バリ島 ジャワ島

成田空港にて
8月29日(月)

 成田空港 11時発 ガルーダ・インドネシア航空、GA−881で一路バリ島のデンパサール空港に向けて、約7時間の飛行時間の旅に飛び立った。
快晴の空は我々の旅行を歓迎しているようであった。
成田空港離発着の混雑

 成田空港の離発着便は多く、滑走路までは次から次への並び、5分前後の間隔で離陸していた。
 我々の飛行機の直ぐ後ろにも後便が続いていた。

成田空港の発着状況

フィリピン諸島の上空にて
上空よりのフィリピン諸島

 
成田空港を離陸し、4時間前後飛行した頃、上空約11,000mの位置よりフィリピン諸島を見ることが出来た。フィリピンは7100の島々を持ち、我々が見たのはその中の1つの小さな島であった。

フィリピン諸島は太平洋西部、台湾とボルネオ島・スラウェン島の間にある島々で、おもな島は北部のルソン島、南部のミンダナ島、その間のサマル島・レイテ島・ミンドロ島・パナイ島・ネグロス島,西部のパラワン島などでフィリピン共和国が構成されている。その中のどれかだったかも知れない。
天候が良く、島々付近の海が非常に綺麗に見えた。
デンパサール空港
 リゾートとしてインドネシアの中で最も有名なバリ島はジャワ島の東に連り、17,508ある島々の中でも小さく、四国の1/3くらいで面積は5561kuである。
約30の州の中ではジャカルタ州、ジョグジャカルタ州に次いで小さい州であるが、人口は3百万人弱、人口密度は約500人/kuと山の多い島の面積の割には過密な地域である。

バリ(Bali)の語源はサンスクリット語のワリといわれ、ワリとは捧げるという意味である。
イスラム教以前の東南アジア海域を席捲したヒンドゥー教はこの小さい島に逃れてバリ独特の文化を醸し出した。今では、「地上最後の楽園」「活きた博物館」「神々の島」「天にもっとも近い島」「不思議の王国」「神と華の島」「妖精の島」「祈りの島」「恍惚の島」「神と芸術の島」「地球の臍」「祭りと芸能の島」「陶酔の島」「悪魔の島」「癒しの島」……と限りなく多くの言葉がある。

バリ島 デンパサール空港

ジャワ島が見える海岸のホテルで夕食
バリ島西海岸

 
バリ島はバリ海峡を挟みジャワ島と対面し、海峡の巾は3qにすぎないが、速い潮流と珊瑚礁の複雑な海底地形のため航行は難しい所である。 しかし、海上交通の障害をものともせずにマジャパヒト王国以前からバリ島は海峡を経てジャワ島からヒンドゥー教とヒンドゥー文化をそっくりバリ島に移転した。

しかし、ジャワ島がイスラム教に改宗してからはバリ海峡の潮流を盾にジャワ島から隔離し、独自の文化を熟成させた。遣唐使を廃止した日本の平安時代、鎖国令を出した徳川時代と同じで、ジャワ島とは付かず離れずの関係を保ち、今日に至っている。

バリ島はこのような状況で、独自の文化を支え、発展してきた
そのバリ島の西海岸、トウバン(Tuban)地域のラマダバリビンタンホテルのビーチ沿いでサンセットを眺めながら、インドネシアビール「ビンタン」を飲みながら夕食をとった。心地よい風が海面の方より吹いていて、快適な時間を持った。 園内は多くの南国の木々に囲まれその中を散策した。

           

ジャワ島が見える海岸の夕日

アストンホテル全景
8月30日(火)

 
バリ島、ヌサドゥア(Nusa Dua)地域のアストンホテル (ASTON BALI RESORT & SPA)へは昨日の遅くについた。 早朝、ホテルのベランダより眺めたホテルの景観は南国の情緒を味わえる風景であった。

 ここ、ヌサドゥア地域はバリ島の東海岸、かつ、島の南側に位置し、南国の風が快く吹き、バリ島の生活臭とは隔てられた最上のリゾート地であった。 ホテルの前にはプールがあり、更にその前には白砂のビーチが広がっていた。
 ホテルの中庭には椰子の木をはじめ、多くの木々、花が植えられている。朝、少しホテル付近を散策し、バリ島の民族舞踊観賞に出かけた。

