五月雨
(一)
池に咲く菖蒲かきつばたの鏡に映る花
二本
ゆかりの色の薄むらさきか
濃むらさきか
濃むらさきならぬ
白元結
きつて放せし文金の高髷も好みは同じ
丈長の櫻もやう
淡泊
として色を含む姿に高下
なく心に隔てなく墻
にせめぐ同胞
はづかしきまで思へば思はるゝ水と魚の君さま無くは我れは何とせんイヤ
汝
こそは大事なれと頼みにしつ頼まれつ
松の梢の藤の
花房
かゝる主從の
中またと有りや梨本の
何某といふ富家の
娘に優子と
呼ばるゝ容貌
よし色白の細おもてにして眉は霞の遠山がた花といはゞと
比喩
を引くもこちたけれど二月
ばかりの薄紅梅あわ雪といふか何か知らねど濃からぬほどの
白粉
に玉虫いろの口紅を品よしと喜ぶ人ありけり
十九といへど深窓の育ちは
室咲きも同じこと
世の風知らねど松風の響きは通ふ
爪琴のしらべに
長き春日を
短しと暮す心は如何ばかり
長閑けかるらん
頃は落花の
三月盡ちれば
誘ふ朝あらしに庭は吹雪のしろ妙も流石に袖は
寒からで
蝶
の羽うらの
麗朗とせし
雨あがり
露縁
先に飼猫のたま輕く抱きて首玉の絞り
放し結ひ換ゆるものは
侍女の
お八重とて歳は優子に一ツ劣れど劣らず負けぬ
愛敬の
片靨
誰れゆゑ寄する目元のしほの
莞爾として
手を放しつ不圖見返りて眉を寄せしが又
故に
ホヽと笑つて
孃さま
一寸と
御覽遊ばせ此マア
樣子の
可笑しいことよと面白げに
誘はれて
何ぞとばかり立出づる優子お八重は何故に
其樣
なことが可笑しいぞ私し
には何とも無きをと惱ましげにて子猫のヂヤレるは
見もやらで庭を眺めて茫然たり孃さま今日も
不快
御坐いますか否や左樣も
無けれど何うも此處がと押して見する胸の
中には何がありや
思ふ思ひを知られじとか詞をかへて八重やお前に問ふことがある春につきての
花鳥で
比べて見て何が好きぞ
扨も變つた
お尋ね
夫は
心々で
御坐いませうが歸鴈
が憐れに存じられます左りとて
異なことぞ都の春を見捨てゝ行く
情なしがお前は好きか
憐れといへば深山がくれの花の心が
嘸かしと察しられる
世にも知られず人にも知られる人にも知られず
咲て散るが
本意であらうか同じ嵐に誘はれても思ふ人の宿に咲きて思ふ人に思はれたら
散るとも怨みは有るまいもの谷間の水の便りが
なくては流れて知られる頼みもなしマアどの位悲しからうと入らぬ事ながら
苦勞ぞかしとて
流石に笑へばデモ孃さまは花の心を
宜く御存じ私しが
歸鴈を好きと云ふは我身ながら何故か知らねど花の山の
曉月夜
さては春雨の夜半の床に鳴て過ぎる聲の
別れがしみじみと身にしみて悲しい樣な寂しいやうな又來る秋の契りを思へば
頼母しいやうにもあり
故郷
へ歸るといふからして亡き親の事が思はれますと打しほるれば夫は
道理
わたしでさへも乳母の事は少しも忘れず
今も在世なら甘へるものを
と何ぞにつけて戀しければ子の身では如何ばかり心ぼそくも悲しくも有らうなれど
及ばずながら私しは力になる心姉と思ふてよと頼むは可笑しけれど歳上なれば其約束ぞ
何時も何時も云ふことながら私しは
眞實の同胞と思ひますと
慰められて嬉しげに御縁あればこそ親どもばかりか
