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スペイン

イベリア半島

 6/´81と 1/´82 の2回、業務のためスペインを訪問した。主目的地はマドリードの近くのアラカラと言う町にあるメルク関連工場が持つ全自動製造設備の視察と打ち合わせであった。同じような設備を妻沼工場に構築するための目的であった。

滞在先はスペインの首都、マドリードの街のホテルに泊まり、余暇はマドリードの街の散策と6/’'81にはトレド、1/'’82にはセゴビアを訪問して、スペインの国を少しでも理解しようとした。


太陽と情熱の国、フラメンコと闘牛の国、そんな気持ちでスペインの一部を散策した。その時の写真の記録である。

セゴビア


Hotel HUSA miguel angel
スペイン滞在中は左の写真のHotel HUSA miguel angelに2回共泊まった。立地場所はマドリードの中心街で、ホテルの前にはメイン道路が走り交通の便の良いところであった。

太陽と情熱の国、フラメンコと闘牛の国。スペインを語るときによく使われるフレーズである。でもスペインの魅力はそれだけではない。古くからさまざまな民族と文化が交錯してきたこの国では、地方や町ごとに多彩な個性をもつ。とくに8世紀にわたってイベリア半島を支配したイスラムの影響は大きく、その痕跡は建築や芸術など豊かな文化遺産の中に息づいていた。
1981年6月訪問

マドリード乃ホテルより、車で40分位走ったところに、メルク関連のアラカラ工場があった。
 
  スペインは広大な土地を持っており、工場もゆったり造られていた。
右の写真はマドリードの宿泊先からバスで1時間弱のところにある露店商に訪れた時の写真で、スペインの下町の風情を出していた。

マドリードはイベリア半島のほぼ中央にあり、人口約300万のスペインの首都。 この街の始まりは9世紀にまでさかのぼり、スペインの歴史に深い関わりのあるアラブ人は、現在マドリード王宮が建っている場所に砦を築いた。 これがマヘリット(アラビア語で砦の意味)の始まりだそうである
。  
 
   キリスト教徒軍による国土回復戦争たけなわの1083年にカスティーヤ王 アルフォンソ6世はその砦を占領し、さらに南にあったアラブの本拠トレドの 攻略に備えたのでした。そしてスペイン統一後、カルロス5世が君臨し、 その跡を継いだフェリペ2世は、1561年に宮廷をトレドからマドリードへ移し、 以来スペインの首都として今日に至っているということである。
マドリード王宮はブルボン王朝初代国王フェリペ5世が着工し、18世紀末カルロス3世の時代に完成した宮殿。ハプスブルク王朝時代の栄華をしのばせるバロック様式と、ブルボン朝の公式様式、新古典主義が融合した外観は、とにかく見ていて理屈抜きで美しかった。   
   マドリードの街中の建物建物の名前は記憶は無いが、時代を感じる由緒ある建物あった。
マドリードの街中の建物、同じく、建物の名前は記憶は無いが、時代を感じる由緒ある建物あった。   
  マドリードのホテルの近くの散歩道での記念撮影。 
マドリードのホテルの近くの散歩道での記念撮影。

1月の寒い時期であったが、流石、スペイン、寒さは感じなかった 
 
  マドリードの夜 フラメンコツアー

ホテルの紹介でマドリード内のフラメンコツアーに申し込んだ。スペイン語は全然分からなかったが、ホテルでの説明で、1台のバスツアーに乗り込み、2箇所のフラメンコを堪能した。

1箇所はフラメンコフェスティバルと言うところか、小さな劇場のようなところで、直ぐ目の前で踊りを見た。もう1箇所はフラメンコショーを売り物にするレストラン的なところで、多くの観客がいた。

帰りはホテル前まで送ってくれ、何事も無くフラメンコショウを堪能した。

  舞台の横にはギターをもった伴走者が並び、踊り子が順番を待っていた。  
 
本場のフラメンコ
(ロールオーバー効果)
 

スペイン南部のアンダルシア地方の民族音楽などとジプシーの芸能が結びついて生まれたフラメンコ

独特のギターの調べと情感豊かな歌、そして大地に響くような情熱的な踊りはいつの世も人々を魅了する。どこかオリエンタルな雰囲気を漂わせているせいか日本にもフラメンコファンは多く、スペインを訪れる最大の目的のひとつに、このフラメンコ鑑賞を挙げる人も多い。

 

トレード(Toledo)

スペイン中央部に位置し、マドリードの南77kmタホ川に取り巻かれた丘陵地に出来た町でアルカサール(王城)やゴシック様式のカラドラルは丘からそのまま根を生やして建っているように見える。
町中は中世のたたずまいがそのまま残っているが、クレタ島から訪れたエル グレコの心を捉えて離さなかったと言われている。
また、16世紀、首都がマドリードに移されるまでレコンキスタ(国土回復運動)の中心都市でもあった。

タホ川が周りを囲むように流れる小高い丘にある城壁に囲まれた街、トレド。この街の歴史はスペインの歴史ともいえる。
 
タホ川の向こうから撮ったドレドの景色
 
正面から見たカテドラル
 1561年にマドリードに首都が移されるまで、首都として数々の支配者に統治されてきた。城壁の中は、曲がりくねった石畳の小路。ひとつ角を曲がると、教会や古い宮殿が目の前に壮麗な姿を現し、16世紀の画家、エル・グレコが愛し、数多くの作品がいたるところに残る芸術の街でもある。

