漢字三音考

凡例

漢字三音考序

孔子曰後生可畏 於吾本居先生乎方知其信也矣 先生能窮古言妙解古書所着 古事記傳可以見矣 又嘗著馭戎概言二卷盛稱皇國之尊 無抗以警 學者漢習者有 此書之作焉論漢土之方音律以 皇國之正音大意謂 皇國斯日月所生焉 日孫降臨之域而居萬國之音爲萬國之宗也 是故稻穀優乎 八荒寶貨冠乎 四海蓋天地純粹祥氣鬱勃所蒸爲爾 其人云之音之明亮單直也 亦正之純者也 比諸異邦溷雜曲僻之音豈翅霄壤至若夫漢語二音亦傳之于此則翦除其鄙俚揀擇恊于自然之聲調其然後稍近雅正已此皆前人未發之説可謂奇矣哉 後生可畏 於先生乎方知其信也者非耶 嗚呼世之漫認侏離以爲正不解正之所以爲正之徒一得此書而玩味焉則思遇半矣

天明四年甲辰五月

石見濱藩文學小篠敏謹序

目録

漢字三音考

本居宣長撰

漢字とは、字は皇國の字に非ず、漢國の字なるが故に云ふ。 三音とは、其の音漢呉の二つあるに、近世の唐音を加へて云也。 然るに其漢音呉音の來由正不正及び三音の優劣など、諸説紛々として一定しがたく、世の人これに惑ふが故に、今此書を著して委く是を辨へ定め、凡て字音に(あづか)れることを論ずるに、先づ(はじめ)に皇國と外國と自然の聲音の異なることを云て、次に三音を論ず。 (ここ)(かしこ)と自然の聲音の異なることを先づ明らめ置ざれば、字音の辨論明かならざるが故なり。

皇國の正音

皇大御國(すめらおほみくに)は、天地の間にあらゆる萬の國を御照(みてら)(まし)ます、天照大神(あまてらすおほみかみ)御生坐(みあれませ)る本つ御國(みくに)にして、即其御後(みすゑ)皇統(あまつひつぎ)、天地と共に動きなく無窮(とこしへ)に傳はり(まし)て、千萬(ちよろづ)御代(みよ)まで天の下を統御(しろしめ)御國(みくに)なれば、(かけ)まくも可畏(かしこき)天皇の(たふと)(まし)ますこと、天地の間に二つなくして、萬國の大君(おほきみ)(まし)ませば、異國々(あだしくにぐに)の王(ども)は悉く臣と稱じて、吾御國に服事(つかへまつ)るべき理り著明(いちじる)し。 然るを禍津日(まがつびの)神の心によりて、此の理(おほ)はれて未だ顯はれず。 世の人の心皆外國藉(とつくにぶみ)に幻惑せられて、是れを悟ることあたはず。 いとも哀しきわざなりけり。さて如此(かく)尊く萬國に(かみ)たる御國なるが故に、方位も萬國の(はじめ)に居て、人身の元首の如く、萬の物も事も皆(すぐ)れて(めでた)き中に、殊に人の聲音言語の正しく(めでた)きこと、又(はるか)に萬國(まさり)て、其音清朗ときよくあざやかにして、譬へばいとよく晴たる天を日中に仰ぎ()るが如く、いささかも曇りなく、又單直にして迂曲(まが)れること無くして、眞に天地の間の純粹正雅の音也。 さて其古言の正音はただ四十七にして、ヤの(くだ)りのイ・エと、ワの行りのウとを加ふれば、(すべ)て五十なり。 此イ・エ・ウの三音の各二つあること所以(ゆゑ)あり。 二つかと思へば一つ、一つかと思へば二つにして、一つとも二つとも云がたし。 此の妙處はア・ヤ・ワ三行の音の分れたるゆゑをよく了解せば、おのづから明らかなるべし。 其大抵は字音假名づかひにあらはせり。 是れにカの行りサの行タの行ハの行の濁音合せて二十を加ふれば、都て七十なれども、濁音はただ清音の變にして、もとより別なる者に非る故に、皇國の正音には、此を別には立てず、清音に攝するもの也。 一音の言に濁る例なく、又二音三音を合せたる言にも、(はじめ)を濁る例なし。 凡て濁はただ其中下にのみあり。 然るに上へ他の言を連ねて合せ云ふときは首をも濁ること多し。 月をも望月などと云ときは、ツを濁り、川をも谷川などと云ときは、カを濁るが如し。 此例を以見れば、一言のうちの中下に濁ある者も、其本は二言の連合せるものならむか。 其意得やすき者を一つ二ついはば、祖父(おぢ)祖母(おば)は大父大母の義、柳は()()(まど)は間戸、袖は衣手(そで)、筆は文手(ふみて)、札は文板(ふみいた)にて、皆二言の一言になれるにて、濁音は何れも連聲の便也。 然れば此餘の、義の知がたき言の濁音も皆此類なるべきか。 されどこれは決めてはいひがたし。 さて其五十の音は(たて)に五つ横に十づつ相連りて、各縱横音韻調ひて亂るることなく、其音清朗なるが故に、いささかも相渉(あひわた)りよきらはしきこともなく、一一の音に平上去の三聲を具して、言に隨て轉用す。 此事下に委くいふべし。 又五十にして(たら)ざる音もなく、餘れる音もなき故に、一つも(のぞ)くことあたはず、亦一つも添ることあたはず。 凡そ人の清音は(これ)に全備せり。 されば此の五十の他は、皆鳥獸萬物の聲に近き者にして、溷雜不正の音也と知べし。 然るに外國人どもの、皇國の人の音を聽て、東方の國なる故に、音聲いまだ開けざる所ありなどと云めるは、各其國の溷雜の音にならひて正音の正音なることを知らざるものなり。

皇國言語の事

皇國の古言は五十の音を出ず。 是れ天地の純粹正雅の音のみを用ゐて、溷雜不正の音を(まじ)へざるが故也。 さて此如く用る音は甚(すくな)けれども、彼れ此れ相連ねて活用する故、幾千萬の言語を成すといへども、(たら)ざることなく盡ることなし。 そのうへ一言のうへにもまた活用ありて假令(たとへ)(いふ)(おもふ)の如きは、ハ・ヒ・フ・ヘと轉用して、イハム・イヒ・イフ・イヘ、オモハム・オモヒ・オモフ・オモヘと(はたら)き、(ゆく)(かへる)の如きは、(ゆく)はかきくけ、(かへる)はラ・リ・ル・レと轉用して、ユカム・ユキ・ユク・ユケ、カヘラム・カヘリ・カヘル・カヘレと(はたら)く。 諸の言皆此各にて第一の音 あかさたなはまやらわ は未だ然らざるに用ゐ、第二の音 いきしちにひみいりゐ (まさ)に然るを下へ云ひおくるに用ゐ、第三の音 うくすつぬふむゆるう (まさ)に然るを云ひさだむるに用ゐ、第四の音 えけせてねへめえれゑ (しか)せよと(おほ)するに用う。 又上にコソの辭あるときは、第三の音と同意になるなり。 ただ第五の音 おこそとのほもよろを のみは、此如くなる活用の例なし。 又上件の他にも種々の活用ありて、千言萬語各皆其の例各違ふことなし。 又言を連ねて語をなそに、ハ・モ・ゾ・コソ・テ・ニ・ヲ・ヤ・カ・ム等の(てにをは)ありて其意を分つ。 凡て此如く、活用助辭に因て、其義の(こまか)にくはしく分るること甚だ妙にして、外國の言語の能く及ぶ所に非ず。 凡そ天地の間に、かくばかり言語の精微なる國はあらじとぞ思はるる。

外國の音正しからざる事

外國人の音、凡て朦朧と渾濁(にご)りて、譬へば曇りの日の夕暮(ゆふぐれ)(そら)()るが如し。 故にアアと呼ぶ音のオオの如くにも聞え、ワアの如くにも聞え、オオと呼ぶ音の、ウウの如くにもホオの如くにも聞ゆる類、分曉ならざること多く、又カ・キ・ク・ケ・コとハ・ヒ・フ・ヘ・ホとワ・ヰ・ウ・ヱ・ヲと相渉りて聞えなど、諸の音皆皇國の音の如く分明ならず。

又溷雜紆曲の音多し。 東西を今の唐音にトン・スヰと呼ぶがごとき、トとンと雜り、スとヰと雜り、又トよりンへ曲り、スよりヰへ曲る。 春秋をチユイン・チユウと呼ぶが如き、チとユとイとンと雜り、チとユとウと雜り、又チよりユへ曲りイへ曲りンへ曲り、チよりユへ曲りウへ曲る、古への音も皆此如し。 一音にして此如く溷雜し、二段三段四段にも()れ曲るは、皆不正の音にして、皇國の音の正しく單直なると大に異なり。

曲らざる音もあれども、それも皇國の正しき單音の如くには非ず、アア・イイ・ウウ・カア・キイ・クウなどやうに、皆必ず長く引て短く正しくは呼ぶことあたはず。 短く呼べば必(すゑ)急促(つま)りて入聲となるなり。 外國の入聲は、皇國の字音の如き、ク・キ・ツ・チ・フ等の(あらは)なる韻は無くして、單音の如くなれども、正しき單音には非ず。 其(すゑ)物にゆきあたりたる如くに急促(つま)りて、喉の内に隱々として韻を()べり。 此方にて惡鬼一旦鬱結悦氣臆見甲子吉凶などと連ね呼ぶときと、惡一鬱悦臆甲吉等の音の如し。 故に今此書に入聲の形を言ふには(かり)に其音の下にッ點を施して(しるし)とす。 日月の唐音をジッ・エッと書くが如し。 これ新奇を好むに非ず。 其韻を示すべき假字(かな)なきが故也。 此點を施せるは皆急掣(つま)る韻と心得べし。 さて此如く韻の急促(つま)るは甚不正の音也。 皇國の音はいかに短く呼べども、正しく舒緩(ゆるやか)にして急促(つま)ることなし。

又外國には韻をンとはぬる音殊に多し。 ンは全く鼻より出る聲にして、口の音に非ず。 故に餘の諸の音は、口を全く閉ては出ざるに、此ンの音のみは、口を(きびし)く閉ても出る也。 されば皇國の五十連音の五位十行の列に入らずして、縱にも横にも相通ふ音なく、ただ孤りの立ちなり。 然るに外國人の音は、凡て渾濁(くもり)多く鼻に觸るる中に、殊にこのンの韻の多きは、物言(ものいふ)に口のみならず鼻の聲をも(まじ)へ借る者にして、其不正なること明らけし。 皇國の古言にはンの聲を用ゐる者一つもあることなし。 此殊猶下に委く云べし。

又外國にはハ・ヒ・フ・ヘ・ホに清濁の間の音あり。 濁音を呼ぶ如くに唇を彈て正音に呼ぶ。 ハを烟波の波の如く、ヒを尊卑の卑の如く、フを南風の風の如く、ヘを權柄の柄の如く、ホを一本の本の如く呼ぶ是なり。 此方にて半濁と云ふ、漢國にてはこれをも清音とする也。 此れ殊に不正鄙俚の音なり。 皇國の古言に此音あることなし。

上件種々の音は此れ鳥獸萬物の聲に近き者にして、皆不正の音なり。 諸の外國異同はあれども皆是れあり。 其中に今は漢字音の論のためなる故に、漢國の音に(つき)て云るなり。

天竺國の音

天竺には皇國の五十音の如くなる正しき音もあれども、又上件の如き種々の溷雜不正の音も多し。 さて何れの音にも長短の二つあり、これを單音にていはば皇國の正音の如くなるを短聲とし、彼漢國のアア・イイ・ウウなどの如く引くを長聲として、長聲には、其字の傍に引點と云ものを加ふること也。 又韻をウとはぬるをば大空の音と云て字の上頭に圓點を加ふ。 是れを空點と云。 又漢國の入聲の如く韻の急促(つま)るを涅槃の音と云て、字の傍に二圓點を加ふ。 是れを涅槃點と云り。 此の四つの差別をアの音にていはば、梵の阿字、短聲はア也。 其字に彼の傍點を加ふれば、長聲となりてアア也。 空點を加ふれば、大空の音になりてアン也。 是に三内の差別あり。 下に云べし。 涅槃點を加ふれば、涅槃の音になりてアッ也。 是又三内の差別あり。 下に云べし。 凡て此涅槃點の字中天竺の音には、對注に多くは入聲字を用ゐ、南天竺の音には、入聲字を用ゐざること多し。 是其韻に輕重の異あるなるべし。 凡て五天竺各其方土の音異なること多くあるなり。 諸字の音皆此例也。 又梵の仰壞(だう)曩莽の五字を五句の字と云て、連聲するとき、是等の字下の字の上頭にあれば、 字の上頭に字あることは、凡て梵字の法は、二三字四五字をも合はせ一字となすが故なり。 漢字の法と同じからず。 其上の字空點なけれども、空點の音になり、野囉羅嚩奢沙娑訶の八字は、連聲のとき、是等の字下の字の上頭にあれば、其上の字涅槃點なけれども、涅槃音になる。 此二類を五句八字の連聲と云て、種々の子細あり。 抑壤等の五字は、三十五字の體文の中の、初二十五字を、比聲と云て、齒舌喉唇の五聲各五字づつにて、是を五句と云、其句ごとの第五の字也。 野囉等の八字は體文中の中の後の十字を、超聲とも遍口聲とも云ふ、其内の終りの二字を除きたるなり。 猶右の外種々の事どもあれども事長ければたやすくは盡しがたし。 其師に依り其書に就て學ぶべし。 抑今かく天竺の音のことをいささか云るは、凡て外國の音のさまの、皇國の音とは異なることをも論じ、 こは天竺のみならず、其餘の國々の音をも知りなば、何れも其益あるべけれど、余が知ざる所なれば、云ことあたはず。 たまたま天竺の音のことは傳へあるに依てかつがつこれをしるすのみなり。 又其對注に就て、漢字の古への音を知べき便りとなること大き故に、此書往往に悉曇を引てこれを論ずることあれば其(ため)に先づその大較を云ひおく也。 凡そ音韻を學ばむ者、必悉曇を知らずはあるべからず。 世の韻學者ただ漢字の韻書にのみ執滯せる故に、天下の音韻の大體を知らず、或は今の唐音をのみ據としてこれを論ずるなど皆非なり。 又梵學者はただ此の方の字音をのみ知て、漢國の音如何と云ことを問はず。 對注を皆此方の字音のうへにて論ずる故に梵音の要領を得ざること多し。 されば梵學者も又必今の唐音をも知て、漢國の古への音を考へずばあるべからず。 畢竟今の世にして此方にて梵音の眞は學び得べきに非ずといへども對注の漢字の古への音と今の音と、又此方の漢音呉音と、傳來の説と、かれこれを參考してよくかむがへなば其大體をば得べきものなり。

鳥獸萬物の聲

大凡の上件に云る外國の引く音曲る音急促(つまる)音ンの音ハの行の半濁音等は、皆是れ不正の音にして人の正音に非ず、鳥獸萬物の聲に類せるもの也。 いかにと云に、先づ鳥獸の聲は、馬はニイ牛はモオなどと、皆必長く鳴て、ニともモとも短かくは鳴くことあたはず。 彼の外國人の引く音これに近し。 又雉はキン犬はワン鼠はチウ猫はニヤウと鳴たぐひ、外國人の曲る音ンの韻など是に近し。 又烏はカアカアと鳴くを、若し短く鳴くときは、必カッカッと急促(つま)り蛙(あひる)などのギヤッギヤッ・カッカッと鳴くたぐひ、凡て短聲のもの外國人の入聲これに近し。 烏のカッカッ蛙のギヤッギヤッ鴨のガッガッの類みな其韻はあらはならざれども、急促(つま)る所に隱々と響あること、全く入聲の如し。 さて又(こと)の聲はピンポン、(ふえ)の聲はヒイ・フウ・ビイ・ブウ、金の聲はチン・チヤン・チヨン・グワン・ボン、(つづみ)の聲はデン・ドン・カン・ポン、木の聲はカッカッ、石の聲はコッコッなどと鳴る。 萬の物の聲皆此類にて、長き者は必ず響ありて短きことあたはず。 短き者は必急促(つまり)てゆるやかならず。 凡そ鳥獸萬物の中に、其聲の皇國の五十音の如く單直にして正しき者は、一つもあることなく、皆さまざまとくせありて、外國人の音是によく似たるもの也。 これ皇國の音は正しく、外國の音は正しからざる明澂也。 然るを近世儒者などの、返て皇國の聲音言語をしも、侏離鴃舌と云なるこそ、いともいとも意得ね、抑漢國人の他國の言語を然云(しかいふ)なるは、其の(さとり)がたくてただ鳥のさへづる如くに聞ゆる故也。 皇國にても、(から)さへづりとも、さひづるや(から)とも云て、誠に戎狄(からびと)の言語は鳥のさへづるが如し。 されば是は各たがひに他國の言語をこそ云べきなれ、實には何れをそれとも定むべきに非るが如し。 然れども諸國の音聲言語勝劣なきに非ず。 其中に獨り勝れて實に正しきは皇國にして、外國は正しからず。 鳥獸萬物の聲に類せること、上件の如く其證著明(いちじる)ければ、是ぞ實に侏離鴃舌にはありけるを、彼の漢國人の云るにならひて、皇國人の皇國の言音をしも然也と云ひなすは、甚しき狂言(たふれごと)也。 凡て何事にも、よしなき漢國をひたすら尊尚して、皇國をば(みだり)(おと)しめ賤しむるを卓見の如く意得るは、近世狂儒者のならひ也。 抑他國を尊みて本國を(いや)しむるが孔丘子の教にや。 かへすがへすも意得ぬことなりかし。