 
その地は、ヌサドゥア地域より車で約1時間北方面に走ったウブド郊外のバトゥブラン村であった。田園風景のなかに、凧がはためき、穏やかな村だ。南北に走る道が、デンパサールとウブドを結んでおり、道の両端には、椰子の木 黒い屋根に、煉瓦色の家が立ち並び、南国の情緒をかもし出していた。

アストンホテル中庭

バロンダンス演奏者
バロンダンス(BARONG DANCE)

 
ガメランというバリ島独特の楽器を使用して行われる踊りで、人の心の中には良い魂と悪い魂がいつも混在していると信じられ、この心の中にある善悪の心の戦いを演じているものである。 結果として善悪両者とも決着のつかないまま生き残ると言う内容であった。

 踊りに登場するバロンという動物は良い魂を、ラングという動物は悪い魂を持ち、この両者の戦いで、喜劇的にまとめられた物語である。
物語の内容はサワデ王子がバタリドルガという死神の生け贄として捧げられる運命にあるということから始まる。

登場人物はサワデ王子の母親、女王、召使、魔女、サワデ国の主首、シワーの神様、死神の弟子であった。
 バロンは、バリ人にとって宗教的かつ神聖なもので、人間の叡智をもってしても解決できない問題が起こった時、彼らはバロンをよりどころとしている。バロンは神と同一視され、ご神体(ススォナン)として扱われている。ご神体のバロンは「ラトゥ・サクティ=Ratu Sakti」とバリ人は呼ぶ。

 ほとんどのバロンは、動物の面(木彫り)に胴体がついたもので、魔術的な力が宿っていると信じられている。

 バロンの起源は仏教の伝来と密接な関係があり、中国や日本の獅子舞にも影響していると思われる。

バロンダンス舞台

バロンダンスの踊り
 ススォナンとなったバロンは、普段はダラム寺院の祠に保管されていて、オダラン(寺院祭礼)の時に祠の扉が開かれ、祠の前に村人の平和を見守るかのように安置される。
そして、奉納の舞いや祖霊を迎えるガルガンの祭りで辻々を巡って除霊する時にも、祠から出される。バロンが祠から降ろされたら、そばにいる人々はすみやかにその場に坐るなどして、低い姿勢にならなければならない。人間はバロンより高い位置にいてはいけないと言う。

 奉納舞踊やこうした儀式でのバロンの踊りは、バロン・ダンスとは言わず、バパン(bapang)・バロンと呼ばれている。そして踊り手は、ジュル(juru)・バパンと呼ばれる。

 
 ススォナンになるバロンの面は、神霊がやどっているとされるポレーの大樹やジュプンの老木が選ばれる。木を切る前には厳粛な儀式がおこなわれ、彫刻家は神聖な寺院の中で彫刻作業し、作業前には、必ずマンディで身を清め、神にお祈りを捧げる。浄化された身体になってはじめて彫刻に取り組むことが出来る。

 彩色には、天然の顔料を使い、何度も何度も塗り重ねていく。 面に神様を迎えてススォナンとする儀式のことをupacara pangekehanというそうだ。入魂されたあと、ダラム寺院に保管される。これらの一連の作業は、すべてバリ・カレンダー(ウク歴、サカ歴)に基づいて良い日が選ばれると言う。

バロンダンスの踊り

バロンダンスの演奏者と一緒に
ガメラン奏者と一緒に記念撮影

ガメラン奏者は舞台の右手の建物の中に10数名が笛等色々な楽器を奏でていた。 その中で、リーダー的な、前列一番上手にいた笛の奏者が我々の記念撮影依頼に快く承諾してもらい、一緒に舞台を背景に撮影した
バリ島の道路街並み

