」と告げられた。
その場所が左の樫の木の下だと言われる。この時エリザベスは25歳であった。


エリザベス1世は大英帝国の礎を築いた女王で、学問の才に優れ、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語を流暢に話せ、多くの改革を実施し、69歳で死去した。彼女は結婚話は何回かあったが、一生独身を通した。

左の樫の木は2代目で、約30年前に枯れ、エリザベス皇太后により、同じ場所に植えたものだと言う。
6/5 (火)  Diamond Jubilee 

ロンドン、英エリザベス女王の即位60周年を記念する祝賀行事の最終日、ロンドン中心部セントポール大聖堂(St Paul's Cathedral)での礼拝や,,そこからバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)までの馬車のパレードが行われ、それを見にロンドンに行った。

スティーブニッジ駅(Stevenage Station)より、ロンドンのキングス クロス(King's Cross Station)駅まで電車で行き、地下鉄を2回乗換えて出たのが、右の写真の通り、ビッグベン(Big Ben)のすぐ近くであった。

このビッグベンが近い将来エリザベス タワー(Elizabeth Tower)という名前に変わると聞いた。

ビッグベンを背景に

エリザベス女王即位60周年行事
午前の礼拝では ウイリアムズ・カンタベリー大主教が国民と女王の自身の幸福をたたえた。大聖堂前では集まった数千人の市民が、スピーカーからの音に合わせて国歌「ゴッド・セーブ・ザ・クイーン(God Save the Queen) 神よ女王を守りたまえと合掌していた。

この間に女王が馬車で通る沿道には、近衛兵、軍隊のパレードが続き、沿道の市民の目を慰めてくれていた。
女王ら一行はウェストミンスターホール(Westminster Hall)で昼食会に参加後、バッキンガム宮殿まで(Buckingham Palace)馬車でパレードをしたが、右、及び下の写真は、その時の一瞬のシャッターチャンスであった。
エリザベス女王のパレード
(ロールオーバー効果)

エリザベス女王のパレード
60年の長きに渡って英国を治めた君主で、ダイモンド・ジュビリー(Diamond Jubilee)を迎えたのはビクトリア女王(Queen Victoria) に次いで、エリザベス女王が史上二人目で、この期間、多くの植民地の独立や第2次中東戦争、フォークランド紛争などがあり、エリザベス女王(現在86歳)はまさに偉業な事業を実施した。

バッキンガム宮殿(Buckingham Palace)のバルコニーに女王、チャールズ皇太子、カミラ夫人、ウイリアム王子、キャサリン妃、ヘンリー王子が姿を見せた。

その頃、宮殿の上空では空軍が編成飛行を披露され、祝賀行事のフィナーレを飾った。右の写真はその時の編成飛行で9台の飛行機が、違った色を噴出し、宮殿の上空 及び 我々の上空を飛び去って行った。

編成飛行

バッキンガム宮殿
(ロールオーバー効果)
バッキンガム宮殿まで(Buckingham Palace)の馬車のパレードが通り過ぎると、沿道の市民は宮殿に行く人、帰る人等で沿道は身動きが出来ないほど混雑し、警察による交通整理が行われ、我々の目的のバッキンガム宮殿まではなかなか行くことが出来なかった。

パレード時は雨は降っていなかったが、バッキンガム宮殿へ行く途中から雨が降りだし、又、多くの市民が道路を占有し、バッキンガム宮殿まで行くことを断念し、帰宅をした。

帰路、ロンドンの日本食店で日本食材を買い、中華料理を食べて帰路についた。
右の写真はロンドン キングス・クロス駅(King's Cross Stastion)の内部で、1852年に開業した主要鉄道のターミナルである。

ロンドン中心部の外縁部、キングス・クロス地区のユーストン・ロードとヨーク・ウェイの交差部にある。、

キングス・クロス駅

近くのパブ
6/8 (金) Drinking

家内と娘、千恵子はロンドンに買い物に出かけたため、息子、Gregと私は近くのイギリス風のパブに飲みに行った。左の写真はそのパブの前である。
パブではGregがビールを旨そうに、沢山飲んでいたが、私は1杯と半分位で十分であった。
飲むGreg
(ロールオーバー効果)

ネブワースハウス
6/9 (土) Visit to Knebworth House

千恵子の友達、スコットランド出身のクレアさんが訪問し、千恵子の運転でスティーブニッジ(Stevenage)の近くにあるネブワース ハウス(Knebworth House) に行った。

左 及び下のの写真がその全景で、非常に大きな館で、門から屋敷までの道は延々と続き、かなりの距離があった。
ウイリアム1世時代、1027〜^1087)の時代には既に建っており、持ち主が代わるたびに、その都度改装され500年前、「ペンは剣より強し」の有名な戯曲のフレーズを書いた、ブルーワー・リットン男爵の手にゆだねられ、現在もデイッド・リットン・ゴボルド卿が家族と共に館に住んでいる。
ネブワースハウス

ネブワースハウス
左の写真は屋敷の前で撮った記念写真で、ゴシック様式の屋敷の建物は広く、部屋を飾る装飾品も見事(室内は撮影禁止)で、広大な庭の手入れも行き届いていて、とても美しかった。
屋敷の維持には、莫大な費用がかかり、この屋敷の芝生では、ローリングストーンズやポール・マッカトニー、オアシス等のコンサートが開かれたこともあると言う。又、バットマンやハリーポッターの映画の舞台として使われたと言う。
ネブワースハウスの庭園
クレアさんは日本に4年滞在したとのことで、東京の地名等は良く知っていた。

夜は家内が作った日本食を喜んで食べてくれ、色々談笑した。彼女がスコットランドから持ってきてくれた42度のスコッチウイスキーは息子Gregも流石、飲めなく、苦笑していた。勿論、私も飲むことは出来なかった
6/10 (日) Mr. Simon Le Bon's Home

ロンドンに住む、サイモン・ル・ボンさん(Simon Le Bon)の招待で彼の家を訪問した。彼は1980年代ロック・バンドの一つで、数多くのヒット曲をリリースしてきたデュラン・デュランのリードボーカルである。又奥方はスーパーモデル、ヤスミンさん(Yasmin)で、二人とも現在も活躍されている。サイモン夫婦と子供二人を含めて、歓待してくれた。

紅茶、ケーキを頂き、雑談後、サイモン夫婦で大きな庭を案内して頂き、日本のモミジ、メキシコから持ってきた彫刻のある椅子、又、サイモンさんのお母さんにも紹介して頂き、室内を案内して頂いた。

この間に多くの写真を撮って、楽しい思い出の写真が撮れた。右の写真はサイモン邸宅の前での記念写真である。帰りにはサイモン家族が玄関まで来て、見送って頂いた

サイモンさんの家

サイモン・ジョン・チャールズ・ル・ボンSimon John Charles Le Bon1958年10月27日 - )は、イングランドのバンドデュラン・デュランのボーカル、シンガーソングライター。



