大名の参勤交代は、慶長7年(1602)に加賀の前田利長が人質として江戸に送られていた母・芳春院を訪ねて出府したことに始まるとされている。
その翌年、徳川家康が将軍に就任すると、大名たちの江戸参勤が広く行われるようになり、三代将軍家光の寛永12年(1635)「武家諸法度」において参勤交代が制度化された。
それ以後、大名は妻子を人質として江戸屋敷に置き、1年おきに江戸と国元で過ごすことを義務づけられた。
この参勤交代のため、国元と江戸を往復する大名と家臣団の士卒が組んだ行列が、いわゆる大名行列である。
大名は参勤交代の際にも軍旅の形式をとり、諸藩がたがいに権勢を誇示しようとしたので人数も多くなり、華美に流れるようになったため、幕府は八代将軍吉宗の享保6年(1721)行列の人数を制限した。
映画などで見る大名行列は、「下に下に」とゆっくり通り過ぎていく。しかしそれは、宿場内のわずかな区間のことで、道中はかなりの強行軍である。
宿を午前4時頃出発して、10里(約40キロ)前後を行進し、夕方6時頃次の宿に到着することになる。それぐらいの強行軍で進まないと、道中の費用がかかり過ぎるからである。
行列の人数は?
資料はありませんが、享保6年の幕府の御触書は5万石で、馬上7騎、足軽60人、仲間・人足100人 合計167人と制限されているから、6万石では200名位か?
偶然ですが、西尾まつり肴町大名行列の人数と同じぐらいとなります。
江戸までの日数は?
これも資料はありませんが、西尾−東京間を約320KMとすると、順調に行って8日?雨で川止めにでもなると、更に2〜3日多くかかったでしょう。
譜代大名は、在国在府1年で6月に参勤交代をします。新暦では7月になり丁度梅雨時で、じめじめした雨と、晴れれば蒸し暑い炎天下に苦労したことでしょう。
参勤交代の回数は?
大給松平氏前までの西尾藩主は、「武家諸法度」に定められた参勤交代をしたものと推定されます。
大給松平氏は徳川家康に繋がる名門で、代々幕府の要職についてきました。この間は、江戸、京都、大阪に住居していました。このため、参勤交代の回数は少なかったと考えられます。1800年以降は参勤交代の記録は見当りません。
西尾城主松平氏の中央要職
松平和泉守乗佑 大阪城代
西尾に所替になる前の山形城主の時、参勤交代 数回
松平和泉守乗完 寺社奉行 京都所司代 老中
1772年6月 参勤の御暇を仰せ出され、初めて西尾に在城する。
松平和泉守乗寛 寺社奉行(2度) 京都所司代 老中
1794年6月 参勤の御暇を仰せ出され、初めて西尾城に居城する。
松平和泉守乗全 寺社奉行 大阪城代 老中(2度)
松平和泉守乗秩 寺社奉行