漢國字多きに過て音足ざる事

漢國は字甚多くして、煩はしくくだくだしく返て不便也。 爾雅釋詁に、 林蒸天帝皇王后辟公候は君也。 また柯憲刑範辟律矩則は法也。 また辜辟戻は罪也。 などあるが如き、凡て此如く同じことに字の數多(あまた)あるは各少しづつ義の異なるを以て分けて(なづ)けたるは精しけれども、其中にはさのみ義の異なることなきにも數字あるは無益のこと也。 又いと精しく分れたるかと思へば、右の内の辟の字の、君と法と罪との義ある如く、一字を多義に用るは、まぎらはしく甚不便也。 又かの后の字を君にも用ゐ君の妻にも用ゐるが如きは、殊にまぎらはし。 凡て此如く一義に多字あり。 又一字に多義あらむよりは、一義一字ならむこそ宜しからめ。 又同書釋畜に馬の品を云るに、膝上皆白は惟馵、四骹皆白は驓、四蹢皆白は首、前足皆白は騱、後足皆白は翑、右足白は啓、後右足白は驤などの馬の足の毛色の少しづつ(たがひ)にまで、各其字のあるは、甚くだくだしく不便の至りなり。 抑萬物萬事を悉く此如く細碎に分むとせば、幾千萬の字ありとも盡ることあるべからず。 故にさばかり字多けれども、終に萬物萬事を各一字づつにては盡すことあたはずして、二字三字連接せる名稱も多かるをや。 さて又字は多き故に目にこれを視れば義理よく分るれども、字の多きに比すれば、音はいと(すくな)くて、一音に數字數言を兼る故に耳に其言を聽ては義の分らぬことつねに多し。 又音即ち言なるが故に活用なし。 其例をいはば、飮食の如き。 皇國言にては、ノム・クラフともノマム・クラハムともノメ・クラヘとも(はたら)きて、其義を分つを、漢國にてはただ(いむ)(しよく)と云より外なくして、(はたら)かざる故に、 食に別に嗣の音ありて義のかはることは末に云へり。 ノム・クラフもノマム・クラハムもノメ・クラヘも、一つにして差別なし。 ただ其時のさまと、上下の言とに隨ひて意得分くるのみにこそあれ、其一言のうへにては分り難し。 是は漢國のみならず、諸の外國皆此如し。 されば皇國の言は生言、異國の言は皆死言の如し。 さて皇國の音は、ただ五十にして甚(すくな)けれども、正音全備して(かけ)たる者なし。 漢國の音は、これに比すれば甚多けれども、ただみだりに駁雜にして全備せず、闕たる音多し。 故に他國の音を譯するに足らざること多くして甚不便也。 かの梵音を譯せるが如き、先づ梵音の長短の聲を分けて譯することあたはざる故に、或は長短と注し 此間に長短の字無き故に長短を以て之を標すとことわれり。 或は長には引と注し、短には入聲字などをも用ゐて、注を添へたり。 是れ入聲は隱に急促(つま)る韻ありて、正しき短聲には叶はざれども、(あつ)べきき字音の無きによりて也。 諸の對譯凡て此類にて、髣髴なることのみ多くて、梵音にあたりがたき故にさまざまと注を加へたり。 是を皇國音にて譯すれば、ア・アア・イ・イイ・ウ・ウウ・エ・エエ・オ・オオにて、注をまたず簡約にして、長短の聲調分明也。 凡て皇國の音は、單直にしてくせなき故にこれを用るに便利なること此如し。 漢國の音(あに)より此如くなることを得むや。 餘の國々の音を譯することも准へて知べし。 皇國の音にても譯しがたき音もまれにはあれども、漢字の譯音よりははるかにまされり。

皇國にして漢字音の始

皇國と外國と自然の音韻言語の甚異なること上件の如し。 然るに輕嶋の明宮御宇(あきらのみやにあめのしたしろしめしし)應神天皇の御世に、百濟國より阿直(あぢき)といひ和邇(わに)と云し二人の博士を渡し奉り、又論語などの漢籍(からぶみ)をも貢獻せる。 是れ大御國に漢字漢籍の(まゐ)入れる始め也。 是れに異説ありて、漢字漢籍は神武天皇以前より(はや)くこれありつらむとも云めれども、そは日本紀のかきざまなどを()て、ゆくりなく然思へるものなり。 日本紀の文のことはくさぐさ論あり。 事長ければ(ここ)には云がたし。 余古事記の傳に委く論ずるが如し。 ゆめゆめ彼の紀の文になづみて、神代より漢字ありつらむかなどと疑ふことなかれ。 又漢の武帝が時に始て倭國より通すと云こと、彼國の書に見えたるによりてそのころよりや文字も渡り來つらむと云人もあれど、これも非なり。 別に其論あれども(ここ)には(はぶ)けり。 かくて皇子宇治の若郎子(わきいらつこ)彼の二人を師として、始めて其の漢籍を讀たまひ、皆能く通達(さとり)たまひしこと正史に見えたり。 抑漢字の音を知らでは、漢籍は讀むことあたはず。 又此方にては、訓なくては其文義を(さと)ることあたはざるわざなるに、 たとへば論語をよまむに、(はじめ)論語卷之一とある論語、學而第一とある學而、子の曰とある子の字など、皆必音讀にすべければ、其音を知らでは讀むことあたはず。 さて學而時習之は訓に讀む。 但しこれはがくしてじしふすと音にもよむべけれど、又不樂乎などは、必訓によまずばあるべからざれば、訓もなくてはかなはず。 たとひ音によむとも、學はまなぶ也、而はての意也、時はよりより也、習はならふ也とやうに知らざれば、其義通じがたし。 此如くに知るは即ち訓也。 なて今訓と云るは、漢字に皇國言をあてたるを云也。 凡て訓とは、字につきてこそ云べき稱なれ世に皇國言をうちまかせて訓と云はひがこと也。 彼王子のさばかり善く了達したまひて、同御世に高麗國王より使を奉遣(まだ)せし時に、其表を讀たまふに、無禮なる言のありしによりて其使を(せめ)たまひしことなども見えたれば、當時(そのかみ)既に此方にて讀べき音も訓も定まれりしなり。 若し音訓なくば、いかでか善く讀て其表文の无禮なるを辨へ知りたまふばかりには了解(さとり)たまはむ。 然るを或説にそのかみ和仁(わに)が始めて教へ奉りしは、漢國の讀法の如くにていまだ和讀の法はあるべからずと云るは非也。 此方の人はいかほどよく學問しても、訓讀ならでは義理通ぜず。 近世儒者の説によく漢籍に熟し唐音に達しぬれば、訓讀によらず彼國の法の如く直讀にしてもよく通曉すと云は、甚虚妄の言也。 たとひ口には直讀にしても、心には訓讀せざれば義通ぜず。 人には右の如く教る者も、實には自も訓讀の法に依らざることを得ずと知るべし。 又履中天皇の御世には諸國に史を置て言と事とを記さしめたまひしこと見えたり。 此如く漢字を用ゐて此の方の言事を記すに至てはいよいよ其音も訓も定まらでは(よく)しがたきこと也。 此方の事を記すに、地名などはさらにも云ず、鳥獸草木萬の物の名其外も、(あつ)べき漢字のさだかに知れざるをば、假字(かな)に書ざることを得ず。 (はるか)の後奈良のことの書にすら、漢名の詳ならざるをば、假字に書るが多ければ、まして上古はおしはかるべし。 さて古への假字は、いはゆる萬葉假字にて、阿伊宇延於などの如く書て、皆音を用ゐたり。 然れば是にても初めより字音の定まれりしことを知べし。 假字定まらでは事は記しがたく、字音定まらでは假字は定めがたければ也。 さて假字に()()()などの如く訓を用るは奈良の末つ方よりやや始まりて、其古はさらに無きこと也。 日本紀の訓なるが二つ三つまじれるは、皆後の誤寫也。 さて又訓定まらではいよいよ事は記しがたし。 たとへばあつしさむしといふことを記さむとするに、あつきは暑の字、さむきは寒の字と知りて記す。 此如く知ることは此字に其訓ある故なり。 若し訓なくては、云々は某の字と云こと知れざれば、記すことあたはず。 然るを或説に、吉備の大臣和訓を造り和讀の法を始むと云るは、上件の事理をもよく考へざる孟浪の説也。 此の大臣より前に、此方の事を漢文にて記せる古書どものあるをば何とか解せむ。 又此方にても古書は多く漢文の法に書るに、文字の錯置の多きは、これ訓によりて作れる故也。 若しいまだ訓讀の法あらずして、ただ漢國の直讀の法によりて、其意を得て書むには、錯置はない理なり。 抑上古の讀書は訓讀ながらも、ただ其法を(そら)(おぼ)え居て讀むことにて、點を施すことはいまだこれあらず、凡て無點にて、今時唐本をよむと同じことなりけむを、吉備の大臣それに點を施すことを始めたまへるを誤りて和訓和讀を始むとは云傳へたるなるべし。 點法は此の大臣などの作なるべし。 然れども漢文の傍に此の片假字を附て讀む法は、又後のこと也。 昔時の點法は、いはゆるをこと點のたぐひにぞありけむ。 然れば皇國にして漢籍を讀み、又其字を用る、音も訓も、彼の若郎子王(わきいらつこのみこ)に始めて教へ奉りし時により定まりたりしこと疑ひなし。 さて其時に用ゐられし字音は、漢國の音のままなりけるか、はた皇朝にて別に改め定められたるかと云に、此事はたしかなる傳へなければ、今明らかには知がたけれども、事理を以て考ふるに、皇國と外國とは人の聲音甚異にして、相似ざること上件に辨ずるが如くなれば、そのかみ漢國の音をそのままに取り用ゐむとすとも、たやすく學び得べきに非ず。 同國同郷の人も、男子は男子の音、婦人は婦人の音、兒童は兒童の音、老人は老人の音、皆殊なるところありて、たがひにたやすくまねびがたきが如く、各國の音も然也。 されば漢人の音を皇國人のまねぶも、大體こそあらめ、其の眞は得がたきこと也。 譬へば鶯の聲を、ほほおけきよおとまではまねべども、實には鶯の聲は、人のほほおけきよとは大に異なるが如し。 又たとひ學び得たりとも、其侏離鴃舌不正鄙俚の音、さらにそのままに取用うべき者に非ず。 然れば其時の字音、必彼國のままにはあるべからず。 或は拗音を直音につづめ、或は通音に轉じ、或は鼻聲を口聲に移し、或は急掣(つま)る韻を舒緩(ゆるやか)にあらためなど、凡て不正鄙俚の甚しき者をば除き去て、皇國の自然の音に近く恊へて、新に定められたるもの也。 然れば字音は、皇國の語音に似たるを以て正とし、いささかにても漢國の音に似たるを不正とすべし。 然るに人皆此義を辨へずして、此方の字音の彼國の音似ざるを以て、ただ訛舛の音とのみ思ふは、深く考へざるひがことなり。 さて拗を直につづめ、鄙俚なるを轉じなどしたる例、字音假字づかひに出せるが如し。 凡て此方の字音には、今の唐音の如く甚鄙俚なる者は一つも(まじ)らざるを以て、ことさらに改め定めたるものなることをさとるべし。 若しおのづから訛れるものならば、甚鄙俚なる音も必まじれるべき理なるをや。 又まれに反切に合ざる音などもあるは、反切の字の音は、たまたまいやしからざる故に、本音のままなるが、歸字の音に至ていやしき故に、轉じたるもあり、又此方の例の外にも、反切と合はざるがまれまれあるも、多くは所以(ゆゑ)ありて然る者にして、ひたすらに訛れるには非ず。 又此方にて初めて字音を定められしころと、唐の代のころなどとは彼國の音もいささか變じたることもあるによりて韻書に合ざることもあるべし。 又四聲分らず清濁正しからずなど云ことの論は末に委く辨ずべし。

漢字音撰者の事

當時(そのかみ)字音を撰定せしは何れの人にかありけむと云に、必彼の皇子に典籍を教へ奉りし百濟國の博士阿直(あぢき)和邇(わに)などなるべし。 韓地の人ながら、和邇は漢の高祖が子孫なれども、もと唐國の人なるも知べからず。 よし然らずとも、唐國の音韻にもよく通じて、辨へ知てぞありけむ。 されど皇朝に參入(まゐり)ては、いまだ(いく)ばくもあらざりしほどなれば、其音の皇國の語音に叶へりや叶はずやまでは、いまだえよくも辨へ知まじければ、 難波津の歌を、此の和邇が作と云るなどは、傳へ誤れるものなり。 又彼の御世などには、唐國人の參入(まゐり)て留まり居たるも、此れ彼れと有つれば、其人等なども共に相議しこともあるべし。 すべてなる(こまか)なる事どもまでは、今詳には知るべきことに非れども、事のさまをよく考ふるに、必ず然るべき者なり。 そのかみ新たに渡り參入(まゐり)()つる書籍を讀み初めけむ時の事のさまをよくよく思ひやるべし。 文字と云もの、いまだ形をだに見たることもなかりけむに、(かり)にも其讀音一々に(しら)むこと、甚容易なるまじければいかにも此方の人の口に(よみ)やすく學びやすくして、然も唐國の音韻の前を失はむさまを撰ばずばあるべからず。 是亦其容易ならぬことなれば、必此れ彼れと相議て、深く考へずば、定め得べきに非るをや。

呉音の先づ定まれる事

さて其時に初めて定まりし字音は必呉音なるべし。 其故は昔より書典を讀むには漢音を用ゐつれども、常に口語に呼ぶことには、漢音を用ゐつるはいといと(まれ)にして、諸の物の名或は官名其餘の名稱なども、皆呉音にのみ呼來れり。 書籍の題目などをさへ、古へよりは五經はゴキヤウ、易はヤク、 古へはエキとは呼ざりき。 禮記はライキ、周禮はシユライ。檀弓はダングウ、月令はグワツリヤウ、千字文はセンジモン、玉篇はゴクヘンなどと呼來り。 又佛家諸宗の法文をよむにも、昔より漢音を勝れたりとして、別にそれをも傳へながら、常にはこれを用ゐることなくして、名目もすべて呉音にのみ呼來れり。 又古書の假字にも呉音をのみ取て、漢音を取れるはいといとすくなし。 帝をテ、禮をレ、西をセに用ゐたる類は、漢音のテイ・レイ・セイなどを取れるには非ず。 呉音のタイ・ライ・サイにして、(あい)をエ、(かい)をケ、(まい)をメに用ゐたると同格也。 弟子を呉音にてデシと呼來れるも、此例なるを思ふべし。 さて漢音を取れるは、ただ日本紀に麻摩をバ、寐彌をばビ、文矛をブ、謎をベに用ゐたるなど是なり。 されど他の書どもの例には、此等(これら)の例はなきこと也。 凡て日本紀のみは、神の名人の姓名地名などの文字も、他の書どもの例に異なるもの多きなり。 是等(これら)を以て知べき也。 やや後に漢音をいたく(たふと)ばるる世になりてすら、讀書ならぬ常の語には、なほ呉音をのみ用ゐられたれば、まして上古は思ひやるべし。 歴代天皇の漢樣の御諡號は桓武天皇の御世に撰定せられしためを其御世は殊に漢音を尚ばれたるころなれども、なほかかることにも呉音を用ゐられたりとおぼしくて、神武崇仁文正聖などの字、皆今に至るまで呉音にのみ唱へ奉り來れるは、初めよりのままとこそ聞ゆれ。 抑唐國にて正しとする漢音をばおきて、呉音をしも用ゐられたるは、如何(いか)なる故ぞと云に呉國は漢よりは地方もやや皇國に近ければ、其音も實は漢よりはややまさりて、皇國の音に近く親しくして、是を聞くにもやや平穩なればなり。 又そのかみ高麗百濟などは呉國に親しく往來せしことなれば、和邇なども呉國の音を殊によく(しり)て、これを教へ奉りしにもあらむか。 そはいかならむ。 今知りがたし。 さてそのかみ初めて定まりし呉音は、即今の世まで傳はれる呉音なり。

漢音定まれる事

漢音は、呉音より後に定まりしことは疑ひなけれども、そは何れの御代よりと云ことはさだかに知りがたし。 繼體天皇の七年に、百濟より五經博士段楊爾と云人を貢る。 同十年又同博士漢の高安茂と云人を貢て、段楊爾に代らしむ。 又欽明天皇の十四年易博士暦博士など、番上下相代るべきむねを勅せらる。 同十五年五經博士王柳貴と云參りて、固徳馬丁安に代るなどと云こと見えたり。 右の件の人々は、漢國人か三韓人か知らねども、中に漢の高安茂とあるは、まさしく漢人と聞ゆ。 此時いまだ音の博士は見えざれども、既に漢人五經博士として、是を教へたらむには、漢音もこれらのころよりや定まりけむ。 さて何れの御世にまれ、古へ用ゐ初められし漢音も、全く彼國の音のままには非るべし。 上件に論ぜるが如く、彼國の音は甚だ(こと)なれば、此方の人の(たやす)く學び得べきに非ず。 亦たとひ學び得たりといへども、侏離鴃舌不正の音、讀書などに用うべき者に非れば、是も亦かの應神天皇の御代、呉音を定められたる如く、異國の博士と此方の賢き人と相議て、彼國の音韻の前をも失はず、此方の音にも甚遠からぬ、宜きほどを選びてぞ定めつらむ。 事理必ず然らざることを得ざれば也。 さて其時定まれる漢音は、即今の世まで傳はれる漢音也。 抑初めより用ゐならひたる呉音にて、事は足りぬべきに、又更に別音を竝べ用ゐむは、いと煩はしく益なきことなるに、如何(いか)なれば又漢音をも用ゐ始めたまひしぞと云に、初め呉音の定まりしことは、いまだ書籍にうひうひしきほどなれば、ただ是を讀得て義理の通ずるをのみこそむねとしたるべけれ、いまだ其音の好惡のさだまでは及ばざりけむを、其後年代を歴て、漸く書籍に熟したるうへにては、彼國に於て呉音は蠻夷の音にして正しからずとして、中原の漢音を正しとすることを所知看(しろしめ)し、又唐國三韓より參れる人どもも、皆漢音正しき由を申しなどせしによりて、不正とする呉音をのみ用ゐてあらむことを、あかず所思看(おぼしめ)せるより、漢音をも相竝べて用ゐ初めたまひしなるべし。 然らば其時呉音をば廢せらるべきに、なほ兼ね用ゐられしはいかにと云に、呉音は久しくなりて、そのかみ既に天下に(あまね)く用ゐなれたるうへに、皇國の音にやや近くして、實には漢音よりややまさりたれば、必ず廢せられ難き自然の勢なるをや。