サイモン夫妻により彼の庭園を案内された。広大な庭園に流石、一流のロックバンドのリーダーであることを感じた。
左より、サイモン、小生、ヤスミン、家内。
サイモンの庭園で二人の記念写真を撮った。  
   家内とヤスミンの記念写真。
サイモンによる庭園の説明を受ける小生。   
   庭園で4人の記念写真を撮った。左よりサイモン、小生、ヤスミン、妻登志子。
サイモン家族の大きな邸宅の前に、可愛い家があった。そこにサイモンの母親、アンが一人住んでおり、訪ねて一緒に写真を撮った。   
   サイモンの母親、アンさんの案内で彼女の部屋を案内された。サイモン男小さい時の写真が多く飾ってあった。
サイモンの隣の敷地で記念写真。左より筆者、ヤスミン、妻、登志子、サイモン。   
   
サイモン家族と一緒に記念撮影サイモン、ヤスミン夫妻には3人の娘がいた。
サイモンさん宅を辞してから、ロンドンの一画で、娘、千恵子が10代の頃、英会話勉強の為、ホームスティーしたところの叔母さん、アナ、アンドルさんと待ち合わせして、サンデーランチを取りながら談笑した。

彼女には一人息子のロバート(左下の写真)がいて、我々がイギリスに行くことを聞いて、非常に楽しみにしていてくれた。 しかし、、急遽、2ケ月前、心臓病のため逝去した。享年29歳で、あまりにも若い、短い生涯であった。

アナ、アンドル(Ana Andall)さんに、この場で、謹んでお悔やみの言葉を述べた、彼女の眼には涙が滲んでいた。
 
 アンドルさんとの昼食
   
ロバート(Robert) 熊谷堤防の桜下と日光華厳の滝

生前の頃、(約9年前ー2003年)、来日し、日本の色々な場所を訪れた。勿論、埼玉県北本市の小生宅にも泊まり、一緒にビールを飲んだり、北本付近の散策、熊谷堤防の桜を見に行ったり、又、日光見物をした。彼は気さくな好青年で、一緒に過ごした楽しい思い出が沢山あり、非常に残念である。

ロンドンを背景に


アナ、アンドルさんは先生をしていたとのことで、彼女の英語は綺麗で聞き易かった。上の写真は、レストランの前、そして、左の写真はロンドンの街並みを背景に、アンドルさんと千恵子である。
アンドレさんと別れてから、家内と千恵子はデパート、ハロッズに買い物に行った。

私は別行動をして、大英自然史博物館(Natural History Museum) に行った。 サイモンさんに、ここを見るにはどれくらいの時間が必要かと尋ねたら、しっかり見るとすれば、1日〜2日は必要と聞かされていたが、その通り、自然史系博物館としてはイギリス最大であるのみならず、世界でもトップクラスである。 ここは大英博物館(British Museum)の一部として始まったとのことで、1881年に分離し、大英自然史博物館となった。

大英博物館は16年前(1996年)、イギリスに行った時2日間、見に行った覚えがある。

大英自然史博物館玄関

大英自然史博物館内部
(ロールオーバー効果)
大英自然史博物館の入口から直接繋がる中央ホールには恐竜の全身骨格が展示されていた。左の写真がそれで、ディプロドクスである。

この博物館は7,000万点以上もの収蔵品からなり、レッド・ゾーン、グリーン・ゾーン、ブルー・ゾーン、オレンジ・ゾーンの4つに別れており、地球の光景、化石海生爬虫類、恐竜、人の生物学、野生生物等のことを知ることが出来る。
これは、レッド・ゾーンの地球の光景、地球の今日、明日、そして人の始原よりの場所である。

これだけの、収蔵品を2〜3時間、で見ることは不可能で、特に興味のある恐竜、マンモス、地球の生い立ち、人類の始まり、色んな鉱物資源等を重点的に見てきた。

大英自然史博物館内部

バルセロナ空港の屋外
6/12 (火)  Spain  Barcelona

我々夫婦と娘夫婦4人でスペイン旅行に出かけた。早朝、家を出て、スタンステッド空港(London Stansted)までGregの運転で行き、Lv.8:35 FR9810便でバルセロナに向かって飛び立った。 

約2時間40分程度のフライトで、現地時間12時15分に到着した。イギリスは涼しかったが、スペイン バルセロナに着き、空港の外に出たら、相当暑かった。しかし、湿度が低いことから、日影に入るとそれほどの暑さは感じなかった。

左の写真は、Diputacio地区にあるホテルに行く方法を探して、バスでホテル近くまで行った。
ホテルの前での記念写真で、チェックインの時間前に行ったが、快くホテルに入れてくれ、荷物を部屋に保管して、早速、バルセロナの観光に出かけた。
ホテル

グエル公園
地下鉄を利用して、最初にグエル公園(Park Guell)に行った。地下鉄の駅より、この高台のグエル公園までは坂道が多く大変であった。

左の写真はグエル公園の入り口で、英国式庭園住宅に憧れた資産家、グエルは住宅地として15ヘクタールの土地を用意し、何の制限も課さずガウディ(1852~1926年)にこの庭園住宅の設計を依頼した。しかし、売りに出した60件の住宅のうち、売れたのはガウディと友人のグエイ伯爵だけであったという。、1922年に市がこの敷地を買い取り、公園とした。
右の写真は中央広場の屋上 破砕タイルのベンチに囲まれた屋上から撮ったもので、ディズニーが影響を受けたというのも納得できる可愛い建物があり、守衛室と住宅管理事務所となる予定であったが、今はガウディの美術館(左側)及び売店(右側)になっている。

又ここから、バルセロナの街が一望出来、遠くには地中海が望めた。

グエル公園頂上よりバルセロナ市街
(ロールオーバー効果)

グエル公園内ガウディー美術館
左の写真も同じく中央広場の屋上からガウディの美術館を中央に撮った写真で、バルセロナの街 及び 地中海が望めた。

ガウディはアントニオ・ガウディ(Antoni Placid Guillem Gaudi i Cormet)と称し、1852年〜1926年 スペイン、カタルーニャ出身の建築家で、19世紀から20世紀にバルセロナを中心に活躍した人である。
           
これは、ガウディ美術館の前で撮った記念写真である。可愛いデザインの建物であった。
グエル公園内ガウディー美術館

グエル公園内売店
この建物は、売店になっており、中にはガウディに関する色々なものが売られていた。
中央広場の大階段の途中に鎮座するトカゲの噴水で、写真を撮った。この公園では有名な施設だと言う。
グエル公園内トカゲの顔の前で

グエル公園内ガウディー美術館を背景
ガウディ美術館をバックに4人の記念写真である。
グエル公園の一画に、石を組み合わせて造られた柱の回廊は不思議な空間で、4人の一人一人が柱の横に立った記念写真である。
不思議な回廊

市内バスに乗って
地下鉄から長い道を歩き、更にグエル公園までの坂道 及び公園内を沢山歩いたため、相当疲れてきた。公園を下がった道路で次の目的、カサ・ミラ、カサ・バトーリョに行くバスを探し、そこから、バスで目的地近くまで行った。

バスは写真のように2台のバスをジャバラで繋ぎ合せたスペイン独特のバスで移動した。


次のガウディのデザインした建物はいずれも現役に使用されており、内部には入れず、道路を歩きながら、外観のみ眺めたものである。
カサ・ミラ(Casa Mila)はバルセロナのグラシア通りに面した所にあり、カサ・・バトリョ(Casa Batllo)が完成したあとの1905年から1907年にかけて、実業家、ベレ・ミラとその妻ルゼー・セギモンの邸宅として建設された。この時ガウディは54歳であった。

