車との付き合い

タイトル
(時代)
愛車 内容
基礎練習 1987年・春

1988年・春
コロナ・リフトバック  免許取得直後から親の車:コロナを貸し与えられ、市街地を普通に走り出す。この時、親からの「助手席の人が寝ていても目が覚めない様な、タクシードライバーみたいな全てにスムーズな運転を目指せ」と言う言葉を守り、クラッチミートや何故かヒール&トゥの練習やスムーズなブレーキング、一定Gの出るステアリングの切り方など、ぶら下げたぬいぐるみの動きを見ながら横G、前後Gを感じながら試行錯誤を繰り返す。しかし、これが後の走りの要になってくるとは、この頃は想像もしていなかった...速く走るなんて自分には向いていない、ただ上手くなれればいいという気持ちだけだった。
峠デビュー 1988年・春

1989年・春
ギャランΣ  19歳の頃、親から譲り受けた2台目の車:ギャランΣに乗り始めた頃から、某峠に友人に誘われたのをきっかけに、一人でひっそりと走リ始める。この車、全くのノーマルで1600ccの4速MT車でタイヤも165/80−13というサイズであったため下りのみ、しかも慣性に任せて走るしか周りの車に付いていけず、大変苦労する。
しかし、今にして思えばこの頃の下積みが大事だったのかも知れない。サスペンションはフルストロークしたりバタ付いたり、タイヤもすぐに悲鳴を上げるし、ノーマルのブレーキパッドで下りばかり走ってるので直ぐにフェードするし、DOT3のフルードはエアを直ぐに噛んでフカフカになり毎回エア抜きする羽目に...ラック&ピニオンでもないステアリングは重いだけで遊びは大きく感触は最悪だった。しかし、この車のお陰で曲がるためのブレーキングの習得や、いかにステアリングを切り込まずにコーナーを曲がるかなど、速く走るための多くの必要な要素を学ぶ機会となった。
今にして思えば、走リ始めるにはいい車は必要なく、良いチューニングもいらない。ただ楽しく、とりあえず純粋に走りたいという気持ちが一番だと思う。オヤジ化した最近は特に若い連中に言いたい「車だの、チューニングレベルだのウダウダ言い訳言ってるより、とりあえず何でもいいから走って見ろ」と。(今は手軽なミニサーキットがいっぱい出来ているので、興味が有っても経験したことの無い人は、ぜひ一度試してみては?)
さて、この車の頃は知らない道を走る楽しさにはまり、通っていた峠以外にも地図を見ては有名所をはじめとして色んな山道を求めて走り回っていた。
チューニング
初期
1990年・初夏

1993年・春
KP61・赤スターレット

 車のチューニングは、3台目の車:KP61のAT車を手に入れてから本格的に始め、エンジンのヘッドチューニングや、ATから5速MTへの換装や足回り交換、SOLEXキャブ装着、デフをロックしたりetc...とりあえずお金がないので、今は閉店してしまったショップの社長に色々アドバイスをもらいつつ、こつこつと自分で始める。
ちなみにこの車でも峠では下りしか他の車に付いていけず、慣性で落ちていく楽しみを味わいながら走る。

寒い中、こつこつとSOLEXのO.H.

SOLEX40φとカムカバーの鏡面が自慢だった

デフロックは直ぐに壊れてしまい、急遽会社の駐車場にてホーシングごと交換する羽目に...
競技へ 1991年・春

1993年・初夏
AW11・白MR2

 4台目の愛車となるAW11のフルジムカーナ仕様を手に入れ、峠は卒業して競技に専念する...つもりだったが広場での練習が手軽に出来なくなり(この頃社会問題になり、勝手に鍋田などの広場で練習していると競技に出られなくなってしまうようになった)、結局1年程競技に出ただけで峠に逆戻りする事に...
やっぱりとりあえず走り込むには峠は手軽に感じられたこの頃(今はミニサーキットが豊富にあるので問題ないけど)。そして、この頃から自分で手軽にメンテナンスしにくいAWに見切りを付け、次の車を探しだす。
しかしこの車に乗り出した頃から、瑞浪サーキットにデビューしたり、会社の上司で雪道の師と仰ぐ元ラリーストの人から雪道の走行を教えてもらったりして、走るステージに幅が出るようになる。
再び峠へ 1993年・夏

