オーケストラ三昧
設立年/オーケストラ | プロフィール | 代表録音 |
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1743年 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 |
ドレスデンやベルリンのシュターツカペレとともにドイツで最も古いオーケストラとして位置づけられている。しかし歌劇場を母体とせず、コンサート・オーケストラとして自主的に組織されたものとしては世界最古のオーケストラと言える。 もとは16人編成の小管弦楽団であったが、1781年にゲヴァントハウス(織物会館)にホールができたことをきっかけに、ここでのコンサートが活動の中心となった。1835年にはメンデルスゾーンがこのオーケストラの指揮者となり、自作の第3交響曲やヴァイオリン協奏曲の初演のほか、シューマンの交響曲第1番、第2番、第4番、シューベルトの第9番などを初演した。またバッハの「マタイ受難曲」を蘇演したことも歴史に残る偉業とされている。メンデルスゾーンは指揮者としても才能を発揮し、このオーケストラの演奏水準を飛躍的に向上させた。しかし、1847年、38歳の若さで世を去ってしまうのである。 1895年から1922年まではアルトゥール・ニキシュが指揮者を務め、その後、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー・ブルーノ・ワルター・ヘルマン・アーベントロートへと引き継がれた。1970年からはクルト・マズアが君臨し、96年までの26年間その座を務めた。現在聴くことのできる優秀な演奏の数々は、マズアとのものが多い。ドイツが西と東に分断されていた頃の、近代化への発展に大きく遅れをとっていた東側の、その歴史の重みを感じる演奏である。 98年からはヘルベルト・ブロムシュテットが主席指揮者を務めている。 |
チャイコフスキー 交響曲第4番 指揮:クルト・マズア |
1765年 ベルゲン・フィルハーモニー |
ノルウェー最大の商業都市であったベルゲンに、音楽愛好家の集まり「ハルモニエン」が設立され、フィルハーモニー・オーケストラが設立された。これが世界でも最古のオーケストラの一つとされるベルゲン・フィルの誕生である。 ベルゲン生まれでノルウェーを代表する作曲家グリーグが、1863年に初めてこのオーケストラと共演している。1880年からは音楽監督も務め、作品も提供している。 1914年には専属の合唱団が結成され、19年にベルゲン市のオーケストラとなった。1990年からドミトリー・キタエンコが主席指揮者を務め、93年と98年に来日公演を行なっている。また99年からはオーストラリアの女性指揮者、シモーヌ・ヤングが主席を務めている。 |
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1772年 レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団 (サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団) |
ペテルブルク初の管弦楽団として誕生し、後の1802年にフィルハーモニー教会の設立に合わせ、ここでの中心的な役割を担って活躍した。1824年には、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」を世界初演している。1882年からは皇帝アレクサンドル3世の命により宮廷直属のオーケストラとなった。1902年にはマーラーが客演し、03年にはニキシュが、14年にはR.シュトラウスも指揮をしに訪れている。 1917年のロシア革命により宮廷が消滅すると、このオーケストラは名称を国立管弦楽団と変更し、セルゲイ・クーセヴィッツキーを音楽監督に迎えた。その後名称は国立フィルハーモニー管弦楽団となり、国立ペトログラード・フィルハーモニーとなったあと、1924年に市の名前が変わったことを受け、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団と改まった。 指揮者はエフゲニー・ムラヴィンスキーが君臨したが、彼は1931年に25歳でこのオーケストラに初登場している。その後37年にはショスタコーヴィッチの交響曲第5番の世界初演を行なっている。彼は翌年の38年に音楽監督に就任し、その任期は88年までの50年間も続くのである。 来日は1958年と1970年にあったが、ムラヴィンスキーとの来日は1973年まで待つことになった。現在は、ユーリ・テミルカーノフが音楽監督を務めている。 |
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1776年 ボリショイ歌劇場管弦楽団 |
宮廷歌劇場を起源とするモスクワの名門オーケストラである。歌劇場での演奏だけでなく、ボリショイ交響楽団としてコンサートも行なっている。日本にも度々訪れていて、ショスタコーヴィッチなどを演奏し、ロシアの伝統を守る豪快で華麗なサウンドを聴かせた。現在はアレクサンドル・ヴェデルニコフが劇場音楽監督を務めている。 | |
1778年 ミラノ・スカラ座管弦楽団 |
オペラでの演奏を行なうときはミラノ・スカラ座管弦楽団として、オーケストラ単独でのコンサートではミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団として活動している。1898年から音楽監督にアルトゥーロ・トスカニーニが就任し、途中間は開くが1929年まで務めている。 このほか指揮者にはリヒャルト・シュトラウスやウィルヘルム・フルトヴェングラー、エーリッヒ・クライバーなども登場している。戦後、1946年以降は、ヘルベルト・フォン・カラヤンやレナード・バーンスタイン、カルロマリア・ジュリーニなどが客演している。1986年からはリッカルド・ムーティが音楽監督に就任し、伝統のイタリアオペラのみならず、ニーノ・ロータなどの映画音楽もレコーディングしている。 |