私しまでめぐり廻つて又の御恩海とも山とも口には如何にも申されねどお前さまの
お優さしさは身にしみて
忘れませぬ勿躰
なけれど主樣といふ
遠慮もなく
新參の身のほども忘れて云ひたいまゝの我儘ばかり
兩親の傍なればとて
此上は御座いませぬ左りながら悔しきは
生來の鈍きゆゑ到底も
御相談の相手には
なされて下さる筈もなし
別ものに遊ばすと知りながらお恨みも申されぬ身の
不束が恨めしう存じますとホロリとこぼす膝の露を優子
不審しげに打まもりて
八重は何が氣に障つてか思ひもよらぬ怨み言つもりて見よかし何の隔てゞ
隱しだてをするものぞ母さまにさへ申さぬことも遂ひに
話さぬ時はなき今日に限つて其やうな事いはれる覺えは何もなけれどマア何と思ふてぞと
いふ顏じつと打仰ぎて夫々それが矢ッ張りお隔て何故その樣にお
藏くし
遊ばす兄弟と仰しやつたはお僞りか、
僞りでは無けれど隱くすとは何を、デハ私しから申しませう
深山がくれの花のお心と云ひさして
莞爾とすれば、
アレ笑ふては云はぬぞよ
(二)
思ひ入る路は一ト筋なれど夏引きの手引きの糸の乱れぐるしきは戀なるかや優子
元來才はじけならず
柔和しけれど
悧發にて物と
道理あきらかに
分別ながら闇らきは
晴れぬ胸の雲にうつうつとして日を暮らすをお八重
しかぞと見て取りぬ我れも思ひの無き身ならねば他人ごとなりとも悲しきを
假初ならぬ
三世の縁おなじ乳房の
寄りし身なり山川
遠く隔たりし故郷に在りし其の日さへ東の方に足な向けそ受けし御恩は
斯々此々
母の世にては送りもあえぬに
和女わすれてなるまいぞと
寐もの
語に云ひ聞かされ
幼な心の
最初より
胸に刻みしお主の事ましてや續く不仕合に寄る方もなき
浮草の我れ
孤子の
流浪
の身の力と頼むは外になし
女子だてらに心太く
都會の地へと志ざし
其目的には譯もあれど思ひはお主のもとへ又見出されて二度の恩あるが中にも取分けて
孃さまの
御慈愛は
山の中の
峯たかきが上も高く海の中の沖深きが上も深し
お可愛や
誰れ人彼のやうに思しめして
御苦勞やら我身新參の勝手も知らずお手もと用のみ勤めれば出入りの他人多くも
見知らず想像
には此人かと見ゆるも無けれど好みは人の心々何がお氣に
染しやら云はで思ふは
山吹の下ゆく水のわき返りて胸ぐるしさも嘸なるべしお愼み深さはさることなれど
御病氣にでも
萬一ならば
取かへしのなるべきならず主
は誰人えぞ知らねど
此戀なんとしても叶へ參らせたし孃さまほどの御身ならば世界に苦もなく憂ひもなく
御心安くあるべき筈をさりとては又苦の世の中やと我身に比べて
最憐がり心の限り
慰められ優子眞實たのもしく深くぞ染めし
初花ごろも
色には出じとつゝみしは
和女への
隔心ならず
有樣は
打明てと幾たびも
口元までは出しものゝ恥かしさにツイ云ひそゝくれぬ
和女はまだ昨日今日とて
見參らせし事の無きならんが
婢女どもは蔭口に
お名は呼ばずて光氏
さまといふとかやお姿は察せよかし夫に引かれてゞは無けれど彼の人は
父樣無二の御懇意とて
恥かしき手前に薄茶一服參らせ
初しが中々の物思ひにて
帛紗さばきの靜こゝろなく
成りぬるなり扨もお姿に似ぬ物がたき御氣象とや今の
代の若者に珍らしとて