ガウディが手掛けた最後の私邸で、施主の住居といくつかの家族が暮らす集合住宅となっている。1984年に世界遺産に指定された。

カサ・ミラ

カサ・ミラのアップ
この建物のアップして撮ったもので、直線部分を全く持たない建造物で、壮麗で非常に印象的な建物である。
カサ・バトリョ(Casa Batllo)はガウディの代表的建築の一つに挙げられ、建物全てが印象的なデザインになっており、かなり見応えがある。

外壁を覆う動物の骨のような独特のデザイン、その上の階に貼り付けられた無数の青タイル、全てが強烈な印象を与える。夜には美しくライトアップされ、昼間とは全く違った様相を呈し、無数のタイルがキラキラと青い光を反射し、まるで海に潜っているかのような感覚に陥ると言われる。

カサ・バトリョ

カサ・バトリョのアップ写真
その建物のアップで撮影されたものがこの写真で、まさにその通りであった。

残念ながら、中には入れず、外観を見て通り過ぎただけであった。
6/13 (水)

今回のバルセロナの一番の目的はサグラダ・ファミリアSagrada Famillia)を見学することで、ホテルより地下鉄を乗り継いで来た。

このサグラダ・ファミリアSagrada Famillia)駅の階段を登ると、そこには壮大な建造物が聳え立っていた。

サグラダ・ファミリア地下鉄駅

サグラダ・ファミリア
正しくはサグラダ・ファミリア贖罪聖堂(Temple Expiatori de la Sagrada Famila)と言われ、サグラダ・ファミリアとは「聖家族」の意味で、聖母マリアの夫ヨセフ(スペイン語でサン・ホセ)が信仰する教会として、1882年に着工した。翌1883年、前任者が辞任したことによりガウディが引き継ぐこととなった。

大聖堂の建築にたずさわることを夢見ていたガウディは、これを奇跡として喜び、晩年は他の仕事から一切手を引いてサグラダ・ファミリアに専念した。


完成すると18本の塔がそびえる予定だが、現在までに完成したのは12本で、ガウディの生前にできあがったのは1本だけだったと言われる。

兎に角、壮大な建築物で、全体を表現させる写真の撮影は非常に難しく、色々な角度から写真を撮った。
カタロニア・モダニズムの最もよく知られた作品で、バルセロナ市シンボルであり、線密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、放射線状的な構造のアーチや、鐘楼に据えられた自然主義と抽象主義の混在する彫刻などで、大胆な建築様式を誇っている。

東側の生誕のファサードでは、キリストの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。

この建築物は3つの門によって構成され、左門が父ヨセフ、中央門がイエス、右門が母マリアを象徴する。

中央の門を構成する柱の土台には変わらない象徴として亀が彫刻され、中央の柱の土台には林檎をくわえた蛇が彫刻され、又門の両脇には変化するものの象徴としてカメレオンが配置されている。

サグラダ・ファミリア

サグラダ・ファミリア
西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。

かっては完成まで300年はかかると予想されていた工事だが、スペインの経済成長や入場料収入などに支えられて進捗は加速されており、ガウディ没後100周年目の2026年には完成すると言われている。が、人によってはまだ、100年は必要と言っている人もいる。
この建物の一画ではクレーンが取り付けられ、工事の真最中であることが伺われた。
中央門の上に彫刻されたイエスすキリスト像である。
サグラダ・ファミリアの彫刻
(ロールオーバー効果)

サグラダ・ファミリアの内部
内部は今も建設中で、その空間はかなり個性的で、ステンドグラスはカタルニャーの芸樹家によるものである。

柱には天井を支える最適の場所で、枝分かれのの節目が設けられ、強度的な配慮がされている。
ガウディは柱を樹木に見立てて、教会内部に森林を創ろうとしたという。

又、丸天井にはシュロの葉の形をした細工が施されていた。

サグラダ・ファミリアの内部

サグラダ・ファミリアの内部
(ロールオーバー効果)
内部では、多くの観光客が見物しており、又、多くの信者が椅子に座って、お祈りをしていた。

我々の後ろには多くの観光客と お祈りをする椅子が沢山あった。
このサグラダ・ファミリアの内部には、 エレベーターが設置されており、天辺(地上65m)に行くことが出来る、時間指定の切符を買い、案内人を入れて、6人しか乗れない小さなものであった。右の写真はその天辺のエレベーターを降り、少し移動した所から、バルセロナの全貌を写真に収めた


息子、Gregは塔の内部にある、かなり狭い回り階段をところどころで写真を撮りながら下まで歩いて降りてきた。

サグラダ・ファミリア地上65mよりバルセロナ市街
(ロールオーバー効果)

サグラダ・ファミリアを見て
サグラダ・ファミリアの見学にかなりの時間を費やし、又 あちこち歩き回ったため、疲れ果て、サグラダ・ファミリアの道路を挟んだ直ぐ前のレストラン、それを屋外の道路際の席で休息と昼食を取った。

ツアーの団体旅行ではなく、気ままな旅であるため、自由に時間が使え、少し離れた所からであるがサグラダ・ファミリアの壮大さと、数多くの彫刻に改めて感嘆した。
バルセロナのランブラス通りを少し入ったところにグエル邸(Palau Guell)があった。 色々なところを廻ってきたので、ここに着いたのは閉館まじかであったが、担当者の好意で、観光客が少なくなった邸内を見学できた。

右の写真はグエル邸の全貌で、屋上にはキノコみたいななものが沢山見えた。


グエル邸はガウディの作品の中で、ほぼ唯一彼によって完成され、その後も大幅な改築工事がなされていない作品である。

グエル邸

グエル邸玄関
これはグエル邸の玄関で、バルセロナの街の中心、ラバル地区の新居の建築を実業家のエウゼビ・グエル伯爵がガウディに依頼し、1890年に建設されたものでガウディの初期の傑作で、建物内部の装飾はアルハンブラ宮殿の影響を受けたと言われている。

正面玄関は馬車が出入りするため、大きく作られており、馬は石畳の坂を下りて地下の馬小屋で休むようになっている。
グエル邸の屋上には、右の写真のように、異様な形のものが沢山出ているが、これはいずれも空気抜けの煙突である。
グエル邸屋上

グエル邸屋上
左の写真、そして右下の写真も屋上の異様な空気抜きの煙突が建っていた。
大きな煙突の側で、記念撮影をした。
グエル邸屋上

カタルーニヤの街中
6/14 (木)

チェックアウトし、荷物はホテルに保管してもらい、地下鉄でカタルーニア広場(Placa de Catalunya)で降り、カタルーニヤーの街中 及び 路地を散策した。この地区はバルセロナの中心と考えられており、観光地でもあり、又 都市交通の拠点でもある。、

中世、バルセロナが城壁に囲まれていた時代があった。 19世紀、市域を拡張するために取り去られたが、場所によってはその名残が見られるところがある。
カタルーニヤの街に一歩入ると、色々な古い建物、寺院が見受けられた。

