《ペルー》

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 Orange life


ペルーの世界遺産を訪ねる

 2009. 4.16〜 4.23


ペルーの地図 かねて一度は訪ねたいと思っていた南米ペルーPeruの旅に出かけた。
遠い所だからこそ、そして標高の高い所だからこそ、元気な今をおいてないと考えたからである。

思っていた通りペルーは遠いところだった。セントレアを昼過ぎに出発し成田、ロサンゼルスを経てリマまで フライト時間は19時間、乗り継ぎ時間を入れると25時間もかかった。 ホテルに入ったのは日付が変わったリマ時間の午前1時を回っていた。

今回行ったのは、首都リマ、インカ時代の首都クスコ、空中都市マチュピチュ、地上絵のナスカである。
ペルーの旅は、まず首都リマから始まる。


≪首都リマ Lima≫

昨夜遅かったので次の日の観光は10時過ぎからであった。
リマの朝は喧騒の中に始まる。車の洪水、日本では見られなくなったボンネットバスも現役だ。脇道から 乗用車が割り込んでくる。突っ込んだもの勝ちだという。
そうした車の間には危険も顧みず物売りたちが商売に精を出す。車の窓ふき、菓子、トイレットペーパー、 ジュース、そして虫めがね。果ては小学校の理科の教材のようなものまで売っている。
日本人には考えられないが、ペルーの人たちにはそこそこ売れるのだそうだ。ただ、コーラのビンに他の物を 詰め替えて売っている場合もあるということで、危険な面もある。
ボンネットバス 物売り
現役で走るボンネットバスと、渋滞中の車に、菓子、トイレットペーパー、ジュース、虫めがね、何でも売りにくる物売り

貧民層が半分を占めるというペルー。そういう人たちも物売りなどをしてたくましく生きている。 野菜も果物も魚も食料品が安く豊富にあるため飢える人はいないというのが救いである。

最初に行ったのは旧市街のセントロCentro地区。こちらは貧しい人たちが多く治安も悪い。この地区全体が 歴史地区として世界遺産に登録されているが、そうした路地に入るのは危険だそうだ。
歴史地区には2階にバルコニーを設けたコロニアル様式の建物が並び、庶民によるいろいろな商売が 行われている。興味深い所だが治安面を考えると避けなければならないだろう。
そのためバスを降ろされたのは明るく開けたアルマスArmas広場だった。 1535年、インカ帝国を征服したフランシスコ・ピサロがスペインのイベリア様式にのっとって リマの町を築いていったという。その中心がアルマス広場で、カテドラル(大聖堂)が堂々とそびえ、1587年建造 という大統領府やリマ市役所などに囲まれたきれいな公園になっている。
歴史地区の建物 アルマス広場
旧市街セントロ・歴史地区のコロニアル様式の建物と、明るいアルマス広場

セントロ地区を後に、バスは海に近いサン・イシドロSan Isidro地区、ミラフローレスMiraflores地区へ向かう。 こちらは砂漠の上に新しく開かれた新市街地である。
この地域に来ると街の雰囲気が一変する。こぎれいな建物が並び、ミラフローレス地区では高級・高層マンションや オフィスビルがそびえている。歩いている人も違うようだ。中・上層の人たちが暮らす街だという。
この国の貧富格差を一度に見た思いがした。
アルマス広場にそびえるカテドラル ミラフローレス地区
アルマス広場にそびえるカテドラルと、海霧に上部が霞むミラフローレス地区の高層ビル

次に天野美術館を訪ねる。故天野芳太郎氏が建てた博物館である。
チャンカイ土器 天野氏はプレインカのチャンカイ文化の研究者で、収集したチャンカイ土器を中心に展示されていた。 このチャンカイ土器(右写真)の1つの特徴は注ぎ口が2つにわかれたもので、一方から空気が入るため酒などを 注ぎやすい。こういう土器を見たのは初めてのような気がする。
そのほか芸術的な織物なども含めて、博物館の人(日本人)が詳しく説明してくれて興味深かった。