皇國の漢呉音の論

漢音も、此方にて宜きほどに改めて定めたらむには、唐國の眞の音には非ず。 名のみ漢音にして、實は和音なれば、呉音を用ゐむも同じこと也と思ふ人もあるべけれども、然には非ず。 呉音は彼國の呉音に依て定め、漢音は漢音に依て定めたるものなれば、其差別なきにあらず。 今時の唐音を以てこれを(こころ)むるにも、呉音は彼國の南方の音に近く、漢音は北方の音に近し。 是を以て見るにも、二音に眞の彼國の音にはあらずといへども、古へ彼國の音韻の趣をよく得て定めたる者にして、さらにみだりなることには非ず。 悉曇の書どもに(つき)て、天竺の音と、唐國の對譯の音と、今の唐音とを相照して、よく考へ見れば、此方の漢呉音の、全く彼國のままの音には非ることもよく知らし、亦其の彼國の二音の趣に違はざることもよく知らるるなり。 或説に、 此方の字音今の唐音に似ずとて、彼國の眞の音に非ずとは云べからず。 今の唐音は訛謬の音にして、古への音に非ず此方に傳はれる字音ぞ、即彼國の古の音なる と云るは、然らず。 今の唐音の古の音とかはれるはさることなれども、大方の音聲のすがたは、萬國各そのふりふりありて、幾千年を經れども、變らぬところは變らぬものなれば、今の音を以ても、古への音の大方のすがたはよく知らるることなるに、此方の字音は、そのすがた唐音と大いに異なれば、彼國の音のままに非ること明らけし。 又かの宇治の若郎子の王に初めて讀書を教へ奉りし王仁(わに)などは百濟國の人なれば此方の字音は其の傳へにて、韓地の傳習の謬音也と云説もあれども、今の朝鮮人の字を讀む音を考ふるに、此方の字音に近き者もあれども、そはまれにして、大體今の唐音に近し。 對馬をタイバアと呼ぶが如き、タイは全く此方の音と同じきを、馬をバと呼ばずしてバアと呼ぶは、唐音の格也。 但し今の唐音にはマアと呼ぶ。 バアは古への漢音なるべし。 又入聲は此方の如く韻尾を(あらは)に呼ぶもの多し。 此等は此方の音と似たれども、又日本をイルポン、百濟をペッチエエと呼ぶなどは甚異音にして、其すがた今の唐音に似て、此方の音とは甚遠し。 又此方にてウと呼ぶ韻を、喉の内に渾濁(くも)らして、クの如く呼ぶ字など多し。 此外凡て多くは唐音に近し。 然れば皇國の字音は韓地の音を傳へたるものとは見えず。 但しそのかみ諸字の中に、漢國の音はいたく此方の自然の音に叶はざるが、たまたま韓地の音は近きなどをば、やがて其音を取用ゐしことなどはありもすべし。 入聲字にク・キ・ツ・チ・フの顯なる韻あるなどは彼の地の音にならひて定めたるにてもあらむか。 然れどもこれらもただ皇國の自然の音に背かざるところを(えらび)て、ことさらに定めたるにこそあらめ、何となく彼の謬音を傳へたるには非るをや。 又或説に此方の字音は天竺の音をもまじへたるもの也と云は、殊に非也。 天竺國の漢字を用ゐることを聞ざれば、其音とてあるべきにあらず。 思ふに是は彼國の單音の、たまたま皇國の正音と同じく、又五十連音の圖はかの悉曇字母によりて造れるものなる故に然言ふなるべし。 まこと五十連音の圖は、悉曇字母によりて其學のために作れる者にして、皇國固有には非ず、又皇國の語音のために作れるものにもあらず。 然れども其音は五十ながらもとより皇國の自然の正音にして、さらに彼國音をうつし取れるには非ず。 そは古言を以て知べき也。 然るに彼の圖はたまたま此正音の妙用に符合せる故にこれを借用るのみにこそあれ、彼圖によりて此妙用あるにはあらず。 抑天竺には、此皇國の正音の如くなる單音もあれども、又さまざま溷雜不正の音も多し。 其中にかの單音の、たまたま皇國の音に同じければとて、必ず彼れよりうつれるものとはいかでか云べき。 凡て皇國には文字を始めて其餘も、漢國の事を取用ゐらるるが多きによりて、おのづからに他國と同じきことあるをも、皆他よりならへりとのみ思ふめれども、そはいみじきひが意得也。 おのづから相似たることも、全く同じきことも、などか()からむ。 是を皆他よりならへる者ぞといはば、人の形を始め、山川草木鳥獸などのさま、此間(ここ)も他國も大抵同じくして、さしもかはらざるは、此等(これら)も皆本は他國ありならひて造れとり云べきにや。

博士を置て字音を正されし事

持統天皇の御世に音博士唐の續守言薩弘恪と云ふ見えて、其後つねに大學寮に此職二人づつを置て、字音を教ることを掌らしめらる。 養老四年に、 比者(このごろ)僧尼妄に別音を作す。 宜く漢の沙門道榮學問僧勝曉等依て轉經唱禮すべし。 餘音は(みな)之を停めよ といふ詔などもありき。 抑此如く博士などをも置て字音を正されしはそのころに至ては、いよいよ漢籍に熟せる故にいよいよ其讀音のさだもありて、かの(さき)に定まりつる漢音は、彼國の音に異なることを、なほあかず所思看(おぼしめし)て、全く眞の音を用ゐまほしく所思看しけるから也。されば此博士には唐國の人を用ゐられつと見えて、神護景雲のころも、大學寮の音博士唐の袁晉卿と云人など見えたり。 此外もなほあるべし。 又唐國の人ならぬも、彼國にまかり渡りて學問し、其音をよく學び得たる人をぞ用ゐられけむ。 さて其後延暦十一年の勅に 明經の徒正音に習はず。 發聲誦讀、既に訛謬を致す。 漢音を熟習せよ。 また同十二年の制に、 今より以後、年分の度者、漢音を習にあらずは得度せしむることなかれ。 また弘仁八年の勅に、 宜く擇て三十以下令を聽くの徒、入色四人白丁六人を大學寮に於て漢語を習はしむべし。 と見え、また 朝野の朝臣鹿取、少くして大學に遊し、頗る史漢に渉り、兼て漢音を知り、始て音生を試らる。 また 仁明天皇能く漢音を練し、其清濁を辨へたまふ。 また 善道の朝臣眞貞、三博三禮を以て業と爲し、兼て能く談論す。 但し舊來漢音を學ばず字の四聲を辨へず、教授に至ても總て世俗蹐の音をのみ用る。 などとも史に見えたり。 これらに漢音とあるはみな其時の漢國の音を云るにて、後世に唐音と云と同じ心ばへなり。 此方にて古へ定められたる漢音のことには非ず。 そのかみ既に此方にて定まれる字音ある故に、そのに對へて漢國の音を漢音と云るなり。 右に引る文の中に、 誦讀既に訛謬を致す。 また 世俗蹐の音 などとあるは、此方の漢呉音をさして云る也。 又そのかみ既に和音と云ことも物に見えたり。 和音と云はさもあるべけれども、訛謬などとは云べきにはあらず。 もとより此方の字音は、此方の音に叶へて、ことさらに定めたるものなれば也。 凡て昔より世人皆ひたすらに漢籍をのみ尊信して、何事にまれ彼れに異なるをば、皆わろしとのみ心得て、皇國にすぐれたる美あることをえさとらぬから、此如く此方の字音をばひたすら訛とはせるものなり。 其故は、此方にて定まりし漢音は、そのかみ大抵あまねく人も知るべく、知りては呼びがたき音に非ず、誰も(よく)すべければ、博士に(つき)て學ぶまでもあるべからざるに、 朝野の鹿取の卿漢音を知る と云ひ 仁明天皇能く漢音を練したまふ などと國史にも記され、又 善道の眞貞の朝臣は漢音を學ばず などともあるを以て此方の漢字音にあらず、彼國の眞の音にして、たやすく學び得がたき物なりしことを知るべし。 或説に金禮信と云人對馬に着て、初て呉音を傳へ、次に表信公と云人筑紫に來て漢音を傳ふ。 此れ此方にて呉音漢音の始也と云り。 此金表二家の音のことは、元慶のころの或書にも見えて、浮たる説には非ず。 然れども其趣を考るに、始めて此の二音を傳へたる人にはあらず。 其時代さだかにはあらざれども、大抵奈良の末より延暦弘仁のころまでの間に來れりし人(ども)と聞えたり。 さて同書に、又𣴎和の末に正法師來り、元慶の初に聰法師來る、此兩法師漢音呉音を説くと云て、これを新來二家と云ひ、彼の金表を舊來の二家と云り。 此四家各其時の唐國の音を傳へたる人なり。 然るを金表を、呉音漢音の初めと云るは、傳説の誤なるべし。 又表信公と云は、かの神護景雲のころの音博士袁晉卿を訛り傳へたるにはあらざるか。 袁と表と形近く、晉と信と音近く、卿と公と意近ければ也。 若し此の誤りならば、彼の或書に表とあるも、袁を後に寫し誤れるものなるべし。 晉卿が事は空海性靈集にも 遙に聖風を慕ひ、遠く本族を辭し、兩京の音韻を誦し、三呉の訛響を改め、口に唐言を吐て、嬰學の耳目を發揮す などともありて、音に名高かりし人なり。

又或説に、百濟の尼法明對馬に來て、呉音を以て佛經をよめる、是れ此方にて呉音の初め也と云り。 これは鎌足の大臣の病の祈りに、百濟の法明と云し尼の維摩經を讀たりしこと、政事要略元亨釋書などに見えたり。 此事を誤り傳へて、呉音讀經の始とは云るなるべし。 但し此尼異國の人なれば、その讀經の音、此方と異にして、眞の呉音なりし故に、此傳説あるにてもあるべし。 とまれかくまれ呉音の初めと云はひがこと也。

又或説に、延暦の詔に、佛書をよむには呉音を用ゐ、儒道の書には漢音を用ゐ、醫書などには二音を兼用ゐよとありと云ひ、或は此事、東寺の經藏にをさまれる古への太政官符に見えたりなども云は、みな後世彼の道々の讀書の音右の如くなるに就て、好事の者の僞り云ること也。 上に引る延暦の制に、 漢音を習ふにあらざるは得度せしむることなかれ とあるを以て、佛經にも漢音を用うべき制なりしを知るべし。 かの漢音とあるは、眞の漢國の音のことにして、此方の漢音にはあらざれども、既に彼國の眞の音を習はしめたまふほどならむには、必彼國の漢音にこそありけめ、呉音にてはあるべからず。 そのかみ彼國にても、呉音をばいやしめつればなり。

さて如此(かく)漢國の眞の音を(たふと)びたまひて、これを用うべきよし、しばしば制ありつれども、そはもとより皇國の音に甚遠くして、(たやす)く得がたく、又たとひ學び得といへども、侏離鴃舌不正鄙俚の音なれば實には王公貴人などの讀書などに、さらに用うべき者に非るが故に、其音はつひに世に行はれず(たえ)はてて、舊來の此方漢呉音のみ、弘く天下に傳はり、其二音の中にも呉音はややまさりて、皇國の音に近き故に、殊に遍ねく行はれ來つる也。 凡て何事も、上の制は制として、其制の如くには行はれがたきことも多かるものなれば、かの養老延暦弘仁のころの字音の制も思ひやるべし。仁明天皇朝野の鹿取の卿などを、とりわけて國史に稱美したるにても、習ひ得たる人の甚(まれ)なりしは知られたり。 然るをかの制ありしを見て、そのかみの人は皆漢國の音をよくして、普く用ゐたりしことと思ふは(くは)しからず。 そのころとても制は制として、なほ世に遍く用ゐたりしは、古へよりの此方の呉音漢音なりし也。

さて今に至るまで、二音のうち、大抵儒書をよむには漢、佛書を讀むには呉を用う。 此義いかにと云に、まづ世には漢音を正しとする故に儒書にはこれを用ゐ來れるなるべし。佛家にても漢を正しとして、古き宗門には別に一種の漢音をも傳へたり。 然れども佛家には、常にはなほ呉をのみ用るは、とにかくに皇國の自然の音に遠きと近きとの故也。 儒者などは全く音讀にはせず、訓をまじへてよむゆゑに、調の美惡をさだせしことなるに、漢音は彼國のさだめに隨て、正しとはするものの、實は正しからぬゆゑに耳にたちて(きき)よからぬから、おのづから呉音にのみ誦ならひ來れる也。 又皇朝の律令格式等及び諸の文書をよむには、便に任せて二音を兼用ゐる中に、定まれる名目などは皆呉音也。 又歌書物語文などにては、常には漢音に呼ぶことをも、みな呉音にてよめり。 今上をゴムジヤウ、孔子をクジと云たぐひ也。

佛家の古き宗門に傳へたる一種の漢音と云は、乘勝稱證等をシと音とし、應をイ、行をケイ、進をシイとし、又入聲の一をイ、十をシなどとして、韻を省ける多く、或は白をハキ、國をケキともし、又極樂をキラク、釋迦をセキヤなどと呼ぶ。 此如く尋常の音と異なる者、凡そ數十字あり。 或説に、是れ即かの延暦のころ漢音と云るものにして、唐國の古への正音也と云り。 然れども是も全く彼國のままの音には非ず、なほ此方の自然の音に叶へ定めたるもの也。 其故は、上に云る如く、彼國の音は、そのすがた此方の字音とは甚異なるものなるに、件の音尋常の此方の字音と異なる者は、わづかに數十字に過ぎずして、其餘は常の如く、又その異なるものも皆此方の字音の體を出ざれば也。 又聲明などは、節族をなし四聲を定めて守ることなるに、其の守るところ、唐國の四聲にかかはらず、連聲の便に隨て轉變するは、是れ此の方の語音の例に叶へたるもの也。 若し其音全く彼國のままを用うとならば、四聲も彼國の如くに守るべきに、さはあらず、此方の語音の例に轉用するを以て、音も亦然ることを知べし。 其中に又連用の便に隨て、一字の音を彼此異にせるもままある、是又唐國にはさらに例なきこと也。 これ悉曇の穩便を用る法などにならひて、音調を擇べるものなるべし。 抑此如く別に一種の音を定めたる所以は、初め其人唐國にまかり渡りて、音韻をよく(さと)れるに、此方の舊來の字音、宜しからざる者ありとして、そを擇て改めたるものなるべし。 然れどもこれは唐國に其時世の音と、其人の心とによりて、定めたるところ異なるにこそあれ、必しも後に改めたる方を正しとも云べからず。 譬へば梵漢の飜譯の、舊と新との異なること多き、必しも新をのみ正しとも定めがたきが如し。 例をいはば、かの一十等の字の音の如き、上古に定めたる時には唐國の入聲のままにては、急促(つまり)ていやしく、皇國の音に叶ひがたき故に、ツ・フの添へてイツ・シフとせるを、此一家は、(あらは)にツ・フと韻ありては、彼國の人の入聲の體に違へり。 又急促(つまり)ては此方の音に叶はずとして韻を省きてただにイ・シと定めたるなり。 是れ何方(いづかた)にも其理あり。 此一家の音の中にも、同じき入聲の國をケキ白をハキと呼ぶ類もあるを以て、舊音に(あらは)なる韻あるをも、ひたすら非也とするには非ることを知べし。 さて又乘等をシの音とすることも、梵字の對注にも、シの音に勝の字、リの音に陵の字、チの音に登の字を用ゐたるなど例あり。 又極をキと呼ぶも、或書に極と忌と聲相近しなど云ることあり。 然れば何しも據あることにはある也。

又後の宗門の禪家の諸派にも、此方の漢呉音にもあらず、今の唐音にもあらざる異音どもあり。 是は彼國宋の末より元を歴て明の中ごろまでの間の音を、各其時々に傳へ來りて訛れるもの也。 銀子扇子などの子をスと呼ぶも、彼國の古への音のシイと今の音のツウとの間なれば、右の時代にはスウと呼しを傳へたるなるべし。 行脚行燈などの行を、アンと呼ぶも此類也。 又黄蘖派の音は、近き代の唐音にて、これ又此方にて展轉して多く訛れる者なり。

此方の字音は古來誤り無き事

皇國の字音、今傳はるところの漢語共に、古へに定まりつるままにして、訛れることなし。 其故は此方にては字音は、定まりて既に人々に(なれ)たるうへにては、訛まるまじき理あり。 いかにと云に、先づ自然の言語は郷土の方言ありて、五方各同じからず、又時世に隨ひても移りかはるもの也。 然るに字音は、他國の音をうつせる者にして、もと此方の自然の者に非るが故に、方音の(たがひ)あることなく天下同一に天はテン地はチにして、異音なし。 此如く五方の殊異なきを以て古今の變易も無きことをおしはかり知るべし。 若し今の變あらば、必五方の異もあるべき理也。 又自然の郷土の方言は、其訛謬も又自然なる故に、各其國其郷は同一にして、異なきもの也。 然るに字音は自然の音に非れば、若し訛らむには、字々天下同一には訛るまじく、必ず人々まちまちにして、天をチンとも訛りタンとも訛るべく、地をもツとも訛りテとも訛るべければ、今時も天にチン・タン、地にツ・テ等の音もありて、諸字皆此如くさまざまの音ありて傳はるべきに、古へより今に至るまで、天はテン地はチにして、異音あることを聞かず。 是れ漢國にては其音自然の生物なるが故に、方土の異もあり、古今の變もあるを、此方にては字音は、自然の生物に非るが故に、返て異變無き也。 譬へば生人の顏色容貌は漸く變りゆけども、それを(うつ)せる木偶人の顏貌は、幾年を經れども初めのままにして、かはることなきが如し。 さて又片假字平假字出來てより以來は、 片假字は上にも云るが如く吉備の大臣の作なるべきか。 平假字は今の京になりて出來たり。空海く色葉の歌其始めならむ。 いよいよ字音の訛りは出來ざる理也。 天地の如き、「テムチ」とも「てむち」とも記しおけば、幾千年を經といへども、此假字動くことなし。 されば古への書に假字を以て記しおきたる字音を見るに、今と異なることなし。 是れ古今の變易なき證也。 又本音鄙俚なる故に通音に轉じなどして定めたるは、反切に合はず韻も違へれば、中古の識者必これを考へて、改め正すへきことなるに、さもあらで今に至るまで、合はざるままにて傳はり來る類、これらも又諸字の音初めに定まりたるままにて、變らざる證なり。 若し中古の人の反切に依て合はざるを改めもし、又おのづから訛りもしたらむには、諸字の中に必ず鄙俚音も(まじは)りてこれあるべきに、さる音は一つも無きを思ふべし。 數百字の中には、まれまれ訛れる音もあるべけれども、それはただ其字のうへのみの誤にて、凡てのうへにはあづからず、又明名命猛孟等の字、漢音はベイ・バウなるべきに、常にメイ・マウと呼ぶたぐひなどは、所以あることなるべし。 此類餘も准ふべし。