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1783年 マリインスキー歌劇場管弦楽団 |
サンクトペテルブルク国立音楽舞踊劇場がその原点である。この劇場が1860年に竣工した帝室マリインスキー劇場に移管され、ロシアのオペラとバレエの発展に貢献した。その後、ロシア革命により1920年に国立オペラ・バレエ劇場となり、1935年にキーロフ・オペラ・バレエ劇場と変更された。そしてソビエトの崩壊などにより、1991年、再びマリインスキーオペラ・バレエ劇場の名称が復活したのである。この伝統ある劇場のピットに入るのが、マリインスキー歌劇場管弦楽団なのである。 ベルリオーズから優秀さを評価されたという逸話も残るこのオーケストラには、ハンス・リヒターやグスタフ・マーラーなども客演し称賛を寄せている。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」やラフマニノフの交響曲第2番を初演したのもこのオーケストラなのである。 エフゲニー・ムラヴィンスキーも指揮者として訪れていて、1977年からはユーリ・テミルカーノフが、88年からは若干34歳であったヴァレリー・ゲルギエフが主席指揮者兼芸術監督を務めている。 ゲルギエフのカリスマ的な存在によって、このオーケストラおよび劇場は瞬く間に世界的なメジャーな存在となった。録音も頻繁に行なわれ、オーケストラの力量が若干過大評価されてはいるが、売れるラインアップを着実に増やしている。 |
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 ヴァレリー・ゲルギエフ |
1828年 パリ音楽院管弦楽団 |
1795年に国立の音楽学校として創立されたのがパリ音楽院である。そこにコンサート協会が組織されたのが1928年で、この年から交響楽団の活動が定期的に行なわれるようになった。これがパリ音楽院管弦楽団の起源であるとされている。パリ管は、ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」やフランクの交響曲ニ短調を初演し、ドビュッシーを初めとするフランス音楽の初演を数多く行なってきた。ベートーヴェンの交響曲を、彼の死後の翌年にフランスに紹介したとも言われている。また1939年には、リヒャルト・ワーグナーが、パリ管の演奏するベートーヴェンの第九を聴き「まったく完璧であり、感動的な演奏であった」と絶賛している。このようにパリの音楽界の歴史を作ってきたパリ音楽院管弦楽団であるが、20世紀の牽引者であったアンドレ・クリュイタンスが1967年に死去したことで、このオーケストラは転機を迎える。 新しい音楽監督には、このオケとも縁の深かったシャルル・ミュンシュが選ばれたのであるが、ミュンシュと文化相アンドレ・マルローの意向によって、オーケストラは発展的に解散することになった。そして新たにオーディションを行なって、世界的にも一級のオーケストラとして生まれ変わったのである。それが国立パリ管弦楽団である。財政面は国が二分の一を負担し、パリ市とセーヌ県が残りを補完することで調整が図られた。 ミュンシュとの船出は期待の高まる最高のもので、ブラームスの交響曲第1番やベルリオーズの幻想交響曲は、今もってベスト盤に上げられる評価を得ている。しかし、翌年にはミュンシュが急逝してしまい、その後は地道にその演奏レベルを維持しているといえる。 ミュンシュの後任には、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ゲオルグ・ショルティが短期でつなぎ、75年からは33歳というダニエル・バレンボイムが音楽監督に就任した。ピアニストとしての名声はあるものの、指揮者としては未知数のバレンボイムを、このオーケストラは見事に掘り当てたと言ってよい。バレンボイムとの関係は89年まで続き、数々の名盤を世に送り出した。 その後は、ロシアの指揮者セミヨン・ビシュコフが務め、クリストフ・フォン・ドホナーニ、クリストフ・エッシェンバッハへと引き継がれていった。 |
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1842年 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 |
日本人に最も人気のあるオーケストラである。もちろん世界トップレベルのオーケストラであることを疑うものはいない。ウィーンの伝統を頑なに守り、世界で唯一男尊女卑を標榜していながら、この時代においてもそれが許される稀有な存在である。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーといったヨーロッパ音楽の偉大な作曲家が活動し、そして愛した街ウィーンの、その音楽と演奏スタイルを現在まで守り通しているオーケストラである。それは、ウィーンのしきたり、ウィーンの人脈、ウィーンの価値観をごく当たり前のものとして生活の中に共有できるものしか、このオーケストラは受け付けないということなのだ。 歴史も古く、創立は1842年だが、それ以前から宮廷歌劇場の管弦楽団として活動が続いていた。このオーケストラの実態が歌劇場管弦楽団のメンバーによるステージネームであることは周知の事実である。 常任指揮者としては1883年からのハンス・リヒターや1898年からのグスタフ・マーラー、1930年からのクレメンス・クラウスが有名だが、それ以降は常任指揮者を持たず、国立歌劇場としての音楽監督を擁するのみである。 レコーディングは百花繚乱の凄まじさで、実体のないオーケストラにも関わらず、メジャー級のレーベルであればほとんどのカタログにこのオーケストラの名前が載っている。 中でも、1950年代後半にスタジオ録音されたショルティ指揮による「指輪」は、日々、指揮者やプロデューサーとの確執を招きながらも、歴史に残る大偉業を成し遂げている。また同郷の人カラヤンとも生涯を通じてのレコーディングを行い、美しさの極みを記録している。ただ、ウィーンという街のもつイメージが録音においても最優先され、仕上がりとしては雰囲気に流されたものが多いのが残念である。 |