昼食は海の見えるレストランだった。しかし、夏は真青な海が広がるというが、この日は海霧のため ぼんやりとしか見えなかった。高層ビルも上の方はかすんでいた。 これは冷たいフンボルト海流のために冬期にかけて海岸地帯に発生する霧なのだそうだ。

ペルーを代表する料理“セビッチェCebiche”の昼食だった。
セビッチェは白身魚やイカなどと、タマネギなどをレモン汁であえたものだ。まずくはないのだが 私の口にはちょっと酸味がきつく感じられた。

天野博物館 セビッチェ
チャンカイ文化で知られる天野博物館と、ペルーの代表的料理「セビッチェ」。粒の大きなトウモロコシも付いている

昼食後、黄金博物館を見学した。
ちなみに、ペルーの金産出量は世界で第6位。そのほか銀が1位、銅が2位、鉄は5位だという。 なかなかの鉱物資源の産出国であることを知った。

リマを案内してくれたのは石井さんというリマ在住のガイドだった。
リマに住んで12年になるというが、ペルーの歴史、地理、人々のくらしなど実によく勉強されていた。 それだけに聞く話すべて面白く、有益だった。
ペルーは、経済力では南米の中で中くらいだそうだ。鉱物資源と食糧に恵まれていて年々経済も成長しており ここ数年は6%〜8%の経済成長をとげていたという。 貧富の格差が激しい国だが、それでも経済成長のおかげで貧困層が少しずつ減ってきているそうだ。
しかし、遅ればせながら昨年末あたりから世界的経済不況の波をかぶりつつあるという。 それがペルーの貧しい人たちに影響しなければいいのだがと思った。
ただ、ペルーの人たちは元気さ、たくましさを持っている。今日1日見ただけだがそんな感じを受けたので、 きっとこの不況も乗り切ってくれるのではないだろうかと思った。



≪インカ時代の首都クスコ Cuzco≫

クスコCuzcoはリマの東南東約550km、飛行機で1時間ほどのところに位置している。 そして標高3400mの高地にある町である。
15世紀、今のペルーから北はエクアドル、南はチリ、ボリビアまで、広大な地域を支配していたインカ帝国の 首都がクスコだった。
しかし、1532年にインカ帝国はスペインによって滅亡。そのスペイン人たちはクスコにおいてもインカの 建物を破壊し、その上に教会など自分たちの建物を建設したのだそうだ。

兵力で圧倒的多数のインカ帝国が、なぜたった200人のスペインに簡単に負けてしまったのか。 現地の日本語ガイド・エリさんに聞いた。
それによると、太陽を神として崇めていたインカの人たちは、雷も神のなせる技だと信じていた そうである。そしてスペイン人たちが使用した鉄砲の轟音が神の発する雷の音だと思い、平伏してしまった、という のだ。 自分たちが信じ、崇めるものに対する畏敬というものの強さ、逆にいえば人間の弱さを感じさせられた。

クスコの人口は約30万人。その中心はアルマス広場である。インカの人たちも広場を中心に町を作った そうで、征服したスペイン人たちもその広場を利用したというこである。
ここには、1550年から100年かけて造られたという“カテドラル(大聖堂)”や、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会など がある。
カテドラル ヘスス教会
アルマス広場に面して建つ100年かけて造られたというカテドラル(大聖堂)と、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会

見学していると小学生くらいのかわいいこどもたちが、おみやげものを売りにくる。 指人形 毛糸で編んだ指人形を「3個1ドル」とか。学校にも行かずにこうしてお金をかせぐという貧しいであろう 人たちがいるようである。

クスコといえばインカの石積み、石組みの技術である。
征服したスペイン人たちは、インカの建物を破壊し、その基礎の石組の上に自分たちの教会や住居などの建物を つくった。
しかし、ペルーは日本と同じ地震国である。インカの石組はびくともしなかったのに、その上の建物はみんな 倒壊したという。
ガイドのエリさんによると、インカの石壁は、凹凸のかみ合わせをつくったり、石と石の接触面を磨き上げて 接触面を多く取り、斜めに積んだりすることによって耐震性を高めているのだそうである。石を磨くのは硬い 隕石を使用したという。

