≪90年前の家族≫
ここに写る人物は90年前の親族だ。
裏書きに「御即位記念」とあることから、大正天皇の即位大礼を記念して撮ったものらしい。
左から筆者の父、叔父、伯母、祖父 (すべて故人)
(大正4(1915)年11月 常陸助川(現日立市)白熊寫眞)
左端の子・正ちゃんは筆者(1948-)の父である。
父は32才のとき満州で終戦を迎え、母や兄と共に本土に引き揚げてきた。●
戦前、戦後とも教職に奉じたが、53の若さで亡くなった。
右側のあどけない表情の女の子・みよちゃんは筆者の伯母だが、やはり終戦は満州で迎えた。
この伯母はつい昨年(2004)、満92才で天寿を全うした。
その後ろ・祖父の服装は鉄道省の制服らしい。常磐線のどこか(高浜?)の駅長だった。
その昔日本は日清・日露と戦争を勝ち抜いてきたが、この写真は、そして今また迎えた第一次大戦の頃だ。
この頃の大人たちは、「この子たちの明るく平和で豊かな将来」を築くべく、お国のために戦っていた。
そして幸運にもこの大戦も勝ち組みに入ることができた。
かくして帝国日本は南洋諸島を得、北方(中国)進出の自信も深めた。
・・・・
さて真ん中の子、叔父・三武郎である。
ひとりチョコンと椅子に座らされた様子からすると満1才前後の頃だろう。
時節柄か「武」の字などを名前に戴いている。
祖父は当時の内外情勢を見つつ、我が子に逞しく生きるよう将来を期待したのだろう。
それからあれこれあって30年足らず後のことだ。
真ん中の子サブちゃんは、長じて海軍潜水艦の乗組員になっていた。
そして太平洋戦争さなか、日本に妻子を残したまま、ある日潜水艦と共に海の藻屑になったという。
それが戦死だったのか、事故死だったのか、
一体いつどこでどういう情況で亡くなったのか、これまで皆目知らなかった。
ところが、
最近になって、叔父の乗艦は機雷潜「伊号第123潜水艦」だったとわかった。
伊号第123潜水艦
伊123濳は、赤道を越える遥か5600kmも南方のソロモン海域ガダルカナル島近辺で作戦中、
昭和17(1942)年8月29日、敵艦遭遇の連絡を最後に消息を断った。
9月1日沈没と認定され、叔父の命日もこの日となった。
米軍記録によると伊123潜は、
8月28日午前、米駆逐艦ギャンブルの3時間に渡る爆雷攻撃を受け、遂に撃沈されたとのこと。
叔父は享年28才。機関兵曹長。帰ってきたのは戦死通知の紙切れだけだった。
合掌。
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あの時代とは、あの戦争とは一体何だったのか。
それはすべて「お国のため」に、命を惜しまず尽くすことを一方的に強いられた時代だった。
明治以来それを尊いこととし、生れ落ちた時からその精神を叩き込まれてきたのが大日本帝国だった。
皇国の臣民はそれが正義であると疑わなかったし、疑いは許されもしなかった。
あの時代の政治家、軍人たちは、繁栄と平和を唱えながら、
この子らの将来に又しても戦争をもたらし、得べかりし明るく平和な時代を奪った。
「お国のために立派に死んで来い」と。
皆死んで、一体何のお国が残ろうものか・・・。
そして国家最悪の結末から60年、久しく平和が続いた。
さて振返って現代の為政者は、唱える理想と日常の行動は一致しているだろうか。
国民は「静かな声」より「大きな声」の方に引きずられていないだろうか。
繰り返すまじ、愚かな時代。
<参考文献>
「メインタンクブロー」呉鎮守府潜水艦戦没者顕彰会(1996)
「伊号潜水艦」学習研究社(1998)
「日本海軍艦艇」新人物往来社(2002)
「海ゆかば」呉海軍墓地顕彰保存会(2005)
「潜水艦・潜水母艦」呉市海事歴史科学館、ダイヤモンド社(2005)
2005.9-12.30