 バロンダンスを観賞後、右の写真のような町並みを走って、チュルク村の銀細工、及びコーヒー工場を訪れ、バリ島のキンタマニコーヒーを購入した。

          
                コーヒー店にて

バリ島の街並

免税総合店 プラザバリにて
免税総合店 プラザバリ

 昼食を兼ねて、買い物にバリ島の繁華街にあるプラサバリに訪れた。 玄関にはバリ島の人の心に宿るバロンの像が飾られていた。

2時間前後、ここで時間を費やし、早々にホテルに戻った。
リゾートのビーチ遊び

 
アストンホテルの中庭からはプール、それを出ると白砂がいっぱいのビーチであった。早速、水着に着替え、南国の午後を楽しんだ。

部屋からは、プール その先にビーチが広がっているのが見えた。

アストンホテル前のビーチ 遠浅の海であった

アストンホテル内のプール
 ホテルの中庭は 夜になると多くのテーブルがこの付近に運ばれ、沢山のご馳走が並び屋外パーティーが開かれ、多くの泊り客で賑わっていた。

多くの外人、そして相変わらず、多くの日本人もいた
 ビーチの椅子を陣取り、日傘の下でゆっくり流れるバリ島の時を楽しんだ。

思ったより暑くなく快適な時間を過ごした。南洋と言えども、風が通り快適であったかも知れない。

アストンホテルの中庭

アストンホテル前のビーチ 夫婦で
 午後4時頃は丁度、潮がひいた状態で、広い白砂が広がり、海は遠浅で、200m以上沖に行かないと泳げる状態ではなかった。

バリ島の満潮は夜9時頃で、このときは浜辺直ぐ近くまで潮がきていた。 朝は各種のモーターボート等が走り回っていた。

残念ながえら、南洋の海で、自在に泳ぐことは出来なかった。只、水溜りで体を浸す程度あった。
 浜辺ではゆっくりした時間の流れの中で、人々は思いのままの時間を過ごしていた。

特にバリ島の凧売りが歩いていた。

アストンホテル前のビーチ

アストンホテル前のビーチ 夫婦で
 椅子に寝そべり、ノンビリ本を読んでいた白人系の人もいた。我々はその中の1箇所を陣取り、綺麗な浜辺で我々の時間を大切にした。

日本では考えられない、ゆったりした時間の流れであった。
 ベンチでの休息は快適であった。
アストンホテル前のビーチ 千恵子


アストンホテルのプール
 結局、海での泳ぎは断念し、プールでの遊びとなった。深いところは1.7m程度あった。、
心地よい温度と、南国の風が気持ちよかった。
アストンホテルのプールで遊ぶ二人

アストンホテルプールで登志子、千恵子
泳ぎを楽しんでいる家族。
 プールの中より、飲み物が買えるバーもあった。 水の中に椅子が造られており、ここに座って飲むことが出来る。
ココナッツの実もおいてあり、この実を割ってジュースを飲むことも出来た。

          

アストンホテル海岸方面全景

アストンホテルでの夕食
アストンホテルの夕食 

 昼間のバリ島ツアー、買い物、そしてホテルでの泳ぎでの適度の疲れを、海風が運んでくる潮の匂いを味わいながら、ホテル内で夕食をとりながら回復していった。

8月31日(水)

 今日は1日自由行動、朝食後、ビーチを散歩したが、流石、 朝は涼しく、プール、海岸とも泳いでいた人はいなかった。

ここ バリ島は適当な風がいつも吹いており、蒸し暑さはなかった。快適な朝の散歩を楽し
んだ

我々の部屋より千恵子
我々の部屋

 
娘がベランダから手を振っている。 ここからは、ホテルの中庭とプールが望め、目を少し上げると、バリ島、東海岸の白砂のビーチが望めた。
 今日は娘、千恵子の誕生日、 午前中にバリ島の繁華街の方で4時間半コースのエステに付き合った。流石、男性は少なく、やや恥ずかしかったが、体の疲れをほぐす良い初めての体験であった。

夜は娘の誕生日祝いで、ちょっと豪華な、コンラッド・バリ・リゾート&スパのビーチ沿いのレストランを予約した。右の写真は昼間のホテルの景観である。場所は我々が宿泊したバリ島、ヌサドゥア地域のアストンホテルより、車で5分程度行ったところにあった。

千恵子の誕生日祝い夕食
 そのレストランは白砂ビーチの直ぐ隣に建てられ、海を見ながら、食事が取れる場所であった。
誕生日とあって、チョット豪華なロブスターを娘は頼んだ。

 このバリ島にきて、驚いたことにホテル、レストラン等に行けば、殆ど日本語が通じた。勿論、英語も通じ、コミニュケーションには不自由はなかった。
このレストランでは80%が日本人と言う。当然、日本語が通じることについて納得がいった。

食事終了後、レンストラン側の親切で、ケーキも出された。
アストンホテルに帰ると、更に部屋にホテルからの誕生日祝いのケーキが置かれてあった。 都合、我々が購入したケーキを含め、3つのケーキを食することになった このような地域の人は、人の特別な日を大事にする習慣があるようだ。
        

千恵子の誕生日ケーキ
9月1日(木)