南緯12度に位置し、高地にあるクスコの太陽は強烈である。リマと違って空気も澄んでいる。 その青空のもと、石組の文化を見て歩いた。
まずはアトゥンルミヨクHatunrumiyoc通りを行くと両側に石の壁が続く。その中に有名な12角の石がある。 こんな変形の石もその周囲の石組はすきまなくしっかりと組まれていた。 わざわざ12角の複雑な合わせ目をつくったのは、王の一族が12人だったとか、12ヵ月を表してる という説もあるが本当のところはわからないとガイドさんはいっていた。
いずれにしても当時の加工技術、組み立て技術は大したものである。
石壁 12角の石
アトゥンルミヨク通りに続く両側に石の壁と、その形に合わせて隣の石が組まれている有名な12角の石

サント・ドミンゴSanto Domingo教会は、インカ時代の太陽の宮殿「コリカンチャQoricancha」の上に建っている。
コリQoriとは黄金のことだそうで、その名の通り壁には金の帯、内部には金でおおわれた部屋、 金の像などが飾ってあったという。それらの金はすべてスペイン人が本国に持ち去ったため 現在は何もない。
また、内部ではインカの石組の発掘、復元が続いているそうである。
コリカンチャ まっすぐ水平に並ぶ窓
インカ時代の太陽の宮殿コリカンチャの上に建つサント・ドミンゴ教会と、まっすぐ水平に並ぶ窓

コリカンチャ内の石壁 かつての神殿
発掘されたコリカンチャ内の石壁と、インカ時代は金が張られくぼみには金銀の像が置かれていたというかつての神殿

サクサイワマンSacsayhuamanは、クスコ郊外の山腹にある。
巨石、巨岩を3段に積み上げて造ったところで、要塞あるいは宗教的なものといわれている。 大きな石で組んだ壁がジグザグに300m以上も続いている。これはヘビの動きを表していると聞いた。
この広場では毎年6月24日に太陽の祭り“インティライミ”が、インカの儀式を復元して行われる そうだ。ただ、観光用の色彩が強く、入場料が高いので、地元の人たちはあまり見られないということも聞 いた。
蛇行するサクサイワマンの石壁 アルパカ
ヘビが動くように蛇行するサクサイワマンの石壁と、「記念撮影はいかが?」民族衣装の女性とアルパカ

タンボマチャイの聖なる泉
タンボ・マチャイTambo Machayの遺跡も案内された。(右の写真)
ここは聖なる泉といわれ、インカ時代の沐浴場だったそうである。一年中同じ水量の水が湧き出している のだが、未だに水源はわかっていないという。

行ったのはまだ朝早い時間だったが、ここにも土産物売りの人たちが店を広げていた。 たくましい商魂である。
下の写真は市内のサント・ドミンゴ教会(コリカンチャ跡)から見たクスコの街だが、 サクサイワマンからも街を見下ろすことができる。 そして山には大きな字で“VIVA El PERU”『ペルーばんざい』と書かれていた。
このクスコは市街地全体が世界遺産に登録されている。植民地時代の16〜17世紀につくられた という赤茶色の街は、何か懐かしさを感じさせる街であった。
クスコの街


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≪空中都市・マチュピチュ Machu Picchu≫

クスコからバスでアンデス高原を走りオリャンタイタンボOllantaytamboへ。そこから天窓付きの列車・ビスタドームに乗り換えて マチュピチュ村のアグアス・カリエンテスAguas Calientes駅に着いたのは夕方だった。

マチュピチュ村には温泉があるので、ツアーメンバーいっしょに行くことにした。 ホテルから歩いて約15分。入場料は3ソル(約90円)、ロッカー代は1ソル(30円)だった。
マチュピチュ温泉 プールのような温泉
プールのような温泉は男女混浴、人種混浴だがお湯がぬるいのがものたりない

