わたしとパチバカとの出会い・・

こちらでは私とパチバカとの出会いを語らせていただきます。    HOME

その1〜パチンコとの出会い〜あれは高2の春の頃

私が初めてパチンコに手を染めたのは高校2年の春でした。パチンコに出かける両親に「連れていってくれ」と頼み、一緒に行きました。(なかなかパチンコ初体験が親と一緒というのも珍しいでしょう。)そのとき打ったのがSANKYOのF・億万長者という台でした。(この台は2回ワンセットのデジパチいうなかなか珍しい台です。)

昔からパチンコにハマる人は大体、初めて打つ時はビギナーズラックで勝ってる人が多いものです。無論、私もすぐに大当たりしてしまい開けなくてもよかったパチンコへの扉を開けることになってしまうのでした。

 それから数ヶ月・・私の運命を大きく変えるパチンコ台との出会いがありました。その台とは、「夢幻伝説」です(解説・・京楽の現金機。確率は250分の1前後。大当たり終了後、おみくじ抽選で三か七が出るとスーパー時短に突入。二、四、六、八で終了。突入率1/8継続率3/4)この台は電動チューリップが通常時、3分の1で1秒ほど開きます。「このタイミングだけ玉を打ち出せば、かなり回せるんじゃないか?」と考え、実践してみると千円あたり、70回ペースで回すことができ「これはいける。」と土日になると1日中そのホールで遊んでいるという生活がはじまるのです。

 ・・・今考えてみると結構根性あったなあと思います。1日いてせいぜい勝てたのは1万円がやっとでしたから。しかも機種の性格上、スーパー時短ナシではただの確率の悪いノーマル機でしたのでなおさらでした。でも幸運だったのはこのお店はやる気がないのかガラガラでしかもおもいっきり止め打ちしていてもな〜んにも注意されたことはなかったのですから。さらに幸運だったのが台が古かったのでたまに電チューが開いて少しひっかかるのが数台ありまして、クギ自体はガンガン渋くなっていたのですがなんとか数千円の儲けを手にしていました。

 しかし、そんな日々も長くは続きません。友達に「こんなことできるよ」と教えたら毎日通っていたみたいで(私はあくまで休日しかパチンコはしませんでした。)ある日朝9時(愛知県のホールはたいてい9時に開く・・ハズ)過ぎにホールに入るといつもはガラガラシマにひとだかりが・・
 夢幻伝説は案の定姿を消し、デッカー2(大一)がならんでいました。(結構この台もおもしろかった覚えアリ。現金機の確変は最近ききませんねぇ・・そういえば。) さて、確実に勝てた夢幻伝説を失いみるみるうちサイフは軽くなっていきました。もちろんヒラで打って勝てる店でもないし、そんな技量もなかったのです。ここで、スパッとパチンコから身を引ければよかったですが・・私の中にウイルスでも飼っているかようにパチンコした〜い!という欲求が芽生えてしまったのです。 そんなある日私はふと、コンビニで「パチンコ必勝ガイド」なる雑誌を手に取ることになりました。

その2〜ハガキを書いた日〜

 私が初めて手に取ったパチンコ雑誌「パチンコ必勝ガイド」。もしこの時に違う雑誌を選んでいたら私はそんなにパチンコ好きにはならなかったかもしれません。ガイドの文面には・・なんていうかパチンコに対する真摯な姿勢が感じられると思います。だからガイドを何年も買い続けていると思うし、パチンコ誌の中でもトップの位置にいるんだと思っています。

・・しかし、当時の私は「ふ〜ん」という位でガイドを読んでいました。パチンコの知識はぜんぜんなかったので何が書いてあるのかはよくわからなかった・・と記憶しています。でも連載陣が充実していて(田山プロのパチプロ日記はもちろんのこと個人的には銀玉親方の連載が好きでした。)それからガイドを買い続けていくことになりました。しかし、その頃はまだパチバカにそれほど意識はありませんでした。

パチバカを面白い・・というか変わった空間だなあと思い始めたのはいつ頃でしたでしょうか。その頃はパチバカの歴史的にはラモス留緯、ファンキー子分両氏の全盛期だったんじゃないかな?。とにかく凄いエネルギーが紙面にあふれていあたことを覚えています。