2000年頃
AE86・銀黒トレノ

 丁度知り合いが勤める某ディーラーにAE86トレノが下取られ、この当時人気が落ちていたこともあってフルノーマル無事故車でも格安で購入でき、5台目の愛車となる。1993年の夏、峠ではS13やR32ばかりが目立つ頃で、周りの人からは「何で今更ハチロクなの?」としか聞かれなかった。(今でこそこんなに認められるようになったハチロク。やっぱり漫画の影響は大きいのか...?)
こつこつと、しかも自分でいじる楽しみのある車である為に、峠で走りつつ、たまにサーキット走行をしては一カ所ずつ時間をかけてチューニングを始める。何を変えればどう車が変化するかなど一つづつ確かめるように(懐具合と相談しつつと言った方が本当かも)、変えていったせいか得ることも多かった。
この車になってから冬場の雪道通いが多くなり、平日でも山の天候次第では仕事が終わってから直行する日々が続く。友人を上手く誘いだしては深夜まで雪山に連れ回るという悪い噂までも広まってしまい、このシーズンの夜に電話をすると警戒されたりした。しかし「悩み事があるから聞いて欲しい」と言って誘い出したりしてたのは事実だったりする...
初のFF車 1996年・春

1997年・初夏
JT190・紺ジェミニ

 トレノのチューニングレベルが上がるとともに街乗りし易い車(エアコンが付いていて、オーディオがまともに聞ける車)が欲しくなり、セカンドカーとして自分の愛車としては初のFF車であるジェミニ・イルムシャーを先輩より購入する。
この車、LSDが入っていなかったのでFF特有の面白みのある走りは出来ないまでも、足回り交換とタワーバー装着がなされていてキビキビ走ってくれる。山でも走る為にブレーキ交換と、シート交換、4点シートベルト装着のみ自分で行う、が、これぐらいでも気持ち良くタックインするいい足とノーマルのハチロクでは味わえないパワフルなエンジンで楽しく走り回る。
当然雪道でも活躍するが、デフが入っていないせいか、乗りこなせていなかったせいか、トレノで走るより速く走れなかった...でも気持ちのいいドリフトも出来るし、練習場やスキー場への雪道の道中の走行は楽チンだった。
走行は、サイドブレーキを引いてみたり、大げさにタックインしてみたり色々試してみたが、FF車はゼロカウンターぐらいで走らないとFRの様な大げさなカウンターを当ててしまうと楽しいドリフトは出来なかった...LSDが有るとまた違うの動きなのか?何にしてもブレーキングでの車の姿勢作り次第でコーナリングの成功か失敗かが決まってしまった。
再びAW 1997年・夏

2001年・初夏
AW11・白MR2

 ジェミニのハブにガタが生じ、コンピューターが原因と思われるエンジン停止によりこの車に見切りを付け、2代目のセカンドカーとして、いとこよりAW11を購入する。
この車、全くのノーマルではあったが、遊び車としては非常に楽しく、以前フルジムカーナ仕様のAWを乗っていたため、チューニングの良い方向性も分かるためノーマルとの差を楽しみながらサーキットや峠、そして雪道とあらゆる方面で活躍した。
草レースへ 1998年・秋

2000年・冬
AE86・銀黒トレノ

 ふと気が付くと峠で走る連中の中ではいい年となり、今まで自分がしてきたことが良かったのか悪かったのか?今の自分の腕が試してみたいという気持ちになっていたある日、ハチロクでの草レースが有ることを雑誌で知る。
流石にこのレースでは、チューニングやそのセッティングの重要性やエンジンのパワー差などを痛感させられることになるが、レースでの駆け引きやバトルの楽しさにはまり、もっと何か別のステージにも挑戦したい衝動に駆られ始める。
SWにも
挑戦?
2001年・冬

現在
SW20・青MR2  友人の紹介で只(と言ってもエンジンは不動なので)で初期型のSWをもらうことになる。
同時期に都合よく3型純正ホイール&タイヤも別の人から頂ける様になる。
ところがこのタイヤをもらった帰り道に...トラックが...
(下記参照)
交通事故 2000年・冬

2001年・春
AE86・銀黒トレノ
(廃車に)
 国内A級ライセンスも取り、いざ2001年度からはJAF戦レースデビューと準備を進めていた2000年11月25日(土)山道の直線道路で愛車:AE86トレノで直進中、前方を見ずにいきなり右折してきた対向車のトラックと正面衝突する。車は大破し、本人は瀕死の重傷を負う。3日間の集中治療室後、一般病棟に移され事故後4ヶ月半程入院する。
(お陰で「チーム中野屋」のホームページを作成する時間が出来たのだが...)
ちなみに状態は両足骨折と前歯4本が折れ、特に左足は膝や足首などが複雑に折れ、難しく書くと
右大腿骨骨折
左大腿骨顆部・膝蓋骨開放性骨折
左足関節開放性脱臼骨折
という病名らしい。
復帰への道 2001年・春
SV22・白カムリ


