八股榎お袖大明神

天保元年(1830年)ごろ、今の松山城を、勝山城と呼んでいてようです。その勝山の森にすんでいたお袖狸が、ある日、お城のやぐらへ登って、お城下町のかなたこなたと眺めながら、
(こんな山の中にばかりいてもつまらない。どこかの町角の、人通りのおおいところへおりて行ってみよう。きれいな人が大ぜい見えるだろう)
 そこで、何日間か、引越しの用意をしたお袖さんは、いよいよ山と別れることにして、美しいお姫様に化けました。そして、お城のうら道をとろとろとおりつくしたところの、八股に来ました。

 その頃、八股には、古い榎が何本も茂っていて、大きな森のようでしたから、お袖さんのすみかには丁度よいところです。その上、前の広い道路を、ひっきりなしに色々な人が通るので、人を見るのにも好都合です。
「こんなよいとことはない」

 お袖さんは八股へおさまってしまいました。そして、この新居が珍しくてなりません。毎日、道路に面してすわり、ゆききの人をながめていました。ずいぶん大ぜい通りますが、その中には、きれいな人、きたない人、わかい人、老いた人、病気らしい人、元気そうな人、色々の人です。
(世の中とはこんなものかな?)
 少し考えさせられます。

 ある日、
(何か用はないものか、毎日じッとして人々を眺めているだけで、お山よりたいくつでしょうがない)
 こんなことを思いながら座っていると、ひとりのおばあさんが目にとまりました、杖にすがって、よぼよぼのおばあさんです。たいくつな時は、今まで思うてもいなかった考えがわくものです。
(あのお婆さんが来たら、話しかけてみよう)
 じッと待っておりました。近ずいてまいりました。声をかけようとした時に、おばあさんが、急に歩みをとめて、苦しみ始めたのです。お腹がうずきだしたのです。

 お袖狸は、おばあさんの腹のうちがわが、透視できるものですから、その腹の中に、まだこなれずにごろごろしているお餅を見て、
(年寄りのくせに大食家だよ。胃袋がはりけそうな、どれどれ)
 お袖狸は両手をだすと、揉むかっこうをし始めました。
 冷たい汗をひたいにたらたらと、そして顔色といったら土色になっているおばあさんの目の前が、うすぐらくなっていく時です。これがあの世への旅立ちとでもいうものか、と、考えたりもしていると、榎の茂みから、目には見えぬが、助けの力を感じはじめたのです。
 お袖狸の目には、おばあさんの胃袋の中のお餅が、両手でもむから二つずつこなれていくのが見えます、そして十のお餅がすっかりこなれてしまった時、おばあさんの目が、しっかりとした視力で、お袖狸の方を、おがむように見ました。

 胃のうずきのとれて、すっかりよくなったおばあさんは、
(あの榎には、佛力があるのにちがいない)
 榎の木をおがむようにして、さっさとかえってゆきました。
 翌日、おばあさんが、孫をつれて、榎の木の下へ来ました。妙なことにお線香を立て、おがんでいるのです。
 お袖狸はうれしくなりました。
(仕事ができた。そうだ、困っている人をたすけることだ)
 もちろん、おばあさんは、うれしかったことは、だまってはいません。まして御利益のようなものをいただいて、胃痛のなおった命拾いのことです。すぐ、人に話しました。

 それにお袖狸は、一度の体験がすっかりうれしくもあり、また決心したことでもあり、通行人を透視しては、心配ごと、苦しみごと、精神上のこと、肉体上のこと、何から何まで、神通力でもってすぐなおしてあげたり、妙案を与えたりしました。
「八股の榎前を通ると、凡てがよくなる。どうりでお線香があげてある筈じゃわい」
 町の評判になってしまいました。
「あれは、八股のお袖さんのおかげじゃ」
 誰言うとなく、こう言うのです。事実それにまちがいないのですが、それをそう言いだした最初の人もまた明察のきく人だと言わねばなりません。人間にも、こうしたふしぎの知る力が、お袖狸の神通力みたいに、心の奥の、ずっと奥にあるかもしれません。エイ智の光とでもいうのでしょうか。

 ついに、お礼まいりの人がたえなくなり、狸の好物、赤飯、あぶらあげ、ごちそうが供えられるようになりました。
 お袖狸には、また一つ仕事ができました。たくさん持ってこられた供物を、お友達に分けたり、または、お姫さまに化けて、困っている家へくばったりすることです。おかげで、たのしくいそがしい日をおくるようになりました。もとの古巣である勝山の森へ帰ってみるひまもなく、ただ思い出してはなつかしむだけでした。

 明治、大正の世もすぎて、昭和に移った頃のことです。
 松山市では、電車線路が単線では、どうも不便で仕方がなく、複線にする必要がある、という訳で、丁度、八股のあたりの道路をうんとひろげて、ということになりました。
 困ったことには、そうするというと、お袖狸のすむ榎を切ってしまわねばならず、市の役人も、市の人々も、そのことで大へん心配したのです。けれども、お袖狸のお袖さんにたのんで、ついに切ることになりました。

 お袖さんはかなしみました。大ぜいの人々と別れるのが残念でたまりませんでした。市の人々も、神さまのように思っていたお袖さんがいなくなった後のことを考えて、困ったと言いあいました。
 まもなく榎は切りはらわれ、電車がひっきりなしに走るようになりました。

 すみかをなくしたお袖さんは、どこへすみかを定めようかと、あちらこちら考えました。古巣の勝山へ何十年目かに行ってみましたが、やっぱりすむ気にはなれませんでした。それで南の御幸山へも行ってみましたが、ここもだめでした。
(こんどは思い切って、人里はなれたところへすんでみよう)
 西方、久万の台へ行ってみましたが、ここも人で一ぱいでした。そこでずっとはなれた久万山の奥へ入っていったお袖さんでした。久万山の奥で、今でも八股の榎の家をなつかしんでいることでしょう。

(合田正良著 伊豫路の傳説 狸の巻 より)



 お袖狸は、昭和22年頃から再び古巣の堀端に戻ってきました。市役所の前の交差点の隅に赤い鳥居、幟が立ち、八股榎大明神として、祀られています。
 安産・縁結び・商売繁盛・家内安全・学業成就・交通安全など多くの願いを叶えると評判です。



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