2 倭奴国と倭国大乱 |
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(1) 倭奴国の繁栄
水田稲作の古い遺構は、唐津市の菜畑遺跡や福岡市の板付遺跡が代表的であるが、 いずれにしても弥生人が早くから渡来した北九州が水田稲作の先駆的な地域である。 その中でも水田稲作に適した平坦地に恵まれている福岡平野に倭国最初の有力国家が誕生するのは必然的だったと言えよう。 福岡平野の中央部、那珂川と御笠川に挟まれた台地上に建国された倭奴国(わなこく)は、 水田稲作により国力を蓄えると伴に、那珂川と御笠川の水運を利用して朝鮮半島との交易に積極的に乗り出していく。 農業生産力、海上交通路、陸上交通網を兼ね備えた倭奴国は周辺諸国を圧倒し、
特に朝鮮半島で産出する鉄の交易と朝鮮半島で学んだ製鉄技術による鉄器の生産は、倭奴国の軍備を強化し、 農業生産力を向上させ、また、交易による莫大な経済的利益をもたらす。 倭奴国は対馬海峡の制海権を制するに至って朝鮮交易をほぼ独占し、 壱岐、対馬、朝鮮南岸部の越人国家をも属国に従え、対馬海峡を囲む地域を勢力圏にする一大海洋国家に成長する。 対馬海峡一帯が倭奴国の勢力圏だったため、勢力圏の最南端である北九州に位置する倭奴国は、 『後漢書』に「倭国の極南界」と記述されている。 つまり、『後漢書』で記述する「倭国」の範囲は倭奴国の勢力圏のことであり、倭国の宗主国が倭奴国であるとの認識であった。 福岡県春日市の須玖岡本(すぐおかもと)遺跡からは古代の王墓が発見されており、倭奴国の中心部であったと推定されている。
(2) 「漢委奴国王」金印
倭国を代表する勢力となった倭奴国は権威付けのため紀元57年に後漢に朝貢し、光武帝より有名な金印を賜っている。 光武帝より下賜された金印は福岡県の志賀島で発見されたものに特定されている。 金印には「漢委奴国王」と刻まれており、「委=倭」とする説、「委奴国=伊都国(いとこく)」とする説が主流である。 「委=倭」とする説では、「委」は「倭」の減筆(字体の簡素化)とするが、 寧ろ、金印を授けるに当たって卑字である「倭」を佳字である「委」に置き換えたと考える方が分かり易い。 また、『漢書』の注釈にあるように、本当に「倭」のことを故は「委」と呼んでいたかもしれない。 ただ、後漢時代に編纂された『漢書』においても「倭」と記述されていることから、 後漢時代の金印の文面が「委=倭」とする根拠は乏しい。 「委奴国=伊都国」とする説は、邪馬台国が旧倭奴国の王都に諸国を監督する機関(一大卒)を設置したため、 旧倭奴国の王都の国名である「伊都国」をそのまま受け継いだ可能性は十分考えられる。 ただ、『後漢書』では倭奴国が「倭国の極南界」と記述していることから、 あくまで倭国の王都は「倭奴国」であり、「委奴国」では無さそうである。 一番妥当なのは、「漢委奴国王」を素直に「漢が委ねる奴国王」と読めば、 漢皇帝が倭の統治を奴国王に委嘱する、要するに属臣としての扱う意味になる。 同様な事例は「晋帰義叟王」の金印などにもあり、「中国宗主国+修飾辞+冊封国又は候」の形式となっている。 「晋帰義叟王」は「晋に帰義(帰順)している叟王」の意味である。 ただ、『後漢書』のほか『随書』『北史』『旧唐書』など中国文献における倭国伝では、 「倭奴国」が国名との認識で一致しており、「倭奴国」を金印だけ何故「奴国」と表現しているのか疑問は残る。 なお、「倭奴国」の読みは「わなこく」が定説であるが、 「奴」を「な」と読むのは、倭奴国を流れる那珂川の河口にあった港が後世「那の津(なのつ)」と呼ばれたことが主な理由である。 『魏志倭人伝』には「奴婢(ぬひ)」のように明らかに「奴」を「ぬ」と読んでいる例もあるし、 對馬国などの副官「卑奴母離(ひなもり=夷守(地方の守護官))」のように「な」と読むのが妥当な場合もあり、 「奴」を「ぬ」と読むのか「な」と読むのか、はたまた漢音で「ど」と読むのかは判断が難しいところである。
