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根崎八幡神社の絵馬及び奉納額ねさきはちまんじんじゃ えま ほうのうがく

根崎八幡神社の絵馬及び奉納額1

為朝と鬼の力競べの図

根崎八幡神社の絵馬及び奉納額2

群馬図

根崎八幡神社の絵馬及び奉納額3

人者依神之徳添運

分類
市指定(第222号)
指定年月日
平成26年1月10日
種別
有形民俗文化財
所有者
根崎八幡神社
時代
江戸時代
 ①寛政かんせい7(1795)年
 ②寛政9(1797)年
 ③天保てんぽう11(1840)年
形状

①「為朝ためともと鬼の力競ちからくらべの図」
  縦65.7 横92.6㎝


②「群馬図ぐんばず
  縦156.5 横203.5㎝


③「人者依神之徳添運ひとはかみのとくによりてうんをそえる
  縦77.0 横181.6㎝

由来及び沿革
 根崎八幡神社は、1638年(寛永かんえい15)に津島牛頭天王社つしまごずてんのうしゃまつったことがはじまりとされる。1694年(元禄げんろく7)、領主松平まつだいらまさもとの屋敷近くにある江戸深川八幡(現在の富岡八幡宮とみがおかはちまんぐう)から勧請かんじょうし、1744年(寛保かんぽう4)頃に現在の本殿を造営した。絵馬および奉納額3面は、現在、拝殿はいでん(平成21年建替)に掲げられている。
 絵馬とは、人々が様々なおもいを込めて社寺に奉納した板額いたがくのことをいう。多くは木製だが、「大岡白山神社の絵馬」(市指定文化財)は、木枠が取付けられた紙製である。江戸時代の絵馬は、多くは今日のものに比べて相当大きい。これは、奉納者が参詣さんけい者に見せることを意図した、一種の示威じい意識と考えられている。描かれる題材は馬が最も多いが、
武者絵や故事・伝説、数学の問題を解いた算額さんがくなど多様のものが見られる。

 ①「為朝と鬼の力競べの図」は、彩色の剥落はくらくはあるものの、図柄ははっきりとしている。武者絵の図柄は多いが、市域で源為朝みなもとのためともを題材としたものは本資料が唯一である。勇猛で弓の名手として知られる源為朝(1139~70)は、その武勇から、疱瘡ほうそう天然痘てんねんとう)をはじめとした病気や災いをける画題として信仰されてきた。表には奉納者の姓が記され、裏には奉納年月日とともに絵師名と作成した大工名が記される。奉納者である「山本氏」は、根崎村で庄屋を務めた家である。1757年(宝暦ほうれき7)の矢作川決壊時には、山本半兵衛が伊勢神宮から勧請した御神符ごしんぷを人柱の代りに堤防に埋めて復旧工事を成功させたと伝えられる。こうした歴史的、地域的特色が評価される。

 ②「群馬図」は、水辺でたわむれる馬の親子が描かれた伝統的な画題であるが、太陽や松など縁起物も描き加えられている。剥落しているものの、画面全体に金箔きんぱくが散らされ、枠に取り付けられた金具には金メッキが施されており、奉納時は非常に豪華なものであったとわかる。表に奉納年と奉納者、絵師名が記されている。奉納者である「源正賢みなもとのまさかた」は奉納時に領主であった松平正賢まつだいらまさかたである。正賢は三千石の旗本であり、根崎に陣屋を構え、根崎村、東端村、和泉村を知行ちぎょうしていた。絵師の「狩野かのう素川そせん」は、狩野派の画家である狩野彰信あきのぶ(後に章信あきのぶと改名)を指し、『日本書家辞典』によれば、幕府の御用絵師であったとされる。本資料は、歴史的、地域的特色に加え、美術的観点からも優れていると認められる。

 ③「人者依神之徳添運」は、文字の書かれた奉納額である。奉納者「源正相みなもとのまさすけ」は、「群馬図」を奉納した松平正賢の子正相まさすけ(後に正延まさのぶ)である。1823年(文政ぶんせい6)に父の死後知行地を引き継いでいる。領主が二代にわたって知行地の神社に額を奉納していることは、歴史的、地域的観点からも意義深い。