Butubutu-Talk 1996-1998
 
イキテイルコトハ、アブナイコト、ソレガ……
1998年11月 8日(日)
ぼくらはいま生きているのは安全でなきゃ
 と思いこんでいる。
でも、生きてるのは
 基本的にアブナイことなんですよね。
その危なさがぼくらを
 生き生きさせてくれるんです。
(谷川俊太郎 朝日新聞朝刊インタービューに答えて)

 住職としてお葬式にはもう何回も御檀家のいえにお参りにいった。そして通夜や初七日でお経を読む。 そうすることが、肉親のひとびとの悲しみを慰めることになる。と、不用意にも思うようになっていた。 しかし、子に先立たれたり、急な親との別れの場で、慰めの言葉もでないことがある。その悲しみを慰めるなんてとうてい無理なことだと感じる。

 じゃあ自分は何しにきてるのか。どうすりゃいい?
 なにも出来ない。困った。 そして、慰めるような立場にはなく、それはとんだ勘違いだったと気づいた。同じ無常のいのちを生きていること。そこへ、ハッと立ち返らされた。

 物は豊かに恵まれていても、心はなにか物足りない。 平和は有り難い。物に困らない現在の状況には感謝しなければならない。頭では分かっている。でも……
 いま手に入れているものの恵みの大きさがみえない。 こんな日常の感覚はどこかおかしい。曇ったレンズを通して物を見ているような感じだ。 これは現代人の病ではないだろうか。日常の平凡な生活をつまらないと思い、生まれてきたこと自体本当に喜べない。深い恨みのような心。オウムを生んだのもこのような心ではないか。

 安全で平和のど真ん中にあって、それに倦み、生き生きと生きられないでいる。谷川俊太郎はそんな状況を捉えて、それを破り、みずみずしい生を取り戻すには、「生きているのは基本的にアブナイ」という感覚をよびおこせと言っているのではないか。それが無常という生の現実であるから、その原点に帰れと。

楽でいいのが真宗のよさ?そんなバカな・・・
1998年10月 7日(水)

 今日、お檀家におまいりに行ったとき、「真宗は葬式が短いでいい。」とか「 お盆は他の宗派と較べて、お供えが楽でいい。」としみじみと言われた。

 しかし「簡単で楽でいい」だけでは、どうも力が入らない宗教ではないか。 それではダラダラとした、お念仏があっても無くても変わらないような生活に なってしまわないか。 三河門徒は素朴でキリッとした宗教生活を伝えてきたはずだ。情けないこと だ。

 先ず、朝のおつとめは欠かさなかった。これが済まねば朝御飯は頂けなかっ たと、子どもの頃の話を年寄りから聞く。そして、毎月数回の法座に足を運び、 年に一度は本山に参り、ご真影の前に額ずく。このような生活は、単に形式的 に受け継がれたのではない。

 ふだんの聴聞による本性の自覚が根底にあった。すぐに仏法を忘れて分別に とらわれ、尊ぶべき自己を見失う凡夫。それを自覚すればするほど、いつも仏 法に向かうように心がけたのだ。

 私のために建てられた仏の誓願を憶い、その尊さを受けとめると同時に、自ら の浅はかさがよく見えてくる。そこにいつも立ち戻って、一日一日を深く尊んで で生活する。

 本当に尊く生きられ、人間に生まれてよかったと言える人生を開く事こそ仏の 心に応えることなのだ。それは一生をもって供養しようとすることである。そこ には、お供え物で供養を済まそうするのとは較べものにならない厳しさがある。

ほすぴすへ行ってきた
1993年1月19日

藤田保健衛生大学七栗サナトリウム=温水プール、病院の最上階には温泉があり病室は明るく、静けさが保たれていた。

住所:三重県久居市大鳥町向広424-1

 名古屋から近鉄で1時間、それからタクシーに乗り継いでのどかな田園風景の中を15分程走ったところに、目的の七栗サナトリウムはあった。到着すると院長森日出夫男氏が待っていてくださり、わたしたちは早速終末期医療の基本的な考え方を聞いた。
 先ず最初に言われたのは「医学は医療の一部分」ということだった。「病気が治ったらそれでいいというものではない。脳卒中などは治ったと言うことが、患者にとってはもうそこまでと匙を投げられたことになる。実はそこから患者の苦しみははじまるんだ。痛みや障害を治す医療と同時に、生きる喜びを持てるような医療にしたい」と。
 この大学病院のなかにはホスピス病棟があるというのだけれど、それらしいところは見あたらない。それはホスピス部分と病院部分と切り離さないで、外来の人とも話をしたり社会との交流が保てるように考えられている。
 またガンの告知についての考え方であるが、「結論というものがあるものでなし、その人にとっての死だ。目前にいるそのひとの話を聞くことが重要。また後に残される家族のことを考えなければ」と、単純には告知をすすめない立場をとる。
 院長室の書棚には生死観を問うものや臨死体験に関する本がぎっしりあった。「現在の医療体制は不備で、決してほこれるようなものではない」「肺ガンの末期などは、夜淋しく苦痛に喘ぐひとには、なにもできずただそばにいてさすってあげるしかない」
 ガン終末期のひとを前にして、告知したほうがよいと決めてしまうのではなく、どうそのひとの望む状態にしてあげられるを謙虚に模索しておられる姿に共感した。院長さんは自分は無信仰な人間だと言っておられたけれど、その謙虚さはすごく宗教的なものを感じさせた。

 この病院ではガンの痛みをとる医療は非常に進んでいるという。そして環境もよい。しかしそれにもまして、患者をひとりのかけがえのない人として接しようとする医療者がいることに頼もしさをおぼえた。もし自分がガンになったら……、こういう考え方の医療者の支えを最も必要とするだろう。

 
 

唯法寺 愛知県西尾市順海町12  住職/占部