皇國字音の格

此方の字音に五つの別あり。 單音、イの韻、ウの韻、ンの韻、入聲、是なり。 さて入聲の韻に又ク・キ・ツ・チ・フの五つあり。

單音とは、ア・イ・ウ・カ・キ・ク等の如く、單にして餘響なき音にして、支脂魚虞模歌麻等の韻 これは平聲の韻のみを擧げて上聲去聲の韻をも攝するなり。 下皆これに效へ。 の字音是也。 其外東冬齊佳皆灰咍尤候幽等の韻の字に呉音もこれあり。 然るに今の唐音には、正しき單音は一つもなくして、支等の韻もヤア・イイ・ウウ・キヤア・キユイなどの類に呼べり。 彼國の音は古へよりして此如きさまなるものと見えたり。 其故は、悉曇の短のアの對注に阿の字を用ゐて、短く呼べ音惡に近しとも注し、或は入呼とも注し、或は音惡とも注し、又惡の字を用ゐて、烏舸の反などとも注せり。 これ阿の字はアアの音にて、短聲には叶はざる故に、入聲の惡の字の如く短く呼べと云こと也。 若し阿の字此方の音の如くアならば、かかる注どもはあるべからず。 次に長のアにも阿の字を用ゐて、聲に依て長く呼べなどと注せるは、本音のままにアアと呼べと云こと也。 長く呼ぶは本音なれば勿論なれども前の短呼に別むためにかく云る也。 次に短のイに伊の字を用ゐて、聲於翼の反に近しと注せるも、入聲に近きやうに短く呼ぶを云。 又億の字を用ゐて、伊の上聲を以て稍短く是を呼ぶとも、乎矣の反短聲などとも注せり。 次に長のイにも伊の字を用ゐて、字に依て長く呼べと注せる。 字に依るとは聲に依ると云ると同じくて、此字の本音のままにイイと長く呼べと也。 凡て悉曇の對譯は、唐以前のことなるに、此如くなるを以て、其代の音も、阿はアア、伊はイイなりしことを知るべく、餘の字どもの音も准へて知べし。 然るに此如く必ず長く引く聲は、皇國の正音には叶はざる故に、皆正しき單音につづめて定められたる也。 其中に拗音に呼來る者の(まれ)にあり。 東冬の韻の呉音にシユ、支脂の韻にスヰ・ツヰ・ルヰ、魚の韻にキヨ・シヨ・チヨ・ニヨ・リヨ、虞の韻にチユ・シユ、歌麻の韻にクワ・シヤなどの音ある是也。 凡て拗音は溷雜不正なる故に多くは直音に轉じたる中に、いささか(きき)にくからぬをば、本のままにて用ゐられたるなるべし。

イの韻とは、齊佳皆灰咍等の韻の字、及び清青の韻の字の漢音等是れなり。 此中に佳皆灰咍の韻の字は韻のイを正しく呼び、齊清青の韻の字は、韻のイを音便にてエと呼ぶ。 エイはエエ、ケイはケエ、セイはセエ、テイはテエ、ネイはネエ、ヘイはヘエ、メイはメエ、レイはレエ、ヱイはヱエと呼べり。 是れエはイの類音にて、殊に親しき故におのづから然る也。 されどもこれらは中古以來のことにこそあらめ、古へは正しくイと呼しなるべし、假字には今とてもイとのみ書て、エと書くことなし。 さて今の唐音は齊佳皆灰咍の韻の字は、イの韻に呼び、清青の韻はンの韻に呼ぶ。

ウの韻とは、東冬江蕭宵肴豪陽唐庚耕蒸登尤候幽等の韻の字、及び清青の韻の字の呉音等是れなり。 此中に韻のウを正しく呼ぶ者は、イウ・キウ・シウ・チウ・ニウ・リウ、又クウ・スウ・ツウ・フウ・ユウ・シユウ・チユウ等のみにして、 但しイウはユウ・キウはキユウ・シウはシユウ・チウはチユウ・ニウはニユウ・リウはリユウと呼ぶ。 其餘は皆音便にてオと呼ぶ。 オウはオオ、コウはコオ、ソウはソオ、トウはトオ、ノウはノオ、ホウはホオ、モウはモオ、ロウはロオ、ヲウはヲオと呼び、ヨウはヨオ、キヨウはキヨオ、シヨウはシヨオ、チヨウはチヨオ、ニヨウはニヨオ、ヒヨウはヒヨオ、ミヨウはミヨオ、リヨウはリヨオと呼ぶ。 さて又アウをオオ、カウをコオ、サウをソオ、タウをトオ、ナウをノオ、ハウをホオ、マウをモオ、ラウをロオ、ワウをヲオと呼び、エウ・ヤウをヨウ、ケウ・キヤウをキヨオ、セウ・シヤウをシヨオ、テウ・チヤウをチヨオ、ネウ・ニヤウをニヨオ、ヘウ・ヒヤウをヒヨオ、メウ・ミヤウをミヨオ、レウ・リヤウをリヨオと呼ぶ、此類は韻のみならず、音をさへ轉ぜり。 是れオはウの類音にて、殊に親しき故に、おのづから然る也。 されど是亦中古以來のことにこそあらめ、古へは皆正しくウと呼しことなるべし。 拾遺集物の名の歌に、 紅梅を隱して、()をばいかでか、生まむとすらむ とよめるは、そのかみ既に紅の字の音を、凡てコヲと呼びしか。 但し是はウの韻にしてはよみがたき故にもあるべく、又芭蕉をハセヲバと云る例にて、音を轉じて訓の如く、常にコヲバイと唱へしにもあるべし。 假字は今とても皆ウとのみ書て、オとは書ず。 さて今の唐音は。蕭宵肴豪尤候幽等の韻の字はウと呼び、 皆正しくウと呼べり。 此方の後世の如く、音便にオと呼ぶことはなし。 但し蕭宵の韻などは、オの如くにも聞ゆるなり。 されどそれも、此方にてセウ・シヤウをシヨオと呼ぶ如くには非ず。 セオ・シヤオなどの如くに聞ゆ。 東冬江陽唐庚耕清青蒸登等の韻は、皆ンの韻に呼べり。

上件諸字の韻のイとウとは、韻の開合也。 抑輕重開合の序次は既に字音假字づかひに圖を著して委く云るが如く、イ・エ・ア・オ・ウと次第して、イは開の初め、ウは合の終りにて、相反すれども、返りて又甚近くして、異に親しく通へる理あり。 左に其圖説を著せり。

五音の形状、此圖の如くなるものにして、イは開の初めなれば、其形細小にして、本(すぼ)く末開けゆく音なり。 エはイの類にして、(やや)大にして、なほ末開けゆく音也。 アは中極の音なる故に圖大にして本末なし。 故に悉曇家に此音を開音として、餘のイ・エ・オ・ウをば、皆合音とすることあり。 オは開より合に行く音なれば、末窄りて、ウに類して、稍大なり。 ウは合の終りなれば、其形細小にして、いよいよ末窄り極まる音也。 右五音の形状、みづから呼び試みて知るべし。 カ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ヤ・ラ・ワの九行の五音も其開合の次序、此のイ・エ・ア・オ・ウに准ず。 さて右は開の始めより合の終りへ旋る次第なるを、又逆にウ・オ・ア・エ・イと旋らせば、ウ・オ・アは漸くに開けゆき、ア・エ・イは漸く窄りゆきて、合に還るいきほひなり。

此圖の如くに旋轉循環して、終りより又始めにかへる、是れ聲音の自然にして律も又同じこと也。 さればイとウとは、開合の分るる所にして、(しか)も隣近の音なるが故に、諸字の韻此二つに分るる也。 又イの韻なる物、音便にてエとなり、ウの韻なるものオとなるが多きは、各類音にて、近く親しき故なること、此二つの圖を見て(さと)るべし。

ンの韻とは眞諄文欣元痕魂寒刪山先仙侵覃談鹽添咸銜嚴凡等の韻の字是なり。 今の唐音も件の韻どもは皆ンの韻に呼ぶ也。 其外に東冬江陽唐庚耕清青蒸登等の韻をもンと呼べり。 凡てンの韻は、イとウとの變にして、此二韻を多く鼻へかけて呼ぶ者なり。 抑ンは是鼻の聲にして、正しからざる故に、皇國の古言にはこれあることなければ、字音のンの韻も、古へに初めて定められし時には、如何(いかに)ありけむ、本のままにンと呼し歟、又轉じてムとさだかに呼し歟、さだかならざれども、皇國言すら中古に至て、ム等は音便にンと呼ぶ者多くなりぬるを思へば、字音も(もと)はムなりしを後に音便にて凡てンと呼ぶことになれるにもあるべし。 大和の多武(たむ)の峯は古へは今の如くタウとは唱へず、ムをたしかにムと呼しに、古く(たむ)の峯とも書きたれば、談の字タムと呼しか。 三郎の三は、今もサムと呼べり。 又凡てンは鼻の聲なる故に、開合にあつからざるが如しと云へども、開には遠くして、合に近し。 其中に(なほ)三つの異あり。 口の聲を帶て開くかたに呼べばイ・ニ・ミに近く、それを合すかたに呼べばウ・ヌ・ムに近く、又口の聲を帶ずして(もは)ら鼻にて呼べば、まさしきンなり。 今の唐音のンの韻にも、いささか此等(これら)の差別ありげに聞ゆる也。 されば古への音にも差別あるべければ、此方にて始めに定められし時にも、ニ・ミ・ヌ・ムなどと分れたりしも知るべからず。 イとウとは別にその韻あれば、此中にあらず。 さて錢をゼニ、蘭をラニ、燈心をトウシミ、正身をサウジミと云類も、もとより音のままなるも知がたし。 佛家に至心をシシモ、和南をクワナモなどと唱ることもあり。

國名に信濃因幡讚岐の信因讚などは、ナ・ヌなどの韻として取れるに似たれども、凡て地名の假字は、韻をさまざまに轉て用ゐたれば、此の例には引べきにあらず。

梵字には、空點の音に喉内舌内唇内とて三つの差別あり。 漢の對注に、仰講向等の字を用ゐたるを喉内聲と云。 此方の音にてウの韻なる字皆同じ。 安見捍等の字を用ゐたるを舌内聲と云。 唵嚴劍等の字を用ゐたるを唇内聲と云り。 此方の音にしてンの韻なる字、皆舌内唇内に攝す。 此の字どもを此方の音にて分つに、仰等はウの韻なれば喉聲に論なきを、安等唵等は共にンの韻にして、舌唇の差別なし。 故に唇内聲をばムとし、舌内聲をウとして、是を分つ也。 然れどもンは全く鼻の聲にこそあれ、舌にはさらに(あづか)らざれば、是を舌内に(あつ)るは(いはれ)なし。 因て思ふに、舌内をばヌの韻とすべし。 ヌは舌聲なれば也。 沒羅憾麼妳(ぼらかむまねい)を或は婆羅門とも云ひ、吠室羅摩拏(べいしらまな)を或は毘沙門とも云ひ、沙摩那(しやまな)を或は沙門とも云ひ、舍枳也謨尼(しやきやもに)を釋迦文とも云ふ、これら麼妳(まねい)摩那(まな)謨尼(もに)等の下の字、皆舌聲の字なるに、或は門文などとも譯せるを以て、門文等の韻も舌聲にて、モヌの音なることを知るべし。 されば空點の音の三内を、此方の音にて分つときは、舌内聲をば、ヌの韻と定むべきこと、明らけき物をや。 此舌内と唇内との對注の字の韻は今の唐音にてもいささかの差別ありて、ヌに近く聞ゆると、ムに近く聞ゆるとがあれば、古への音も差別ありし也。 さて此の三内、喉はウ、舌はヌ、唇はムなれども、皇國の音のウ・ヌ・ムの如く分明には非ず。 外國の音は凡て渾濁(くもり)て清亮ならざれば、三内相遠からず、(いづ)れも鼻に觸れて髣髴として、皆ンの如く聞ゆるなり。 かの仰講向等の類の字も、今の唐音は皆ンの韻に呼ぶを以ても知べし。 然れば空點の音は、三内通じて一つに云ときは、ンとせるも(いは)れたること也。

諸字の韻、上件の如くイ・ウ・ンの三つに分るることは、先づ韻は音の餘響にて隱微なるものなるに、外國の音は凡て鼻にかかりて渾濁(くも)れる故に、其韻殊に隱微にしてさだかならず。 梵字の單音の對譯にも、ウの韻ンの韻等の字をも用ゐたること多し。 皇國の假字にもイ・ウ・ン等の韻の字をも韻を除きて用ゐたる多きは、韻は隱微なるがゆゑなりかし。 されば皇國の清朗なる音にうつせる所にてこそ、イ・ウ・ンの(たが)ひ明らかにてまぎるることなけれ、漢國の音にては、相渉りて分曉ならず。 或は漢音にてはイの韻なるが、呉音にしてはウの韻なるもあり。 或は古への音はイ・ウの韻なるが、今の唐音はンの韻なるなど、此方の音を以て思へば、此如きの異はあるまじきことなれども、彼國の音にては相近くして、甚異なることはなき故なり。 京の字漢音ケイ呉音キヤウ今の唐音キンなるが如き。 皇國の清朗なる音にては、此如く大に異なれども、(こころみ)に漢國の音の如く、渾濁(くも)らして鼻へかけて、キエイ・キヤウ・キインと呼ぶときは、相渉りて遠からず。 餘も准へてさとるべし。 いささか唇を開くかたに呼べばイとなり、それを多く鼻へかけて呼べばンの開となり、いささか唇を閉るかたに呼べばウとなり、それを多く鼻へかけて呼べばンの開となり、いささか唇を閉るかたに呼べばウとなり、それを多く鼻へかけて呼べばンの合となる也。 されば諸字の韻は、音の響のただいささかなるけぢめによりて、此三つには分れたるもの也。

入聲の韻、ク・キ・ツ・チ・フの五つありて、 ク・キもツ・チも開合の對にて、平上去聲の韻のウとイとの如し。 さてク・キとツ・チとの例を以て見ればフの對にヒの韻もあるべきことなるに、是のみ對なきは、按にクは多くしてキは(すくな)く、ツは多くしてチは少く、チは呉音にのみありて、漢音にはあることなく、又呉音にてもチはツとも呼ぶ者多し。 これらの例を以見れば、ヒなるべき韻をも、皆フに合せて定められたるにやあらむ。