父樣のお褒め遊ばす毎に我ことならねど
面て赤みて其坐にも
得堪ねど慕はしさの數は
増
りぬ左りながら和女にすら
云ふは始めて云はぬ心は描かぬ
畫もおなじ事御覽じ知る筈も
あらねば萬一やの頼みも
無きぞかし笑はるゝか知らねど思ひ
初し
最初より
この願ひ叶はずは
一生一人で
過ぐす心憂きに送る月日のほどに思ひこがれて死ねばよし命が若しも
無情くて
如何に美るはしき
夫人むかへ給ひぬとも
愛らしき兒生れ
給ふとも聞く身のつらさが思はるゝぞとてほろほろと打泣けばお八重かなしく身を寄せて
お前さまは何故そのやうに御心よわい事仰せられるぞ八重は
元來愚鈍なり
相談してからが
甲斐なしと思しめしてか馴れぬ御使ひも一心は一心
先方さまどの樣な
御情けしらずで有らうとも貫かぬといふ事ある樣なし何ともしてお望み吃度
叶へさせますものを
御内端
すぎてのお物思ひくよくよ斗り遊ばせばこそ昨日今日は
御顏色もわるし
御病氣ひでも
遊ばしたら御兩親
さまは更なる事なり申すも
慮外ながら
妹に
思ぞとての御慈愛に
身は姉上をもうけし心お前さま大切なほどお案じ申さずには居りませぬ忌しや
何ごとぞ一生一人で世を送るの死んで思ひを
遁がれたしのと
着きつめた御心に必らずお成り遊ばすなと
宥める身さへ眼はうるみぬ、
堪忍せよかし
和女にまで苦をかけて
あらぬ思ひに心を盡くすが我が身ながら口惜しきなり左りとても彼の人の事
斷念がたきは
何ゆゑぞ云はで止まんの決心なりしが新設な詞きくにつけて日頃の愼みも
失なりぬと
漸々せまりくる
娘氣に
涙に
咽びて
良時ありしが、
八重さぞ打つけなと
惘れもせんが
一生の願ひぞよ此心傳へては給はるまじきや嬉しき御返事聞きたしとは
努々思はねど
誰れ故みじかき命ぞとも知られて果てなば本望ぞかしと打しほるれば、又しても
其樣なことを御前さま此々とお傳へ申さば
好きお返事は知れた事なり
最早くよくよとは
思しめすな、
否や否やそれは八重が知らねばぞ杉原さまは其やうな
柔弱な
放埓なお人で
無ければ申出してからが心配なり不埓者いたづら者と御怒りにならば何とせん、
夫は餘りのお取こし苦勞岩木の中にも思ひのなきかは
無情き仰せの有る筈
なし扨も
御戀人は
杉原さまとやお名は何とぞ、三郎さまと申のなり此頃來給ひしは
和女が
丁度
不在の時よ
一ト足違ひに御歸宅ゆゑ知らぬは道理と云ひかけてお八重の顏さしのぞき此願ひ
若し叶はゞ生涯の大恩ぞかし
諄うは云はぬ
心は是よと合はす手に嬉しき色はあらはれたり
(三)
雲雀のあがる
麥生なゝめに見渡しながら
岡のすみれを摘あらそひし昔しは何の苦が有りし野河の岸に菊の花手折とて流れ一筋
かち渡りし給ふとき我はるかに歳下の身のコマシヤクレにも君さまの袂ぬれるとて
袖襷かけて參らせしを如何に人にも笑はれけん思へば其頃が浦山し君さま東京へ歸給ひし
後さまざま續く
不仕合に身代は
亂離骨廢あるが
上に二タ親引つゞきての病死といひ憂きこと重なる神無月
袖にもかゝる時雨空に心のしめる我れを取らへて群長の
忰づらが
些少の
恩鼻にかけての無理難題やり返して遣りたけれど
女子
の身は左樣もならず
柳にうける宜きことにして金やらん
