高井のおさん狸

おさんさん狸

 高井八幡神社境内に五、六百年も生き長らえてきたという「むく」の大木が聳えていた。根元の直形が1b位ある。このむくの木の洞穴に住んでいたのがこの話の主人公「おさんさん狸」である。
(このむくの木、何時頃折れたのか、現在は高さ3b位を残しているのみ)

 おさんさん狸は、伊予八百八狸の一つで、白色の雌狸である。村人は洞穴のそばで、白い口ひげが落ちているのを見たという。また八百八狸の中の横綱級であるという。それは神徳があったからである。人間で言えば人徳が高いということであろう。即ちおさんさんは、人を化かして苦しめたり、おどしたり......というような悪さは一切しなかった。村人を守り、助け、諸難退散の神通力を現じたのである。
 いくつもその話が残っている。

その一

 昔、天明の頃大雨が降ったとき、高井村水田の命の綱、北野田村に掘ってある野津合泉がつぶれそうになった。泉の北側を流れている内川の堤防が危なくなったのである。その時大勢の高井の人々が堤防の上に立って、堤防の危険を防いだ。
 大雨がおさまり、北野田村の人々はその苦闘に感謝するため、高井村を訪れた。驚いたのは高井村の人々で、誰一人、高井村から北野田へ水防のため行った者がない。
 「これは不思議......あるいは......。」
と、村人がおさんさんへお参りしてみると、こはいかに、祠の傍に泥のついた何足かの草鞋がおいてある。
 「さては、おさんさんが手下を連れて、あの危険を防いで下さったのか。」
と、村人一同有り難さに感じ入って、早速お供え物をして感謝祭を催し、ますます崇敬の念を深めたという。

その二

 又こんな話もある。日清戦争、日露戦争、次いで欧洲大戦の際は高井からも多くの出征兵士を出した。ところが、他の部落に比べて、戦死者の率が非常に少なかった。これはおさんさんが人間の姿をして兵隊となり、高井出身兵士の先導を勤めて、かばい守ったためと言い伝えられている。

その三

 次は古老の余談である。
 明治、大正時代から昭和も終戦頃まで、高井部落では村役に出た人は、途中八幡神社で休むことを常としていた。ところが、おさんさんの祠にはたくさんのお菓子が供えられていたので、これを頂戴しながら休むのを楽しみにしていたという。
 又大正初期の頃、近所の子供達はお餅が食べたくなると、おさんさんの祠に供えてあるお餅をよく貰いに行ったものであったという。しかしこうした明るい昼の間ことで、ほの暗くなるととても恐ろしくて行く気がしなかったそうである。

三光姫神社

 昭和十六年のことである。当時の区長池川啓次郎らが中心となり、この霊験あらたかなおさんさんを神霊として社格を以て「三光姫神社」を造営しようという運動が起こった。
 おさんさんは村人を助け、お守りくださる守護神である。この神徳を讃え、恩恵に応えて老巧した祠を再建し、拝殿も新築し、高さ二b半の赤い鳥居を建立しようという設計である。幸い200名近い賛同者を得て工事も進み、高井八幡神社形内に「三光姫神社」が建立された。時に昭和十七年三月であった。さぞかし、おさんさんも立派な社殿が建立され、満足していることと思う。

(久米郷土誌 より)


高井のおさん狸

 温泉郡久米村、高井の里のおさん狸は、白狸で、色の白い娘に化けるのが専門です。ところが、あまり顔が白すぎるので、どんなりっぱな娘さんに化けても、村人は、おさん狸だと、見抜いてしまいます。ですから、おさん狸はいつも失敗しつずけです。
 「こんどは、鍋ずみをぬってみやう」
ある晩、村一番の物持のお嬢さんに化け、調度、衣装、こりにこって、嫁入行列をはじめました。村人はそのりっぱなのに、目をむき、本物と信じこもうとしました。花嫁さんを見て、鍋ずみのように黒い。まだら顔だ。おさんは顔づくりが下手じゃ。はやされて、これまた失敗の巻で、お話をとじます。

(合田正良著 伊豫路の傳説 狸の巻 より)


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