東冬江陽唐庚耕登の韻、又清青の韻の呉音、蒸の韻の漢音、これらの入聲は(みな)クの韻也。 キの韻は清青の韻の漢音の入聲と、蒸の韻の呉音の入聲との中に、少々あるのみ也。 佛家の古き宗門、國或惑をケキ、白百をハキ、即をセキと呼ぶ漢音あるなり。 眞諄文欣元痕魂寒刪山先仙の韻の入聲、漢音はみなツの韻にて、呉音は常に呼ぶところツとチとあり。 是は始めよりツとチと二つありつる歟、又始めには皆チとなりし歟、今知がたし。 歌書などにては皆チとせり。 侵覃談鹽添咸銜嚴凡の韻の入聲は(みな)フの韻也。 此中にまれまれには常にツの韻にも呼ぶ字あるなり。 さて件のク・キ・ツ・チ・フの五つ共に、連用のときは、下の字の音便によりて、喉の内に急促(つめ)てッの韻に呼ぶこと多し。 但し是は中古以來のことなるべし。 キの韻のみは、今も音便にうつらざるものおほし。 さて今の唐音の入聲は、此方の入聲とは大に異にして、ただ平上去聲の韻を(はぶ)きたる如くにて、(ふおん)の入聲福はフオッ、(ちよん)の入聲竹はチヨッと呼ぶ。 其のッは甚だ微にして、無きが如し。 皆此類にして、ク・キ・ツ・チ・フ等の韻はあることなく、凡て韻の差別なきが如し。 抑彼國の入聲は古へよりして其韻、此方の如く(あらは)にはあらざりつらめども、必其急促(つま)る處に隱々として五つの差別はありけむかし。 譬へば鳥獸の聲木石絲竹の音など、短き者は皆必ず急促(つま)るを、其急促(つま)るところの韻、(あらは)には分れざれども、皆同一には非ず。各いささかの異ありて、彼の鳥蟲などのギヤッギヤッと鳴聲を、人の聲を以てまねぶに、ギヤフギヤフと云へばよく()るを、ギヤツギヤツと云ては()ず、木を(たた)く音をまねぶに、カチカチと云へばよく似るを、カクカクと云ては似ざる物あり、石をたたく音をまねぶに、コツコツと云へばよく似るを、コクコクと云ては似ず、是れ其急促(つま)るところに異ある證也。 されば入聲の韻も、此方にては彼の鳥獸木石等の聲をまねぶ如くに、其の(あらは)ならざる差別を(あらは)になして、ク・キ・ツ・チ・フとは定めたる者なり。 是れ何故ぞと云に、彼國の如くに韻の急促(つま)るは、侏離不正にして、甚鄙俚なる故に、そのままには用ゐがたければ也。 さて又入聲字は連用のとき上中にあれば、韻を(はぶ)きても呼こと多し。 是れもとは其韻(あらは)ならざるもなるが故也。 なほ漢國の古への入聲の體は、悉曇の對譯にてよく知らるることあり。 そは上にも云る如く、かの短のアに阿の字を用ゐて、入呼とも注し、音惡とも注し、惡に近しとも注し、或は(ただ)に惡の字をも用ゐたり。 又短のイに伊の字を用ゐて、音億とも注し、或は(ただ)に億の字をも用ゐたり。 これらを以て、惡億等の字、此方の如くに(あらは)なるクの韻は無きことを知るべし。 若し(あらは)にクの韻ありては、アの音イの音には甚遠し。 餘の字の對注も准へて知べき也。 さてかく顯なる韻はなしといへども、又全く韻なきには非る證は、梵のアの音に涅槃點を加へたる字の對注に、多くは惡噁等の字を用ゐたり。 涅槃の音は韻の急促(つま)る音なれば、惡噁等の音亦必ず然ることを知べし。 若し全く韻なくては涅槃の音には叶はず。 又同じき涅槃の音に、阿痾等の字を用ゐたるには、梵音は惡と注し、或は入聲握の音の如く之を呼ぶと注し、或は力を用ゐ氣を出して呼ぶとも、氣を放ち急切に呼ぶ、始めの短聲の阿に同じからずとも注せり。 氣を放ち急切に呼ぶなどと云る、全く入聲の體也。 末を急掣(ひきつめ)て呼ぶには、必ず喉より勵しき氣を出し放て呼ぶこと也。力を用ゐ氣を出と云るもこれに同じ。 又彼の短のアに惡の字を用ゐたるには、烏舸の反とも注し、短のイに億の字を用ゐたるには、伊の上聲を以て稍短く之を呼ぶとも注し、烏矣の反とも注せり。 短のアの音イの音は短かけれども末は急促(つま)らざるに、惡億等は、入聲にして急促(つま)る韻ありて、全くは叶はざる故に、烏舸の反、或は伊の上聲を以てなど云注はある也。 若し入聲に全く韻なくば、かかる注はあるべくもあらず。 又彼の涅槃の音にも、喉舌唇の三内の差別ありて、對注に惡索等の字を用ゐたるを喉内聲と云ひ、悉壹等の字を用ゐたるを舌内聲と云ひ、濕澁等の字を用ゐたるを喉内聲と云ふ、此方の入聲の韻と合へり。 ク・キの韻なる字を喉内と云、ツ・チの韻なる字を舌内と云、フの韻なる字を唇内とせり。 波羅弭多(はらみた)波羅密(はらみつ)とも飜し、阿魯里迦(あろりか)阿魯力(あろりき)とも飜せる類を以ても知べし。 密にツの韻なくては、弭多(びた)()の音闕け、(りき)にキの韻なくては里迦(りか)()の音闕る也。 又達磨の如き、此方の音にてはダツマ也、今の唐音にてはダモオ也。 然るに之をダラマ・ダルマなどと呼ぶ所以(ゆゑ)は、其梵の磨の字の頭に半體の(あら)字と云る者ある故に、其上の字の對譯に入聲字を用ゐて、其隱々たる韻をかの囉の音にあてたるもの也。 これ入聲字の韻連用の便にひかれて、ラの如くにもルの如くにら聞ゆる故なり。 羯磨をキヤラマ・ケルマ、沒帝をボリテイ、薩嚩をサラバ・サルバ 娑囉嚩(さらば)とも譯せり。 と呼ぶなども皆此例なり。 若し達羯沒薩等の字に韻なくては、彼の囉の音闕る也。 然るに漢國には、唐の後悉曇の學絶たる故に、此如き子細あることを知らずして、ただ達磨をばダモオ、羯磨をケモオと呼ぶを、返て是を正しと心得て、皇國の入聲をば、入聲の體を失へりなどと云は、例のみだりなること也。 今の唐音の入聲凡て韻なきが如くに聞ゆるを以て、近世の學者入聲は全く韻なり者と心得たるは誤りなり。 抑平上去聲にイ・ウ・ンの差別あるうへは、入聲にも韻ありて、必ず其差別あらざることを得ず、其中に方土に隨て輕重はありて、大抵北方の音は其韻も重く、南方の音は韻も輕きにこそあらめ。 入聲とても全く韻なきには非るをや。

漢國にて漢音呉音の事

漢音呉音とは、皇國にて云のみには非ず。 もとより唐國にての此稱ありて、漢音と云は彼國の中原の音也。 そは漢の代に胡國などに對へて、みづから漢と云るから、此號おのづから中國などと云と同じ意になりて、漢の代はかはりて後にもなほ云ひなれたるままに、(みづから)も他よりも(しか)云りしこと、彼國の書どもに多く見えたり。 唐の代よこなたは又唐とも云て、後の俗稱には唐山とも云ひ、今も彼國の商客なども、みづから唐人と云り。 漢と云號も是と同じことなり。 されば音も、呉音に對へて中國の音と云意にて、漢音とは云る也。 然るを漢音は漢の代の音と心得たる人もあるは、大なる誤なり。 さて呉音は、呉地の音なることは論なけれとども、若し中原の漢音に對へていはば、四邊の國々各其音あるべきに、獨り呉のみ其稱ありて、漢に竝べ云ふはいかにと云に、呉は三國の時孫氏(ここ)に據しより始めて、晉の東遷の後は王都となり、南北朝と分れて、代々南朝の都なりし故に、漢に對へて殊に其稱はあるなり。 北朝はかの中原の地なれば、もとより其音は漢音也。 皇國にても上古より漢をアヤ呉をクレと云て、漢某(あやなに)呉某(くれなに)と竝べ稱すること多し。 さて此二音の勝劣は、先づ漢音は彼國にて中原の音なる故に、古來これを正とし、呉音はもの蠻夷とせし地の音なる故に、正しからずと定めたり。 彼國内にてはまことに然るべきこと也。 されど是は彼國人の常に(ほこ)りて、みづから中國と云ひ、何事もみづから正しとし、他をば不正と定めたるよりの私論にこそあれ、人の聲音の正不正、これを律すべき由なきに似たれば、實には如何(いか)なるを正とも定むべきに非るが如し。 或人の云く 呉は周より以前こそ蠻夷の國なりけれ、秦漢以來は南方の一都會にて、六朝以來殊にその繁華天下に無雙にて、四方の學士太夫搢紳先生の聚るところ、人物風流此地に過ることなく、彬々たる君子の郷となりぬれば、語音も正しくなりて、明の代には南京の音を天下の正音とす。 南京は即呉地也。 これ秦漢以來漸を以て致すところにして、實は南方の風氣の然らしむるところ也。 何ぞ是を賤しめて邊土の音とすることを得む と云り。 此論一わたり理はまことに然るべきことと聞えたり。 然れども實には然らざること也。 人の聲音は其郷土の自然を出ることにて、正しき地はおのづから正しく、正しからざる地は、いかほど四方の君子の聚りて、繁華風流代々を經ても變らぬところある物也。 されば呉地の近世の音も、たとへば舊來の郷音六七分に、他方の音三四分ばかりなども(まじ)りたるが如きものにぞあるべき。 然るに此地の音をしも天下の正音とするは、或人の云るが如く六朝以來久しく都會にて、後世いよいよ繁華風流なるによりて、萬の事此地を以てすぐれたりとするから、人の語音も正雅なるやうに聞かさるるにこそあらめ、實に正しきには非るべし。 されば彼國内にての論は、古へに漢音を正しと定めたるも又是れと同日の論にして、ただ中原の音なるを以て正しとしたるにこそあれ、是も實に正しきには非ず、近世はかへりて呉地なる南京の音を正しとするにて、其實は定まれることなきをさとるべし。 凡て何事も彼國人の説は皆此如し。 然れども實に勝劣無きに非ず。 其實の勝劣をいはば漢より呉は其地方やや皇國に近ければ、其音も亦漢よりはやや正雅に近し。 上に或人の説を辨じて、呉音實に正しきに非じと云は、姑く彼國内の意になりての論也。 今は其の彼國の私論を離れて、實に呉音の勝れることを云り。 是れかの或人の説の繁華風流都會の故にも非ず、南方風氣の故にも非ず、皇國にやや近きが故に其地の音の勝りたる也。 然れば近世彼國にて此呉地の音を正しとするも國内の私論のうへにては、實を失へることなれども、おのづから公論には叶へるもの也。 抑皇國の音の萬國にすぐれて、天地間の準として(ただ)す、これ天下の公論なり。 何ぞ外國の私論に從ふことあらむ。 されば此方にて古へ呉漢の二音を定められて、殊に漢音を(たふと)ばれながら、なほ呉音をのみ多く用ゐられしは、(まさ)に然るべきおのづからの勢ひなりけり。 漢音を尚びたまひしは、そのかみ漢國内の論をのみ信じたまへる故也。 此事上に云り。

今の唐音の事

唐音とは唐國の音を云こと、今とは其音古と今と同じからざる故に、これを分けて云也。 漢音は漢の代の音、唐音は唐の代の音と意得るは非也。 此方の中古の書に、唐音宋音と竝べて云るなどは、唐の代の音を云るなれど、そは別のこと也。 又或人、古へに漢音と云るは雅音、唐音と云るは俗音也と云るも非也。 是れは古へより彼國中原にも、雅音と俗音とありしものと心得たるから誤れるなり。 俗音訛音など云るは、邊土の方音のこと也。 それに對へて中原の音を雅音とは云り。 中原にも俗音もありしには非ず。 たとひこれありとも、漢と唐とを以て雅俗を分くべき由なし。 畢竟漢音と云も唐音と云も一つ也。 漢音唐音と竝べ云るも、ただ詞のあやに字をかへたるのみにて、漢と唐とに異なる義あるには非ず。 今時は、唐國の音を漢音と云ては、呉音に對へ云ふ漢音にまぎれるれば、ただ唐音と云ぞ宜しき。 近世狂儒輩これを華音と稱ずるは、甚しきひがこと也。 凡て皇國人の唐國をさして、中國中華などと云は、いみじき狂言(たふれごと)なるを、ことのこころをも辨へざる者までも、儒者の言にならひて、そをよきことと心得て、然云(しかいひ)あへるは、いともあさましきわざ也。 此事余さきに馭戎慨言に卷を著して委く辨ぜり。 其音もただ唐音と云ぞ當れる稱なりける。 近世の儒者、彼國を漢と云ひ唐と云をば、俗なる言の如く心得たるはひがこと也。 上にも云る如く、古へより彼國にても然云は常のことなるをや。 さて今の音、諸州各少しづづの異あれども、大に異なることはなき中、南京杭州などの音を以て正しとする也。 さて此方には近世儒者など、此の今の唐音を即古への正音也と謂て、これを(たふと)ぶは大なる誤なり。 今の唐音は古への唐音に非ず、代々を經て訛舛(あやま)れる者也。 抑彼國の音は、皇國の音の如く清朗單直ならず、朦朧たる渾成の音にして、溷雜紆曲せる故に、漸く轉變せざることを得ず。 皇國の正音は、五位十行分明にして、いささかも相混亂することなし。 たとひ(ことさら)にこれを亂らむと欲すれども、亂ることあたはず。 是れ其音ただ五十にして、清朗單直なる故也。 されば言は漸くに訛ることあれども、音は訛ることなし。 然るに漢國の音は、此皇國の音を二つも三つも四つも合せつらねて一つになしたる如くなる者なる故に、その合せつらねたる間に必訛舛の出來るは當然の勢也。 そは上古より唐の代までにも、漸く變りたることあるべけれども、其の(あひだ)(たがひ)は今詳に知がたければ、姑く唐までをば正しとして、其後を云に、宋よりやや古へに違へること見えて、元を()、明に至りて大に訛舛れり。 さるば諸字の音(これ)(かれ)も悉く訛りつれば、何れを準として古と今との同異を澂すべき由なければ、其訛舛を自ら覺えず、是の故いかほど韻圖詳明に、呼法精嚴なりといへども、ただ訛音に依て訛音を(ただ)すなれば、何の益もなきいたづらごとなり。

字彙正字通などの音釋、古への音韻にかなはず、反切なども合ざる者多くして甚濫りなり。 乘の字丞の字共に時征(ずうちん)の反音(じん)とし、主の字を腫與(ちよんいゆい)の反(ちゆい)の上聲とし、予の字を弋渚(いちゆい)の反音(いゆい)とす。 凡て此如き類擧るに(たへ)ず。 今見あたるままに一二を出すなり。 字彙直圖に(きん)の韻の中に、(いん)(だん)(ちん)(ぢん)(しん)(ひん)(りん)(じん)(いん)及び(じん)等の字をも收し、又聲ありて字なき處に、音の相似たる字を借れりとて、分墳温文の四字を填たり。 此の京の韻に收したる所を見るに、多く清青の韻の字なるに、右の凝等の八字は蒸の韻の餳の字は唐の韻、認の字は眞の韻也。 又分等の四字は文の韻也。 此等の韻、此方の音にてすら差別あることなるに、皆混同して、イの韻ウの韻ンの韻の分別なく一韻とせる、古への韻書に此如き混淆はさらに無きことなれば、是後世の訛謬なること明らけし。 抑外國の音はもとより鼻聲多きに、後世はいよいよ鼻聲多くなりて、古へはウの韻なりし字をも、ンの韻に呼ぶが多くなりぬるは、いよいよ不正の甚しき者也。 蔡沈と云人の名を、(ぢん)(ぢん)と注したるに依て、サイチヨウと讀むことと心得る人あれども然には非ず。 此音注は明の代に侵の韻と蒸の韻と訛り混じて、澄の字ヂンの音になれる也。 又或人云、 東の字は漢音トンなるを、此方にてトウとするは、ンの假字いまた出來ざりし前に、ウをンに借りて、トウとつけたる也。 然るを今トオと呼ぶは誤也。 と云り。 此説トウを今トオと呼ぶを誤也と云るは然ることなれども、ンにウを借りてつけたりと云るは非也。 若し然らばンの韻の字皆ウと假字をつくべきに、ンの韻の者は古へより別にンの韻なるをや。 凡て今の唐音を正しきものと心得るから、此如きひがことをも云なり。 明の代にても、洪武正韻などをば正しき韻書とすることなれども、是れもなほ古へに違へるものなきに非ず。 韻の分けざまなども古にたがへり。 康煕字典などは殊に近き物なれども、音釋古の韻書に依れる故に宜きを、かの字彙などは、ただ當時の音を以て定めたる故に、訛謬は多き也。

今の唐音は、玉篇廣韻等の古韻書の反切に合はず。 韻鏡などを以て(ただ)すにも横呼多くたがへり。 一つ二つ言はば、支脂の韻の開口音の字、唇牙喉の音はヒイ・キイ・イイなどと呼ぶを、舌音齒音は皆ツウ・スウなどと呼ぶ、これ唇牙喉の音の例に違ふのみならずツウ・スウなどは開口の音に非ず。 甚しき謬音也。 其中に地の字をデイイと呼ぶが如きは、彼のヒイ・キイ・イイ等の例には近けれども、地は廣韻に徒四の反にて、徒四は今の唐音はドウ・スウなれば、ヅウと呼ぶべきに、デイイと呼ぶは反切と合はず。 又知は陟離(ちりい)の反、支は章移(ちやんいい)の反なれば、共にチイと呼ぶべきを、ソウと呼ぶ。 此類皆反切の音と合はず。 右の外も大小反切にかなはざるもの、開合たがへる者など、凡て訛謬枚擧するにいとまあらず。

何不(かふ)(かふ)と云ひ、之乎(しを)(しよ)と云類は義も音も二字のつづまりて一字になれる者なるを今の唐音にては、何不はホオ・ポオ、盍はアなれば、音相近からず、之乎はツウ・ウウ、諸はチユイなれば是れも遠し、今の音古への音に非ること此如し。

或人 詩經の 伐木丁々、 竹耕の反。 八鸞瑲瑲、鳥鳴喈々、肅々たる其羽 などの類ひ、註に其聲也と云る、此方の音は皆其聲に合はず、唐音にては皆よく合へり い云るはいかが。 先づ此方の字音は、もとより彼國のままを用ゐたる者に非れば、合はざるも論なし。 彼國の音は此如き類必合ふべき理なるに、今の音にては合はざる者多し。 丁々はチエンチエンなれば、木を伐つ聲に非ず、 此方の音タウタウの方返て近し。 瑲々はチヤンチヤンなれば、(すず)の聲には合はず。 是も此方の音シヤウシヤウ近し。 喈々は音皆又居奚の反也。 皆はキヤイ、居奚の反はキイなれば、是は何れにても鳥の聲に合へり。 此方の音カイカイ・ケイケイにてもさのみ違はず。 肅々はスオスオ又シヨシヨなり。 羽の音には合へりや合はずや定めがたし。 此方の音シユクシユクにても同じほどのことなり。 さて右の外、 喓々たる草蟲、殷たる其雷、鍾鼓喈々 などともある、何れも其聲也と註せるを、今の音にて喓はヤウヤウ、殷はイン、喈々はキヤイキヤイ又キイキイにて、何れも其聲には甚遠し。 これらをば如何(いかに)とかせむ。

今の唐音は、悉曇の對注を以て(こころむ)るにも合はざること多し。 先づ梵のアの音に、阿痾等の字を用ゐたるに、これらの字今の音はオオと呼ぶ。 オオにては梵音と大に違へり。 諸の梵音の中に悉曇の十二字の音は、殊に動くまじき音なるに、アをオオと呼ては、外の諸の音も皆亂るること也。 此の一つにても今の唐音の正しからざること明らけし。