妾になれ行々は妻にもせんと
口惜しき事の限り聞くにつけても君さまのことが懷かしく或る夜にまぎれて國を出でつ
漸々東京へは
着きし物の當處なければ
御行衛更に知るよしなく
樣々の憂き艱難も
御目にかゝる折の褒められ種
にと且つは心に樂しみつゝ賤しい仕業も身は清し行ひさへ汚がれずばと
都乙女
の錦の中へ木綿着物に
菅笠脚絆はづかしや
女子身不似合の
菓もの賣りも一重に
活計の爲のみならず
便りもがな尋ねたやの一心なりしが
縁しあやしく引く方ありて
不圖呼び入れられし黒塗塀もお勝手もとに商ひせし時
後にて聞けば御稽古がへり
とや孃さまの
乘したる車勢ひよく
御門内へ
引入るゝとて出でんとする我と行違ひしが何に觸れけん我がさしたる櫛車の前にはたと
落しを知らず曳しかばなど
堪るべき
微塵になりて恨みを地に殘しぬ孃さま御覽じつけて
氣の毒がり給ひ此そこねたるは我身に取らせよ代りに新らしきものを取らすべしと
の給ひしかど元來
落せしは我が粗忽なり曳かれしも道理
破損しとて
恨みもあらず
况てや代りをとの
望みもなし是れは亡母が
紀念なれば
人に奉るべき物ならずとて拾ひ
納めて懷にせしを
いとゞしく御不愍がり
扨は親も無き人か憐れのことや
先庭口より我が部屋まで
來よ身の上も聞きたしとて連れ給ひぬ今こそ目馴れたれ御座敷の結構お庭のたゝづまひ
華族さまにやと疑ひしは一
に孃さまの
御言語容姿にも
依りし物か其お美くしき孃さま御親切にも
女子同志は
互ひぞとて御優しき御詞我もしきりに嬉しくて尋ぬる人ありとこそ明さゞりしが
種々との
物語に和女の母御は
斯々の人ならずやと思ひ寄らぬ御問ひに誠に若かぞ何として御存じと云へば忘れて
成るべきか和女と
我れとは兄弟ぞかし我れは梨本と優なるをとて手を取りての御喜びは扨は母が
乳を參らせたる
君なりしか御目にかゝりし嬉しさに添へて落ぶれし身はづかしと打なきしに
榮枯は時なるものを歎く事かは
萬は我れに
委せよかし惡るき
樣にはなすまじければ今日より此處に身を落つけずや
母樣には
我れ願はんとて放し給はず
夫樣も又
くれぐれの仰せに其まゝの御奉公
都會なれぬ身とて
何ごとも不束なるを彼は彼此は此と陰になりてのお指圖に古參の
婢女も侮らず
昨日の我れ忘れし樣な樂な身になりたるは孃さまの御情け一ツなり此御恩
何として送るべき彼の君さまに廻り逢はゞ二人共々心を合せてお話相手になるべきをと
何につけても忍ばるゝは又彼の人の事なりしが思ひきや孃さま昨日今日のお物思ひ
命にかけてお慕ひなさるゝ主はと問へば杉原三郎どのとや三輪の山本しるしは
無けれど尋ぬる人ぞと知る悲しさ御存じ無ければこそ召使ひの我れふし拜みての
お頼み孃さま不憫やと
思はならねど彼の人何としても取持たるべき受合ては立ちし物の此文には何の
文言どういふ風に書きてあるにや表書きの常盤木のきみまゐるとは
無情ひとへといふ事か
岩間の清水と心細げには書き給へど扨も扨も御手のうるはしさお姿は申すも更なり
御心だてと云ひお學問と云ひ欠け處なき御方さまに思はれて嫌やとはよもや
仰せられまじ我れ深山育ちの身として比べ物になる心はなけれど今日までの憂き苦勞は