 それから私もハガキを一度出してみよう、となぜ思ったのか・・・記憶をたどっても思い出せません(笑)。それまで雑誌にハガキが載ったことなど全くありませんでしたが、とにかく自分のセンスが通用するか確かめたかったというところ・・かな?でも、ハガキを書いてみよう!と思ったのはいいけどコーナー説明なんてどこにもないしその前にどこに送ればいいんだろう・・と途方にくれるハメに。それから1分後、懸賞ハガキに編集部の住所が書いてあったのでここに「パチバカ係」と書けばいいだろうと予測をたてました。

不親切だなあ・・と思いつつとりあえず次はペンネームを何にしようと考えました。この時はなんでもいいやと「カウント9」と書き、数枚ハガキを送りました。しかし三ヶ月ほどたっても載る気配ナシ・・。しょうがねえかと今度は沢山ハガキを書けばのるかな〜とたくさんワケわからんことを書いてみました。ペンネームも今度はなんにしようかな〜とまたテキトーに「ベーシスト」と書いて送りました。

 今度もダメだろうと思っていましたがなんとその中の1枚が(当時は1枚にたくさんネタを書いてもいいと知らなくて1枚に1ネタだった。そのあとに1枚にたくさん書いてもOKと知ることになるのです。)1997年の新年号に掲載されていました。

    <心臓急停止>

高校の演劇部から「かきくけ、けこかこ郭源治」という発生練習が聞こえてきた  

これが載るかぁ〜というのが当時の正直な感想でした♪

その3〜PN・べーシスト時代〜

 さて、念願の初投稿を果たし、ページ上の金閣(現・ゲッツ板谷)氏のコメントに「今年の新人は見どころがある」なんて書かれていてちっと嬉しかったわたしは「もう少しだけハガキをだしてみようか」などと考えていました。しかし、殿堂入りまではもの凄く遠いので

とりあえず、当面の目標を

・2点ネタでもらえる「謎の特殊景品」とは何か知りたい

・1号で10点以上獲得するともらえるパチバカ手ぬぐいが欲しい

・一通り全コーナーに顔を出したい・

当時ラモス氏が流行らせていた「デブネタ」を私も出したい

・累計得点に顔を出したいに設定し、ハガキを書くことにしました。

 当時、高校生だった私のネタの考え方は基本的に「勉強との並行作業」でした。

 宿題する時でも教科書のとなりにパチガイを置いて思いついたらメモに書きとめ、後でまとめるという感じでした。なにしろハガキが1枚50円、しかも1枚1ネタという厳しい状況でしたからそうやすやすとネタを書くことはできませんでした。

 それでもなんとか努力が実り掲げた目標がいきなり2つ達成されました。

   <心臓急停止>

・壁中、「正」と書かれた部屋に閉じ込められた

<パチンコ・ヤな瞬間>

・隣に座ったデブが昔、イーアルカンフーでどうしても勝てなかったデブにそっくりだった瞬間。      (共に2点)

 このネタ、当時結構大きい文字で載せていただいて、これで私もパチバカ村の一員として他の職人さんにも認めてもらえたかな?と当時は思ったもんです。

その4〜PNベーシスト時代・2〜

 2点ネタの特殊景品とは何なのか?私は少しだけドキドキしながら日々を過ごしていた。そしてネタを載せてから一ヶ月位経った時「白夜書房」と書かれた封筒が私の家のポストに投函されていた。

封筒は思いのほか軽かった。もうその時点でもうあんまりいいもんじゃないだろうと憶測していた。案の定、中には「ねずみ」「男爵」と書かれたパチバカシールが入っていた。その以外には何も入っていない。何の説明もない。「ありがとうございました。」などの言葉が書かれた紙一枚でも入っていれば「これからも頑張ろうか・・。」という気持ちになれるのになあとこの時は思ったものです。

 しかし!パチバカの投稿者を突き放す姿勢はこんなものではありません。確か、このネタを載せていただいたときは・・・

<パチンコ・ヤな瞬間>

ニュースステーションのプロ野球速報でひいきチームが勝ちムードの時に

アナウンサーが「しかし」と言った瞬間。 (2点)

また白夜書房からの封筒がきた。さわった瞬間、明らかに棒の感触が伝わってきた。もうその瞬間に私はあきらめていた。失意のまま封筒を開けるとタバコの形がしたエンピツが入っていた。よくよく見ると「50」と書かれている。50円のエンピツを80円の切手で送りつけてくるとは・・。パチバカ恐るべし!もうこれからうんうんうなって大ネタを出そうとはあんまり思わなくなった。