写真は翌朝撮ったものだが、温泉とはいえプールみたいなものだ。プールの底は砂が敷いてある。そして お湯がぬるい。プール毎に温度差があり、人がたくさん入っているところが比較的温度が高いようだ。 それでも湯温は37〜38度くらいだろう。
もちろん水着を着て入る。男女混浴、人種混浴で、白い人も黒い人も黄色い人もいる。 ぬるま湯に同行の男3人で20分くらい浸かっていたが、「あたたまった」というわけにはいかなかった。 日本人にはいま一つの温泉だが、はるばるペルーまできて温泉体験ができたということで満足することにした。


マチュピチュ遺跡は今回の旅行のハイライトである。
ふもとにあるマチュピチュ村から乗り合いバスに乗り約20分で遺跡の入口に着く。 トイレは入口のところにしかなく、食べ物は持ち込み禁止。ゴミの問題で最近ペットボトルも持ち込み禁止 になったということで水は水筒に入れていった。
入口から少し行くとマチュピチュ遺跡の一部が見えてくる。「これがマチュピチュだ!」と歓声が上がる。 遺跡はマチュピチュ山(2940m)とワイナピチュ山Huayna Picchu(2690m)の鞍部(2400m)に広がっていた。 下からでは全く見えない位置にある、まさに空中都市である。
一刻も早くマチュピチュの全貌が見たい、知りたいという気持ちであったが、ガイドの勧めで先にインカ道の トレッキングをすることになった。
インカ道
インカ道 太陽の門
熊野古道のような石畳のインカ道と、生贄台(右の大石)がある太陽の門

左の山腹を登りインカ道に出る。インカ道はたくさんあるが、このインカ道はインティプンクIntipunkuを経由して クスコへ通じる道である。 道幅は1.5m〜2m。ちょうど熊野古道のような石畳みの道である。 ただし日陰をつくる樹はなくギラギラした太陽が照りつけてくる。半袖の人もいるが虫が出るので要注意だ。
谷底を見下ろすとウルバンバ川が流れている。この川はアンデス山脈の東側にあたるので流れ行く先は ブラジルのアマゾン川ということになる。

歩くにつれて高度が増しマチュピチュ遺跡全体が見えてくる。途中、墓地を過ぎ太陽の門という遺跡の ところまで歩いた。ここまでゆっくり歩いて40分くらいだった。ここからもマチュピチュ遺跡が きれいに望める。
インカ道・太陽の門から望むマチュピチュ リャマ
インカ道・太陽の門から望むマチュピチュと、墓地で遊ぶリャマ

インカ道トレッキングは、日頃やっている山登りやハイキングと同じといえば同じだが何か気分が違い、 わくわくするものがある。 道端にはいろいろな種類のランが色鮮やかな花をつけ、途中の墓地ではリャマが遊んでいる。 そう、ここは南米ペルーのマチュピチュなのである。
ランの花1 ランの花2 ランの花3 ランの花4
インカ道に咲く、いく種類ものランの花

インカ道をマチュピチュ遺跡まで戻る。
マチュピチュ全景
見張小屋付近にくると、ワイナピチュ山を背景にマチュピチュ遺跡全体が見わたせる。息を飲む光景だ。 パンフレットや絵葉書の通りの絶景。
みんな一斉にカメラを構え何回も何回もシャッターを切る。遠い遠い南米までマチュピチュの世界遺産を 訪ねて本当によかったと思った。

このマチュピチュ遺跡は、1911年7月24日にアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムHiram Binghamに よって発見された。その時この遺跡は雑草におおわれていたが、その中に2家族が住んでいたという。 インカ帝国滅亡から400年がたっていたことになる。
ただ、忽然と消えうせたインカの人たちのことについてはわかっていないという。

見張小屋 市街地への入口
遺跡全体が見わたせる絶景ポイントの見張小屋と、市街地への入口

現在の遺跡はきれいに整備されている。遺跡には市街地への入口から入り、石切り場、3つの窓の神殿、 主神殿を見て一番高い所にあるインティワタナへ上る。
市街地への入口の門には、往時は両開きの扉がついていたという。石切り場は石を割り、加工したところであり、 加工途中の石もあった。
石切り場 インティワタナ=日時計
石切り場と、大きな石を削って造られた四角柱の日時計があるインティワタナ