何ゆゑぞ逢はんと思ふ夫一ツに萬の願ひをかけ置きしに今目の前に逢ふ日は切ても逢ふが
悲しき事義に成りぬ孃さまの御恩は泰山の高きも物の數かはよしや蒼海に珠を探れと
仰せらるゝとも夫に違背はすまじけれど我が戀人
周旋んこと
どう斷念てもなる事
ならず御恩は御恩これは是なり
寧そお文取次いだる体にして
此まゝになすべきか否や否や夫にては道がたゝず實は斯々の中なりとて打明けなば
孃さま御得心の行くべきか我こそは夫で宜けれど彼れほどまでに思しめし入れたもの
左らばと云ひて斷念
のつく筈なし我身の願ひが叶へばとて現在お心知りながら夫もつらし是れも憂しと
迷ひに心も夕暮の空お八重つくづく
詠むれば明日も
晴日か
西の方のみ紅ゐの雲たな引きぬ
(四)
男も女も法師も
童も容貌よきが
好きぞとは誰れ色好みの
言の葉なりけん杉原三郎
と呼ばるゝ人面ざし清らかに
擧止優雅
たが目に見ても美男ぞと見ゆればこそは罪つくりなれ我ゆゑに人二人まで
同じ思ひにくるしむ共いざやしら樫の若葉の露かぜに散る夕ぐれの散歩がてら梨本の娘
病氣にて別莊に
出養生とや
見舞てやらんとて柴の戸おとづれしにお八重はじめて
對面したり
逢はゞ云はんの
千言
百言
うさもつらさも胸に呑みて恩とも言はず義理とも言はず沸かへる涙も人事にして
御不憫や
孃さま此程よりのお煩ひのもとはと云はゞ何ゆゑならず
柔和しき
御生質とて
口へとては出し給はぬほど
猶御いとほしお心は
中々我が云ふやうな物にはあらず此お文御覽ぜばお分りになるべけれど御前さま
無情お返事
もし遊ばされなば彼のまゝに居給ふまじき御決心ぞと見る目は如何につらからぬ事が
久し振にて御目かゝりし我が身の願ひ是れ一ツなり叶へさせ給はゞ嬉しかるべきをとて
取次ぐ文の思ひ切りても涙ほろほろ膝に落ちぬ義理といふもの世に無かりせば
云ひたきこといと多し別れしよりの辛苦は如何に或る時はあらぬ人に迫まられて身の
遁ればの無かりし時
操はおもし命は鵞毛の
雪の夜に刃手に取りしことも有りけり或時は
お行衛たづねて
詫て恨みは長し大河
の水に沈む覺悟も極めしかど引れし後ろ髮の
千筋にはあらで
一筋に逢ふといふ日を頼みにして今日までも過せし身なりと云ひたけれど
孃さまの戀も我が戀にも淺さ深さのあるべきならず我れまだ其事を口にせねば
入譯
御存じなきこそ周旋
なるを他しごとは
思ふまじ左るにても君さまのお心氣づかはしと仰ぎ見れば端なくも男はじつと
直視ゐたり
ハツと俯向く
櫨紅葉のかげ
美るはしき
秋の山里に茸がりして
遊びし昔しは蝶々髷も夢とたちて姿やさしき
都風
たれに劣らん色なるかは愁ひを含めど愛らしき雨の撫子しほれて床し三郎の心
何と知らねど優子の文を手にとりつ淺からぬお心
辱けなしとて
三郎喜こびしとて懷中
に押いれつゝ又こそと坐に立つに扨は孃さまの心汲とり給ひてかと嬉しきにも心ぼそく
立上る男の顏そと窺ひて
ホロリとこぼす涕を
藏くし
孃さまにも嘸ぞ
お喜び我身とても其通りなり御返事吃度まちますと云へば
點頭ながら
立出る廻り縁のきばの
橘そでに薫りて何時か
月に中垣のほとり吹のぼる若竹の葉風さらさらとして初ほとゝぎす
待べき夜なりと