 しかしこれが後々アダになってしまった。後の2点ネタ景品「パチバカコイン」の時に2点ネタが編み出せず私はこのパチバカコインを手に入れることが出来なかった。(別に2点ネタなら必ずもらえるワケでもありませんでしたが)この時は悔しかった 後にまた2点ネタを載せた時の景品は何故かアダルトトレカだった。確か川島和津美が入っていたはずだ。記憶している自分が恥ずかしい・・・。人生ってうまくいかないもんですねえ。むぅ。

 

その5〜PN・ベーシスト時代3〜

 パチバカに投稿しだして早くも1年が過ぎようとしていました。それまでに私はいろいろな試行錯誤をパチバカで試していました。例えば、デブネタに対抗して私はファミコンネタを個人的にシリーズ化したりしました。当時のパチバカをお持ちの方はご覧下さい。私はもう詳細は覚えていませんが10点分くらいはファミコン関連のネタがあるはずです。結局ネタにつまりシリーズとは言えないかもしれませんが(笑)。

ここで今まででの私の1番の出来と自負するネタをご紹介させていただきます。

パチンコ・ヤな瞬間

以前このコーナーに乗せたフェラネタを母が見て「この幡豆郡っていうのアンタじゃないよね?」と言われたがネタがネタだけに言い出せずi言いたいのに言えないというなんだか正義のヒーローにでもなったかの様な瞬間。(2点)

このネタが完成した時は「2点もらった!」と思ったもんです。当時は真剣にネタを作っていたんですね。私。パチバカが現在寂しくなってしまったのは脳ミソを削ってまでネタを考えようという方が減ったからでしょう。と私は見ています。そのほかにも勝ち抜きチャランボーに「こんなペンネームどうですか?」とテキト−にいろいろ書いたて送ったりもしました。結局勝ち抜くことはできませんでしたが、掲載されるだけでこれは嬉しかったです。 そんなこんなで結局1年目で40点ほど獲得し、念願の累計得点欄に私の名前を出すことができたのです。ここまで1年。私の名前を一番左に見つけた時は感無量・・というのは大げさかな。でもかなり嬉しかったですよ。今は10点位で累計得点に顔が出てきますのでちょっといらやましかったりしています。

その6〜コーナー考察〜

 私は2001年の時点でパチバカとお付き合いさせていただいて6年ほどになります。しかし、今だに各コーナーの定義をイマイチ理解していません。 例えば、<ぱちんこ御教訓>というコーナーがありました。「とりあえず一通り全コーナーに顔を出したい」という目標のもとネタを考えましたが、なかなか載らず、実験的にこんなネタを送ってみました。

高校野球を見ていたらこんな御教訓を授かりました

天理高校の帽子の天の字は任天堂のロゴの文字と同じだ

教訓でもなんでもないですがこんなのが載ったにするんですね。改めてパチバカの掲載基準の難しさを体験することになりました。単に板谷さんが野球が好きだから・・というだけかもしれませんが。今思えば。

パチバカって掲載されるのが難しい。と聞きますが私的に言わせていただくと確かにハードルは高いけど、それもただ高いだけじゃなくて、さらにハードルの棒が変な形に歪んでるって感じがします。「普通に高く飛んでもダメよ」って言われてるような気がするんですよね。いかに変な体勢で高く飛べるかっていうのを競ってるんだと思いますよ。パチバカは。

 

その7〜私の愛した(?)職人様〜

 パチバカに投稿されている方はみなさんご存知の通り凄い方ばっかりです。その才能を違うところに発揮できれば・・とも思いますがそれは禁句でしょうね(笑)。なかでも私の好きな職人さんは「ビバ」さんです。そのきっかけとなるネタはこちら。

心臓急停止

●●君と一緒に帰った

 ●●君が誰だったかは残念ながら忘れてしまいましたが私はこのネタがものすごく刺さったんですね。ネタの意味はよくわかんなかったんですけど(笑)。このネタそのものよりも、このネタが載ると踏んだビバさんと本当に載せるパチバカスタッフ側の意思の疎通を見た気がした・・というのは大げさかもしれませんが、この時はそんなものを感じました。

 その他にもビバさんのネタは一言で言い切るネタが多く(面白さを一言で言い切るのはかなり難しいです。)私好みでした。最近では「末井さんがサラダにママレモンをかけていました。」というネタがお気に入り。肩に力が入っていなくて素晴らしいです。想像するとニヤニヤしてしまいます。

  最後にわたしのビバさん風ネタをひとつ(ぱちんこ・ちチ恥)