皇國言を彼國にて譯したる字を以て其音を驗るに、隨以前の書に、ヤマトを邪馬臺、 邪は以遮の反音耶なり。皇國音ヤ・マ・タイ日本紀に(たい)をト、(だい)(だい)をドの假字に用られたれば、臺にもトの音あるべし。 今の唐音はエエ・マア・ダイなり。 又邪摩堆 皇國音ヤ・マ・タイ。 今の唐音エエ・モオ・トイ。 津嶋を對馬 皇國音タイ・マ。 但し對はツヰとも呼ぶ。 今唐音トイ・マア。 又都斯麻、 皇國音ツ・シ・マ。 今唐音トオ・スウ・マア。 筑紫を竹斯國、 皇國音チク・シ。 今唐音チヨ・スウ。 肥前の松浦を末盧國、 皇國音マツ・ロ。 今唐音モツ・ロオ。 筑前の怡土(いと)の郡を伊都國、 皇國音イ・ト。 今唐音イイ・トオ。 などと書るたぐひは、此方の音にてはいと近くして、今の唐音にては甚遠し。 然れどもこれらは、皇國人の書て見せたる字なるも知がたし。 右の外にも地名官名などこれかれ記せるあれども、その(さす)ところ詳ならざれば、(ここ)に云がたし。 北史隋書などに、開皇二十年倭王姓は阿毎字は多利思比狐使を遣云々と云る、是れはまことの皇朝の大御使には非ず。筑紫にて僞僭の者のしわざにして、 これらの事、委くは馭戎慨言に論辨せり。 可畏(かしこ)くも天足彦(あめたらしひこ)名告(なのり)遣はしたるもの也。 阿毎多利思比狐、今の唐音にてはオオ・ムイ・トオ・リイ・スウ・ヒイ・クウなれば、甚遠し。 但し是れも此方より右の如く書て()せたるも知がたし。 さて唐の代より以來の書に見えたるは、地名も人の姓名も何も、此方より書いくて()せたる者なれば、彼國の譯に非ず。 其中に鶴林玉露に、皇國の僧安覺が(いへ)ることを譯したる後少々あり。 硯を松蘇利必と曰 此方の音シヨウ・ソ・リ・ヒツ。 今唐音ソン・スウ・リイ・ビ。 筆を分直と曰、 此方の音フン・ヂキ。 今唐音フウン・ヂ。 墨を蘇彌と曰、 此方の音ソ・ミ。 今唐音スウ・ミイ。 頭を加是羅と曰、 此方の音カ・シ・ラ。 今唐音キヤア・ズウ・ロオ。 手を提と曰、 此方の音テイ。 今唐音デイ。 目を媚と曰、 此方の音ミ。 今唐音ミイ。 口を窟底と曰、 此方の音にクツ・テイ。 今唐音キユ・テイ。 耳を弭々と曰、 此方の音ミ・ミ。 今唐音ミイ・ミイ。 面を皮部と曰、 皮の字誤寫歟。 心を母兒と曰、 此方の音モ・ニ。 今唐音モオ・ルウ。 脚を叉兒と曰、 此方の音サ・ジ。 今唐音ツアア・ルウ。 雨を下米と曰、 此方の音カ・メ。 今唐音ヒヤア・ミイ。 風を客安之と曰、 此方の音カク・アン・シ。 今唐音ケ・アン・ニウ。 鹽を洗和と曰、 此方の音セン・ワ。 今唐音セン・ホオ。 酒を沙嬉曰、 此方の音サ・キ。 今唐音サア・ヒイ。 これら也。 皇國音にも今の唐音にも遠き者多し。 是れ南宋のころの事なれば、其代の音なるべし。 是れらにても、彼國の代々にうつり變ることをさとるべし。 さて明の代に至りて譯せるは大かた今の唐音にて合へる中になほ髣髴たる者多きは、皇國と聲音の全體の異なるが故なり。

今の唐音、牙音の内、疑母に屬する字をア・ヤ・ワの行りの音に呼び、喉音の内、曉母に屬する字をハの行の音に呼び、匣母に屬する字をア・ヤ・ワの行の音に呼ぶ。これら古へに違へることあるか。 其故は、若し古への音も今の如くならば、此方の字音も右の如くに定めらるべきに、さはあらずして、牙音は四母(みな)カの行の音、喉音は影喩の二母に屬する者はア・ヤ・ワの行、曉匣の二母に屬するものはカの行の音也。 是れ漢國の音も古へは此如くなりし故なるべし。 但しア・ヤ・ワの行、カの行、ハの行の各音、此方の清朗なる音にてこそ、よく分れてまぎるることなけれ、異國の渾濁なる音にては、相渉りて甚分曉ならざれば、古へより相通ひしこともありと見えて、此方にても呉音には、匣母にワの行の音なる者ままあり。 囘會話和などの如し。 叉悉曇の對注などにも、必ア・ヤ・ワの行の音なるべきに、カの行の音の字を用ゐたることなども多し。 然ればこれらは今の唐音もさのみ訛舛とも云べからざるか。 近世儒者に、唐音を知らではまことの學問はなりがたきことのやうに云者あり。 其説まことにさもありげに聞ゆれども、實は是をまなび識て學問に益あることなし。 其音たとひ古へのままの正音ならむしても、なほ知らずとも此方の音にて事足りぬべし。 汎や今の音は古へに非ず、大に訛れるものなるをや。 但し韻學者梵學者などは、是を知らずばあるべからず。 訛舛の音なりとはいへども、彼國の聲音の大體をば存せれば、古への音を知べき便とはなること也。

唐國音韻の事

唐國は、上古には音のことはさだせざりし國にて、ただ詩賦などに韻を押ことはありつれども、 古文にも韻語はあり。 古への押韻は甚簡疎にして、後世の如く某の韻某の韻と定まれることなどは無くして、ただ似たる音をば(ひろ)く通用したりき。 然るに蕭梁の沈約と云し人、始め音韻のことをさだせるより後、天竺の悉曇にならひて七音を(たて)など、漸く其法くはしくなれり。 さて上古の詩賦などを讀むに叶韻と云ことあり。 これ(もと)より叶韻なるには非ず。 後に諸字の韻を分局したるにつきて、其韻合はざる故に、別音を造りて叶韻と名づけて、韻の叶ふやうに讀む、後人の私なり。 凡て後世とても、分韻は定まれることなし。 其數或は二百六、或は一百七、或は一百六十、或は七十六などさまざまにて、其の定むる人の心々なり。 されば韻はもとよりさだかに分れたるものに非れば、古人のひろく用ゐたることうべなり。 又後世反切に、音和類隔往還など云さまざまの目ありて分れたり。 是は古き反切の、後世の音韻に全くは合はざる者あるより出來たる名目ども也。 後世音韻の法甚碎細になりたればこそ、此如きこともあれ、古へ其法簡疎なりし世には、皆音和なりし也。 もしそのかみ後世の如くならむには、何ぞ音和の正しきを用ゐずして、(たがひ)ある類隔などをば用うべき。 類隔などを、古人郷音によりて誤れるもの也など云説は、古へと後世と、音韻の法精疎のたがひあることを辨へずして(しひ)たるものなり。 凡て古へは同音なりしが、後に漸くに異音になりぬる字多かるべし。 然思はるる例を一二いはば、中の字は清音、忡の字は次清音、仲の字は濁音なる、上古はかかる差別はあるべからず、又江紅舡功攻項貢空など、皆工に從ひたれば、上古は同音なるべし。 (りよう)は冬の韻、(ろう)(ろう)は東の韻、(らう)は江の韻なる、これらも本は一つなるべし。 凡て中ごろ精く分れたるが、近世又混同したることも多かるべし。 今の唐音にて東の韻と冬の韻と呼ぶこと全く同じきなど、おのづから上古に近きなるべし。 此類ひ餘も准へてさとるべし。 されば後の世の韻書あまり呼法の精細なるは、却て古音に違ふことも多かるべし。 又いかほど精細に呼び分けても、諸字の音を一々に悉く呼び分ることあたはず。 なほ數字同音なる者多ければ、却て古音の簡なるに(しか)ず。

四聲の事

漢國の音に四聲と云ことあり。 是は何れの國の音にも、おのづから此如きの差別あることなれども、其名を立てて某聲々々と定め云ことは有りや無しや他國のことは知らず、漢國にも古へさることなかりしを、梁の沈約始めて平上去入と云名を立てて、諸の音に此の四つの別あるを知らせたるよりして、四聲のさだはある也。 古來これをあしく心得て、沈約より始めて四聲を呼び分けたりと思ふめり。 抑字音は即漢國人のおのづからの語音也。 然るに沈約其國中の人の語音を、いかでか俄に四つに呼分けしむることを得む。 たとひ王命を以て人ごとに是を教ふとも、決て得べからざること也。 かの天子聖哲の四字を以て定めたりと云は、天の字を呼ぶが如く呼ぶ聲は皆平、子の字を呼ぶが如く呼ぶ聲は皆上、聖の字を呼ぶが如く呼ぶ聲は皆去、哲の字を呼ぶが如く呼ぶ聲は皆入と、此四字の聲にて、諸字の四聲を示したるもの也。 或説に四聲と云ことはもとよりありつるが、亂れ誤りたるを、沈約呼法を定めてこれを正したる也と云も非なり。 國中の人の語音を、沈約いかでかよく俄に正し改むることを得む。 抑四聲はただ讀書のうへのことのみには非ず、平常の語音のうへにあることなれば、人力を以てこれを改變することはあたはざるわざなるものをや。 さて是を四つに分たるは、精しきに似たれどもなほ麁し。 其故はまづ漢國人の聲は長と短と二つにして、其長短に各三つの差別あれば、實は長の平上去、短の平上去と、六聲に分くべきを、約めて四聲と定めたるは、長聲の方のみを三つに分けて、短聲をば一つに渾じて入聲としたるもの也。 入聲は短促なる故に、三つの差別明らかならざるが如くなれども、精くするときは是亦長聲の如く、平上去の別なきことあたはず。 然るを千有餘載ただ沈約が四聲と定めたるままに意得て、入聲は即平上去の短聲にして、是亦其三つの差別あることを知る人なきはいかにぞや。

漢國にては、四聲によりて同字も義を異にすることありて、精く分るるが如くなれども、諸字皆然るには非ず。 四聲に隨ひて義の(かは)る字は少々のこと也。 飮食の食の字の如き、クラフ・クヒモノなどのときはシヨクの音にて 呉音はジキ。 入聲、飯のときと、人に(くら)はしむる意 ヤシナフと訓む。 のときは、シの音にて去聲也。 思の字の如き、オモフは平聲なるを、オモヒの體言に云ふ 相思など云ときの思これなり。 ときは去聲也。 好の字の如き、ヨシは上聲、コノム・ヨシミは去聲也。 此類往々にあれども、皇國の言活用精密なるに比すれば甚疎也。 彼の食の字の如き、クラフとクラハシムとは四聲にて分るれども、クラハム・クラヒ・クラヘなどの差別なし。 又治の字の如き、國を治むなどと云ときは平聲なるを、國治まると云ときは去聲となる。 これらは殊に精きに似たれども、餘の平齊修正等の字は、天下を平にす家を齊ふ身を修む心を正しくすと云ときも、天下平らか也家整ふ身修まる心正しと云ときも同じことにて四聲かはることなければ、其中にただ治の字のみ其差別あるは、何の益かある。 返て煩はしきいたづらごとならずや。 皇國の讀書は、此如き四聲をまたず。 ヲサムと云と、ヲサマルと云と、言の活用のうへにておのづからよく分れて、右の平齊修正等、又其餘の諸の字みな此の活用にて其義分れて、相混ずることなきをや。

人皆漢國の四聲は、古今に(わた)りて變易なく、又諸州同一にして轉訛なく、甚儼然たることと思ふめれども、大に然らざること也。 先づ郷土によりて四聲違ふことは、古へよりこれありて、今時とても五方異なることありて、同軌ならず。 此事は書どもに見えて、人もよく知れり。 又古今の轉變もなきに非ず。 是れは書どもにもいはず。 人の知らざることなり。 今の唐音の四聲は古へに違ひて、亂れ訛れる者にして、却て皇國に古へより心得來れるところ、是れ四聲の正しき者也。 漢國の四聲も古へ正しきは、皇國に心得たるところと同じくぞありけむ。 其故は皇國には、昇らず降らず平らかなる聲を平とし、昇る聲を上とし、降る聲を去として、其聲各其名の如くにして、律に叶ひ、絲竹等の物音(もののね)の低昂によく合へばなり。 然るに今の唐音は、去聲のみたまたま訛らず、平上はたがひに訛りて、平聲とする者は昇る聲なれば、實は上聲、上聲とする者は、平らかなる聲なれば、實は平聲にして、皆其名に互ひ、物の()の低昂に合はず、訛舛なること明らけし。 抑いかなれば此如くには訛れるぞと云に、天の字の如き、古へは平聲に呼しが、いつとなく訛り來て、今は上聲に呼ぶを、古へより平聲の字なる故に、今呼ぶところを平聲と心得て、其實は上聲に變じたることをさとらざる也。 凡てかやうの訛りは、皆自然のことなる故に、諸の平聲の字、おしなべて皆上聲になれるなり。 上聲の訛りて平聲になれるも亦同じ。 是れ譬へば西の方へ向ひて(こぎ)出たる船の、漸く行くままにいつとなく曲轉りて、後には南の方をさして行くを、(のり)たる人は始めのままに舳前(へさき)の方をば西とのみ心得て、今は南になれることを覺えざるが如し。 今の唐音の平聲と上聲とは、此の西南の如く違ひて、其名に合はざれども、もとより四聲の差別は、甚分明なる物には非れば、平聲ぞと思へば、平らかなる如くに聞え、上聲ぞと思へば、上る如くに(きき)なされて、其違へるに心もつかざるなるべし。 されど物の()の低昂に合せて呼び(こころ)むれば、其違ひ分明なる者なり。 さて此方にて心得たる四聲の、返て正しきことは、其理あり。 いかにと云に、此方にて四聲を云ふは、自然の音に其定まりあるには非ず。 漢國にならひて云ことなれば、ただその聲の形状につきて平らかなるを平、昇るを上、降るを去と心得たる故に、其實を失はざる也。 譬へば彼の船の舳前(へさき)の方を西とは定めずして、西は日の()る方、南は午時に日の在る方と心得るが如し。 然るを漢國にては、舳前の方を西と定めたる如くにて、凡て某の字は某の聲と皆古へより定まれる故に、其定まりに(ゆだ)ねて、其實をば尋ねざるによりて、いつとなく違ひ訛れるものなり。 これらの義をよくも考へずして、みだりに此方の心得たるところをば訛りとし、ひたすらに今の唐音の四聲を信じて、正しとするはいかにぞや。

此方の字音はただ入聲のみ別ありて、餘の三聲に定まれる(わかち)なし。 是れ混亂して然るには非ず。 大に所以(ゆゑ)あること也。 先づ皇國の言語の法、連用の便に隨て、同言も三聲 平上去 轉變することにて、其轉變に依て義の種々に分るることあり。 日は平聲、樋は上聲、火は去聲なるを、日影と云ときの日は上聲、掛樋と云ときの樋は去聲、火箸と云ときの火は上聲となり。山は平聲なるを、山風山松などと云ときは去聲となり、東山西山など云ときは上聲になり、宇治は去聲なるを、宇治川といへば上聲、宇治橋といへば平聲になる如く、何れの言も皆其齊轉ずるを、若し本音のままに呼ぶときは、其義異也、かの山風山松の如き、山を本音のままに平聲に呼べば、山と風と二つのことになり、山と松と二つのことになるを、轉じて去聲に呼ぶによりて、山の風山の松のことなるが如し。 さて又山はヤとマとの二音、川はカとハの二音にて、是を一音づつ分て各四聲を云ときは、ヤは上聲マは平聲、カは上聲ハは平聲也。 然れども又ヤマもカハも連なりたる言のうへに平上去ありて、山も川も平聲也。 (ひむかし)(みなみ)など三音四音連なりたる言も、皆同じこと也。然るをその連なりたる音を、一々分て平上去を定めむとするときは、まぎらはしくして分明ならず。 是れ一言の内の音は、親しくつづきたるが故也。 さればこれを連ねて、一言のうへにて定むるときは、三聲分明なり。 是の故に字音を讀むにも、おのづから此の格の如く、連用の便に隨て其聲轉ぜざることを得ず。 若し此格によらずして、漢國の如く諸字の四聲を定めおきて讀むときは、却て其音正しからず聞ゆること也。 凡そ字音にして節奏あるもの、郢曲朗詠のたぐひ及び佛家の聲明陀羅尼など、皆漢國の四聲をば守らずして、此方の音便の四聲に依るといへども、よく管弦に和して聲律たがふことなし。 (そのうへ)字音は此方にては自然の音に非る故に、諸字の四聲を悉くそらに辨へ識ることあたはず。 常に詩を作りなれたる者は僅に平と仄とを辨へ知る。 されどそれも詩に常に用る字のみこそあれ、やや遠き字はわきまへ知ることあたはず。 又たとひよく辨へ知るといへども、書は皆訓を以て讀めば、四聲は無用のいたづらごと也。 音讀にする所も四聲を分たざれども、義理を解するに妨なし。 それもただ此方の言語の如く、連用轉變の格に隨ひて讀むによりて、却て義理のこまかに分るること多し。 例をいはば、數の一十の如き、ただ十のことに一十と云には、一を上聲に呼び、一と十と二つを云には、一を平聲に呼ぶ。 百萬の如き、萬を百合せたるを云には百を上聲に呼び、百と萬と二つを云には、百を平聲に呼ぶ。 此如き類いと多し。 餘は准へてさとるべし。 漢國の如くにては此の差別をなすことあたはず。 されば皇國の音は四聲の定まらずして、轉變する所に妙用ありて、字音も亦これに隨ふもの也。 然るにこれらの子細を深くも考へずして、ひたすらに四聲混亂せる如くに思ひ(いふ)は、例のみだりなること也。

皇國の自然の音には、平上去の三聲ありて、入聲は無し。 短く呼べども韻を急促(つま)らざる故也。 字音の入聲といへども、漢國のとは異にして、是亦實は平上去の三聲也。 國の字の如き、上國と云ときは平聲、他國と云ときは上聲、異國と云ときは去聲なり。 餘の字もこれに准へて知るべし。 漢國の格を以て云ときは、皇國の五十音は皆入聲に似たれども、入聲は急促(つま)るを、皇國の音は急促(つま)ることなく舒緩(ゆるやか)なれば、同じからざるもの也。 古書の假字に、入聲字を用ゐたることをさをさなし。 いとまれにこれあるは、其所以あるところ也。 然るに近世儒者などの、皇國言を漢字に譯するに、皆入聲字を用るは大に非也。 彼國にて譯せるも、古への書には入聲字を用ゐたるはいとすくなきを、後世には凡て他國の言を譯するに、多く入聲字を用る。 それをよきことに思ひてならへるもの也。 凡て入聲は急促(つまり)て甚不正の音なるに、皇國の正雅の音をそれに混同して、ことさらに不正の音となすこと、甚(いは)れなし。