やをら降たつ後姿
見送る物はお八重のみならず優子も部屋の障子細目に明けて云はれぬ
心々を三郎一人すゞしげに行々吟ずる
詩きゝたし
(五)
便りまつ間の
一日
二日
嬉しきやうな氣づかひな八重に
遠慮は入らぬものゝ
又言ひ出すかと思はるゝも恥かしくじつと
堪ゆる返事の安否
もしやと思へば
萬一やになるなり
八重は大丈夫とは受合へど夫は氣やすめの詞なるべし
彼の文とても御受取に
なりしやならずや其場でそのまゝ御突き戻しになりたるを
我れに力落させまじとて八重の繕ひて居るにはあらずや否や否や八重として其樣のこと
ある筈なし人を疑ふは罪ふかきことなり
一日
二日
待給へ好き返事の參るは定
ぞと言ひしに違ひは無かるべし若しさうならば何とせん八重は上もなき恩人なれば
何ごとなり共氣に入ることして悦ばせたし歳は下なれど分別ある人とて
言少なゝれば
願ひは有や望みはなしや知れ難きを何とせん扨も人妻となりての心得は娘の時とは
異なる物とか御氣に入らば宜けれど若し飽かれなば悲しき事よ
先それよりも
覺束なきは
彼の文の御返事なり
御覽にはなりたり共其まゝ押まろめ給ひしやら却りて御機嫌そこねもして愛想づかしの
種にもならば云はぬに増る
愁らさそかし
君さまこそ無情とも
思ふ心に二ツは無し不孝か知らねど父樣母さま何と仰せらるゝとも
他處ほかの誰れを
良人に持べき
八重は一生良人は持たずと云ふものから我が身とは自づから異りて
關係はることなく
心安かるべし浦山しやと浦山るゝ我をば知らで吐息をもらしぬお八重はつくづく
有し日の事を思ふに男心の頼みがたさよと我れ
周旋する身として
事整ふは嬉しけれど優子どのゝ心宜く見えたり三郎喜こびしと傳へ給へとは餘りといへど
昔しを忘れ給ひしお詞なりトおもふ我が身の妬みにやお
主樣ゆゑには身を
殺して忠義を盡くす人さへ有るを我一人にて受きをしのばゞ
何處も事なく
納まるべきなり何氣なき孃さまが八重や八重やと
相談相手に
遊ばすを御恨み申は罪のほども恐しゝ何ごとも殘さず忘れて
お主さまこそ二代の
御恩なれ杉原三郎といふお人
元來の
お知人にもあらず
况てや契りし事も
何もなし昨日今日逢しばかり若かも
お主さまの戀人に
未練のつながる筈はなし御縁首尾よく整のへて睦ましく暮し給ふを見るが
切めての樂しみなり
我れは望みとて無き身なれば生涯この
家に御奉公して
御二タ方さま朝夕の御世話さては
嬰子さま生まれ給ひての
御抱き守り何にもあれ心を責めて仕へんか夫は何としてもなる事ならず兎ても角ても
憂き世なれば人訪はぬ
深山の奧にかき籠りて松風に耳を澄まさば宜かるべけれど夫すら彼の人見捨てゝは
入り難かるべしとてつくづくと打歎けど人に見すべき涙ならねば作り笑顏の
片頬さびしく物案じの主
慰めながら我れ先づ乱るゝ
蓴の戀はくるしき
物なるにや成るとは見えて覺束なき人の便りをまつとは云はず杉原さまはお廿四とや
お歳よりは老けて見え給ふなり
和女は何と思ふぞとて
朧氣なこと云ふて見る心や流石に通じけんお八重
一日
莞爾やかに
お孃さまお喜び遊ばすあり當てゝ御覽じろと久し振りの
戯れ言さりとは
餘りに廣すぎて取り處が分らぬなりと微笑ば左らば端を少し聞かし參らせんお前さま