インティワタナIntihuatanaは日時計のことで、大きな石を削って造られた四角柱の日時計がある。
その柱の4角が東西南北を指し示している。インカは太陽を崇拝するとともに太陽暦を利用して農業を 行っていたそうである。

ガイドの説明を聞きながら歩く。農業試験場だったというところを過ぎ、最も奥まったところに聖なる岩が あった。この岩の形がその後ろに見える山の形と同じだそうだが、今日は山に雲がかかっていて 確かめられなかった。
聖なる岩 技術者の家
後ろに見える山と同じ形だという聖なる岩と、技術者の家

その岩の奥がワイナピチュ山への入口になっているが、門が固く閉ざされていた。何でも1日400人に 入山が限定されているそうで、朝早く整理券を求めて並ばなくてはいけないとか。
日にちと時間が許せばワイナピチュ山にはぜひ登ってみたいものだ。山頂からはマチュピチュを真上から 見下ろせるが、何しろ急な山なので毎年何人もの人が墜落死するそうである。

この後、住居区を巡る。よく見ると家の石組に違いがあることがわかる。貴族の住居区の石組は精密であり、 庶民の家は粗い石組になっている。インカの時代も格差社会だったようだ。
なお、太陽の神殿の石組はもっと精密に加工した石を使って組み上げられていた。
技術者の家は綿を紡いだものが発掘されたことから工場だったところだと推定されているという。
そのほか牢獄もあるので、昔から悪いことをする人がいたことがわかるし、それを取り締まる制度もできていた のだろう。
水汲み場 段々畑
山から導水された水汲み場と、急斜面につくられた段々畑。畑家の向こうには管理人の小屋と倉庫が見える

振り返って見るマチュピチュ
ガイドに聞いたところでは、ここマチュピチュで生活していたのは800人から1000人だったという。 その人たちに必要な水は、山から導水して市街地に水路を巡らし、水汲み場が設けられていた。その 跡も残っている。
そして段々畑がまた壮観である。山腹に石を積み、無数の畑がつくられている。傾斜はきついし、幅の狭い畑での 作業はたいへんだったろうし、こんなところで農作物を作るのはごめんこうむりたいと思う。

最後に倉庫や農地管理人住居跡に出る。いよいよマチュピチュも見納めである。
ワイナピチュ山をバックに、場所によってマチュピチュの遺跡はいろいろな姿を見せる。 それぞれに趣があって捨てがたい景色であった。
さすがにNHKの世界遺産紀行で、行ってみたい場所のNO.1に挙げられただけのことはある。
もう一度来ることはなさそうだが、今回、この目でマチュピチュを見られた満足感はたとえようのない財産 になったような気がした。



≪巨大な地上絵・ナスカ Nazca≫

ナスカはリマから南へ約440km、パンアメリカンハイウェイを走るバスで約7時間かかる。 このパンアメリカンハイウェイはアラスカからアルゼンチンまで、南北アメリカ大陸18,000km、 14ヵ国を縦貫する道である。
砂漠の中のハイウェイ 砂漠
砂漠の中を行くパンアメリカンハイウェイと、荒涼としたナスカ平原の砂漠

ペルーの太平洋沿岸には砂漠とオアシスの農村が交互に現れる。東のアンデス山脈から流れだす水が その川の流域の農地を潤し、人々が住む町や村となる。それ以外のところは灰色や黄土色の砂漠である。

ナスカは何といっても地上絵。海岸から80kmほど、標高600mのオアシスにある人工約6万人 の町がナスカである。そして地上絵はナスカ郊外の砂漠の大平原に描かれていた。
この地上絵が描かれたのは紀元前2世紀から6世紀ころだそうだ。空から見なければわからない巨大な絵が なぜ描かれたのか、本当のところは解明されていない。これまでの研究では夏に現れる星座だとか、 水を呼ぶために描かれたということらしい。
絵は、鉄鉱石が酸化して茶色く変色した砂表面を、幅1〜2m、深さ20〜30cm掻きとり白っぽい面を 出して描いたものである。 そうした方法で、鳥や動物の絵のほか直線や三角形など200を超える絵が描かれているということだ。

