< 沿線の記憶 >


水戸市立博物館で「激動の昭和鉄道史」という出版物を手に入れた。



これは主にJR常磐線を中心に、戦前戦後の鉄道の変遷がコンパクトにまとめられた図録で、
C62機関車が引く特急「はつかり」が表紙を飾っている。
古い水戸市街などが流れるDVD映像付きという点も嬉しい。

◇◇◇

ところでこの本の背面には、
古い特急「ひたち」が常磐線をさっそうと走る風景写真が載っている。
そして、その写真のキャプションを見たとき、あっと思った。
その写真の撮影ポイントは、わが実家から目と鼻の先の位置だったのだ。
そう知った瞬間から、自分の記憶装置がむくむくと活性化して、あれこれの古い記憶がよみがえってきた。

昭和40年代の常磐線特急ひたち(撮影・廣瀬三夫)





1.沿線の大木

先頭車両のバックに大きな木が見える。
並行する道路のわきの庭に生えたこの木は15mは優に超える高さで、
路上まで覆いかぶさる枝は、小学生時代の自分の目には、まさに大木そのものだった。
この大木を、むかし祖父が怪談話に折り込んで、よく私たち兄弟をおどかしてくれた。

「お天道さんが沈んで暗〜ぅなってからのう、あの木の下ば一人で通りかかるとな、
首筋に何かぽた〜と生暖かもんが垂れてくるとばい。
なんじゃろと思うての、ぬぐうた手ばよ〜う見ると、赤うべっとり染まっとるばいな。
び〜っくりして木を見上げるとじゃのう、
そこにゃ馬の足がプラ〜ン、プラ〜ンてぶら下がっとって・・・」

博多訛りの、こんな実体験風の話を幾度となく夜に聞かされた。
その度に私などは、内心「またきた」と思いつつも、「ひえ〜」と震え上がっていたものだった。
要するに、「暗くなる前に早く家に帰って来いよ」という、躾のためのメッセージだったろうとは思うのだが、
なぜ「馬の足」だったのかはついぞ聞かぬうちに他界されてしまった。

明治18(1885)年生まれだった祖父が生きた時代は、
日清、日露、第一次大戦、日中戦、大東亜戦と、繰り返される戦争時代を掻い潜ってきた世代だった。
軍人でも応召兵でもなかった祖父から戦争体験を聞いたことはないのだが、
戦地のエピソードはいろいろ聞きかじっていたことだろう。
そこで例えばだが、
・・・・
『乃木軍が発砲した28サンチ榴弾が、敵将ステッセルの軍馬を直撃した。
バラバラになってぶっ飛んだ馬体は、その一片の足が馬具の紐と絡まり、
近くの大木に引っかかって、プラ〜ン、プラ〜ンと・・・』
・・・・
などというエピソードが、もしあったなら、
それを元ネタに、しつけ半分面白半分で孫たちに語り次いだかも知れない。

罪作りといえば、祖父は、
まだいたいけな幼児だった弟妹にも同じ話をしたらしい。
現在五十路後半の妹は、「なんでか私は巨木恐怖症なのよね」、という。
気の毒でもあり、滑稽でもある。





2.仲ノ町踏切

上掲写真の左方にかすかに踏切が写っている。仲ノ町踏切だ。
昔は踏切事故が多かった。ここも例外ではなかった。
この踏切には、断片的でおぼろなのだが、特に強烈な記憶が2つ残っている。


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−その1−

まだ私が幼稚園通いの5才ごろのこと。写真よりもさらにさらに古い時代だ。

私の家は常磐線の北側にあった。
そして線路をまたいで南西へ5、600mほど離れたところに1年下の又従妹の家があった。
ある日、私の家に遊びに来た又従妹としばし過ごした後、彼女の家に場を移そうということになった。
出かけようとしたとき、“おかあちゃん”からは、きっと、
「踏切渡るときは汽車に気をつけなさい」とか、「暗くなる前に帰ってきなさい」などと、
細々注意を受けたことだったろうと思う。

連れ立って歩き始め、件の大木の下を過ぎるとすぐに仲ノ町踏切にさしかかる。
そのころの踏切に自動警報があったかどうか記憶にないが、
少なくとも「踏切番」はもうなかったし、自動遮断機など近代設備はまだなかったように思う。
踏切にさしかかったとき、果たして上り列車が遠くから汽笛を鳴らして来る気配があった。
そのときはまだ、急いで渡ろうと思えば渡れるタイミングだったと思う。
でも、私は母の言いつけを思い出しながら(たぶん)、お兄ちゃんとして彼女を守る立場でもあったし、
列車通過を待つことにした。
しかし彼女は早く踏切を渡りたいらしく、そわそわしていた。