音釋呼法の事

漢國にて字音を(さと)し示すに反切を以てす。 是れ二字の音を連接して其音を得る法也。 然れども此法麁闊にして、なほ(さと)り得がたき故に、助紐とて其切字 反切の上の字をいふ。 の下に別に字音を二つ連ね呼て、其の口拍子にて歸納の音を知る。 いはゆる唐人反し是なり。 此法も亦甚迂遠にして、たしかならず浮たることにて、畢竟準的なければ、口拍子一たび違ふときは、其音忽ち誤ること也。 然るに此方にては、假字と云ふ物ある故に、諸の字音を()ること甚簡易にして、しかもいかほどむつかしき音も、詳に分ること、反切の法などの及ぶところに非ず。 且又一たび假字を施しおくときは、且音幾千年を()といへども(たが)ひ訛ることなし。 たとへば皇國の言に、古へはノボラム・タグラム・ユカム・コムと云るを、訛りて今はノボロオ・クダロオ・ユコオ・コオと云ふ。 然れどもかの古への言も、皆假字(がき)にのこりてある故に、今の言の訛りはよく知らるるを、漢國には假字なき故に、古の音と今の音との同異を(こころ)み知べき由なし。 かの昇降往來の如き、今はシン・キヤン・ワン・ライと呼べども、此音古へのままなりや訛れりや、何を以てこれを徴せむ。 反切韻圖などありといへども、其字の音も亦共に皆古今の同異知べからざれば、何の益かあらむ。 さて又彼の反切の法を以て字音を考ふるも、此方にては五十連音の圖に依て、假字反しにするときは、甚(こまか)に分れて、是亦いかほどむつかしき音といへども、毫釐も舛ひ誤れることなし。 此如くして四聲清濁等は其反切の字によりて定むべし。 されば此方の假字反しの正しく詳なるを以て(くら)ぶれば、かの助紐の法などは腹を抱て笑ふべきこと也。 然れども彼國には假字の如き物なければ、此方の如くなる簡明の法を立つべき由なく、音の形状を精しくさとすべき術なきが故に、やむことをえず、反切助紐の如き迂闊なる浮たる法を以て、わづかに是を(さと)せる也。 然るに世の學者、漢國の法に拘泥して、此方の假字附け假字反しの正しく詳なることをえさとらざるは、(めでた)き珠玉を抱きながら、人の持たる尾石をうらやむが如くにて、いといと愚昧なることなりかし。 或人假字反はただ此方の言には用うべし。 字音にこれを用るときは大にたがふ也と云るは、甚非なり。 これ其實をもよく察せずして、例のみだりに云るか、又は方戎の反風の如きを思ひて云るか、そのことは字音假字づかひに云り 凡て近世學者のくせとして、わろくても漢國のことをよしとし、よくても此方のことをばわろしと云は、例のこと也。 さて假字にては四聲などは分れざれども、上に云る如く此方の讀者には、漢國の四聲は用なくれば分たずといへども可也。 又反切の法を用うといへども、此方の人は其反切の字の四聲も多くは知らざれば、假字と異なることなし。 凡て漢國の音は、渾成したるものにて、單直ならざる故に、心も(かた)く身も(おも)き人を驅使ふが如くにて、是を用るに意に任せぬこと多くして、自國の音を釋するにも、不便利なること上件の如く、又他國の音を釋するにも、甚不便にして、昔梵音を釋せるにも、正しく當る字なくて、種々の註を加へてわづかに其音を喩したれども、なほ髣髴たることのみ多かりしぞかし。 然るに皇國の音は純直にして溷雜迂曲せざる故に、假字を用るは、いと便利にして、心も聰敏(さと)く身も輕捷(かろ)き人を驅使ふが如くにて、意の如くにはたらけば、他國の音なども甚詳に譯せらるること也。 抑他國の音まねぶに、其眞は得がたきこと、上に云るが如しとへども、譯すべきかぎりよく譯し得て、これを喩し示す法、假字に(まさ)れる者なきをや。

漢國の字音に、開口合口輕重清濁撮口齊齒など云て、種々の呼法ありて、其説も一準ならずまちまち也。 是れ其音清朗單直ならず、渾濁駢拗なる故に、訛りやすく(たが)ひやすきに、此方の假字の如き者なければ、さだかにこれを喩し示すべき由なきが故なり。 件の呼法どもも、多くは假字にてはおのづから分るること也。 開口合口の差別は、字音假字づかひに委く辨ぜるが如くにて、(もとより)假字にて分るることにて、さのみむつかしきことに非ず。 開と合とは音に在て韻にはよらず。 音韻をあはせて開合を云は非なり。 次に輕重には古來種々あれども、近世殊に唇音にかぎりていふ輕重あり。 そは唇を合はさずして呼ぶ音を輕とす。ハの行の清音と、ワの行の音と是也。 今の唐音には唇音にもワの行あるなり。 唇を合せて呼ぶ音を重とす。 ハの行の半濁音と、全濁音と、マの行の音と是なり。 然ればこれ輕重も假字にて分る。 半濁聲には、假字の右肩に一小圈を點して識とす。 次に清濁は、漢國の音には清・次清・濁・清濁と四つの差別あり。 皇國の聲音は清と濁を二つにして、清音も連用の便によりて濁ることあり。 故に字音も其格に隨て、連用の濁あり。 此例漢國にはなきこと也。 さて此方には、清と濁と二つの外なき故に、彼の四つの(たがひ)は假字にては分りがたし。 但し此の差は今唐人の口に呼ぶところも分曉ならず。 清音と濁音とすら、同じきやうに聞ゆる者もあれば、まして四つの差はただ韻書に定めたるのみにこそあれ實は分り難きこと也。 故に諸書異説あるもあるぞかし。 又撮口齊齒など云類もさる呼法はあれども、實に呼ぶところの音はさだかに分りがたし。 これらも大抵は假字にて分るることも多し。 其中にかの呼法よりは、假字にて(こまか)に分るるもあり。 姑く齒音にていはば、チエン・チヨン・チユンの如き、假字にてはかく三つに分るるを、彼國にては、何れも撮口呼と云て、此三つの異を分て示すことあたはず。 凡て彼國の音釋呼法は精密なるやうに聞ゆれども、そは其音をさだかに示すべき法のなき故に、いろいろと云るにこそあれ、實は麁闊なることなるを、此方の假字は、疎なるに似て甚精しきもの也。 唐人に皇國の五十音を教へ、假字を教へて、假字附け假字反しを傳へて、よく心得させたらむには、彼國の音韻の學に大に益あるべし。 然るに世の學者其實を察せずして、何事も(みだり)に漢國を(たふと)(くせ)にて、ただ唐音のの呼法を甚精微なることと信じて、まぢかき假字に妙用ありて、彼國の法より(はるか)(まさ)まされることをえさとらざるはいかにぞや。 抑假字は書き誤り(やす)く、又心にまかせて改めも添へも削りもすれば、はかなく浮たる物にて、(よりどころ)としがたしと思ふめれども、それは人皆假字をばあなどりて輕々(かろがろ)しく(みだり)にする故也。 若し緊要の物なることを知て、是を(おも)(おごそか)にせば、何ぞはかなく浮たることあらむ。 漢字の音釋といへども、輕忽にせば、是亦書き誤りなども多くありて、據としがたからむは同じことなるべきをや。

附録

音便の事

皇國の古言は五十の正音を出ず、其餘は皆溷雜不正の音なる故に一つも(まじ)ふることなかりき。 然るに中古以來雅言といへども、雜音の(まじ)れることあるは、漸く久しく漢字音に馴ては、おのづから其外國の音正しからずいやしきことをおぼえず、後世に至ては、却て字音の語を雅也と心得て、ケフ・アスと云よりは、コンニチ・ミヤウニチと云をよしとし、ニシ・ヒムカシと云よりは、トウ・ザイと云をよしとすることになりて、年々月々に字音の語を用ること多くなりゆくめり。 抑古へは字音をばいやしめて、讀書といへども訓によまるる限りは訓讀にし、又字音の物の名なども、常の言にはなだらめて、(さい)をサエ、芭蕉をハセヲ、襖をアヲ、篳篥をヒチリキ、雙六をスゴロク、博士をハカセ、消息をセウソコ、朱雀をスサカなどやうに、皇國言に近く轉じて呼たりき。 然るに中昔より、漸くに字音のいやしきことをおぼえずなりては、是を嫌はざるのみならず、皇國言にさへ音便と云もの出來て字音の如く云ひなすこと多し。 連聲の便に隨ひて、清音の濁音になり、或は平上去の三聲たがひに轉ずるなどは、上古よりこれあり。 今(ここ)に云音便はこれらに異なり。 是れもと字音を呼び馴たるより移れる者にして、皆正音に非ず。 外國侏離不正の音にして、甚鄙俚なる者多し。 其音便種々あり。 左に出すが如し。

イと云音便。 キをイと云は、朔日(つきたち) 月立の意なり。 をツイタチ、前比(さきつころ)をサイツコロ、(さきはひ)をサイハヒ、(きさき)をキサイ、三枝(さきぐさ)をサイグサ、置賜(おきたみ)をオイタミ、秋田(あきた)をアイタ、當麻(たぎま)をタイマ、築土(つきひぢ)をツイヒヂ、透垣(すきがき)をスイガイ、髮掻(かみかき)をカウガイ、衝重(つきがさね)をツイガサネ、吹革(ふきがは)をフイガウ。 又カ・キ・ク・ケと(はたら)くキ、ヨキ・アシキなどの類をヨイ・アシイなと云こと、やや古くよりあることにて、今時の言は皆然也。 又中下なるヒは、口語には皆イと云。 これはヒのみならずハ・ヒ・フ・ヘ・ホは、中下にあるをば皆ワ・ヰ・ウ・ヱ・ヲと云り。 ハをワと云例によらば、是はヰとすべけれども、姑くイの條に出せり。 漢籍讀(からぶみよみ)に、(おほ)きにをオホイニ、(ゆき)てをユイテ、(おきて)をオイテと云類多く、 中古の物語書などにも此例あり。 又字音のシを長く引て、四時をシイシ、詩歌をシイカ、飮食をインシイなと云。 家司をケイシと云も此例也。 是はケを引たるものなれば、口語にはケエシと云を、ケイの字音の格にならひて、假字にはケイシと書く也。

ウと云音便。 ウを添へて云は、(まけ)をマウケ、(たぶ)をタウブ、(きよ)らをキヨウラ、八日(やか)をヤウカ、(よさり)をヨウサリ、(はむり)をハウムリ、佐官(さくわん)をサウクワン、 これらは皆口語には、マウケはモオケ、タウブはトオブとやうに呼り。 是又かの字音のウの韻を多く音便にてオと呼ぶと同じ格也。 漢籍(からぶみ)よみは、然而(しかして)をシカウシテと云ひ、字音には、女官(によくわん)をニヨウクワン、女房(によばう)をニヨウバウ、()婦をフウフ、牡丹をボウタン。

マをウと云は、(たまはり)をタウバリ、御座(おはします)をオハサウズ、(のたまふ)をノタウブ。 漢籍(からぶみ)よみにはノタマハクをノタウマクといへり。

ミをウと云は、上野(かみつけ)をカウヅケ、小路(こみち)をコウヂ、手水(てみづ)をテウヅ、髮掻(かみかき)をカウガイ、疊紙(たたみがみ)をタタウガミ。

ハをウと云は、伯耆(ははき)(ははき)をハウキ、吹革(ふきかは)をフイガウ、革堂(かはだう)をカウダウ。

ヒをウと云は、眞人(まひと)をマウト、(おひと)をオウト、 此外にも某人(なにひと)と云人をウトと云類多し。 韓櫃(からひつ)をカラウト、折櫃(をりびつ)をヲリウヅ。 又中下なるフは口語には皆ウと云。

ヘをウと云は(まへつぎみ) 前つ君の意也。 をマウチギミ、仕奉(つかへまつる)をツカウマツル。

ホをウと云は、直會(なほらひ)をナウラヒ、直衣(なほし)をナウシ。 以上ハ・ヒ・フ・ヘ・ホをウと云者を、ハの行の通音と心得て、多くフと書くは誤也。 通音には非ず。 和名抄にこれかれ出たるみな()と書けり。 音便なれば也。

クをウと云は、藁舄(わらだつ)をワラウヅ、下舄(しただつ)をシタウヅ、又カ・キ・ク・ケと(はたら)くク、ヨク・アシクなどの類をヨウ・アシウなど云こと多し。 今時の言は凡て然也。 但し東國人は今も多くクと云なり。 (かくし)をカウシ、册子(さくし)をサウシ、 俗草紙雙紙などと云り。 拍子(ひやくし)をヒヤウシ、冒額(もうがく)をモカウ、(ぞく)をゾウと云類も音便か。 法師をホウシと云も同じ。 但し此類は、入聲の韻をなだらめてウと云るにて、音便の例には非ることもあるべし。 取出(とりいで)をトウデと云るは、リをウと云る也。 これは此の伊勢の國などの鄙言に、取出(とりだ)すをトンダスと云と同類の音便なり。 ハ・ヒ・フ・ヘと活くヒをウと云こともあり。 歌物語などに(たま)ひけりをタマウケリ、漢籍讀(からぶみよみ)言而(いひて)をイウテ、思而(おもひて)をオモウテ、問而(とひて)をトウテ、從而(したがひて)をシタガウテと云類多し。 俗言も同じ。 これらは音便なれば皆ウと書べし。 さいばら古本に醉而を惠宇天(ゑうて)とかけるを以て證とすべし。 然るをハの行の通音と心得てフと書くは非也。 音便にフと云例なし。 音便のウの、本語の如く聞ゆる者あり。 凡て古言には中下にウの音あるものはをさをさ見えず奈良の御世の末つ方よりこれかれあり。 されどそのもと、(かうべ)はカミベ、(まうす)はマヲス、(まうで)はマヰデ、(やうやう)はヤヤ、 ヤウヤクと云は後のことか。 (たうめ)はタクメ、(かうぶり)はカウブリ、(しうと)(をうと)(おとうと)(いもうと)などのウトはヒトにて、右いづれもウは正言に非ず、音便なり。

凡て中下なるハ・ヒ・フ・ヘ・ホをば、口語にはワ・ヰ・ウ・ヱ・ヲと呼ぶ例なる、 假字には本音のままに書なり。 其中にウをば、書を讀み歌詞を誦しなどするには、又再び音便にて、ヲと呼ぶこと多し。 (あふ)(おふ)はアウ・オウと呼ぶべきなるを、共にオヲと呼び、(うたふ)をウトヲ、(まふ)をモヲと呼べり。 凡てアフ・カフ・サフ・タフ・ナフ・ハフ・マフ・ラフ、又オフ・コフ・ソフ・トフ・ノフ・ホフ・モフ・ヨフ・ロフ、又テフ・ヱフと云類の言をば、皆オヲ・コヲ・ソヲ・トヲ・ノヲ・ホヲ・モヲ・ヨヲ・ロヲ・チヨヲと呼びて、ウと呼ぶ者はただ第二の音 イ・キ・シ・チ・ニ・ヒ・ミ・リ・ヰ 第三の音 ウ・ク・ス・ツ・ヌ・フ・ム・ユ・ル よりつづく言のみ也。 第二の音なるは(いう)の類、第三の音なるは(くう)の類也。 但し是も第二の音よりつづくは、イウはユウとやうに呼べり。 これら凡てウの韻の字音を呼ぶ音便と全く同じ格なり。 抑これらも古へは皆本音のままにぞ呼びたりけむ。 そは何を以て知るぞと云に、今俗の平話には、却て此の再びの音便は無くして、(あふ)をばアウ、(おふ)をばオウ、(うたふ)をばウタウ、(まふ)をばマウとやうに呼て、ウをヲと呼ぶことはなし。 故に合をも負と混じて、共にオヲと呼て、上の音まで轉ずることもなく、上をも本音のままにさだかに呼べり。 若し上古よりオヲ(合負)ウトヲ()モヲ()とやうに呼てあらましかば、後世はいよいよ然呼ぶべきに、今の平話は却て然らざるを以て、古へを推量るべし。 音便に呼し言の、後に正しきに(かへ)れる例はなければ也。 右の類ハ・ヒ・フ・ヘ・ホをワ・ヰ・ウ・ヱ・ヲと呼ぶ音便は、今も同じことなれども、これも上古は本音のままに呼しなるべし。 然るを却て人皆アウ()オフ()ウタウ()マウ()とやうに呼ぶをば俗言と心得、オヲ(合負)ウトヲ()モヲ()とやうに呼ぶを雅言と思ふは、中古以來書讀(ふみよみ)の音便に馴たる故なり。

ンと云音便。 ンを添へて云は、眞字(まな)をマンナ、南をミンナミ、 これは假字(かりな)をカンナと云ひ、(ひむかし)をヒンガシと云にならひて添へたる也。 (ぬきで)をヌキンデ、()しをスンシ、ナドと云辭をナンドと云類、物語文をよむに多く、さいばらにも、美濃山に(しじ)(おひ)たるをシンジニ(オヒ)タル、我家(わいへ)をワイヘンとうたへる類あり。 古本には之々爾(しじに)と書き、和伊戸(わいへ)と書り。 猿樂の謠などにも多し。 (すて)てけりをステンゲリとうたふたぐひなり。 漢籍讀(からぶみよみ)には、(かがみ)をカンガミ、(よみす)をヨミンズ、(にくみす)をニクミンズ、不者(ずば)をズンバ、トキハをトキンハと云類多く、俗言には、備後(びご)をビンゴ、豐後(ぶご)をブンゴ、 豐原姓を()とのみ音にて云にブンと云も此例なり。 假庪(さじき) 本はサズキなり。 サンジキ、 棧敷とかくは甚俗なり。 役小角(えのをつぬ)をエンノ行者。 又(ちから)を入れて云ことに、眞中(まなか)をマンナカ、眞圓(ままろ)をマンマル、(ただ)をタンダ、(いま)をインマ、手々(てで)にをテンデニと云類いと多し。