前夜ナスカに泊まったわれわれは、朝早く飛行場へと向かう。一応8時という予約らしいが、地上絵見学に 一度に何機も飛ぶのは危険ということで順番待ちがあるのだそうだ。
それでも比較的早くフライトの順番が回ってきた。
セスナ機に乗るのは初めてである。パイロットはアンドレさんという名の太ったおじさんだ。安心感を与える 顔をしている。飛行機は操縦席も含めて2×3列の6人乗りだった。 “Are you a pilot?”といわれたので“Yes!”と答えたらパイロットの隣「副操縦席?」に座ることになった。
水汲み場 段々畑
安心感を与える顔をしたパイロットのアンドレさんと、セスナ機のコクピット。
左上の黄色い紙には各国語で「チップをありがとう」と書いてある

この朝は無風快晴、絶好のフライト日よりだった。
飛び立つとじきに地上絵が現れる。パイロットが日本語で何の絵かを説明してくれる。 「右、サル」、「左、ハチドリ、翼(はね)の下」という調子だ。
乗客が絵をよく見えるように 低空飛行したり、機体を斜めにしたり、そのまま旋回しながら急上昇したりしてくれる。確かに絵はよく見えるが アクロバット飛行である。急上昇、急降下するときには気持ちが悪くなりかける。 こんなこともあろうかと事前に乗り物酔いの薬を飲んでおいて正解だった。
絵は確かに大きい。“ハチドリ”は96m、“パリワナ”というのは280mもあるらしい。 ただ、こうした動物などの絵よりも、直線や三角形など幾何学模様の方がずっと多いようだ。
ハチドリ コンドル
巨大な地上絵 96mの“ハチドリ”と、136mあるという“コンドル”

洪水の跡 何百年もの間よく消えずに残ったものだとは思うが、地上絵のある砂漠には洪水のあとが無数に残っていた。
めったに雨の降らない地域ではあるが洪水はたまに発生するということなので、将来にわたって 絵が残るものなのか心配になった。

地上絵の写真はきれいには撮れないものだ。パンフレットや絵葉書のようにはまず撮れない。 はるばる南米ペルーまできて、この不思議な光景をじかに見ることができて良かったというべきであろう。

フライト時間は30分。あっという間に終わってしまった感じもするし、まあ、地上絵をこれだけ見られたのだ という満足感が相半ばする感じでもあった。

ミラドール 木
マリア・ライヘが地上絵を観察するために作ったミラドールと、ミラドールから見た地上絵“木”

リマへの帰りにパンアメリカンハイウェイ沿いにあるミラドールMiradorに立ち寄った。 このミラドールは地上絵の研究者であり保存運動をしていたドイツ人のマリア・ライヘMaria Riche(1903-1998) が、地上絵を観察するために作ったという櫓(やぐら)である。
高さ約20mの櫓に登ると“手”と“木”の一部を見ることができる。ただし、飛行機で空から見る ようなわけにはいかなかった。
マリア・ライヘも当初は簡単に飛行機やヘリコプターを利用することができなかったであろう。 地上絵の観察、研究に苦労したであろうことが想像できた。



≪ペルー“旅の余話”≫

旅行に行くと、その地のいろいろなものに出会う。以下、蛇足的な“旅の余話”である。

◆ペルーという国

ペルーの国土は約128万平方キロメートルで日本の約3.4倍。人口は2900万人である。 そのうち30%近い800万人が首都リマに住んでいる。
信仰する宗教は95%がカトリックだと聞いた。
経済的にはまだ貧しく、南米の国の中では中くらいだとガイドがいっていた。
そして1899年に佐倉丸で日本人のペルー移住が始まって今年で110周年になり、6月には 常陸宮夫妻が訪問。
日本人が1907年に建てた曹洞宗のお寺「慈恩寺」に旅行の途中立ち寄った。ここには、 たくさんの日本人移民の方の霊が手厚く祀られていた。