カタルーニヤはスペイン北東部、ピレネー山脈の南に位置し、地中海に面する。スペイン国内ではバレンシア州とアラゴン州に接する。ピレネー山脈でアンドラとフランスに接している。
カタルーニャ(Catalunya)という名が使われ始めたのは12世紀である。スペイン辺境伯領を成立させた小さな伯領の塊を指す言葉であった。この伯領は徐々にフランク王国から独立していく。

右の写真、下の写真ともカタルーニヤ広場を散策中に、見つけた古いカテドラル、古い建物である。
左の写真もバルセロナ、カタルーニヤ地域の古い建物である。

カタルーニャ州は、3つの地理区分に分けることができる。フランス国境ともなっている北のピレネー山脈、地中海沿岸にあるカタルーニャ海岸山脈と平地に挟まれた部分、中央部のセントラル盆地である。

カタルーニャ州内の最高峰は、ピレネー山中にあるピカ・ダスタツは3,143mである。18世紀までカタルーニャ最高峰とされていたカニゴー山は、2,785mである。カタルーニャの州内を、西から東へと大河エブロ川が流れ、ムンシアーで地中海へ注ぐ。

これも、散策途中のカテドラルの内部写真である。



9月11日は、ここカタルニアにとっては重要な日。“カタルニアの日”だ。 長い間、スペインの中のカタルニア州として、バスク地方同様、スペインの経済を支え続けてきたカタルニア。新たなヨーロッパ国家としてスペインから独立をかちとろうと言うスローガンのもと、カタルニア史上最大のデモ集会化した。 


ピカソ美術館内
今日の最大の目的地、ピカソ(Pablo Picasso)美術館の見学であった。 ピカソ(1881年〜1973年)はマラガ(スペインの南部)に生まれ、世界に誇る偉大な画家の1人で、多感な思春期をバルセロナで過ごした。バルセロナのピカソ美術館は、世に稀に見る天才画家の才能が花開く寸前のスケッチなどの作品に触れることが出来た。

残念ながら館内は撮影禁止で、左の写真のようにピカソの写真ががある場所での記念写真だけである。
これは、ピカソ美術館の中庭で撮った写真で、建物の造りも一風変ったものであった。

ピカソ美術館は世界の色々なところにあるが、天才画家の花開くバルセロナの美術館は、彼を知る上で非常に大きな収穫があった。

ピカソ美術館内庭

バルセロナ市街
ピカソ美術館を出てから、カタルーニヤ地域の道路に接した場所で、軽食と休養を取った。

スペインは日陰に入ると湿度が低いためか、余り暑さは感じなかった。
右の写真、上記に記したバルセロナの城壁の一部で、19世紀、市域を拡張するために、そのほとんどが取り去られた。
城壁跡

バルセロナ大聖堂
これは、バルセロナ大聖堂(Catedral de Santa Eulalia)で13世紀末に建築が開始され、15世紀にほとんど出来上がり、正面ファサードだけがようやく19世紀に完成をみた建築物である。、
内部はカタルーニヤ・ゴシック様式でまとめられ、中央祭壇下にはバルセロナの守護聖母サンタ・エウラリアが眠る白い大理石の墓があった。


地下鉄でホテルに戻り、荷物を受け取ってから、バルセロナ空港に行き、Lv. 22:00 FR9815便でイギリスのスタンステッド空港に着いた。イギリス現地時間、23時20分、大雨で非常に寒かった。家へはそれから車で40分程度走った到着した。、

バルセロナ大聖堂内部

アンドルさん訪問
6/15 (水) English Mother

6月10日、ロンドンで一緒に食事をしたアナ・アンドルさんが犬、フューイを連れて遊びに来た。つい先日、約2ケ月前、息子ロバートを亡くした為の寂しさからか、千恵子との交流が多くなったという。千恵子も時々、ロンドンにある彼女の家に泊まりにいく。

今日はその悲しも顔に出さず、家内の作った日本食を喜んで食べてくれていた。
人生には色々な出会いがある。娘、千恵子も10代の頃、単身で英会話勉強のため、初めてイギリスに渡り、ホームステイーしたのが、このアナ・アンドルさんの家で、それ以後20年以上連絡を取り合っているという。千恵子が初めて行った時、彼女の息子、ロバートはヤンチャ坊主であったが、その縁で、大学生の頃、訪日し、勿論、その時埼玉県北本市の小生宅にも泊まり、一緒にビールを飲み、色々な所へ連れて行った。その時の出会いが、今度の我々の訪英で、ロバートは勿論小生も楽しみにしていたが、残念ながら突然の逝去でそれも叶わなかった。

国境を越えての出会いも、お互いに心が通じ合えば、いつまでも続き、日本語の一期一会を大切しなければならないと痛切に感じた、

庭での遊び

庭での語り合い
アン・アンドレさんは、息子、ロバートが日本を訪れ、色々な所に行ったが、何時か、日本を訪問しロバートが訪れた各所を見たいと熱弁を奮っていた。

左の写真は子を持つ母親として、彼女と家内は娘を通訳に色々なことを語っていた。 勿論、アン・アンドルさんが日本に来るときは一緒に娘、千恵子も来ると言っていた。
6/17 (日) Switzerland Zermatt


早朝、Gregの車で、ルートン空港(Luton )に行きLv.7:25 Flight 205便でスイスのジュネーブ コアントラン空港(Switzerland Geneva Cointrin)に向けて飛び立ち、約1時間45分のフライトで、現地時間、10時10分に到着した。

そこから、今度は列車に乗換えツエルマット(Zermatt)まで、約3時間46分の列車の旅が始まった。右の写真は列車に乗り込む我々である。

列車は空港から出ており、Lv.12:27、列車IR1727で出発した。

SBB、スイス国鉄

SBB、スイス国鉄列車内
列車内は思っていたより空席が多く、我々は地図で見たとおり、景色の良い進行方向に対して右側の席を取った。
ジュネーブ空港駅を出発し、ジュネーブ駅を過ぎて、少し走った頃より、進行方向右側にレマン湖(日本語、英語ではLake Geneva)が見えてきた。

レマン湖はスイス 及び フランスに跨る、中央ヨーロッパのうち二つめに大きい三日月型の湖で、約15,000年前の氷河期の後、ローヌ地方の氷河によって削られて創られたと言われている淡水湖である。

レマン湖

フィスプ駅構内
(ロールオーバー効果)
ジュネーブ空港駅からの列車はSBB(スイス国鉄)で、フィスプ(Visp)の駅までで、ここからツエルマット(Zermatt)までは、狭軌の私鉄、マッターホルン・ゴッタルド鉄道になり、列車番号R245に乗り、マッター谷を登っていく山岳鉄道の旅で、距離の割には時間がかかった。

氷河急行の乗り換え駅で、かなり混雑すると思ったが案外構内は閑散としていた。ここフィスプの標高は1,278mで、ツエルマットは標高1,620m、約、342mの勾配を登っていくことになる。