タホ川の対岸から望むトレドの全景の美しさはグレコの描いた絵そのままで、一見の価値がある。カテドラル、サントトメ教会、エル・グレコの家など見どころも多い。
 城の内部写真で多くの飾り物があった。  
   飾り物の拡大写真である。
西ローマ帝国の滅亡後、6世紀の半ばには半島の混乱を平定した西ゴート族がトレドを王国の都に定めた。

 589年、トレドの第3回公会議において王レカレド(Recaredo)が公にカトリックに改宗しこれを国教と認めたことにより 、先住のローマ系市民と西ゴート族の溝が消え統一が完成された。

 しかし、712年、北アフリカからジブラルタルを渡って来たイスラム勢力はトレドを征服し、これをトライトラ(Tolaitola)と呼び, かくして、イスラム教徒支配下にユダヤ教徒とキリスト教徒が共存する時代となlta.

 半島の北部から始まったレコンキスタ(国土再征服)は中央高原に波及し、1085年5月25日、カスティーリャ(Castilla)王国のアルフォンソ6世(AlfonsoY)が長い包囲戦の末、トレドを征服した。異教徒に寛容な王のもと、今度はキリスト教支配下に他の2民族が共存することになった。l
 
 
   トレードの街の大きな建物である。
1982年1月訪問  ゼゴビア(Segovia)

休日を利用し、マドリーゴより、ゼビアまでの小旅行した。

マドリードの北西88km、アソゲッホ広場の頭上高く立ちはだかる様に横切る石のアーチの列は、ローマ時代の水道橋である。美しい石のアーチにふりそそぐ明るい日差しは街中に美しい影を落としている場所である。マドリード乃駅を列車で立った。

 
   1時間余でゼゴビアの駅に到着した。

右の写真は水道橋のまえで撮った記念である。

これは紀元前のローマ人の開拓精神の高さを表している。
紀元1世紀にローマ人が作り、19世紀まで使われていた。高さ29m、長さ728m、アーチ数163。クラモレス川とエレスマ川の水を利用。ローマ人はあちこちの国に水道橋を作っている。水を制するものが土地も制したのだ。ここの水道橋は近代まで実用に使われていたそうだ
 
 
   ゼゴビアはローマ時代に栄えた町でローマ人が1世紀に作った立派な水道橋以外にも、アルカーサルはディズニーの白雪姫のお城のモデルとなったカスティーリャ王の居城や、「貴婦人」とも称される大聖堂があり、大きなカテドラルもある。

典型的な城壁都市で、狭い石畳が迷路のように続いている。
水道橋の下で記念写真を撮った。   
  アルカサール

ディズニーが白雪姫のお城のモデルにしたというアルカサール(セゴビア城)。左の写真はその前での記念写真である。

エレスマ川とクラモレス川が合流する地点の岩山の頂に聳えてる。
現在のアルカサールの大部分は1410〜1455年にできたもの。1862年に大火災に遭いかなり焼失したが、後に修復されてかつての美しい姿が甦りました。
 
歴代のカスティーリャ王の居城としてだけでなく、スペイン議会の前進であるコルテス(身分制議会)の舞台としても歴史に名を残している。そして、1474年12月13日に女王イサベルが即位したのもこの城。16〜18世紀にかけて一部が監獄として使われたが、白雪姫の城のモデルとなったためか現在では古城ウェディングの場所として人気を集めている。
 
 
  かつての栄光の時代を垣間見ることができる。ゼゴビアの街の一画での記念写真で、
レコンキスタ(国土回復)の中心であったカスティーリャ王国の政治において重要な役割を果たした都市、セゴビア。15世紀には王家が宮殿を置き、黄金時代を迎える。歴史ある町だけに、見どころもたくさん。 
ゼゴビアの街の一画での記念写真   
  ゼゴビアの街の一画での記念写真。色々な由緒ある建物が背景にあった。 
ゼゴビアの街の一画での記念写真。街中であったが、時代を感じる建物があたくさんんあった。   
  ゼゴビアの街の一画での記念写真。
由緒ある建物がたくさんあった。
 
マドリード王宮

マドリード街の一画での記念写真、記憶は定かではないが、マドリード王宮であったと思う


スペイン・マドリードにある宮殿。オリエンテ宮(Palacio de Oriente)とも呼ばれる、スペイン王の王宮である。実際にはフアン・カルロス1世と王族は住んでおらず、彼らは郊外にあるマドリードより小さなサルスエラ宮殿に好んで暮らす。しかし、マドリード王宮は今だ国の行事に使用されている。宮殿はスペイン政府の所有で、外局パトリモニオ・ナシオナルが管理している 
 
  マドリード街の一画での記念写真記憶は定かではないが、マドリード王宮であったと思う

王宮は、マドリードのダウンタウン西部バイレン通りにある。東はマンサナレス川で、マドリード地下鉄オペラ駅が最寄りである。宮殿は、公的行事で使用される時を除き、一般公開されている

 
1981年6月 フランスの訪問

メルクの工場はフランスのミラベルと言うところにもある。スペイン訪問後、ここに立ち寄り物流装置等の見学をした。 右の写真は工場内で工場案内の担当者との記念写真である。 
 
  この工場の近くに古城があった。工場見学 及び 打ち合わせ後、 管理者のフランス人が案内してくれた時の写真である。
宿泊したホテルの近くのフランスの街並みである。   

トレド