◆政治

1990年〜2000年まで、日系のアルベルト・ケンヤ・フジモリさんが貧民層を中心とした支持で大統領 を務め成果も収めた。 しかし、軍による民間人殺害への関与などの人権侵害と汚職の罪で有罪判決を受けている。
今も一定の人気があり、町には写真入りの看板も見受けられた。だが、ガンを患っていることから 本人の再出馬は無理のようだ。
フジモリ元大統領看板 ケイコ・フジモリの看板
フジモリ元大統領の写真入り看板と、長女のケイコ・フジモリの看板

その代り長女のケイコ・フジモリさんが次期大統領選に出るという話がある。彼女は先の国会議員選挙で トップ当選しており、大統領になる可能性もあるということだ。 街や村を問わず道路沿いには“KEIKO FUJIMORI”という看板文字がたくさん見受けられた。
現大統領は富裕層を基盤にしているということなので、貧民層と富裕層、どちらの代表が勝つのか興味が あるところである。


◆交通事情

リマの朝夕の車のラッシュはすごい。交差点では突っ込んだ者勝ちだそうだ。
住民の足はバスが主体のようでボンネットバスも含めてたくさんの人たちが乗っていた。
ボンネットバス 三輪タクシー
ばだまだたくさん走っているボンネットバス(左)と、田舎町では主流の三輪タクシー

タクシーはボロ車が多く、軽自動車のような小さなタクシーがたくさん走っている。白タクも多いという。 また、リマでは少ないが、地方に行くと三輪タクシーが主流になる。昔の日本のダイハツ・ミゼットの ような車である。
タクシーにはメーターがないそうだ。すべて乗る時に運転手と交渉して料金を決めるという。
ラッシュがすごいので、リマに住むガイドの石井さんは自家用車を持っていないといっていた。


◆高山病と低地病

クスコは標高3400mくらいあるので高山病にかかり、頭痛や吐き気、めまいを覚える人がいるようである。
私は高山病は大丈夫だったが、それでも夜ベッドに入ると何か息苦しさを感じた。
人が眠る時は、落ち着いた緩やかな呼吸になるのが普通だと思う。ところがクスコではしっかり息を 吸い込まないと若干ではあるが息苦しい感じだった。 それでも意識して呼吸しているうちに眠ってしまった。
低地で生活している人が高地に行くと高山病になるということだが逆もあるらしい。
現地人男性ガイドのエリーさんはクスコに住んでいる方だが、低地のリマに行くと空気が濃くて息苦しく、 高山病と同じような症状になるというのだ。低地病とでもいうのだろうか。
人間は環境に影響を強く受ける動物なのだと思った。


◆食べ物と飲み物

食料品は、果物、野菜、魚介類など豊富で安いそうだ。
代表的な料理は「セビッチェ Cebiche」である。一度食べたが酸味が強く、素材がヘルシーであるとはいえ、 おいしいとはいえなかった。
また、珍しいものとしては、アルパカの肉を食べた。大量に食べたわけではないがやわらかくてまずまずの 味であった。
ジュースはどこに行っても果汁100%である。果物そのものが安いので当然かもしれないが、 街中の移動販売でも果物を目の前でしぼって客に売っていた。
インカコーラ ビールは、クリスタルCristal、クスケーニャCusquene、ピルセンPilsenが代表的だと聞き、 全部飲んでみた。いずれもレストランでUS$3。
一緒に行った皆さんに人気があったのがドライな感じのクリスタルだったが、私はクスケーニャの方が コクがあって好みだった。
ピスコサワーというのを飲んだ。US$6だったが、これはペルー独特のお酒で、ぶどうの蒸留酒 ピスコに卵白とレモンを加えてシェイクしたもの。まずまずの味だった。
ソフトドリンクでは、ペルー人が最も好むというのが「インカ・コーラInca kola」である。
黄色いコーラで、普通のコーラよりも刺激は少なくやや甘い。何度か飲んだがまあまあの味だ。
コーヒーは日本と違い非常に濃いのが出てきて、それをお湯で薄めて飲むようになっている。
紅茶は、日本のような紅茶としては出てこない。ティーカップにお湯が入れられ、ティーバッグが 付いてくる。ホテルのレストランでも同じである。
コカ茶も飲んでみたが、味があまりなく、おいしくない。一回飲んだだけでやめた。
コカのキャンディは普通のキャンディと変わらない。コカが入っているというほどの感じはしないし、 なぜ、日本への持ち込みが禁止されているのかわからない。