100M走なのに300M走っているオヤジがいた

力を抜いた感じのネタにしようとそうとう力を入れた覚えがあります。

第8幕〜単語でスラムダンク編〜   単語でスラムダンクデータベース

今回は今やパチバカの名物コーナーになりました「単語でスラムダンク」についての考察になります。  96年ごろのパチバカに新コーナーの文字がありました。 ハガキにインパクトのある単語、もしくは短文を書いて送るべし。勝ち抜きチャランボーのごとく勝ち抜くごとに3点。しかもノミネートされただけで1点もらえる(勝ち抜きチャランボーではノミネートされただけでは得点はもらえません)という内容でした。これは明らかに普通にネタを考えるより効率がいい、ということで私はこのコーナーにチャレンジすることにしました。とはいえインパクトのある単語と言われても手がかりはありません。 うむ、どうしようか・・と思いながら創設されたばかりのスラムダンクを読んでいました。ある時、「ただの単語よりも文面からストーリー性を感じさせられるような短文を作れれば・・」と思いひたすらあらゆる単語を組み合わせる作業をしていました。そして・・ある雨降りの日に浮かんだネタがチャンピオンに選ばれました。それは・・・

相手は 台風です かないませんよ

というもの。文章からイメージが膨らんでちょっと奥行きができた・・と私は思っています(単なる自画自賛ですが)。このダンクは3回勝ち抜き合計9点獲得できました。

 なかなかオイシイなあ〜とまた次のダンクを考えていましたがなかなか”自分の中の予選”を通過するだけのものが出来ませんでした。そして前のダンクから数ヶ月、ようやく「これはイケるだろう」というものができました。

傘じゃ無理だよ 降りらんないよ

 この作品はコメントでストーリー性すら感じさせると評されながらも残念ながら勝ち抜くことはできませんせした。

 それから次のチャンピオンになるまで私は3年近く苦戦を強いられることになるのです・・・。

その8〜単語でスラムダンク編・2〜

 現在のスラムダンクの投稿のほとんどはヨコ書きになっています。しかしオーナー創設当時は縦書きが主流だったことを御存知でしょうか(コーナー新設当初タテ書きが望ましいとなっていたからです。)それからいつ現在のような横書きスタイルが主流になっていったのでしょうか。

・・それは現在ハガキ職人のトップに立つラブバックさんが初めてヨコ書きの投稿をされものすごい強さを発揮され始めてから他の投稿者の方たちも横書きに流れていった・・と私は記憶しております。

 私はというとその流れには乗らず初チャンピオンになった時の”タテ書きにマッキー”のスタイルにガンコにこだわっていました。結果的にはそれがアダとなり初チャンピオンから2度目のチャンピオンまで3年近い時間を費やしてしまいました。
原因としてはタテ書きもさることながらマッキ―で書くとどうしても字が太く書けずあまりパワーが伝わりにくいようなのです。
・・といって今更ヨコ書きに転じるのはなんとなく白旗をあげるようでどうしてもイヤでした。そんなことを気にしているのは私だけでしょう。よくよく見たらもうタテ書きの投稿は全然なくなっていました。

 ・・どうするか。袋小路に完全に迷いこんでしまいました。結局答を出せたのは2000年のことでした。その答とは・・

板谷さん
それエネルギーだから
食べないで!!

このネタはなんとなく西原先生のマンガをイメージして作りました。でも残念。このネタは1週勝ち抜き止まりでした。

その9〜PN千草響子〜

  私の現在のペンネーム「千草響子」に変えたのは高校卒業後、進学に合わせ名古屋に引越ししてある程度して生活に慣れたころまたハガキを書こうとした時に心機一転、変えてみようかと思ったからです。

 今度は何にしようかな〜、と思いながら数日程考えてた時にたまたまめぞん一刻を読み返していて主人公「音無響子」の旧姓が千草と知り、これにしようかと何故かその時思いました。決め手としてはめぞん一刻の中に”千草響子”という4文字は並んでいなく(高校時代に千草と呼ばれているだけ)ちょっとマニアックな感じがしていいなと思ったからです。

私はハガキにPN・ベーシスト改め千草響子と書いてネタを送りました。
 しかし、掲載された時はベーシスト〜改めとは全く書かれていなく(たとえば自慰PチャンピオンさんがGPに改名された時は自慰Pチャンピオン改めGPと載っていたんですが)突然「名古屋市・千草響子」になっていて累計得点の名前もなんの前触れもなく千草響子と変わっていました。
う〜んこれでPNをは改名したとわかってもらいづらいのでは・・と思いましたが「こんなものかな?」と納得しました(本当はしてませんけど・・)。