ミをンと云は、(おみ)をオン、朝臣(あそみ)をアソン、忌部(いみべ)をインベ、公等(きみたち)をキンダチ、公卿(かみたちべ)をカンダチベ、大御(おほみ)をオホン、(いみこと)をインコト、(ふみで)をフンデ、(かみさし)をカンザシ、弓手(ゆみて)をユンデ。 漢籍讀(からぶみよみ)には(なみだ)をナンダ、(したしみ)すをシタシンズ、(うとに)すをウトンズ、(いやしみ)すをイヤシンズ、(おもみ)すをオモンズ、(かろみ)すをカロンズ、 (した)しくするをシタシミス、(うと)くするをウトミスと云類は古言の格也。 此例萬葉集の歌に多し。 されば後世の漢籍よみは、古言の(のこ)りたるが、音便にくづれたるものなり。 (よみ)てをヨンデ、(すみ)てをスンデ、(とみ)てをトンデ、(つみ)てをツンデと云類、俗言も皆然り。

ムをンと云は、神某(かむなに) 神風(かむかぜ)かんぬし(かむぬし)神集(かむつどひ)の類。 カン(ナニ)(なむぢ)をナンヂ、(ひむかし)をヒンガシ、譽田(ほむだ)をホンダ、茨田(まむた)をマンダの類、古へは皆ムをさだかに呼しを、後に訛りてンになれる也。 又ユカム・カヘラムの類を、ユカン・カヘランなどと云ひ、ケム・ラム・ナム・テムなどをも、ケン・ラン・ナン・テンと云、凡て此類辭のンも古へは皆サダカにムと呼しなるべし。 其故は、上にコソと云辭あれば、ン轉じてメとなる、是れムと通音なる故也。 ンにては通音に非ず其外も萬葉集に、稻見(いなみの)川を將行乃川(いなみのかは)、御室山を將見圓山(みむろやま)などとも書き、()(きか)むなどを、ミモ・キカモとよみて、後に和泉式部が歌にすら、()せむ(きか)せむを、ミセモ、キカセモとよみたり。 これらもマ・ミ・ム・メ・モは通音なる故也。 若しンならむには、ミともモとも轉用すべき由なし。 或人云く、 古言にンの音なしとは云べからず。 今の世にンと呼ぶ音は古へもンと呼し也。 然るに古書にはそれをも皆ムと書るは、そのかみンの音に書くべき假字のなかりし故也 と云は非也。 古言にンの音あらば、ムの假字の外に別の假字もあるべきに、古へは其假字さくして、皆()()等の假字を用ゐて、さだかにムと呼ぶ音と差別なかりしは、共にサダカにムと呼びし故也。 凡て古への假字の用ゐざまは、甚精嚴なりしことを、よく知れらむ人は疑ふべからず。

言の(はじめ)のムを、口語にンと云者あり。 假字にはムと書く。 (むまる)をンマル、(むもる)をンモル、(むまし)をンマシ、(むべ)をンベ、(むま)をンマ、(むめ)をンメ、(むばら)をンバラ、野干玉(むばたま)をンバタマと云これら也。 是れはムの下をマの行の音と、ハの行の濁音とにて(うけ)たる言にかぎれる音便也。 さて此のムは(もと)は皆ウなりしが、中古よりムになれる也。 (むまる)(むもる)野干玉(むばたま)などのムは今もウとも書く也。 されどそれも口語にはみなンと呼べり。 右の内に野干玉は、本はヌバタマなりしが、ウとなりムとなれる也。 さて件の言ども、今時も皆ウの如く呼ぶ國もあるを、方言とて京人は(わら)ふめれど、これ返て邊土に古への正言ののこれるなり。

モをンと云は、(ねもころ)をネンゴロ。

ニをンと云は、丹波(たには)を丹波、難波(なには)をナンバ、 さいばら古本に、名无波乃宇美(なむばのうみ)とあれば、是れもやや古きことにてはある也。 さてタン・ナンは丹難の字の音なれば、却てこれを正しと思ふ人もあるは、大なるひがこころえ也。 これは本タニハ・ナニハと云名に、後に音のそれに似たる字を借て書るのみなれば、字の本音には(なづ)むべきことに非ず。 中昔よりタンバ・ナンバと云は、字音に依れるにはあらず、音便にニをンと云なせるもの也。 凡て諸國郡郷等の名に、字音を用ゐたる者は、皆假字にただ似たりたる音を取れるのみなれば、其本音には(なづ)むべからざること也。 然るを儒者などただ其字になづみて、武藏安房信濃因幡播磨對馬などの類をも、本はみな本音の如くなりけむを、後に唱へ訛れるものと心得るは、地名の假字の例を知らず、本末を辨へ察せざるもの也。 これらをも古書には、身刺(むざし)(あは)科野(しなの)稻羽(いなば)針間(はりま)津嶋(つしま)などとも書るをば見ずや。 大贄(おほにへ) 大嘗ともかけり。 オホンベ、掃部(かにもり)をカンモリ、 今時カモンと云は殊に訛れる者也。 漢籍讀(からぶみよみ)には、(なに)ぞをナンゾ、如何(いかに)をイカン、(なり)にしをナリンシ、(とげ)にしをトゲンシ。

ヌをンと云は、絹垣(きぬかき)をキンカイ。

リをンと云は、假字(かりな)をカンナ、退出(まかりで)をマカンデ、衞所(まもりどころ)をマンドコロ、後取(しりとり)をシンドリ、(くだり)をクダン、漢籍讀には、(なり)ぬをナンヌ、(さり)ぬをサンヌ、(をは)りぬをヲハンヌ。

ルをンと云は、夜御殿(よるのおとど)をヨンノオトド、(ある)べしをアンベシ、(ある)めりをアンメリ。 又アルベカルメリと云べきを、ルを二つながら(はぶ)きて、アベカメリと書たるを、アンベカンメリと讀むたぐひも多し。

ハをンと云は、童部(わらはべ)を俗言にワランベと云。

ヒをンと云は、主水(もひとり)をモンドリ、 今時はリを略てモンドと云り。 築土(つきひぢ)をツインヂ、漢籍よみには、思看(おもひみる)をオミンミル、(おもひはかる)をオモンパカル、又(および)てをオヨンデ、(しのび)てをシノンデ、(ならび)てをナランデと云類多し。 俗語に同じ。

ホをンと云は、(ほとほと)をホトンド。

右の外にも中下にンと云ふ言なほあり。 みな音便なるべけれど、其本語傳はらずして、考へ知がたき者は(はぶ)きつ。 抑ンは鼻聲にして不正なる故に、古へは字音すら、蘭をラニ、紫苑をシヲニ、牽牛子をケニゴシ、木欒子をムクレニジ、錢をゼニ、燈心をトウシミ、正身をサウジミ、汗衫をカザミ、薫衣香をクヌエカウ、近衞をコノヱ、紫宸殿をシシイデン、冷泉をレイゼイ、面目をメイボクと云ひ、或はこれを省きて、文字をモジ、反故をホグ、巾子をコジ、冠者をクワザ、本意をホイ、對面をタイメ、案内をアナイ、精進をサウジ、念佛をネブツなどと呼び、古き物には、延喜をエギ、喜撰をキセ、右近をウコなどと書ることもあるを、後に至ては却りてンと云ふ聲雅なるが如くになりて、漸に此音便の言多くなりて、ことさらに添へてさへ呼ぶこととなれり。

片假字の「ン」も平假名の「ん」も、後世に出來たる字にて、中昔まではこれらの假字はなかりし故に、 顯昭も、末はねたる假字の文字なしと云りき。 或人、「ん」の字は毛の草書のくづれたる也といへり。 蜻蛉日記に必モとあるべき所を「ん」と書けること多きなどを思へば、さることにてもあるべし。 又吾黨の人の考へに、片假字の「ニ」の末をはねて「ン」の字を作り、平假字の「に」の末をはねて「ん」の字を作れる也と云り。 これも面白し。 口語に音便にてンと呼ぶ言出來て後にも、ムむの字を借りて書しがならひとなりて、後世つひに「ム」「む」と「ン」「ん」とを混じて分たず、通はし書て、中下なるをば凡て「ン」「ん」と書くから、中ごろまではムと讀し言も、皆ンと讀むことにはなれる也。

ウともンとも二やうに云音便。 神某をカウ(ナニ)ともカン(ナニ)とも云。 神の本語はカミ又カムとも云。 巫をカウナギともカンナギとも云。 本語はカムナギなり。 嫗をオウナともオンナとも云。 本語はオムナ也。 女をヲウナともヲンナとも云。 本語はヲミナ也。 大神をオホウワともオホンワとも云。 本語は大三輪の義にてオホミワ也。 後世此の大神をオホガと唱へるは、オホウワなど云を、オホガミの意と心得誤りたるより出たるひがことなるべし。 諸の(つかさ)長官(かみ)をカウともカンとも云。 カウと云は小督(こがう)頭殿(かうのとの)など是也。 カンと云は(かん)の君などある是なり。 笋をタカウナともタカントとも云。 本語は竹芽菜(たかめな)の義にてタカメナなり。 商人をアキウドともアキンドとも云。 本語はアキビト也。 此外にも某人(なにびと)と云に此音便これかれとあり。 仕奉(つかへまつる)をツカウマツルともツカンマツルとも云。 此のウをフと書くはわろし。 冠をカウブリともカンブリとも云。 本語はカガフリなり。 考をカウガヘともカンガヘとも云。 本語未詳。 上件の言ども、ウもンも共に音便なり。 其中に本語ムなる者は、もとよりンと呼んことと心得めれども然らず。 ムは古へはさだかにムと呼つるを、後に音便にてンとはなれる也。 これを今改め正して、さだかにムとよむときは、却て(こと)やうに聞ゆるは、音便によみなれたる(くせ)なり。 後世はムとンと混じて、古言のムをも、中下なるは皆ンと讀て、ムとンとはただ同じきが如くなれり。

ユカム・カヘラムの類のムも、古へは皆さだかにムと呼びけむを、 此事上に云り。 後に音便にてンともウとも云。 ユカン・カヘラン、ユカウ・カヘラウの如し。 此二つの中に、ユカン・カヘランの類は雅言ユカウ・カヘラウの類は俗言のやうなれども二つ共に後の音便なれば、必しもンを雅ともウを俗とも定むべきに非ず。 音に(つき)ていはば、返てウは雅、ンは俗とすべし。 上に出せる、ウともンとも二やうに云ふ言どもの例も、多くはウは雅に近く、ンは俗に近きぞかし。 さて此のユカウ・カヘラウの類のウを、口語には又再び音便にてヲと云。 ユコヲ、カヘロヲの如し。 是は上に云るハ・ヒ・フ・ヘ・ホをワ・ヰ・ウ・エ・ヲと云音便の中のウを、又音便にヲと云、其格と全く同じ。 さて鄙言には又つひに其のヲを略きて、ユコヲをユコ、カヘロヲをカヘロとやうに云なり。

急促(つま)る音(またく)をマッタク、(もとも)をモットモ、(うたへ)をウッタヘ、(あはれ)をアッパレ、備中(びちゆう)をビッチユウ、服部(はとり)をハットリ。

ウを急促(つめ)て云は、佐官(さうくわん)をサックワン、眞人(まうと)をマット、(をうと)をヲット。 又(いう)てをイッテ、追而(おうて)をオッテ、(したがう)てをシタガッテと云類多し。 これらは皆ウも音便なるを、又再急促(つめ)て云也。

フを急促(つめ)て云は、(たふとし)をタットシ、新田(にふた) 本はニヒタ也。 ニッタ。

チを急促(つめ)て云は、(もちて)をモッテ、(たちて)をタッテ、(わかち)てをワカッテと云類多し。

ツを急促(つめ)て云は、(やつこ)をヤッコ。

リを急促(つめ)て云は、(ほりす)をホッス、(のりとる)をノットル。 又(かへり)てをカヘッテ、(より)てをヨッテ、(なりて)をナッテと云類多し。

凡て急促(つめ)る聲は、殊にいやしき故に、古言はさらにもいはず、中古までも雅言には是あることなし。 故に今とても歌書などを讀むには、これをまじふることなし。 此音便はただ漢籍(からぶみ)よみと、俗語とにのみ多くして、俗語には(ちから)を入れて云ふ言には、眞白(ましろ)をマッシロ、眞更(まさら)をマッサラ、(ただ)をタッタ、(いつも)をイッツモと云類もつねに多し。

音便のウ・ンの下は、凡て清音も濁らるるは皆濁る例なるに、此の急促(つま)る聲の下は濁る例なく、濁音の上は急促(つま)る例なし。 急促(つま)る聲の下、ハの行の音なれば必半濁になる也。

ハ・ヒ・フ・ヘ・ホの半濁の音便。 是れ字音に多し。 烟波結髮などのパ、彬々橘皮などのピ、南風匹夫などのプ、雪片岸壁などのペ、一方反哺などのポ類也。 字音ならぬは、漢籍讀(からぶみよみ)に慮をオモンパカル、專をモッパラ、何人をナンピト、トイフハをトイッパ。 又軍書などに、弓をよく引てと云ことを、ヨッピイテ、追入(おひはめ)をボッパメなど云類。 又俗言にアッパレ、ヤッパリ、マッピラ、タップリ、スッペリ、コッポリなどの類、 皆(ちから)を入れて(つよ)めたる語也。

凡て此音便も殊にいやしき故に、雅言にはこれあることなくして、今の世とても歌書などをよむには、是をまじふることなく、ただ漢籍(からぶみ)よみと俗言とにのみ多し。 此のハの行の半濁は、あるが中にいやしき音にて、皇國には今時の俗語といへども、ただ連聲の便にのみこそあれ、言にも字音にも、(はじめ)にこれあることなきを、漢國などはもとより此音なるもの多きは、其不正鄙俚なること云もさらなり。 凡て此音便は、急促(つま)る聲の下と、字音のンの下とに(かぎ)れり。 字音のンの下のハの行は、或は濁り或は半濁に呼也。 皇國の言のンの下のハ行の音は濁れるなり。 半濁に呼ぶ例はをさをさおぼえず。 何人(なんぴと)など云はたまさかのことなり。

字音連用に、ア・ヤ・ワの行の音は、ンの下と急促(つま)る韻の下とにあるときは、他の音に變ずる例多し。 ンにあればナの行の音となる。 先王はセンナウ、陰陽はインニヤウ、雲雨はウンヌ、因縁をインネン、安穩をアンノンと呼ぶ類是也。 此外三位をサンミ、陰陽をオンミヤウと呼ぶなどは(まれ)なる例也。 經營をケイメイと云は、ンの下ならねども此例也。 然るに此ケイメイを、敬命とするはあたらぬこと也。 急促(つま)る韻の下にあればタの行の音となる。 越王をヱッタウ、八音をハッチン、悉有をシッツ、闕腋をケッテキ、舌音をゼットンと呼ぶ類是なり。 さて又漢籍よみには、ヲ・ハ等の字をも此音便にて呼ぶことあり。 天を仰ぐを天ノ仰グ、仁は人なりを仁ナ人ナリとよみ、一を以てを一ット以テ、實はを實タとよむ類是なり。 ハには此音便の例はなきことなれども、口語にワと呼ぶゆゑに、ア・ヤ・ワの行の音の格になれるなり。

上件音便、イとウとンと急促(つま)る聲とハの行の半濁音と凡て五つにして、此外はあることなし。 字音の連用にア・ヤ・ワの行の音の他音になるも、皆上のンの韻急促る韻に(ひか)れて然るもの也。 然るに漢字音の韻も又イとウとンと急促(つま)る聲と四つにして、ハの行の半濁音も韻には非れども、これ亦漢國の音に多ければ、凡て五つにして、音便の五種全く是と同じ。 諸の音便皆漢字音を呼び馴れたるよりうつれるもの也と云こと、これを以て決すべし。 されば古言にはこれあることなけれども、奈良の御代の末つ方などよりやありのめけむ。 上に引る(かうべ)(まうす)などの類はやや(ふる)く聞えたり。 さて上件五つの中にイとウとは、言の中下に置くときこそ不正に(わた)れ、其音は五十の正音の外ならざる故に、同じき音便の中に此二つはやや正しければにや、(ふる)く聞ゆ。 さいばらの古本にも、花の(さき)たるを左伊多留(さいたる)といひ、左介乎太戸天太戸惠(さけをたうべてたべゑうて)、また狛人(こまびと)己末宇止(こまうど)などあり。 和名抄にも人をウドと云類などは往々に見えたり。次にウは、本より不正の聲なる故に此音便は(ふる)くは見えず。 さいばら古本に、難波(なには)の海を名无波乃宇美(なむはのうみ)()さま(かく)さまを止散加宇散(とさむかうさむ)(はみ)てを波无天(はむて)とある類のムは、さだかにムと呼て、ンとは呼ざりけむ。 字音すら判官をハウグワン、柑子をカウジ、林檎をリウゴウと云る類あれば、まして皇國言には、ンの音をば用ゐざりけむことおしはかるべし。 然るに中古の物語書などに至ては、此音便もいと多し。 (こん)しをコウジと云ること思へば、却て又(ふう)じをフンジと云る類もあれば、そのかみ既にウとンと二つの音便同じほどのことにぞありけむ。 次に急促(つま)る聲とパの行の半濁音とは、殊に不正鄙俚なる故に、中古まではさらにもいはず今時とても歌物語などを讀むにはをさをさこれをまじふることなし。 字音すら入聲連用の急促る韻をば、多くは(はぶ)きて、日記をニキ、絶句をゼク、律師をリシ、讀經をドキヤウとやうによみ、達智門をタテイモンと唱るよしなど物に見え、日本は今もニホンとも呼べば、古へはさら也。 法華經は今もホケキャウとのみ云り。 これらを以て思へば、天平寛平などの平の字、三品の品の字など、凡てンの下の半濁音も、古へは今の如く半濁にはよまず、濁りてよみ、急促(つま)る韻の下の半濁も、古へは或一品をばイチホンなどとよみ、或はかの日本をニホンとよむ如くになどよみて、凡て上の急促(つま)る韻を(さけ)て、下を半濁音にならざるやうにぞよみつらむ。 上の急促る韻を(さく)れば、おのづから半濁音は出ざること也。 然るに後世は書を讀むに、此の急促(つま)る韻と、ハの行の半濁との音便を、殊に多く用ゐて、返てこれを雅なる如くに心得めるは、物よむやうのいたく鄙俗になりぬる也。 漢籍といへども、風雅の道を思はむ學者は心して讀むべきことになむありける。

漢字三音考終