左の写真の後にはアルプスの雪を残した山が見え始めてきた
流石、スイスは時計の国であり、時刻通りの16時13分にツエルマット(Zermatt)に到着した。

ツエルマットはスイス ヴァレー州の名峰マッターホルン(Matterhorn)の山麓にあり、フランスとイタリアの国境に接しているスイス屈指の山岳リゾートで、アルプス観光の中心地のひとつである。 言語はドイツ語で町は小さく4,000人程度あるしかし ジュネーブ空港での入国審査官はメルシーと言ってフランス語を使用していた。場所によって、スイスはドイツ語、イタリア語、フランス語 そしてロマンシュ語が使われいると聞いて納得した。

ツエルマットは標高1,620mで寒いと思っていたが、ここに到着した頃は上着も必要なく暑くもなかった。

ツエルマット駅
(ロールオーバー効果)

ツエルマット駅前
ツエルマット駅の前で、我々を歓迎しているのか、若しくは 何かの祭りかは知らないが、左の写真のようなパホーマンスが行われていた。理由はともあれ、我々のツエルマット訪問を歓迎しているようで気分よく、楽しく見ることが出来た。
ツエルマット駅から、町の方へ、3〜4分歩いたところに、2日間泊まるホテル「Hotel Restaurant Derby」があった。そこにに荷物を置き、直ぐに散策を始めた。

右の写真はホテルの前で撮った写真で、建物全体に花が飾られ、綺麗なホテルであった。

ホテル前

ツエルマット村
(ロールオーバー効果)
ツエルマットの街の谷間にはマッター・フィスバ川が流れており、ゴルナー氷河の溶けた水が流れ白く濁っていた。、

今日はこの川のツエルマット駅側の街を散策した。教会、そして ホテル等の建物が沢山あった。

この写真は日本人の人が自主的に好意で撮ってくれたもので、ここツエルマットは日本人が非常に多く、街を散策していても、何回か日本語が耳に入ってきた。
家内と千恵子が駅前の店で買い物中、駅前のベンチで休んでいたら、街の長老が、私を直ぐに日本人とみて話しかけてきた、彼の言うことには夏は日本人は非常に多いが、冬はほとんど来ないと言っていた。
夕食はホテル「Derby]のレストランでスイスビールとスイス料理を注文し、スイスの一刻を楽しんだ。
ホテルのレストラン

ツエルマット村
6/18 (月)

ツエルマットに来た最大の目的は、ゴルナーグラート(Gornergrat)展望台からアルプスの全体を眺めることで、昨日、ゴルナーグラート鉄道のツエルマット駅(GGB)に下見に行った時、午後からの登頂は運賃が半額近くになることを発見し、我々は午後の登頂を決めた。

午前中は、マッター・フィスバ川に対して、昨日とは反対側のツエルマットの街を散策した。
散策中、地元に住む女性の方に、ツエルマットの撮影スポットを聞いたところ、マッター・フィスバ川に架かる橋の上からが良いと聞き、そこへ行き、川とマッターホルンを背景に記念撮影をした。
ツエルマット村

ツエルマット村
散策中、昔のスイスの家屋を見つけた。左の写真がそれである。ここツエルマットは日本の妙高市と友好を結び、友好の証の碑も見受けられた。又 駅より少し奥に入った所に「妙高」と言う名前の日本レストランもあった。

ツエルマットには山岳博物館があり、そこには過去にマッタホルンに登った人々の歴史や野生動物、18世紀の民家などが残されているというが、左の写真は街の通りの少し奥にポツンと古い家が残っていた。
午後ゴルナーグラート(Gornergrat)展望台に行くため、ゴルナーグラート鉄道のツエルマット駅に行き、安いチケットを買い求め、登山電車に乗った。ツエルマットとゴルナーグラートを結ぶ、登山鉄道は長さ 9Km 軌間はメーターゲージで、全線でアプト式ラックレールが敷かれたものであった。、ツエルマットの標高は1,620m、ゴルナーグラートの標高は3,089mで、1,469mの落差を登ることになる。

この線には7ケ所の途中駅があり、自由に乗り降りでいるようになっている。

登山電車駅

登山電車の中
流石、午後からの登山電車は空いていた。

ツエルマット駅ーフィンデルバッハ駅ーリッフェルアルプ駅ーリlテュェルボーデン駅ーリッフェルベルク駅ーローデンボーデン駅ーゴルナーグラート駅と続いており、終点のゴルナーグラート駅から展望台は坂道を少し歩くことになる。。
右の写真は、フィンデルバッハ駅付近からツエルマットの村を眺めた写真で、かなり奥地まで民家、若しくは宿があった。
登山電車の列車内よりの村

登山電車改札口
各駅には左の写真のように自動改札ゲートがあり、自由に乗り降りでき、途中下車し、街まで歩いて行く人、ひと駅下山して次の登山電車で帰る人、又 その駅で途中下車し、付近を散策して 又 同じ駅で下山する人と様々な方法を取ることが出来る。下山道路は整備されており、足の強い人には良いハイキングとなろう。
終点のゴルナーグラート駅を降りた前の広場には、有名なアルプス ハイジの物語に出てくるヨーゼフの犬が待ち構え、営業の写真を撮っていた。こっそりその犬の写真を撮ったのが右の写真である。

ここから少し登ると天文台を備えたホテルがあり、その上が展望台となる。

犬の撮影営業
(ロールオーバー効果)

ゴルナーグラート展望台
左の写真がホテルを備えた天文台で、その後に頂上だけ雲に隠れた名峰マッターホルン(Matterhorn)、 標高4,478mが望めた。

マッターホルンはスイス側にはツエルマット、イタリアが側にはBreuil−Cerviniaの町がある。マッターホルンと言う名称はドイツ語で牧草地を表す「Matt]と山頂を表す「Horn]に由来しているという。
ゴルナーグラート展望から見渡す360度の展望は素晴らしいの一言である。

アルプス山脈の29の4,000m級の峰といくつかの氷河に囲まれており、モンテローザ 4,634m、リスカム 4,527m、ブライトホルン 4,160m等があり、眼下にはゴルナー氷河を始め何本かの氷河が流れ下っている。

ゴルナーグラート展望台

ゴルナーグラート展望台
ゴルナーグラート展望から、違う角度の峰を写真に収めたが、残念ながら、頂上は雲の隠れて見えない峰もあった。

この展望台で一時間余も過ごし、マッターホルンの頂上を見ようと待ったが、最後まで頂上は姿を現さなかった。
ツエルマットの中央を流れる川、マッター・フィスバ川もここのゴルナー氷河を始め、いくつかの氷河の溶けた水が流れ込んでいる。
氷河

途中駅下車
登山電車で下山途中、、リッフェルアルプ駅で途中下車し、付近の散策とマッタホルンとホテルを背景に記念写真を撮った
途中下車した場所から、頂上に向かう登山電車の写真を撮った。急勾配でアプト式ラックレール方式(レールとレールの間に歯形が切りこまれたレールが敷かれ、電車の回転ギア‐と噛みあわせて走る方式)でなければ困難な所である。
登山電車を見て

途中駅下車
又 別の場所、リッフエルベルク駅で途中下車し、少し下まで散策した。そこには小さな池があり、マッタホルン(Matterhorn)を映し出していた。又、駅前には牛の像が建てられ、このモニュメントの牛と、マッターホルン そして ホテルを背景に写真を撮った。
ゴルナーグラート鉄道のツエルマット駅前、即ち、私鉄マッターホルン・ゴッタルド鉄道のツエルマット駅の横に、沢山の電気自動車のタクシーが並んでいた。 