 今日は夕方、ジャワ島に移動する日で、それまでは自由行動であった。ホテル提供のエステ、50分コースを満悦し、買い物、付近の散策を楽しみ、夕方の5時頃ホテルを後にした。
アストンホテルの入口

 
後ろ髪を引かれる思いで、アストンホテルの玄関を後にした。 道路は現在、側溝工事中で、通行にはなかなか大変な状態であった。この道路は昨夜、この付近の散策で道路の悪さを経験済みであった。

近い将来、きっと綺麗な道路に変わるであろう。

アストンホテルの玄関

ジョグジャカルタ空港
ジャワ島、ジョグジャカルタ空港到着 

独立戦争最中の苦難の時期,,ジョグジャカルタはインドネシアの臨時首都であった。 又、 氷河時代にはインドネシア周辺の海は干上がり、島々はつながって「スンダ大陸」を形成していたと言う。この豊かな古代大陸には前期旧石器時代からずっと人類が住み着き、人類進化の一大舞台となったところである。

100〜65万年前には中部ジャワのサンギランに「ピテカントロプス・エレクトゥス」と呼ばれる原人(ジャワ原人・・現在はホモ・エレクトスという))が存在し、旧石器文化を保持していた。 
   @猿人→A原人→B旧人→C新人
時代が経過し、20〜15万年前になると、旧人段階に相当する「ソロ人」が、やはり中部ジャワのソロ川流域に住んでいた。
 
 ピテカントロプス・エレクトゥスと言うのは「言葉を持たないサル的な人」と呼ばれ、以前は、人類アジア起源説が唱えられていたが、現在は人類アフリカ説が有力である。
「シナントロプス・ペキネンシス」と呼ばれていたペキン原人と同一種でジャワ原人の体型はペキン原人に比べ背が高く、細身で肌は黒か褐色であったと言われる。このような体型の方が熱を発散し易く、熱帯地方に向いていたものと思われる。
その地、ジョグジャカルタの繁華街で中国料理を取った

                    

ジョグジャカルタの中華料理

ボロブドゥール遺跡の全景
9月2日(金) ボロブドゥール遺跡訪問

 ジョクジャカルタ市の西42km、椰子の樹海広がるクドゥ盆地西南の、やや小高い丘の上にボロブドゥール遺跡があった。
遺跡は世界最大の仏教遺跡、一辺が120mもある基壇の上に9層の構築物が重なりピラピッド型の巨大建造物が構成され、8世紀に造られたと考えらており、歴史に現れたのは19世紀の初頭、探検家として有名なイギリスの提督ラッフルズによる偶然の発見であった。

ジャワ島の歴史は、紀元前後から稲作農耕が盛んで、特にジャワ中部は広大な平野が開け、広い田んぼを切り開き、多くの人口を養うことが可能で、ジャワ島で最初に巨大な国家が出現するのも、中央ジャワの平原でサンジャヤ王朝であった。
 ところが、サンジャヤ朝の発展は8世紀中頃、唐突にストップし、同じジャワ中部に突然勃興した「シャイレーンドラ」という王朝に圧倒されてしまったのである。
周辺諸国を荒らすだけ荒らし回ったシャイレーンドラ朝は、有り余ったエネルギーと財力を国内に費やし、仏教の大寺院の建設を始め、それが有名なボロブドゥール寺院である。

世界最大の大乗仏教遺跡ボロブドゥールは、ジャワ中部クドゥ盆地の小高い丘にそびえ立つ、シャイレーンドラ王朝の記念碑とも言うべき巨大なモニュメントである。


暁のポロブドゥール寺院を探索するため、メリア プロサニ ジョグジャカルタ ホテルを午前4時頃に出発し、まだ暗い5時少し過ぎに、階段の少ない裏側より頂上に上った。

ボロブドゥール遺跡の頂上 早朝

ボロブドゥール遺跡
の日の出
 頂上よりムラピ山に向かっての日の出直前の記念撮影をした。娘の頭の上の山、即ち、ムラビ山がこの遺跡を現在の形に残した最大の要因である。

午前6時頃、ムラビ山より日の出が上がった。 日本でのご来光と同じようにここ異国の地、ジョグジャカルタの遺跡の頂上で、厳粛な気持ちでご来光を迎えた。
 

  
 

