大聖寺の沿革

三宝山大聖寺の名前由来   

大聖寺(だいしょうじ)の「大聖」という意味は 釈尊=おしゃかさん ですのでお釈迦さんのお寺ということになります。また、三宝山の意味は聖徳太子の「仏・法・僧の三宝を敬え」からきています。

初代、旧高浜講堂の大聖寺境外地 高浜市青木町6丁目6−20変遷および大聖寺の興隆について

明治40年      旧高浜講堂(大聖寺の前進)の建立

        現大聖寺門信徒神谷泰寿の先祖等8名が発起人となって高浜市青木町6丁目6−20に高浜講堂を建立された。高浜講堂は浄土真宗の説教を聞く道場として開設した。

大正3年      平松教遠師の登場 碧南市千福町(浜尾町)の僧侶・平松教遠師を高浜講堂に向かい入れ、 碧南市 から通勤で法務を行った。

大正8年    碧南市から平松教遠師の家族4名が高浜市に移住し移り住み布教に専念した。門信徒は日ごとに増えていった。

大正12年    平松教遠師の三男の孝順師が生まれる  後に大聖寺住職となる

           明治時代の末期約120年前にお寺を設立しました。大正時代には、名鉄高浜港駅前にありましたが道路を 拡げる工事にかかってしまい移転しました。ここが現在の場所となり。最初の住職が大聖寺(だいしょうじ)と名付けました。

昭和3年    平松教夫妻の誠実な人柄熱心な宗教活動に対し遠師の後援会の努力により現在の高浜市青木町6丁目7−11に本堂及び庫裏を新築した。

昭和13年   県道青木通り線の道路拡張により道路側2間半分を用地買収された

昭和20年 (1945平松教遠師の三男孝順師が戦争に徴兵され戦後、ソ連の捕虜となりシベリア抑留された
       平松孝順師が基礎から発展へと尽力してきた住職です。平松孝順住職は第2次世界大戦当時日本軍が       北朝鮮ピョンヤンに駐屯しておりその1人でありました。1945年8月に、武装解除ロシアの捕虜       にされシベリアに抑留された。ロシアから「みんな東京に帰れるぞ」と歩かされ到着した所が酷寒の       シベリアであった。その終戦の年は一番寒く零下40℃の酷寒と空腹で多くの仲間が亡くなっていっ       た。丈夫な若い人間でないと生きられない。その中で運良く、体力もあり生き延びることができた。       日本に生還でき生きているあかしが「仏法を世間に広めよう!」という契機になった。この体験が現       在の大聖寺を支えてきたバイタリティのひとつの要因であります。

昭和25年     宗教法人法の施行

       開祖である平松教遠師が死去する   三男平松孝順師がシベリア抑留から生還し帰国

昭和29年     宗教法人 大聖寺 として法務局に登記される  平松教遠師の妻 平松サヨが僧侶として活動

昭和30年代   三男平松孝順師が住職となる

昭和41年   高浜港駅前の旧高浜講堂は駅前広場造成のため市に買収された

昭和41年 昭和50年代に日本の経済成長に伴い寺では檀家が徐々に増えてきた

現在、杉浦和順師が2015年3月3日に平松孝順師を継承して住職となる。
  
高浜市では唯一ここが浄土真宗本願寺派(西本願寺
である。

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