常磐線が開通したばかりの明治初めごろの話である。当時の汽車は一時間に一本しか走っておらず、亀有駅前は一面田畑であり見性寺と香取寺の他は農家がぽつりぽつりとあるだけの寂しい場所だった。 ところがしばらくして亀有の村人の間で、汽車が走る本数が増えたといううわさが流れた。しかし、ある日を境にそのうわさはパタリと止んだ。そんな折、村人が線路の上で死んでいる狢を発見し、そのことを見性寺の住職に知らせた。 和尚さんは狢を哀れに思い、村人たちと寺に運んで手厚く葬った。村人たちはあの狢は汽車に化けて線路を走っているうちに本物の汽車にはねられて死んだのだろうと話し合い、塚を建てて狢を供養することにした。 現在も境内に狢塚があるが、これは昭和二八年に新たに建てられたものである。