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Orange life
ペルーの世界遺産を訪ねる
2009. 4.16〜 4.23
かねて一度は訪ねたいと思っていた南米ペルーPeruの旅に出かけた。
遠い所だからこそ、そして標高の高い所だからこそ、元気な今をおいてないと考えたからである。
思っていた通りペルーは遠いところだった。セントレアを昼過ぎに出発し成田、ロサンゼルスを経てリマまで
フライト時間は19時間、乗り継ぎ時間を入れると25時間もかかった。
ホテルに入ったのは日付が変わったリマ時間の午前1時を回っていた。
今回行ったのは、首都リマ、インカ時代の首都クスコ、空中都市マチュピチュ、地上絵のナスカである。
ペルーの旅は、まず首都リマから始まる。
≪首都リマ Lima≫
昨夜遅かったので次の日の観光は10時過ぎからであった。
リマの朝は喧騒の中に始まる。車の洪水、日本では見られなくなったボンネットバスも現役だ。脇道から
乗用車が割り込んでくる。突っ込んだもの勝ちだという。
そうした車の間には危険も顧みず物売りたちが商売に精を出す。車の窓ふき、菓子、トイレットペーパー、
ジュース、そして虫めがね。果ては小学校の理科の教材のようなものまで売っている。
日本人には考えられないが、ペルーの人たちにはそこそこ売れるのだそうだ。ただ、コーラのビンに他の物を
詰め替えて売っている場合もあるということで、危険な面もある。
現役で走るボンネットバスと、渋滞中の車に、菓子、トイレットペーパー、ジュース、虫めがね、何でも売りにくる物売り
貧民層が半分を占めるというペルー。そういう人たちも物売りなどをしてたくましく生きている。
野菜も果物も魚も食料品が安く豊富にあるため飢える人はいないというのが救いである。
最初に行ったのは旧市街のセントロCentro地区。こちらは貧しい人たちが多く治安も悪い。この地区全体が
歴史地区として世界遺産に登録されているが、そうした路地に入るのは危険だそうだ。
歴史地区には2階にバルコニーを設けたコロニアル様式の建物が並び、庶民によるいろいろな商売が
行われている。興味深い所だが治安面を考えると避けなければならないだろう。
そのためバスを降ろされたのは明るく開けたアルマスArmas広場だった。
1535年、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロがスペインのイベリア様式にのっとって
リマの町を築いていったという。その中心がアルマス広場で、カテドラル(大聖堂)が堂々とそびえ、1587年建造
という大統領府やリマ市役所などに囲まれたきれいな公園になっている。
旧市街セントロ・歴史地区のコロニアル様式の建物と、明るいアルマス広場
セントロ地区を後に、バスは海に近いサン・イシドロSan Isidro地区、ミラフローレスMiraflores地区へ向かう。
こちらは砂漠の上に新しく開かれた新市街地である。
この地域に来ると街の雰囲気が一変する。こぎれいな建物が並び、ミラフローレス地区では高級・高層マンションや
オフィスビルがそびえている。歩いている人も違うようだ。中・上層の人たちが暮らす街だという。
この国の貧富格差を一度に見た思いがした。
アルマス広場にそびえるカテドラルと、海霧に上部が霞むミラフローレス地区の高層ビル
次に天野美術館を訪ねる。故天野芳太郎氏が建てた博物館である。
天野氏はプレインカのチャンカイ文化の研究者で、収集したチャンカイ土器を中心に展示されていた。
このチャンカイ土器(右写真)の1つの特徴は注ぎ口が2つにわかれたもので、一方から空気が入るため酒などを
注ぎやすい。こういう土器を見たのは初めてのような気がする。
そのほか芸術的な織物なども含めて、博物館の人(日本人)が詳しく説明してくれて興味深かった。
昼食は海の見えるレストランだった。しかし、夏は真青な海が広がるというが、この日は海霧のため
ぼんやりとしか見えなかった。高層ビルも上の方はかすんでいた。
これは冷たいフンボルト海流のために冬期にかけて海岸地帯に発生する霧なのだそうだ。
ペルーを代表する料理“セビッチェCebiche”の昼食だった。
セビッチェは白身魚やイカなどと、タマネギなどをレモン汁であえたものだ。まずくはないのだが
私の口にはちょっと酸味がきつく感じられた。
チャンカイ文化で知られる天野博物館と、ペルーの代表的料理「セビッチェ」。粒の大きなトウモロコシも付いている
昼食後、黄金博物館を見学した。
ちなみに、ペルーの金産出量は世界で第6位。そのほか銀が1位、銅が2位、鉄は5位だという。
なかなかの鉱物資源の産出国であることを知った。
リマを案内してくれたのは石井さんというリマ在住のガイドだった。
リマに住んで12年になるというが、ペルーの歴史、地理、人々のくらしなど実によく勉強されていた。
それだけに聞く話すべて面白く、有益だった。
ペルーは、経済力では南米の中で中くらいだそうだ。鉱物資源と食糧に恵まれていて年々経済も成長しており
ここ数年は6%〜8%の経済成長をとげていたという。
貧富の格差が激しい国だが、それでも経済成長のおかげで貧困層が少しずつ減ってきているそうだ。
しかし、遅ればせながら昨年末あたりから世界的経済不況の波をかぶりつつあるという。
それがペルーの貧しい人たちに影響しなければいいのだがと思った。
ただ、ペルーの人たちは元気さ、たくましさを持っている。今日1日見ただけだがそんな感じを受けたので、
きっとこの不況も乗り切ってくれるのではないだろうかと思った。
≪インカ時代の首都クスコ Cuzco≫