ブルックナー 交響曲第7番 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン |
1842年 ニューヨーク・フィルハーモニック |
オーケストラ大国アメリカにおける最も歴史のあるオーケストラである。1回目の演奏会は1842年の12月7日に開かれている。 91年からはハンガリー系の指揮者アントン・ザイドルが常任に就任し、92年よりオーケストラの拠点をカーネギー・ホールに置き、ここでドヴォルザークの「新世界より」を初演している。 1909年からは作曲家マーラーが常任指揮者に就任して、1番「巨人」と2番「復活」のアメリカ初演を自ら行なっている。そして1923年からはウィレム・メンゲルベルクが、1927年からはアルトゥーロ・トスカニーニが、1936年からはジョン・バルビローリが、1947年からはブルーノ・ワルターが指揮者に就任している。 1950年からはギリシャ人指揮者ディミトリー・ミトロプーロスが音楽監督を務め、58年にアメリカ人指揮者として初めてとなるレナード・バーンスタインが音楽監督に就任した。 バーンスタイン時代はレコード産業の最盛期と重なり、また彼のタレント性も手伝って、このオーケストラの黄金時代を築き上げた。バーンスタインによるカタログ網羅型のレコーディングによって、ヨーロッパのカラヤン・ベルリンPoとの新譜合戦を繰り広げた。しかし、人気の高まりに反してアンサンブルの乱れや音楽に対する積極性が低下したことは否定できず、70年代以降、アメリカにおける評価は芳しくない。 バーンスタインの後任として、ピエール・ブーレーズ、ズビン・メータ、クルト・マズアが精力的なアンサンブル強化を行い、現在では世界最高水準のアンサンブルを聴かせる。特に金管セクションは他のオーケストラを引き離しての世界トップレベルと言える。2002年からはロリン・マゼールが音楽監督を務めており、レコーディングは皆無ではあるが、コンサートホールでは熱狂的な演奏を繰り広げている。 |
マーラー 交響曲第2番「復活」 交響曲第3番 交響曲第7番「夜の歌」 指揮:レナード・バーンスタイン |
1858年 ハレ管弦楽団 |
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1862年 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団 |
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1880年 セントルイス交響楽団 |
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1881年 ボストン交響楽団 |
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1882年 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 |
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1882年 ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団 |
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1885年 メトロポリタン歌劇場管弦楽団 |
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1886年 サンタチェチーリア国立音楽院管弦楽団 |
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1888年 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 |
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1891年 シカゴ交響楽団 |
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1891年 スコティッシュ・ナショナル管弦楽団 |
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1893年 ボーマンス市立管弦楽団 |
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1893年 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 |
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1895年 シンシナティ交響楽団 |
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1896年 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 |
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1896年 ピッツバーグ交響楽団 |
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1897年 コンセール・ラムルー管弦楽団 |