ここツエルマットは環境保護のため、内燃機関を搭載した自動車の乗り入れは規制されており、代わりに電気自動車、馬車が使用されていた。  そのためか、道路のあちこちに馬糞が転がっていた。

電気自動車タクシー

朝焼けマッターホルン
6/19 (火)

 
ゴルナーグラート展望台では見ることが出来なかったマッターホルン(Matterhorn)の頂上であったが、今日、早朝、6時少し過ぎにホテルのベランダに出てみたら、雲ひとつない、朝焼けに色を染めた名峰マッターホルンを見ることが出来た。その写真が左である。
更に時間が過ぎ、7時頃には太陽が登り、真っ白なマッターホルン(Matterhorn)を写真に収めることが出来た。しかし 8時頃には、太陽の光の熱と気流の問題からか、雲が発生し頂上が隠れてしまった。

折角ここまで来て、名峰の全貌を眺めることが出来ないとなると残念だが、ラッキーにも、雄大な名峰マッターホルンの全貌を見ることが出来た。なかなか全貌を眺めることは難しいとのことである。

マッターホルン

ツエルマットのお別れ
今日はスイスを横断し、ドイツのミュンヘンに行く予定で、私鉄マッターホルン・ゴッタルド鉄道のツエルマット駅より列車 R230,Lv.09:39にツエルマットを離れた。左の写真は列車内からの記念写真である。

フィスプ(Visp)でスイス国鉄(SBB)の列車 IC823の指定席に乗換え、更にチューリッヒ(Zurich)で乗換え、列車 EC1950指定席に乗換え、ドイツのミュンヘン(Muenchen)に向かった。


約8時間09分の旅で、飛行機と違い車窓より、あちこちを眺め、あまり退屈はしなかった。
ほとんど予定通り、17時48分にミュンヘンHBF(Muenchen)に到着した。列車を降りるとドイツは暑かった。右の写真はミュンヘンHBF駅構内での写真である。
ドイツ、ミュンヘン駅構内

ホテル
ホテル アンバ(Hotel Amba)はミュンヘン駅の直ぐ前で、道路を一本隔てたすぐ近くあった。

部屋に入ったが、案外狭く、又 空調もなく予想外であった。 良いところは、駅に近く、明日からの旅に好都合な場所であった。


早速、ホテルに荷物を置き、ミュンヘン駅付近の散策と、明日のツアーの発着場所、カールシュタット(Karstadt)総合デパート前を確認してから、ドイツの名物、ソーセージ等を買って簡単に済ませた。
6/20 (水)  Germany Muenchen

インターネットで申し込んでおいたリンダーホーフ城とノイシュバンシュタインン城のツアーに行くため、8時にカールシュタット総合デパート前に行った。

2台の観光バスが待っていてくれ、1台は英語圏の人、もう1台は日本人、スペイン人、イタリア人等が混ざっていた。2階建ての観光バスの2階部分はほとんど日本人が占め、20人位いた。

ドイツの郊外を走り、最初に着いたのは、ドイツ バイエルン州南西のオーバーアガウ近くに位置するリンダーホーフ城で、右の写真はその城に行く前にある売店である

リンダーホーフ城手前の売店

リンダーホーフ城
リンダーホーフ城(Schloss Linderhof)はバイエル王ルートヴィヒ2世(Ludwig U)が建設した3つの城のうち、唯一完成した城である。1874年に建設が開始され、1878年に完成した。彼は長い期間、そこで過ごした。

建物内は撮影禁止で残念であったが、日本人だけが集められ、室内の説明はスピーカーからすべて日本語で説明された。
建物内部はロココ様式の豪華な装飾があり、庭園内には金色の女神像の噴水がある。右の写真は丁度、女神像から噴水が出ている写真である。
リンダーホーフ城庭園

リンダーホーフ城
リンダーホーフ城(Schloss Linderhof)はヴェルサイユ宮殿内のトリアノン宮殿を手本にして建てられたルネサンス様式の建造物であるが、ただ 模倣して建設されただけはなく、バロック様式を加味するなどの装飾が加えられたルートヴィヒ2世(Ludwig U)の作品である。
オーバーアマガウ(Oberammergau)はバイエルン州の最南端、ドイツアルプスの北麓にある村、オーストリアの近く、冬は美しい雪につつまれてメルヘンの世界を作り出すところで、そんな雪に埋もれた村に温かみをもたらそうと、多くの家々に描かれたフレスコ画が大変美しく、この村の異色の雰囲気を作り出している、この村にバスを止め買い物をした。
フレスコ画

ホーエンシュバンガウ城
バスはシュバンガウ(Schwanguu)の街で駐車し、ここから、ノイシュバンシュタイン城に行く。後ろに見えるのはホーエンシュバンガウ(Hohenschwanguu)城でルートヴィヒ2世の父親、マクシミリアン2世が建てたもので、ルートヴィヒ2世も幼年時代をここで過ごした。シュバンガウと言う地名は「白鳥の里」と訳される。
       
      この城はノイシュバンシュタイン城の眼下にある。
ノイシュバンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)を撮影する絶景の場所にシャトルバスで近くまで行き撮った写真が下である。

ディズニーランドのシンデレラ城のモデルにもなったというこの美しい城はバイエル王国の国王ルートヴィヒ2世(Ludwig U 1845年〜1886年))によって(右下の写真)建てられ、幼い頃から絵画や音楽を好んでいた。彼は18歳という若さで、人生経験も政治経験もないまま国王の座につき、プロイセンとの戦いに敗れて多額の賠償金を請求され、バイエルン王国は権威を失っていった。

芸術を心から愛し、中世の騎士伝説に強い憧れを抱いて、争いや政治という現実から逃避していき、次第に自分だけのファンタジーの世界に生きるようになり、昼間眠り夜に活動する、夜中に伝説の人物の恰好をして橇に乗るなどと言う行動が、彼独自のファンタジーの世界で、1886年6月13日、医師と共に湖で謎の死を遂げた。彼は結婚話もあり、式も決まっていたが破棄し、一生独身を通した。 享年40歳。

撮影絶景場所

ノイシュバシュタイン城 別名 白鳥城
橋の上から撮ったノイシュバシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)で非常に美しい城であった
        

 バイエル王国の国王ルートヴィヒ2世(Ludwig U)
下の写真は空から撮ったもので、非常に美しい城である 右の写真は残念ながら雨に降られ、橋の上での家族記念写真である。。

       

ノイシュバシュタイン城

ノイシュバシュタイン城
雨の中を絶景地の橋から歩いて15分位で城の入口に到着した。ここも時間指定の室内見学で、雨の中、入口付近で時間の来るのを待った。

ここも、日本人は一緒に纏められ、日本語のイヤホーンを貸し出され、それを聞いて、各部屋を回った。ここも内部は撮影禁止で、残念であった。、
右の写真は、入口付近から内部を撮った写真で、中世騎士の城をイメージし、贅を尽くして建てられた神秘的なメルヘンチックな城であった。