(3) 倭面土国
倭面土国(わめんとこく)は中津平野南部の中津、宇佐地方の山麓で誕生する。 倭奴国と同様に中津平野での稲作により国力を蓄え、 駅館川(やっかんがわ)や山国川の水運を利用して早くから海洋進出することにより周防灘の交易を独占するようになる。
倭奴国が隆盛を誇っていた頃、倭面土国は朝鮮半島日本海側にあった辰韓(しんかん)と沖ノ島を経由する独自の交易ルートを確保し、 紀元59年頃、斯蘆国(しらこく=後の新羅)と修好関係を結ぶ。 交易により国力を一気に増強させた倭面土国は、交易範囲にある豊前、豊後、伊予、土佐地域の諸国を次々と属国にし、 倭奴国と肩を並べる有力な国家に成長する。 倭面土国と倭奴国とは同じ海洋国家として、朝鮮交易の利権等を巡って対立関係が深まっていく。 大分県中津市で最近発掘された諌山(いさやま)遺跡は、倭面土国自体か倭面土国に直属するムラの可能性が高い。 倭面土国は倭奴国に対抗するため、紀元107年に王の帥升(すいしょう)が後漢に朝貢の使者を派遣している。 帥升は中国史書に初めて記載された倭人であるが、『後漢書』では単に「倭国王」となっている。 ただし、『後漢書』を引用した他の史書には「倭面土国」「倭面国」など様々に記述されている。 『後漢書』自体原本が残っていないため、原本には「倭面土国」と記述され、
「倭面土国」の「面」は諌山遺跡の背後に聳える霊山の「八面山(はちめんやま)」のことであり、 「土(と)」は「門(と)」である。つまり、「面土(門)国」とは「面山の入口の国」のことであろう。 「八面山」を古は「やめんやま」と呼んでいた可能性もあり、「倭面」自体が「八面」の聞き取り誤りとも考えられる。 「倭面国」などが正しいとしても、八面山と密接に関連した国名であることには変わりはない。 倭面土国が後の邪馬台国に発展するが、邪馬(台)国は山国川の上流の地名「山国谷」が由来の可能性がある。 王統が山国谷出身者に交代したなどが国名変更の原因として考えられるが、詳細は不明である。 邪馬台国の国名は、本来は「邪馬壹国」であったという説もあり、「邪馬”台”国」ではない可能性がある。
(4) 倭国大乱
隆盛を誇った倭奴国であるが、朝鮮半島において新羅の前身である斯蘆国との度重なる戦争 (『三国史記』に記述される73年頃と121年頃の交戦)や、力を付けた後発の近隣国家との紛争などにより、 100年頃からは次第に勢力が減衰する。特に邪馬台国(倭面土国)と倭奴国とは朝鮮交易等の利権を巡ってしばしば争いになる。
戦乱は国力旺盛な邪馬台国が終始諸国を圧倒するものの、倭奴国の抵抗も頑強で長引くことになる。 邪馬台国の男王は武力平定を掲げ、激しい戦闘に終始するが、 卑弥呼が邪馬台国女王に即位すると一転して対話路線に転換し、諸国の調略に力を注ぐようになる。 抗争に疲弊していた諸国もこれに応じ、倭奴国は没落、邪馬台国を絶対的盟主とする一大国家が誕生する。 158年頃斯蘆国を平和裏に訪れたのは、以前から通商関係にあった邪馬台国の使者であるが、まだ倭国大乱の只中であっただろう。 173年頃までには倭国大乱が概ね決着し、卑弥呼は正式に新羅に使者を派遣している。 倭国大乱中は倭奴国も邪馬台国も中国に朝貢の使者を送る余裕はなかったが、 倭国大乱が収まった後も中国の遼東地域を支配した公孫氏が朝鮮に帯方郡を設置して倭国にも干渉して来たため、 後漢皇帝に朝貢の使者が派遣されることはなかった。 |