何より何よりお嬉しと思しめす事が有べし夫なりとて
容易は言ひもせず
夫ぞとは知れど猶も知らぬ顏に八重が
例に似ぬことよ先づ
云ふて聞かしても宜さそうなと打怨ずれば其やうに御いそぎなされますなと
打笑ひながら彼の君より御返事が參りしなり是がお嬉しからぬ事かと囁かれて耳の根
くわつと熱くなりつ胸とゞろかれて噛む袖の下に
密と置く藻しほぐさ
俄には手にも取らぬを
お八重察して進めつゝ取まかなひて封を切らすに文にはあらで
一枚の
短冊なりけり兩女
ひとしく見る雲形
茂りあふわか葉にくらき迷ひかな
みるべきものを空の月かげ
意味の存する處何方
ぞやと茫として闇きわか葉のかげいとゞ迷ひは茂り逢ふばかり晴るゝよし無き空の月の
心々に判じて見れど何れ眞意と得ぞわき難く
喜こぶべきか歎くべきかお八重はお八重優子は優子斯く云はれなが斯くせんの決心
互に堅けれど
思ひの外なる返しには何と定めて何とせん未練は流石ありそ海のおきて見つ又取りて
見つながめに飽かねど吐息されて八重はマア何と思ふぞ人の詞を待て見るあな覺束なの
三十一文字や
(六)
怪しや三郎の便りふつと聞えず成りぬ待つには
一日も侘しきを
不審しかりし返事の
後
今日や來給ふ明日こそはと
空だのめなる日を重ねて
十日半月さては
廿日憂き身につらき卯月も過たり五月雨ごろのしめり
勝に軒の
忍艸は我が類ひの引きては
葺かねど池のあやめの根ながき思ひにかき暮らされて袖にも水かさの増さりやすらん此處は
別莊の
人氣も少くなく氣に入りの
八重を置ては
別莊守りの
夫婦のみなれど最愛の娘病氣との事なり本宅よりの使ひ
絶ま無ければ事によそへて
杉原のこと問はするに
本宅にも此頃さらに
參り給はずといふ左るにても何とし給ひしにや我心をさなくて
卒爾に文など
參らせたるを如何に厭はしと思しながら返しせざらんも情けなしとて
彼れよりは
夫となく御出のなきか此頃のお歌の心は
如何に茂るわか葉の今こそは闇らけれど時節を待たば空の月の逢みるべきぞとならば
嬉しけれど若しやの願ひに左樣見ゆるにや
寧そ
愁らからば一筋ならで
頼みのある丈
まどはるゝなり扨もお便りの聞えぬは何故我れ厭はせ給ひなば此處へこそ
御入來なく共本宅へまで
御疎遠とは
不審しゝ
夫ほどまでに御嫌ひになるほどなら優しげな御詞なぜ仰せおかれけん八重が思ふも
恥かしきまで彼の時は
嬉しかりしを此まゝに見返りもし給はずは今さら面ても向けがたし悲しき事よと
娘氣に頼みをかけて
見つ又ときつ思案にもつるゝ
撚糸の八重が歎きは
又異なり茂る若葉の妨げと仰せられしは我が事ならずや闇き迷ひと歎じ給へど夫れ
悟りたればこその御取持ちなれ思ひ合ふ中の
お兩方に我が
生涯の望みも頼みも御讓り申して思ひ置くこと
些少なきを
何はゞかりての御遠慮ぞや身を
觀ずればお恨みも
未練も何もあらずお二タ方さま
首尾とゝのひし曉には
潔よく斯々して流石は
貞操を立るとだけ君さまに
知られなば夫で思での
我れなるに此身ある故に孃さまの戀叶はずとせば何とせん身退ぞくは知らぬならねど
義理ゆゑ斯くと御存じにならば
御情ぶかき御心として