 全体は、自然の丘を200万個の石(粗い黒灰色の安山岩ブロックでおおって作った9段の階段状ピラミッド型石造構築物で、なかなか凝った演出を見せてくれた。まず、下6段の方形基壇の回廊壁面に彫られたレリーフ(浮彫)を見て回るうちに自然とお釈迦様の一生を学びぶことが出来る。
そして、続く上3段の同心円壇では、小型ストゥーパに入った多数の仏像が立体マンダラとなって、涅槃の境地へ至る解脱を疑似体験できる仕組みになっている

。       


ボロブドゥール遺跡

ボロブドゥール遺跡
 但し、ボロブドゥールは一貫された設計思想のもとに建築された構造物ではなく、建設は780年から833年まで50年以上かかり、その間工事は5期にわたって断続して行われ、その都度デザインが変更されたと言う。

設計が変更された理由は、石の重みに地盤が耐えられず、崩壊の危険が出てきたとのことである。
 回廊壁面に彫られたレリーフ(浮彫)はお釈迦様の物語っていた。 そして、この回廊壁面一周に彫られていた。
         

しかし、おごれる者は久しからず。シャイレーンドラ王朝の黄昏は思ったより早くやってき
た。

ボロブドゥール遺跡の彫刻

ボロブドゥール遺跡の前で私、千恵子、登志子

 海外での覇権は、9世紀の初めには早々と失われ、 カンボジアでは、ジャワから帰還したクメール王ジャヤヴァルマン2世が802年、「ジャワの支配を断ち切る」と高らかに独立を宣言、アンコール王朝を開いて後の最盛期の基礎を築いた。

国内でも内紛があったらしく、急速に勢力を失っていき、832年にサマラトゥンガ王が死ぬと、その子は王位を継ぐには幼すぎたので、その姉プラモヴァルダーニが摂政に就いたが、実権はその夫ラクリヤーン・ピカタンに移った。ところが彼は、例のサンジャヤ王家出身だったので、中部ジャワの覇権は次第にサンジャヤ王朝の手に戻されていった。
そして、832年以降、シャイレーンドラ王朝は碑文からも中国史料からもすっかり姿を消してしまった。
 

 これに呼応するように、833年を最後にボロブドゥールの改修工事も最終的にストップした。

その後ジャワ島では仏教は衰退に向かった。たまたまムラピ山が爆発し、このように大きな建造物も埋もれて歴史から忘れ去られていた。これは火山の噴火の大きさよりも仏教からヒンドゥー教、さらにまたイスラム教と入れ替わる“文化の断絶”の厳しさを思わせるものである。  ボロブドゥール遺跡が現在のような形で残ったのは最もよい保存方法として土の中に埋められていたからである。もしも火山の爆発がなくて火山灰に埋もれなかったならば、灼熱、風雨の自然破壊に耐えられただろうか

 その後には、中部ジャワにはサンジャヤ王朝が復興し、ボロブドゥールに負けない石造大寺院群プランバナンが建設された。


ボロブドゥール遺跡全景

ムンドゥット寺院
ムンドゥット寺院

 近隣のムンドゥット寺院、バウォン寺院は、一直線上に並んで建っているので、これらは複合建築群(コンプレックス)を形成していたと思われるが、失われた遺跡も多く、今となってはボロブドゥール・コンプレックスが本来どのようなプランのもとに建てられようとしていたのかを知るよしもない。

しかし、確かにここには時代を超えた古代のロマンが存在していたことが感じられた

 

 近隣を荒廃させたシャイレーンドラ王家が、こんな巨大な建物を建立するほど熱心な仏教徒だったとは呆れてしまうが、ボロブドゥールを建設したのは信仰心からというよりも、国内外のライヴァルを威圧し、感嘆させるためだったような気もする。

この壮大なロマンの横の広場には、南国の情緒をかもし出す見事な菩提樹があった。 お釈迦さんが悟りを開かれた場所が菩提樹の下という言い伝えがある。 何かその言い伝えと関連があるかも知れない

菩提樹

インドネシア日本友好親善の碑
インドネシア日本友好親善の碑、
 
ムンドゥット寺院の直ぐ裏手に 1985年2月建立の「インドネシア日本友好親善の碑」があった。日本とインドネシアは太平洋戦争の攻略以後、インドネシアの独立を含めてきわめて深い関係にあった。

 日本軍のインドネシア攻略は1942年1月のカリマンタン島そばのタラカン島奇襲上陸と、スラウェシ島メナドへの落下傘部隊降下で始まり、3月1日にジャワ島に上陸した部隊は9日には早くもオランダ軍を全面降伏させた。これはインドネシアの人々にとっては驚異で、インドネシアを300年にわたって支配したオランダが、たった1週間で降参することなど、信じがたいことであった。