そうして列車の通過を待っていたある瞬間、
「いっちゃーべ!」(行っちゃおうよ)
と一言発して、彼女はいきなり踏切上を向こう側へ走り出した。
あっと思ったその直後に、真っ黒の巨大物体が目の前を通過し、同時に彼女は視界から消えた。
とっさのことだったので、汽車はきっと、汽笛など鳴らす間もなかったろう。
ものすごい急ブレーキ音を立てながら、巨大長大物体は踏切を塞ぐようにして止まった。

目の前で起きた異常事態に動転しつつも、右に目をやると、
10mほど先の上下線路の間に、何やら白い物体がころがってるのには気づいた。
だが、何をしたらいいかわからない私は、
取りあえず母に知らせなければと、泣きじゃくりながら転げるように家に走り帰ったのだった。

・・・・

彼女は意識不明の重態だったが、不幸中の幸い、なんとか一命はとりとめた。
数日後、母に連れられ病院に見舞いに行くことになった。
でも私は、「見舞いなんか行きたくない!」と、わんわん泣きながら抵抗した。
なぜなら、子供とは、何か不始末が起きると非の有無に拘らず、大人からこっ酷く叱られるモノ、、、
そう自認していたので、まして、相手の親がいるであろう場所に“出頭”するなんて、
一体何となじられるのか、大人の剛腕でぶっ叩かれるのか、怖くて怖くてどうしても避けたかったのだ。
しかしとうとう母に引きずられるようにして病院へ行った。
幸いその日は親はおらず、彼女は一人ベッドで昏睡状態だった。

結局のところ私は、自分の親にも彼女の親にも、この事件で叱られたことはなかった。(記憶にない)
あれ以来、家同士の交流はなくなった。私はその後の彼女の消息を知らない。


−その2−

そのとき私は中学1年(12才)になっていた。(まだ上掲写真よりはだいぶ昔だ)
それは、真っ昼間の家近くの出来事だったので、たぶん日曜日だったろう。
突然甲高い、「ポポポポポポ・ポーーー!」という悲鳴に近いような汽笛音がして、
同時に「ギギギギー!」という急ブレーキ音が響きつつ、家の前の線路上に列車が止まった。
すわ「またか!」と、踏切事故(人身)を直感する。

仲ノ町踏切へ行ってみた。長い列車が踏切を通せんぼして止まっている。
ザワザワと野次馬が集まりつつあったが、コトの次第、状況はあまりよくわからない。
踏切の向こう側の様子は、列車が通せんぼしているので、なおわからない。
しかし人身事故としては最悪のことが起きているらしい。
よくわからないが、付近を見渡して家に戻った。

それまでにも幾度となく近所で踏切事故はあったのだが、
実は、子供にはとてもとても怖い事件だったので、事故現場を目の当りにしたことはなかった。
しかし子供も中学になれば好奇心は強くなるし、それなりの度胸もついてくる。
「よし、今度はちゃんと見てやろう」
そう思い直して、再び仲ノ町踏切に行ってみた。

もうさっきから30分以上は経っていたろう。踏切を通せんぼしていた列車は、もういなかった。
踏切の向こう側の右手方向にいちだんと人だかりがあったので、そこを目指して踏切を渡りだした。
しかし今思えば、中学生のガキなど渡るべきではなかった。
踏切から線路伝いに歩む足元周辺のあちこちに、仰天の惨状が広がっていた。
そこで目にしたのは、ついさっきまで生きていたはずの人が、大小片々に散在する光景なのだった。

・・・・

翌日学校で、ある級友に昨日の事故の目撃談をちょっと話してみた。
すると意外な言葉が返ってきた。
「その汽車、運転してたのはオレの父ちゃんだ」
と、ボソッという。
よくケラケラ冗談を言うやつだったので、また冗談かと思ったが、沈んだ顔で、やはりそうだという。

その列車とは、常磐・東北方面で初の特急、C62蒸気機関車が引く「はつかり」だった。
「へー、おまえの父ちゃん偉いんだ!」
私は、昨日の仰天に続き二度びっくりだった。

・・・・


現在の仲ノ町踏切

町名としての「仲ノ町」は行政によって抹消されてしまったが、踏切名に名残りを留める。
左上の鉄骨は、映画「夜のピクニック」にも登場した、桜川をまたぐ三セク・大洗鹿島線の高架橋だ。





3.特急ひたち

冒頭写真の特急ひたちが誕生したのは昭和44(1969)年だという。
この年には、前出の祖父が他界し、アポロ11号で人類が初めて月に下り立った。
特急「ひたち」がそんな昔からあったということはすっかり忘れていたのだが、
『激動…』を読んで、誕生前までの変遷をまざまざと思い出した。