外観の美しさに負けず劣らず城の内部はまさに博物館のようで
各部屋ごとの壁や天井にはワーグナーの劇場の場面が見事に描かれており、調度品も実に素晴らしいものであった。

特に記憶に残るのは国王ルートヴィヒ2世の寝室で、ベッドが非常に大きく、彼は大柄で、体長は191cmもあり、同時代の人の中では特に大きかった。若い時は美男子の定評も高く、婦人たちの憧れの的であったという。
孤独な国王は豪華な寝室を特に好み、後期ゴシック様式で、樫の木にはふんだんに彫刻が施され、ベッドの天蓋、洗面台、読書椅子、中央の柱が特に見事である。

ノイシュバシュタイン城

ノイシュバシュタイン城
王の住居の入り口の間、王座の広間、食堂、礼拝堂、更衣室、居間、洞窟と冬庭園、執務室、歌人の広間と控えの間、歌人の広間、調理場等いずれも豪華で素晴らしかった。

国王ルートヴィヒ2世はノイシュバシュタイン城(Schloss Neuschwanstein)を含めて、3か所の城を作った。最初に訪れたリンダーホーフ城(Schloss Linderhof)もその一つで、その他にヘレンキームゼ城、構想だけのファルケンシュタイン城もある。このためルートヴィヒ2世は多くの資金を必要としたが、それも続かなくなり、死後も多くの借金を残したという。
6/21 (木)


昨日の大雨が打って変ったように、ミュンヘンはよい天気になった。ミュンヘンHBF駅、即ち、ホテルの近くの地下鉄似乗り、2つ目の駅を降り、階段を登ると、右の写真の通りマリエン広場(Marienplatz)とゴシック様式のミュンヘンの象徴的な新市庁舎がそびえ建っていた。

マリエン広場は東西南北の交易路が交わり、ミュンヘンの街が誕生した時からの中心的な役割を果たしてきた広場で、中世には市場が立ったり、騎士の馬上試合などの競技も行われたそうで、そのシーンは新市庁舎の仕掛け時計に名残を残している。


マリエン広場

新市庁舎仕掛け時計
新市庁舎はルートィッヒ1世(Ludwig T)の命により、1867〜1909年にかけて建設されたネオゴシック様式で、迫力ある正面壁面にはバイエル王、寓話や伝説の英雄、聖人などの像が飾られている。

11時少し前にここに着いたため、11時まで待ち、仕掛け時計を見た。多くの観光客が待機し、動き始めるのを見守っていた。
マリエン広場から細い路地を抜けたところに、聖ペーター教会(St..Peter's Church)がある。11世紀に建てられミュンヘンで最古の教会で、何度も改修されゴシック、ルネサンス、バロック様式などが混在する教会で、スリムな塔が特徴である。
.

聖ペーター教会

聖ペーター教会の内部
聖ペーター教会(St..Peter's Church)の内部は撮影出来き、左の写真は色々な建築様式が混在する内部である。
聖ペーター教会内部 上の写真と同じく壮麗であった。
聖ペーター教会の内部

テアティナー教会
1663年に着工し6年後に完成したイエローの鮮やかな外壁が印象的な、ミュンヘンでも最も美しいと言われるテアティナー教会(Theatiner Kirche)の写真が左である。これはドイツで最高のバロック様式と言われている。
十字形の平面建物に71mの高さを誇る壮麗な円蓋や塔を加えた教会はイタリア人建築家のアゴステノ・バレッリによるものだと言う。

正面ファッサーデには、聖フェルディナンド、聖アーデルハイド、聖マキシミリアン、そして 聖カイエタンの彫刻が大理石で造られ、飾られている。
テアティナー教会の左側に建てられているのは、将軍堂ルートヴィヒT世の命を受けて、1841年〜1944年にかけて建てられた高さ20mの弓型の殿堂で、アーチの左側にあるのは30年戦争で活躍したティリー将軍の銅像、右側はフランスと戦った、ヴェルデ将軍で、中央には1870〜1871年の普仏戦争の戦勝を記念したバイエル軍隊祈念碑が設けられている。
将軍堂
テアティナー教会の前を通る、テアティナー通りの一画に左のような像が立っていた。

鼻先は多くの人が触っていると見えて、テカテカに光っておったが、我々もそこを触って記念写真を撮った。
マリエン広場付近を散策し、ホテルから荷物を受け取り、地下鉄でミュンヘン空港に行ったが、空港の忙しさから、1時間遅れで、Lv.18:20 Flight5384で、イギリスのガトウイック空港(Gatwick Air Port)に向かった。約2時間のフライトであった。

更にガトウイック空港では乗客も多かったが、入国検査官が少なく、1時間以上も待たされ、やっと到着ロビー似出たら、Gregが我慢して待っていてくれた。

地下鉄内

バラ園
6/23 (土) Midlands Area in England


4人でイギリスの北の方向に向かって車を走らせ、北緯52度40分のテルフォード(Telford)にある、娘、千恵子の幼友達、玉手博美宅に行った。

直ぐに近くにある大きなバラ園、David Austin Rosesと言う店を訪れた。

ここには、多くのバラの種類があり、我々の訪英記念として一本バラを買い、千恵子夫婦の庭に植えることにした。バラの種類はイングリッシュローズのジェフハミルトンと言う。 命名「テート」。
バラ園入口

バラ園内部
バラ園内で、娘、千恵子と幼友達、博美のショットである。
6/24 日)


翌日、博美夫婦宅の前で記念撮影をして、その家族の案内により、ここ、テルフォード(Telford)付近の名所を案内してもらった。

博美宅

食器店内部
最初に行ったのは食器の店、Stoke−on−Trent言うところで、流石、北緯52度40分の場所であるのか、非常に寒かった。

この陶器店では暖房が焚いてあり、皆が買い物をしている時、暖房に当たって暖を取っていた。
次に行ったのは、テルフォードの南を流れるセバーン川に架かるアイアンブリッジ(Iron Bridge)であった。
この付近はアイアンブリッジ渓谷と言われ、この川に架かるアイアンブリッジは世界で最初の鉄の橋で、約200年前以上の時を経ても、当時と変わらぬ姿を残している。

この辺りは鉱山があり、鉄を溶解するための燃料となる木々があり、そして、川は火を起こすための水車を回す推力を生み出し、18世紀末には世界一の規模を持つ製鉄所を持つ街となった。製鉄業の発祥の地、即ちイギリス産業革命の発祥の地である。

アイアン ブリッジ
この写真は、アイアンブリッジの上で撮った写真で、バックには鉄で栄えた街の風景が見える。
これも同じところで、街は裕福に見えた。

チャッツワース ハウス遠景
その後、ベイクウエル(Bakewell)地域、北緯53度12分にあるチャッツワース ハウス(Chatworth House) を訪れた。英国貴族の豪邸と壮大な庭園を持つ所を訪れた。日曜日には家族連れで多くの人が遊びに来ていた。

全ての所で撮影が可能で多くの写真を撮った。

このチャッツワース ハウス(Chatworth House)は、ォンシャー公爵(Duke of Devonshire)の屋敷である。ベイクウエル(Bakewell)よりすこし南下したダービシャー(Derbyshire)にォンシャー家の先祖、ウイリアム キャヴェンディッシュ(William Cavendish) が、伯爵家を興したとき、すでにダービー伯爵家があり、その為、デォンシャー伯爵家を名乗ることにした。その後、オレンジ公がイギリス王位に関する功績があったため、公爵の地位を賜り、その時に、このチャッツワースに豪邸と広大な庭園を設けたと言う。。