AW11・白MR2

SW20・青MR2
 4月6日(金)桜の咲き乱れる中ようやく退院し、遅ればせながら免許の更新を行う。そして左足のリハビリに通院する為に親からAT車のカムリを譲ってもらい運転を再開。
ようやく左膝も90度程曲がるようになったが、まだまだMT車を思い通りに動かせる様にはなっていなく...それでも復帰の望みはようやく見えてきたところ。
泣く泣くリハビリを続けてきた成果とでもいうか...でもマジで辛い
まぁMT車に乗りたいという目標があるからこそ我慢出来る事か...
入院当初、担当の医者に「左膝は折れ方がひどいから、クラッチ操作はまず無理だろう」と言われた時のショックは...今でも悔しくて涙が出る程...
練習走行
再開
2001年・春 AW11・白MR2

 リハビリを続ける中、思い通りに動かない左足を使いながらもサーキット走行を再開する。といってもホームコースのオートランド作手は2速ホールドで走れるため、さほど問題は無いのだが...
4ヶ月半のベッド上の生活と5ヶ月間ステアリング握らない生活は走行感覚を鈍らせている。特に骨折した両足は当然だが、怪我等していない上半身の筋力の衰えも予想外にありカウンターの当て遅れが出てしまう。
しかし、ベストラップがラジアルタイヤでショートコース:28.837秒は満足しないといけないのかも...
一応現時点では、車種別AWクラスの第5位にランクイン出来た事だし。
更にAW 2001年・春

2002年・冬
AW11・白銀MR2
 「中野屋」チーム員の畳屋が以前乗っていたAWを下取ることに...
そこで2代目として活躍した白・AWを貸し出し中のメンバーに譲る。
3代目AW。購入当時はクラッチが滑っていて乗れない状態だったが、強化クラッチとついでに軽量フライホイールを入れてやり、左足のリハビリを兼ねて乗り始める。
いざ乗ってみると足周りの動きが気に入らず、車高調にしてみたり、色々といじってみる。
そして、チーム員の頼みにより手放す事に。
何故かR32 2001年・夏

2002年・秋
R32・ワインレッド・スカイライン
 先輩より譲り受けたR32。オーリンズの車高調と機械式LSDが入っているものの、基本的に街乗り&ちょいドリ仕様。銀太としては初のターボ車でパワーを楽しみながら走る。
そして、ぶつけた事もきっかけでもう一台のR32の4Dr車の部品取り車に...
ようやく86 2001年・秋

現在
AE86・ブルーメタ・レビン
 やはりハチロクに乗りたい、又草レースに出たい、という事から以前一緒にハチキンで戦った友人から車両を購入する。
ナンバーの無い完全なレース車両(元はTIサーキットのプロダクションレースに出ていたN1車両)であるためなかなか不便ではある。
そして、自分好みのセッティングを出す為には、少々時間とお金がかかりそう...
今度はS13 2002年・初春

現在
S13・緑メタ・180SX
 会社の元先輩より(車の乗り換えの為)急遽譲り受ける事となった車は、ほぼノーマルの180SX(SR20DET搭載)。
R32に乗り始め、再びドリフト心に目覚めていた矢先の出来事。そして、以前の事故の抜釘手術(体の金属を抜く手術)を受ける直前と言う事もあって、気を紛らわす楽しみが一つ増えた。
そして、リハビリにもヤル気が出る。
(ちなみに退院直後の傷と抜いた金属の画像)
この車の目指す仕様はやはり「格安ドリフト仕様」
会社での査定が低く安月給の私では、多くの車を維持するだけでギリギリの状態だし、タイヤとガソリンの消費量、そしてサーキット走行代などの出費は普通の人の想像を超える(?)程なので。
そして86 2002年・冬

現在
AE86・白・レビン
 チーム員の"円ちゃん"が海外に長期出張する事に決まる。そこで、その車を下取りし、普段乗りのハチロクにする事に。
丁度、スカイラインの箱換え計画を進めようとしていた所だった。
やっぱりAW 2003年・初春

現在
AW11(NA)・白・MR2

↑ちなみに出品時の画像
 チーム員に「どうしても」と頼まれて手放してしまった3代目AWが忘れられず、未練の残る中、”ヤフオク”でNAのAW11を見つけ衝動的に入札。
落札後、神奈川県の小田原まで引き取りに出向く。
帰りがけには積車のバッテリー上がりで2度もJAFのお世話に...
AW追加ぁー 2003年・初春

現在
AW11(S/C)・銀ツートン・MR2

↑ちなみに出品時の画像
 前回”ヤフオク”にて購入したAWを使って、サーキットで友人に貸し出そうと考えていたのだが、引き取り時に非常に愛着が湧いてしまい、急遽もう一台貸し出し専用車を”ヤフオク”にて入手する事に...


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