「狸の寺」の話



 東海道五十三次の内、遠州の西のはずれの宿場白須賀宿に、日蓮宗の安立山妙泰寺と言うのが、「狸の寺」です。この寺は、慶長元年(1596)12月の創建で、開山和尚を本妙院目安大徳と申し上げた

 それより112年を経過して、あの有名な宝永の大地震と大津波が突如発生した。即ち、宝永4年(1707)10月4日の大地震と、直後に発生した大津波のために、海岸に有った寺も神社も人家も大方は倒れたり傾いたりしたのを、津波がごつそり押し流してしまったから、溺れ死んだ人も多かったが、早目に逃げて命だけは助かった者も、着のみ着の侭で、無一物になってしまったから、明日と言わずその日の夕食や寝所さえも、どうしたらよいのか、それは多数の罹災者がみんな同じ境遇に突き落とされてしまった事なのです。

 この大災害に、当時十寺十社と呼ばれた宿(しゅく)の神社・仏閣を初め、民家の殆どが被災し、住民の多数に溺死者が出たので、とうとう決心して、宿場全部を高台の上に移す事になり、翌宝永5年に所替えが行われました


 妙泰寺の新しい用地には、下長(しもながや)の現在地を当てるとの御沙汰を、中泉代官所のお代官様から頂戴したのは、当時の住職安立山第八世感応院日意和尚で、まず仮堂を建てて御本尊を安置し、お庫裡はほんの申訳程度の粗末な仮小屋であったと言いますが、宿場全体がどの家もみんな同じ有様で、住民にとっては来る日も来る日も、大層な苦労であったと思います。然し、住民の誰の顔にも、大きな喜びが輝いて居りました。これで漸く津波の心配から解放されたと言う喜びで、明応・慶長の度重なる大津波以来、代々言い伝えられた台地上への引越しの夢が、漸く実現した喜びが如何に大きかったかを、三百年後の今でも、その推測は困難ではないと思います。

 お宮もお寺も民家も、割り当てられた敷地は、それまで何百年も、否、千年以上も松林か雑木林か原野であった土地だから、沢山の狐や狸が住み、昼日中と言うのに猪や猿の姿も見え、また多くの野鳥のすみかでもあったから、人間以上に困ったのは、彼等鳥獣たちであったことでしょう。そうして人間の恐ろしさを知った鳥獣たちが、次第に人里から遠くへ離れて行く中で、妙泰寺へ寄り付いていた狸たちは決して逃げようとはしませんでした。それはこの日意様と仰せの和尚様は、非常に慈悲深い御方で、特に狸を可愛がられ、ご自分の食事を減らしても、狸たちには餌を欠かさぬ程であったからです。

 こうして妙泰寺と狸との縁は、お寺が坂上に移って以来の深い間柄となり、寺の裏山には十何匹もの狸が家族連れで、寺のお庭をいつも遊び場としていたから、妙泰寺の別名を宿場の人たちは「狸のお寺」と呼び、口の悪い人は「狸でら」とか「狸和尚」とか呼ぶ様になったが、これは決して悪い意味での呼び名ではありませんでした。

 それから長い年月が経過して、万事革新の明治の御代となりましたが、代々のご住職は新地初代の日意大和尚の御意向だからと言う方もあり、中には「狸寺に狸が居なくなったら狸寺じゃなくなるじゃないか」と冗談混りにうそぶかれる和尚様もあって、狸にもまた何回もの代替りがありましたが、そのたびに読経しては回向してやり、寺男に穴を掘らせ、ていねいに埋葬してやるのが、妙泰寺の代々の仕きたりとなりました。

 現董(げんとう)河村孝照和尚のご先代を、安立山第十九世慈眼院目視上人と申し上げますが、この寺へ初めて弟子入りされた明治初年の頃、夕暮になると、和尚様から山門の戸締まりと寺内の見廻りとを仰せつかる。すると本堂脇の番神堂の床下に狸がいつも五六匹は居て、それが恐ろしくてならなかったが、だんだん慣れたら別に化けるわけでもなく、狸ほど可愛いものはないと思うようになったと、ご先代の目視様はたびたび仰せられたそうです。

 或るとき本堂の屋根の萱の茸替工事のとき、遊びに出てきた狸に人夫たちが、小石や割れ瓦を投げつけたので、狸は驚いて逃げた。その夜、昼間の仕事の疲れで人夫たちがぐつすり償っていると、仮設の人夫小屋が急にがたがた揺れ、大地震らしいので驚いて飛び起き、みんな素足で広庭へ逃げだしたところ、外は何の変りもない。仕方なしに皆口々に愚痴をこぼしながら、銘々寝床へ帰って寝た。翌朝早速この次第を和尚さんに申し上げると、和尚さん日く「お前達、昼間狸をいじめたのだろう。それは狸の仇討ちなんだよ」と。今以てわからないのは、どうして狸にそんな霊力があるのかと言うことで、してみると矢張り狸は化けるのかも知れないと皆で話し合ったと言うことでありました。

 その後、白須賀の町も追々と賑やかになり、妙泰寺の近辺にも新しい家が建てられ、狸にとっては一番苦手の飼犬の数も増えたので、お寺の狸たちも次々に山へ逃げ去って、遂に古狸が一匹だけになってしまった。この狸も和尚様のお言い付けで、毎日寺男が餌を運んでいたが、とうとう何も食べなくなってしまった。或る日和尚さんが檀家の法事でお出掛け前に、ちょっと寄って見舞いをなさったところ、どうも様子がおかしい。和尚さんが、「わしが帰って来るまで死ぬなよ」と、優しくおっしゃってお出掛けになったが、お留守中に狸はとうとう死んでしまい、狸のお寺にも、狸は一匹も居なくなってしまった。

 いま番神堂の跡地に建てられている狸塚は、現董第二十世孝照様が昭和58年11月に設けられた碑と塚で、このお寺には誠に適わしい施設であり、多くの狸たちの霊も、初代日意大和尚を初め、歴代の和尚様方も、さぞ喜んで居られることでしょう。

(湖北 湖西の民話と史話101話 下巻 より)


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