右の写真は、この豪邸の入り口付近である。

チャッツワース ハウス玄関

チャッツワース ハウス内部
控え目な外観の豪邸と異なり、内部は豪華絢爛で、素晴らしい天井画、、迫力ある壁画、そして、色々な装飾品が設置されていた。
これらの壁画も素晴らしかった・
チャッツワース ハウス内部

チャッツワース ハウス内部
素晴らしい、室内で家族の記念写真を撮った。
食堂の食卓も豪華で素晴らしいものであった。
チャッツワース ハウス内部

チャッツワース ハウス全景
庭園にはいくつもの像が建てられ、広大な屋敷が伺える。
庭園の奥の方から、別の角度で撮影した、豪邸の全景である。
チャッツワース ハウス全景

チャッツワース ハウス
一緒に訪れた全員の記念撮影である。
広大な敷地の中には、人工の川や池、滝があり、又 所々に彫像があった。
チャッツワース ハウス庭園


チャッツワース ハウス庭園
この広大な庭園は美しく、刈り整え芝生は上質のカーペットのようにどこまでも続いていた。
庭園の一画に、右の写真のように、面白い恰好をした木々があった。
チャッツワース ハウス庭園

チャッツワース ハウス全景
人工の川、そして人工の散策道があり、、豪邸ははるか遠くにあり、如何に広大な敷地であることが分かる。
博美家族と分かれて、我々はレデッチ(Redditch)にあるTravelodgeに着いた。

ここは「B」(Bed)だけで、朝食もないロッジであった。夕食はこのロッジが経営するすぐ隣のレストランで取った。

B&B

ブロードウエイの村
6/25 (月) Cotswolds Area in England

ロッジを9時半に出て、コッツウォルド(Cotswolds)地方のイギリスの古い街並みを走ろ予定をした。 この地方はイギリスの中央部に広がる標高300m以上に達する丘陵であり、時として、イギリスの中心と呼ばれる。又、この地方は古い歴史を持ち、羊毛の交易で栄えてきた。現在でも古いイギリスの面影を残した建物を見ることが出来る。

その一画、ブロードウエイ(Broway)で、昨日、分かれた博美とその子供二人と待ち合わせをした。左の写真はブロードウエイの街で古い家を背景に撮った写真である。
右の写真も、このブロードウエイの街中で見つけた電話ボックスで、記念の為写真を撮った。
ブロードウエイの村

ドーバース ヒル
チッピング カムデン(Chipping Camden)の外れにあるドーバース ヒル(Dover’s Hill)を訪れた。

ここは素晴らしい眺望で、眼下にはコッツウォルズ(Cotswolds)地方が眼下に広がっていた。 又、この広い草原には沢山の羊がいた。
羊が沢山寝そべっていた。沢山の羊があちこちにいて、草を食べている羊、この写真のように寝そべっている羊もいた。
ドーバース ヒル

チッピング カムデンの村
チッピング カムデン(Chipping Camden)の街での写真で、建物は古いイギリス家屋であった。
ここもコッツウォルド(Cotswolds)地方の一画で、バートン・オン・ザ・ウォーター(Burton on the Water)と言う。水深わずか10cmほどの小川が村を縫うように流れて、川沿いには、17世紀頃の石造りの家々が並んでいた。

この地方で、最も美しい村がここだと言う。

バートン・オン・ザ・ウォータ−の村

バートン・オン・ザ・ウォータ
これはバートン・オン・ザ・ウォーターに架かる橋の上で、博美の子供と3人で手を天に向けての記念写真である。、
この川沿いを散策し、記念写真を撮った。
バートン・オン・ザ・ウォータの村

バイブリの村
(ロールオーバー効果)
ここもコッツウォルド(Cotswolds)地方の一画で、著名な詩人・芸術家であるウイリアム・モリス(William Morris 1834〜1896年)がこの地に住み、この地方で一番だと称賛した村、バイブリー(Bibury)である。

家は石造りで、庭には沢山の花が咲きほこっていた。非常に美しい光景であった。

この家の前、村の中心にはコルン川が流れており、水草がゆらゆらと川の中で揺れていた。又 水鳥の保護地域になっており、川には鳥が餌を探していた。
バイブリーを代表とする景観で、14世紀に建てられた石造りのコテージが並んでおり、古いイギリスの一画が偲ばれる。
          
         ウイリアム・モリス(William Morris)

バイブリの村

バイブリの村
バイブリーの石造りの家並みを散策して、この付近を堪能した。

ここで、博美家族と分かれ、我々はスティーブニッジ(Stevenage)の家に向かって、帰路についた。
帰路途中、同じく、コッツウォルド(Cotswolds)地方になるバーフォード(Burford)に立ち寄った。

この地は急斜面の両側に、由緒ある石材造りの家並みが広がっていた。

17、18世紀の外観そのままで、家の入口は綺麗なバラの花が植えてある家が沢山あった。

バーフォードの村

バーフォードの
そのバラのあるバラのある家の前で、取った写真が左で、この急斜面を下って行くと、川に架かる中世風の橋があると言う。
今日は最後の晩餐のつもりで、家の近くになったレストランで、ビールとイギリス料理を食べ、イギリス中心部の旅行の疲れを癒した。
最後の晩餐

植栽
6/26 (火) Planting


バラ園、David Austin Rosesで買ったイングリッシュローズのジェフハミルトンのバラを娘夫婦の庭の一画に、4人で植栽をした。

命名「テート」

玄関側の庭のバラ、ラベンダーそしてその他の花も綺麗に咲きほこっていた
玄関側の庭園

玄関のバラ
6/27 (水)  The Last Day 


5月28日、ここに来た時は玄関のバラの蕾も固かったが、1ケ月間が過ぎた、帰国の日には、写真のように見事に満開にになり、我々の日本への帰国を見送っているようであった。

息子、Gregの運転でロンドン ヒースロー空港まで送ってもらい、我々二人の4つのスーツケースを持っていってくれ、チャックインも娘がしてくれた。娘夫婦は出国審査の所まで見送ってくれた。

チェックインで、我々が4つの荷物を預けたので、気を利かして、成田空港で、手助けをする申し入れがあり、有り難くそれを受けた。
イギリス ヒースロー空港(Heatfrow Air Port)を NH202 Lv.19:35の機内に乗り込んだ。右の写真はサンセットを機内から撮影したもので、夕日を見ながら眠りについた。

成田空港近くになったらCAが席まで来てくれて、成田空港の手助けの人を紹介してくれた。その人は手荷物までも持ってくれ、勿論、スーツケースも運んでくれ、国内便のチェックインまで連れて行ってくれた。


中部国際空港も同じように手助けをしてもらい、迎えに来た息子、和彦に荷物を渡してくれた。
 孫、花乃も迎えに来てくれ、1ケ月ぶりに会った。

サンセット
(ロールオーバー効果)

訪れた場所 (Visited places)

トップページ戻る