 人々は救世主の到来と信じ、日本軍をマタラーム王国以来の紅白旗と国歌「インドネシア・ラヤ」の大合唱で迎えたと言う。 日本の占領統治は3年5ヶ月に過ぎないが、この3年5ヶ月ほどインドネシアの歴史を大きく変えた期間はない。それほど日本の統治がインドネシアの社会に与えた影響は大きなものであった。 ジャワを占領した日本陸軍第16軍はさっそくスカルノやハッタらを解放し、将来の独立の約束と引き替えに日本軍政への協力を取り付けた。 同時にインドネシア民衆の歓心を買うため、さまざまな懐柔策が採られた
ホテルメリア プロサニ ジョグジャカルタ(MELIA PURSANI YOGYAKARUTA)

 暁のボロブドゥール遺跡を見学後、現地で揚げバナナを食して、再度ホテルに戻り朝食を取った。

少しの時間を、近隣の散策、及び ホテル内の散策をし、英気を養った。

ホテルはブリンハルジョ市場の東。王宮まで1キロ足らずでマリオボロへも近く、ロケーション良く、”歩ける街ジョグジャ”を堪能するのに最適な ダウンタウンに位置する高級ホテルであった。


ホテルメリア プロサニ ジョグジャカルタ

ホテルメリア プロサニ ジョグジャカルタ

ホテル内はプールもあり、中には南国の椰子の木等が景観を高めていた。

ホテルの直ぐ前では、土曜日でもあり、多くのイスラム教の信者が集まり礼拝場でお祈りをあげていた。 礼拝場からはボリームいっぱいのコーランの音楽が流れていた。

午後からジョグジャカルタ市内見学及びプランバナン寺院群の見学に出かけた。

ジョグジャカルタ市内ツアー

 「インドネシアの古都」といわれる古い街だ。日本の京都とは姉妹都市である。右の写真はホテルからの街並みで、そういえば京都に似たひなびたの趣がある。

マタラーム王国は18世紀前半に3回も王位争いを繰り返してオランダ東インド会社(VOC)の介入を招き、結局1755年にスラカルタ王国ジョクジャカルタ王国に二分されてしまった。 
ここには今でも王様がいて、知事として活躍している

 ジョグジャカルタ街並

王宮
古都、ジョグジャカルタを首都に栄えさせて近代都市のイスラム教の国はJogijakartaとも綴り、本来の発音は「ヨクヤカルタ」で、「ジャグジャカルタ」はオランダ人の発音である。

インドネシアでも
ジャグジャカルタが一般的であるが、最近「ヨクヤカルタ」に戻す動きがあると言う。 種のカタログで「Yogyakarta]の綴りを多く見たが、その理由が納得出来た

 

バティック工房

ロウケツ染めのジャワ更紗、この布をインドネシア語でBatik・バティックと言う。
蛍光灯が一本だけ灯る、昼間でも薄暗い工房で、おばちゃん達が作業に勤しんでいた。暑い中、熱い蝋を扱う仕事は、けっして楽だはないだろうが、汗一つかかず、愛想も良く我々を迎えてくれた。
日本からの和服用の発注もあるという。バティックを型押しで作る場合の型は多種の模様が揃っている。又、手描きのバティックを作る場合は下書きを蝋でなぞり、描く細かい作業であった。
この手描きの模擬を娘が神の上に描いた。

バティック工房を楽しむ千恵子

バティック工房を楽しむ千恵子
ジョグジャカルタの地方色

ジャワ島中部に位置するバティック発祥の街は、現在も王家が存続している。パランと呼ばれる斜め模様と茶色、白、黒の色彩は王族以外の着用は禁じられていた時代もあったほどの格式高いバティックで、模様に動物、植物等のモチーフが使われることはあまりないという。

        

  
インドネシア 料理
Nlangi Resto (Authentic Indonesia Food)にてローカルビールを頂戴しながらの食事であった。
ナシゴレン - 日本でいうチャーハン、焼き飯。「飯を炒める」の意。 
        

インドネシア料理の昼食

インドネシア料理店の前でガイドと一緒に
ジョグジャカルタのガイド

SULIST YOWATIさん(54歳)はジョグジャカルタの空港で我々を出向かえ、1日強のガイドをしていただけた。
彼女の日本語は思いのほか流暢で、違和感なくコミニュケーションをとることが出来た。日本語の勉強は、ジョグジャカルタ内の日本語専門学校で学んだと言う。