◆お土産物

日本でもそうだし、多くの外国の観光地ではチョコレートやクッキーなどお菓子類のお土産を たくさん売っている。 ところがペルーではお土産用のお菓子というものをほとんど見かけなかった。 理由はわからない。
売っているお土産の大半は民芸品である。
アルパカのセーターなどといったお土産品もあるが、どこへ行っても民芸品というのには驚かされた。


◆フォルクローレとリャマ使いの踊り

民族音楽であるフォルクローレはあちこちで演奏を目にし、聞くことができた。
クスコの空港ロビー、昼食のレストラン、夕食のレストランなど、4人〜6人のグループで 演奏会が行われる。その定番はもちろん「コンドルは飛んでいる」である。
サンポーニャ ケーナ
フォルクローレは、ケーナ(笛=写真左)、サンポーニャ(多管の笛=写真右)、ボンボ(太鼓)、 チャランゴ(小型のギター)などで演奏されるのだが、どのグループも上手だった。 レストランとしては客寄せになるし、演奏者は演奏後に自分たちのCDやDVDを客に売ることで 収入を得ているのだ。

“ああ雄大なアンデスのコンドル
 連れて行っておくれ、私の家へ、アンデスの
 ああコンドルよ
 私の最愛の土地へ戻りたい
 インカの兄弟と共に生きたい、この郷愁よ
 ああコンドルよ

 クスコの大広場に
 マチュピチュとウアイナピチュを待って、
 さあ出掛けよ”

フォルクローレ 列車内で証を演じた乗務員
レストランでのフォルクローレ(左)と、列車内で“リャマ使いの踊り”と、アルパカ製品のファッションショー を演じた乗務員

オリャンタイタンボからマチュピチュ村のアグアスカリエンテスの間を走る列車「ビスタドーム」の中では “リャマ使いの踊り”や、アルパカ製品のファッションショーが行われた。
踊りを演じたりファッションモデルになるのは列車の乗務員だった。
揺れる列車の中での“リャマ使いの踊り”はよろけてばかりで大変そうだったが、この踊りも ペルーならではのものらしい。 サービス精神旺盛でもあり、商魂もなかなかたくましいものがあった。

今回のペルー旅行は、クラブツーリズムの「憧れのペルー 4大世界遺産スペシャル 8日間」というものだった。
参加者は11名。これまでの海外旅行では最も小人数だった。姉妹の2人、女性の友人2人連れ以外は 一人参加で、男性4人、女性7人と添乗員の横井さんである。
年齢的には20代の青年1人を除き、50代から60代である。20代の青年の参加はめずらしい。
人数が少ないだけに2日目からみんなうちとけて、和気あいあいとした旅となった。
いずれにしても地球の反対側、日本から2万kmも離れたところへの旅はたいへんである。 こうした遠いところへ、これからはなかなか行けないだろうから、今回の旅行はいい思い出になったし、 有意義な旅になったと思っている。


行 程

 〔1日目〕中部空港→成田→ロサンゼルス→リマ(泊)
 〔2日目〕リマ市内観光(泊)
 〔3日目〕リマ→クスコ→アグアスカリエンテス(マチュピチュ村)(泊)
 〔4日目〕マチュピチュ観光→クスコ(泊)
 〔5日目〕クスコ→リマ→ナスカ(泊)
 〔6日目〕ナスカの地上絵観光→イカ→リマ(機中泊)
 〔7日目〕リマ→ロサンゼルス→
 〔8日目〕→成田→中部空港




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