人は兎もあれ我よくばと仰せらるゝ物でなし左らでも御弱き
お生質なるに
如何つきつめた
御覺悟をも遊ばすまじき物ならず御最愛の
お一人娘とて
八重や何分たのむぞと
嚴格い
大旦那さまさへ我身風情に仰せらるゝは御大事さのあまりなるべし
彼につけ是につけ氣づかはしきは彼の人の事よ有りし日の對面の時此處に居給ふとは
思ひがけず郷里のことは我れ聞きたり辛苦さこそなるべけれど奉公
大切に勉め給へと
仰せられしが耳の殘りて忘られぬなり
彼れほどにお優しからず
是れほどまでにも歎かじと斷ち難き絆つらしとて人見ぬ暇には部屋のうちに伏し沈みぬ
何れ劣らぬ双美人に
慕はるゝ身嬉しかるべきを何を厭ふてか三郎かき絶て影も見せず疑念は重なる
五月雨のくも、薄らぐべき由もなくて、世をうみ
梅實の
落る音、
そゞろ淋しき日を
幾日、
をぐらき窓のあけくれに、をち返りなく
山時鳥の、
から紅ゐにはふり出でねど、涙に袖の色かはるまで同じ歎きを別に知る
主從の思ひさても
果敢なし優子はいとゞ
世を知らぬ身のお八重が素振り得も察せず氣の毒や我身大事にかけるとて痩せ見ゆるほど
心配させし和女の情は
忘れぬなり左りながら如何ほど盡くしてくるゝ共なるまじき願ひとぞは
漸々に
斷念たり
夫につきて又別に父樣母さまへの御願ひあれど御二タ方なり
和女なりに
歎きをかくるが愁らきぞとて
しみじみと物語りつお八重の膝に身をなげ伏して隱くしもやらぬ口説きごとにお八重
われを忘れて抱き合ひ詞もなくよゝと泣きしがお前さまに其やうな御覺悟させますほどなら
此苦勞はいたしませぬ
御入來の無きは
不審しけれど
無情き
御返事といふにもあらぬを早まつての御考へは御前さまの樣にも無し今しばしの
御辛抱ぞ其うちには何ともして吃度お喜こばせ申べし八重が一心を憐れとも
思しめして其やうな悲しいことをお聞かせ遊ばすなとて力を添へぬ
優子嬉しく手に手を取りて前の世では何でありしやら兄弟にもなき親切
この後とも頼むぞや
是よりは別しての事何ごとも
汝の異見に隨はん
最早今のやうな事
云ふまじければ
免してよと
詫らるゝも勿体なく
待てば甘露と申ますぞやと輕るげに云へど義理は重し袖に晴れ間は見えぬ
物の限りあればにや今日珍づらしく
鳶なきて
雨の餘波に
軒ばの露に照る日あたらしく玉をみがきて庭の木かげも心地よげなるを
籠居てのみ
居給ふは御躰にも
毒なる物をとお八重さまざまに
誘ひて
邊りちかき野の景色
田面の
庵の侘たるも又
をかしかるべし御覽ぜずやとわりなくすゝめて柴の戸めづらしく伴ひ出でぬ人の
心のうやむやは知らずや茂る木立すゞしく袖に葺く風むねに欲しゝ
植はたす小田の
早苗青々として
處々に
鳴き立つ蛙の
聲さまざまなる彼れも
歌かや可笑しとてホヽと笑む
主に我れも嬉しく
彼方の
萱ぶき
此の垣根お庭の
中に欲しきやうなり
彼の花は何ならんと
小走りして進み寄りつ一枝手折りて一輪は
主一輪は我れかざして
見るも機嫌取りなり
互の心は得ぞしらず
畔道づたひ
行返りて遊ぶ共なく暮す日の鳥も寐に歸る夕べの空に行く
雲水の僧一人
たゝく月下の門は何方ぞ
浦山しの身の上やと
見送くれば
見かへる笠のはづれ
兩女ひとしくヲヽと叫びぬ