彼女が推薦してくれたのが、このインドネシア料理であった。

プランバナン寺院
ジョクジャカルタ市の東方17kmの位置にあり、9世紀後半〜10世紀初頭 (856〜c.900)に建立された東南アジア最大のヒンドゥー遺跡である。
石造寺院の集合体で、無数の小祠堂(ペルラワ)とリンガに取り囲まれている。壮大なプランバナン寺院群の中でもひときわ見事なのが、「ロロ・ジョングラン(細身の処女)」の名を持つ中央のシヴァ神殿である。856年にサンジャヤ王朝のピカタン王が建てたと言われるこのチャンディ(寺院、神殿)は、燃え立つ炎を思わせる妖しいフォルム(いわゆる火焔様式)で作られた、ジャワ建築史上の傑作である。
外苑、中苑、内苑の三重構造だったが、現在残るのは中苑と内苑のみ。主堂はシヴァ神をまつるシヴァ堂で、高さ47m、ピラミッド型の塔をもち、回廊の欄楯(らんじゅん)壁面には「ラーマーヤナ」を題材にした浮彫がほどこされている。

1937年に修復工事が始まり、シヴァ神殿以外は現在も続行中である。 


プランバナン寺院全景

プランバナン寺院全景

 9世紀前半シャイレーンドラ王朝が急速に没落していった後、中部ジャワの覇権を握ったのは、サンジャヤ王朝が統治するマタラーム地方の王国で、シャイレーンドラ朝の仏教ではなくヒンドゥー教(特にシヴァ神信仰)を奉じていた。
大乗仏教遺跡ボロブドゥールを建てたシャイレーンドラ朝の向こうを張って、華麗なヒンドゥー遺跡プランバナンを築いた。

 そのため彼らは、壮大なヒンドゥー教寺院群の建設に心血を注ぎ、ボロブドゥールによほど対抗意識を燃やしたと見え、工事は、ボロブドゥール完成(9世紀前半)から間もない9世紀半ばから始まり、敷地もボロブドゥールのすぐ東隣を選ぶほどであっ
た。
 

 

 220m平方の境内の中に、三つの大尖塔 (聖堂) がそびえ立ち、その概要は次の通りである。
シヴァ神殿
……3大尖塔の中央にそそり立ち、最も見事。高さ47m。      「ロロ・ジョングラン (細身の処女)」とも呼ばれる。サンジャヤ第6代ピカタン王の霊廟として建立。
ヴィシュヌ神殿「ロロ・ジョングラン」の北に位置する。高さ23mブラフマー神殿……「ロロ・ジョングラン」の南。高さ23m。

三大尖塔の向かい側には小型の尖塔があり、それぞれの神の乗り物となる動物を祀っている。
ナンディ堂…シヴァ神殿の乗り物:雄の聖牛ナンディの像が安置されている。
ガルーダ堂……ヴィシュヌ神の乗り物:神鷹ガルーダ。
ハンサ堂……ブラフマー神の乗り物


プランバナン寺院全景
ここ、シヴァ神殿にはシヴァ像をはじめ、4体の像が安置されている。

       
              ご神体
       

       神に捧げる踊りの舞台と浮き彫り

 中に安置されているシヴァ像もさることながら、降りようと思って振り返って見た光景もなかなか素晴らしい。遠近に繰り広げられる石材建築は、まるで石のバレー。しかもその裏側(つまり表からは見えない場所)にも細密な浮き彫りが施してある。 又、スカルノ大統領が当地を訪れた記念碑も埋め込まれていた。
更に、塔を少し離れた場所には神に捧げる踊りの舞台もあった。

ガイドさんに従い、途中まで階段を下り、右に折れて回廊に入る。ここにはラーマーヤナ譚のレリーフがある

スカルノ大統領
1901〜1970 インドネシア民族独立運動における最大の指導者で、。インドネシア共和国初代大統領(1945〜1967)である。
この碑はスカルノ大統領が権力を保持していた在任時、この地を訪れた記念で、シヴァ神殿「ロロ・ジョングラン」の入口の壁にはめ込まれていた。

スカルノ初代大統領は日本にも繋がりがあり、政治的にも勿論であるが、「スカルノ初代大統領を殺したのはスハルト前大統領だ」と勇気ある証言した第三夫人デウィ夫人(根本七保子)は日本人である