  ・・当時はまさかネット上で名乗る機会があるとは思いもしませんでしたので今考えれば違う名前がよかったかな?とも思っています。でも結構気にいっていますしネット上はあくまでも匿名なのでそれほど恥ずかしくはありません。いちばん恥ずかしかったのは2001年に行われたパチンコ必勝ガイド主催のパチンコ大会IN愛知に出場した時なのです・・。

その10〜パチンコ大会IN愛知・1〜

 2001年2月、パチバカへの投稿間隔もそろそろ1年が開こうとしていた。そろそろハガキ出さないとまた名前が消えちゃう(以前1週だけ消却経験アリ)なあと思いながらガイドを買った私に衝撃が走った。「パチンコ大会IN愛知」会場は岡崎にある出玉王ダジュール(全国チェーンでジュースがパチンコ店内でも定価で売っているという愛知県では非常に珍しいホール。私は全国的にパチ屋店内で売っている缶ジュースは150円だと思っていたがそうではないらしい)だという。1時間もかからない距離だ。これは出場するしかない!と思った私はその瞬間にハガキを手にしていた。裏にパチバカにハガキ出してま〜すとせっかくなので書いてみた。こうすれば確率が高くなるかな〜となんとなく思ったからです。

 それから何日が経ったでしょう。たしか2月15日がハガキの締め切りだったはずだが13日に当選の電話が鳴った。・・早いなあ。どういう抽選なんだろう?と思って担当の方から話を聞いていたら、「このパチバカにハガキ出してるも者ですってどういうことですか?」と聞かれてしまった。・・しまった。この担当の方がどなたかは分かりませんがパチバカをあんまりご存知ないらしい。「え〜と、それはですねえ・・」と一から説明するハメに。恥ずかしいなあ・・。 千草響子というPNもそれに追い討ちをかけた。余計なこと書くんじゃなかったかな、とちょっとだけ後悔してしまいました。

こうして私はパチンコ大会への切符を手にしたのであります。

その11〜パチンコ大会IN愛知・2〜

 2001年2月某日、私は岡崎市のダジュール出玉王にいた。目的はもちろんこれから行われるパチンコ大会に参加するためである。この日、この店は夜6時から新台、ギンギラパニックがお披露目される。つまりその間の時間にパチンコ大会は行われるのである。

  だんだんと人が集まってきた。もうすぐ始まるんだ、と私の胸は高鳴る。それから1時間後店員さんが大会の説明をし始めた。「これからみなさんくじを引いていただき、書いてある番号の台に座って頂くことになります。」

 ・・せっかくだ。新台のギンパニ、もしくは当時大人気のバカボンに座りたい、と私は思った。私は込み合う中、くじを引いた。
 くじの番号を頼りに台に向かう・・。・・どの台だ。私を待っているのは・・・。

  ・・・海物語だった。

  う〜ん、と複雑な気分。海も嫌いじゃないけど今更これかあと思うがその一方、フルーツパッション、わんパラにあたるよりはマシともとれる。でもギンパニ、バカボンが打ちたかったなあ・・。でもしょうがないか・・。

気持ちを切り替え台に座ると全員プレゼントのパチンコお守りがドル箱に入っていた。そういえばパチンコお守り、私は持ってなかったので結構嬉しかったです。これだけでもガイドファンには参加した価値はあったといえるだろう。他にも仙人パラダイスのストラップも入っていたが・・どうしたっけあれ・・。ゴメンナサイ。

それから数十分後、参加者全員が席に座りついに大会開始への準備が整った。・・その時大崎一万発氏がついに登場した。
おお!その瞬間なんともいえない熱い気持ちが私の全身を包んだ。大崎さんの登場で私は自分が予想する以上に熱く感動していることに気づいた。ああ、私はこんなにもガイドを愛していたのね!。世間一般ではこんな野郎は変わり者と見るかもしれないけど仕方ない、大崎さんを見た瞬間、胸がときめいちゃったんだから・・・(同性愛という意味ではありませんよ)。これが芸能人・・たとえモーニング娘。の後藤真希が目の前にいてもこんな気持ちにはならんでしょうな、絶対。私はそれほど好きだったんだ、必勝ガイドが、とこの時自覚した。