クスコCuzcoはリマの東南東約550km、飛行機で1時間ほどのところに位置している。
そして標高3400mの高地にある町である。
15世紀、今のペルーから北はエクアドル、南はチリ、ボリビアまで、広大な地域を支配していたインカ帝国の
首都がクスコだった。
しかし、1532年にインカ帝国はスペインによって滅亡。そのスペイン人たちはクスコにおいてもインカの
建物を破壊し、その上に教会など自分たちの建物を建設したのだそうだ。
兵力で圧倒的多数のインカ帝国が、なぜたった200人のスペインに簡単に負けてしまったのか。
現地の日本語ガイド・エリさんに聞いた。
それによると、太陽を神として崇めていたインカの人たちは、雷も神のなせる技だと信じていた
そうである。そしてスペイン人たちが使用した鉄砲の轟音が神の発する雷の音だと思い、平伏してしまった、という
のだ。
自分たちが信じ、崇めるものに対する畏敬というものの強さ、逆にいえば人間の弱さを感じさせられた。
クスコの人口は約30万人。その中心はアルマス広場である。インカの人たちも広場を中心に町を作った
そうで、征服したスペイン人たちもその広場を利用したというこである。
ここには、1550年から100年かけて造られたという“カテドラル(大聖堂)”や、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会など
がある。
アルマス広場に面して建つ100年かけて造られたというカテドラル(大聖堂)と、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会
見学していると小学生くらいのかわいいこどもたちが、おみやげものを売りにくる。
毛糸で編んだ指人形を「3個1ドル」とか。学校にも行かずにこうしてお金をかせぐという貧しいであろう
人たちがいるようである。
クスコといえばインカの石積み、石組みの技術である。
征服したスペイン人たちは、インカの建物を破壊し、その基礎の石組の上に自分たちの教会や住居などの建物を
つくった。
しかし、ペルーは日本と同じ地震国である。インカの石組はびくともしなかったのに、その上の建物はみんな
倒壊したという。
ガイドのエリさんによると、インカの石壁は、凹凸のかみ合わせをつくったり、石と石の接触面を磨き上げて
接触面を多く取り、斜めに積んだりすることによって耐震性を高めているのだそうである。石を磨くのは硬い
隕石を使用したという。
南緯12度に位置し、高地にあるクスコの太陽は強烈である。リマと違って空気も澄んでいる。
その青空のもと、石組の文化を見て歩いた。
まずはアトゥンルミヨクHatunrumiyoc通りを行くと両側に石の壁が続く。その中に有名な12角の石がある。
こんな変形の石もその周囲の石組はすきまなくしっかりと組まれていた。
わざわざ12角の複雑な合わせ目をつくったのは、王の一族が12人だったとか、12ヵ月を表してる
という説もあるが本当のところはわからないとガイドさんはいっていた。
いずれにしても当時の加工技術、組み立て技術は大したものである。
アトゥンルミヨク通りに続く両側に石の壁と、その形に合わせて隣の石が組まれている有名な12角の石
サント・ドミンゴSanto Domingo教会は、インカ時代の太陽の宮殿「コリカンチャQoricancha」の上に建っている。
コリQoriとは黄金のことだそうで、その名の通り壁には金の帯、内部には金でおおわれた部屋、
金の像などが飾ってあったという。それらの金はすべてスペイン人が本国に持ち去ったため
現在は何もない。
また、内部ではインカの石組の発掘、復元が続いているそうである。
インカ時代の太陽の宮殿コリカンチャの上に建つサント・ドミンゴ教会と、まっすぐ水平に並ぶ窓
発掘されたコリカンチャ内の石壁と、インカ時代は金が張られくぼみには金銀の像が置かれていたというかつての神殿
サクサイワマンSacsayhuamanは、クスコ郊外の山腹にある。
巨石、巨岩を3段に積み上げて造ったところで、要塞あるいは宗教的なものといわれている。
大きな石で組んだ壁がジグザグに300m以上も続いている。これはヘビの動きを表していると聞いた。
この広場では毎年6月24日に太陽の祭り“インティライミ”が、インカの儀式を復元して行われる
そうだ。ただ、観光用の色彩が強く、入場料が高いので、地元の人たちはあまり見られないということも聞
いた。
ヘビが動くように蛇行するサクサイワマンの石壁と、「記念撮影はいかが?」民族衣装の女性とアルパカ
タンボ・マチャイTambo Machayの遺跡も案内された。(右の写真)
ここは聖なる泉といわれ、インカ時代の沐浴場だったそうである。一年中同じ水量の水が湧き出している
のだが、未だに水源はわかっていないという。
行ったのはまだ朝早い時間だったが、ここにも土産物売りの人たちが店を広げていた。
たくましい商魂である。
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下の写真は市内のサント・ドミンゴ教会(コリカンチャ跡)から見たクスコの街だが、
サクサイワマンからも街を見下ろすことができる。
そして山には大きな字で“VIVA El PERU”『ペルーばんざい』と書かれていた。
このクスコは市街地全体が世界遺産に登録されている。植民地時代の16〜17世紀につくられた
という赤茶色の街は、何か懐かしさを感じさせる街であった。
≪空中都市・マチュピチュ Machu Picchu≫
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