          
 次いで自由に周囲の神殿を歩いて回るシヴァ神殿の左右にはブラフマー神殿とヴィシュヌ神殿がある。その手前には、それぞれの乗り物を祭った中位の神殿がある。

ボロブドゥールの仏像でもそうであったように、ヒンドゥー教も像の定められたところを撫でると、頭がよくなる、願いが叶う、痛いところが治癒するとう言い伝えがあり、我が家族も真剣に撫でていた。そこは、多くの人の手の油で黒光りしていた。

  
                       ご神体に乗って

ご神体に触れて


プランバナン寺院内部

 サンジャヤ王朝は繁栄を続け、バリトゥン王(位899〜910)の時代にはジャワ東部も支配し、東岸スラバヤ地方のメダン(Medang)に都を築くほどの勢いを見せていた。

 しかし、中部ジャワに於けるサンジャヤ王朝の命運は、長くはなかった。10世紀初頭、神殿群の建設は突然中止され、中部ジャワの造形芸術の黄金時代は唐突に終わりを告げた。もはや二度とボロブドゥールやプランバナンのような巨大石造建築が作られることはなく、都も捨てられ、サンジャヤ王家は東ジャワへ移ってしまった。

 東ジャワに移ったジャワ族の文化は大きく変容を遂げ、中部ジャワであれほど巨大石造建築にこだわった人々が、東ジャワでは一転して、演劇や文学、音楽のような観念的な世界に没頭し、ここで形成された「ワヤン」などのヒンドゥー・ジャワ文化は、その後現在に至るまでジャワ独特の民族文化として保持されている
 そのサンジャヤ王家の移動の最も可能性の高いのがメラピ山の噴火であった。メラピ山は歴史時代を通じてこの一帯で最も活動的な活火山で、噴火はしばしば熱雲や火砕流を伴い、その後も雨が降るたびに土石流が大地をえぐり、肥沃な田畑を耕作不能の地へと破壊し手行った。

 この時も、メラピ山の噴火が町や水田を全滅させ、中部ジャワの王国を滅ぼしたのではないかと思われる。実際、プランバナン遺跡群では多数の寺院が建設途上で放棄され、一部は火山灰に埋没していた。その後数百年にわたり中部ジャワは人の住める状況ではなくなったと考えられる。

プランバナン寺院内部

プランバナン寺院を背景に記念撮影
サンジャヤ王朝がこのような大建設を続けることが出来たということは、当時の中部ジャワにそれだけの労働人口がいたことを意味し、おそらく平野に広がった広大な水田が、王国の基礎となる大人口を支えていたのであろう。

広大な敷地には、まだ復元されていない無数の石材が雑然と積まれ、むしろその方に驚く。復元された寺院などごく一部で、まだ作られていない建物の方が圧倒的に多い。
この周辺に建てられていた寺院の数は、確か224だという。膨大な数で、全部復元されたらさぞかし壮観な眺めになるであろう。

        

        プランバナン寺院の破壊された石類
 世界遺産の見学を終えて、ジョグジャカルタ空港より、国際空港のあるジャカルタ空港に飛び、ここで、4時間〜5時間待って、GA−880便 23:40発で日本に戻った。

流石、夜遅くの空港は人もまばらで閑散としていた。 日本には翌日9月3日の9時頃に無事到着した。






ジョグジャカルタ空港内部

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2005年8月下旬より、9月上旬にかけて、インドネシアのバリ島、及びジャワ島を訪問した。インドネシアは日本の5倍の国土を有し、西はマレーシア、東はオーストラリア近くまでの広い範囲の、そして多くの島より成り立っている。 約2.15億人を持ち、その多くがマレーの人種であるが、その他として27種族がいる。

我々が最初に訪問したバリ島はポリネシア人が大半で、ヒンズー教を信仰する、非常に友好的で、楽天的な人々であった。 次に訪れたのはジャワ島で、イスラム教が80%以上を占め、多くはマレー系の人々であった。

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今回の目的はリゾート、バリ島で娘の誕生日を祝うことと、この地で英気を養い、併せて世界遺産の見学であった。

成田空港→フィリピン諸島上空経由→デンパサール空港→トウバンビーチ→ヌサドゥア ビーチ→ウブド郊外のバトゥブラン村→チュルク村→ヌサドゥア ビーチ→デンパサール空港→ジョグジャカルタ空港→→→→→→→ジャカルタ空港→成田空港のルートで旅をした