・・・・

常磐線に初めて特急が登場したのは昭和33年、C62蒸気機関車が牽引する「はつかり」だった。
特急列車など絵本か図鑑でしか見たことのなかった当時の私(10才)は、
「はつかり」のヘッドマークを付けた機関車が、ぐんぐん迫ってくるその雄姿をよく見とれていた。
でも、絵ではよく見慣れていた展望車が付いてないのが、やや不満だった。

しかし時代の流れか、わずか2年で、蒸気特急は新型の気動車特急に生まれ変わった。
でも新型車両なのに、電車こだまのお下がりのようなボンネットスタイルや、
「ガーーー」という単調な騒音を撒いて走り去る「はつかり」には、なにかイマイチの感を覚えた。
なんとなく蒸気時代の華が消え去ったような気がしていた。

そのころ常磐線は着々電化が進行していたが、気動車特急「はつかり」はその後も走り続けた。
そしてとうとう昭和43年に、「はつかり」は斬新な電車特急に切り替えられた。
いよいよ常磐線にも近代化が訪れたか、と、このときは喜んだ。
ところがである。
喜びもつかの間、新型「はつかり」は東北本線専用特急として引っ越してしまい、常磐線から消えた。
『激動…』によれば、電車特急はつかりが常磐線を走ったのは、わずか3週間だったという。
国鉄の台所事情など知らない沿線住民に、この時の失望感は大きかった。

そして1年空白の後、消えた「はつかり」の代替として“誕生”した特急が冒頭の「ひたち」だった。
ところがそれを見たとき、ひっくり返るほどガックリした。

「な、なんだこらぁ。めえ(前)のジーゼル(気動車)さ看板取っけーただけだっぺよ!」

新生「ひたち」は、実は旧態「はつかり」への“先祖返り”だったのだ。
この有様に常磐線の軽さが透けて見え、沿線住民の自分までバカにされたような気がしたものだった。
そしてこの失望感、屈辱感だけが、その後長年記憶の底にしまい込まれることになった。

・・・・

さて、それから40年。
ある日の朝、水戸駅から上野行き特急「スーパーひたち」に乗った。


現在のスーパーひたち(2009.10.10)
(冒頭写真とほぼ同じアングル。リアビュー。大木は消え、そこはアパートが建っている)

乗り込んだひたちは水戸駅を定刻(7:07)に滑り出した。
今の“スーパー”ひたちは上野まで「ノンストップ」で「65分前後」のはず、と勝手に思い込んでいた。
(昨日の上野〜水戸がそうだったから)
ところが、いきなり隣の赤塚駅で停車した。昔は鈍行しか止まらなかった駅だ。
臨時停車というわけでもないらしい。その後も次々そこここの駅々に止まっては乗客を拾ってゆく。
利根川を超え首都圏に入ると、停車はしないものの、延々徐行?での〜んびり走る。
つい、臨席のビジネスマン風に、
「特急料金なのに何してるんですかねぇ?」
と話しかけたら、
「いつもこんなもんですよ」
と、至って落ち着いた返答。
ひょうし抜けして、次の言葉が引っ込んでしまった。
ようやく上野駅にたどり着いたときは、水戸からなんと96分が過ぎていた。

30年前の昔でも、特急は確か80分程度で走っていたはずなのに・・・。 (※1)
蒸気時代まで“スーパー先祖返り”したのかな。 (※2)
国鉄時代から「乗客不在」との悪評高かった常磐線は、相も変らずの筋金入りだった。

2009.10.14-11.30



※1)1980(昭和55)年の時刻表では、水戸発8:00のエル特急「ひたち」は、上野着9:20だった。(所要80分)
※2)1959(昭和34)年、誕生まもない蒸気特急「はつかり」は水戸発15:22、上野着17:00だった。(所要98分)

因みに、
季節列車として昭和44年に"誕生"した当時の気動車特急「ひたち」は、水戸発7:58、上野着9:45だった。
なんと所要時間107分!。それは、その11年前の蒸気特急「はつかり」よりも"のんびり"だった。
それに比べれば今は、半世紀前のご先祖様よりアッパレ“2分も”早い!

◇◇◇

<参考文献>
「激動の昭和鉄道史」坂本京子(水戸市立博物館 2008.10.11)
「茨城県鉄道発達史(下)」中川浩一(筑波書林 1980.10.15)
「時刻表 1959.7」(日本交通公社)
「ポケット全国時刻表 1969.10」(交通案内社)
「時刻表 1980.11」(日本交通公社)
「コンパス時刻表 2009.10」(交通新聞社)



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