 ・・・「これより、説明を始めます・・。」

おっと、説明聞かなきゃ。夢想している場合じゃない・・

その12〜パチンコ大会IN愛知・3〜

「はっ。」
 私が結構な変わり者だと自覚していた時、司会の方がルール説明をしている。いかんいかん、夢想している場合ではない。
「これから3時間の間で差玉の多い方から上位3位までの方に豪華旅行を差し上げます!。それから77位。ブービー賞も御用意しています。みなさん頑張ってください!。」

  ・・200人で上位3人か・・。神がかり的なヒキが必要だな。って言うかムリじゃん。機種も海だし。ギンパラ、フルパンのが勝負としては早いし・・。というわけで自分の中ではすでに諦めムードの中、大会はスタートしたのであります。

 が、そんな私にミラクルが起きた!。大会開始10分、初リーチとなる3のリーチでまさかの魚群発生!!。これが決まれば上位入選もありえる!。さあどうだ、マリンちゃん出現・・低速になり・・手前でアウト・・。なんとも寂しいハズレ方。この瞬間、上位入賞のかすかな望みも消え、あとは大会中に台番号を抽選し当選した台にプレゼントを配るというイベントにかけるしかないくなった。それから1時間後、なんとか確変を引き、ボウズだけはなんとか免れたなと思っていた矢先「XXX台の方、おめでとうございます!。」偶然にもうるさいホールの中、当選の声を聞き取ることが出来た。何がくるのか・・ちょっとドキドキ。すると編集の水野さんから「おめでとうございます!。」と何か手渡された。なになに・・、コカコーラのハンカチ?・・。出来ればパチンコ関係のモノがよかったなー・・なんて贅沢は申しません。ありがとうございました!!。

 かくして3時間の大会は終了。優勝された方はなんとバカボンで1万何千発も出されたらしい。おめでとうございます。ちなみに私は確変は3回で終了。でも何にもないよりマシか・・。 「それではこれより外で記念撮影を行いまーす。」
・・そうだ、写真に写りガイドに載らなくちゃ・・。
そう思い急いで外に出ようとするとその近くで大崎さんとの撮影会が。しまった、カメラ持参じゃなきゃだめなんだ・・。

その13〜パチンコ大会IN愛知・4〜

 記念撮影に挑む為、私は急いで外に出た。するともう人、人、人。
  ・・まずいぞ、なんとか顔を出さなければ私はガイド読者として一生後悔する。どうする、なんとか私は人をかきわけ首と首の間に顔だけなんとか出すことに成功した。「写真、あんまり大きくできないんで〜。」とカメラマンも務める水野さんの声。大丈夫だ、私の立ち位置ならなんとか判別できるところに写るはずだと私は密かに思っていた。そしてシャッターは押された・・。

「ありがとうございました。これにて解散です。これより6時から新装開店になりますんで時間のある方は是非打っていってくださ〜い。」
  解散の合図、それは大崎さんへの接近のチャンスを意味する言葉だった。大崎さんの周りには握手を求める人でいっぱいだった。私は人が気持ち減った瞬間に握手を求め頑張ってくださいと声をだした。そして、パチバカにハガキ出している者なんです、と言ってみた。そしたら
 「あんまり載らないでしょ?」と返されたので・・

 「80点(当時)で一応名前は載っています。」と私が言うと・・

「えっ、ペンネームは?」とちょっと驚かれたように返された。

・・しまった。こんな機会があるとは夢にも思わなかった。でも言わないわけにはいかないので「千草響子と言います」と下を向いて言ってしまった。恥ずかしいなあ、しかし・・。そのちょっとした間に大崎さんはまた違う方に握手を求められていた。

「まあ、いいか。御挨拶できただけでも・・。」私は車に乗り込んだ。そして駐車所から外に出ようとする時店の入り口あたりで大崎さんがいたのでちょっと見ていたら偶然目があった。そして水野さんと一緒に手を振って下さった。・・いや、多分私に向かってだけではなく他の帰路につく参加者の方全体であろう、が私に手を振っているんだと決め付けお二人に会釈をして会場を後にした。こうしてパチンコ大会IN愛知は幕を閉じたのでありました。

それからしばらくしてガイドにその時の写真が載っていた。「これだ!。」すぐ分かった。ホントに顔だけ、しかも太っていて悲しいほどひどい顔。この時から本気で減量しようと心に誓ったのであります。

追伸 まだ全然減量できておりません。(2002年9月現在)

 

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