願随寺の由来
親鸞が開き蓮如が御坊にした五本線のお寺    山下登著より

三河の国碧海郡鷲塚村(南松山願随寺)は親鸞聖人の御開基の地であります。貞永元年(1232年)、親鸞聖人が上洛の途中、弟子らと逗留したこの地において人々に教えを与えました。その時、遠くからも沢山の老若男女が集まり、その勢いは鷲塚の地を埋め尽くすほどでした。これを見た親鸞聖人は、この地は浄土真宗が栄える地であるので、側近の弟子の一人の信浄法師にこの地にとどまらせ、草庵を建て、子孫を相続して仏法を伝えていくように命令しました。応仁二年(1468年)本願寺第八世蓮如上人は本願寺を焼かれ失意の中、関東に下る途中、如光の故郷であり親鸞聖人の奮闘の地である願随寺に逗留します。親鸞聖人の教えを伝えていた願随寺の「中興開基恵性」は蓮如上人の従僧となり、蓮如上人に付き添い、時には上人の代わりに説法をし、弟子となるための修行をしてゆきます。そして認められ弟子となりました。また、蓮如上人は三河一円の浄土真宗のお寺が高田派に代わるなか、先祖代々親鸞聖人の教えをかたくなに守り続けている恵性らの生き方に感動し、壁の落ちたままの寺の状況があまりにもひどく可哀想に思い、ある時は真筆を与え、またある時は仏像経典等を与えました。また、蓮如上人がお亡くなりになられたのちには形見として蓮如・実如両門主の御遺骨をいただき願随寺に安置しました。(この事から鷲が沢山住んでいる地に両上人の御遺骨の塚があるという事で鷲塚の名前になったのかもしれません)これにより現在の願随寺は門主直接支配の鷲塚御坊本宗寺となり最高位の五本線のお寺になりました。(蓮如が御坊と言う名前を与えた最初の寺かもしれません)また、三州本宗寺とも言われ、三河や東海地方にある浄土真宗の中心の寺になっていき、当時の鷲塚に寺内町を形成していきました。そののち、実如上人の息子実円の時、一向一揆の前に岡崎市土呂に移転します。初めは土呂御坊も鷲塚山本宗寺を名乗りますが、今の岡崎市美合に移転し土呂殿本宗寺と名乗るようになりました。

*御坊とは門主がその寺院の住職を兼務する寺のこと。別格本山のような地位であろう。従僧とは高僧に従う僧のこと。

*五本線のお寺とは本願寺門主直接支配の御坊本宗寺となり格式では最高位になる

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お寺の土塀に五本線があります
線がお寺の各式をあらわす