|
---|
名を宗運という所化僧が、飯沼弘経寺第二世了暁慶善に師事していた。才学衆にぬきんで機知に富み師の坊のよく目をかけるところとなった。宗運は歌舞音曲にも秀で、一山の人気者でもあった。 文明10年(1478)5月12日の開山忌に、前日から徹夜の法要に、加えて盛夏のことではあるしで心身ともに疲れ果てた宗運が、思わず睡ろんだ隙に、不覚にも狸の正体を現してしまった。慶善は、これを深く哀れみ衣をかけて宗運の正体が人々の目に触れるのを隠してやった。 やがて眠りから覚めた宗運は、それと知って慶善に暇を乞い、衆僧に別れを告げた。寺を去るに際して宗運は庭前の杉をさして「われ、あれの梢に弥陀の来迎を顕現す。かまいて名号を唱うるなかれ」と、戒めた。忽ちにして杉の梢に瑞雲かかり、尊くも有難き御姿の光彩を負うて現わるるに、人々約束を忘れて思わず南無阿弥陀仏と唱和した。宗運の通力は即座に失せて、杉の梢から転げ落ち姿を消した。それからは、この杉の木を来迎杉(現在天然記念物)と呼ぶようになった。 その狸の化身は、鬼怒川から小貝川を経て数日後、現在の狸淵(つくばみらい市)の水門の近くに流れついた。これこそ宗運の死体であると、村人が鄭重に浄円寺の境内に埋葬し碑を建てて供養した。碑には延譽宗運大徳と刻まれている。以後この地の地名は狸淵となったという。 又、飯沼の弘経寺には、宗運が己の顔を写し彫ったと伝わる自作の面を収めた「宗運堂」という祠がある。 |
水海道市編さん委員会 図説 水海道市史 より |
戻る |