朝日新聞の日曜に「明日も夕焼け」という連載エッセーがある。あるお坊さんが遺した「親父の小言」から引用して、猪瀬という人が一文を成している。少し前に、「法事はつとめるべし」という小言が引かれていた。「おっ!これは使えるぞ」とちょっとすけべごころもあって読み出した。
しかし、書いてあったことは、二百万年くらい前の人とも猿とも区別がつきにくい骨を掘っている人々の話。どこからを人とするのか。直立歩行しているから?DNA?それ等を使っても、その境目になると曖昧らしい。学者たちはどこで見極めるか。身近にいたものを葬っている痕跡があるものを人とする確定法があるという。ちょっとおどろきだ。
葬ったのは、亡きひとを大切に思う気持ちからである。法事もその気持ちがあるからこそ勤められる。そしてそれが人間としての大事な要素だと言う。
命日はもう二度と肉身としての大切な方に会えなくなった日である。その耐え難い悲しみが、いのちのかけがえのなさ、尊さを理屈を越えて教えている。それが人間としての生活を始める基礎となる。尊くもなんともない人生と思って生きれば、荒んだものになる。
そこでこのエッセーは、現代人は生活のなかで「死」を見えにくくしているから、私たちは人間よりも動物に傾いているのではないかと結んでいる。確かに、お年寄りが病めば病院に運ばれ、亡くなれば会館で葬儀となる。孫達はそこでおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったよといっても、その実感が持てないだろう。死別の衝撃が軽ければ、そのひとのことを思っている時間も短くなる。この論に従えば、そうすると動物に近づくことになる。確かに、いじめや人殺しなどけだもの以下という事件も多い今日このごろだ。
最近こんな葬儀があった。長く病んでいたおじいちゃんが突然亡くなられたのだ。お詣りにいくと、小学生の孫が泣いている。葬儀のときも泣くのをこらえている。それをみてもらい泣きしそうだった。すごく悲しんで毎晩おばあちゃんと一緒にお勤めをしてくれた。肉身としてのおじいちゃんにはもう会えないけれど、君をいつもかわいがって、元気にねって願っている。苦しいときも励ましてくれるおじいちゃんの心は君と一緒にいるよ。と言うような話も出来た。こういう別れは本当につらいことだけど、おじいちゃんがすごいプレゼントをしていてくれていると思った。君や家族のみんなでおばあちゃんの悲しみを思いやること。そこから本当の人間の家族が始まる。レジャーで遊び回っていくら幸せに見えても、深い思いやりが無ければ人の住む家とは言えない。
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