古言衣延辨證補

凡例

凡例

明治四十年一月 著者識

古言衣延辨證補考 目次

  1. 第一 序論
  2. 第二 古書中二音分別の證例
  3. 第三 古書中二音分別に對する辨疑
  4. 第四 二音を混用せるに至れる年代
  5. 第五 此説の確定の結果
  6. 第六 二音を分別するに用ゐるべき假名字躰の選定

古言衣延辨證補

大矢透 述

第一 序論

記紀萬葉其他の古典に、阿也二行の音、并に阿和二行の音を寫すに、行の異なるによりて、其假字を分別せざりしこと疑なし。 古事記に音を寫すに用ゐらるるもの伊一字のみなり。これやがて、之を分別せざる証なり。日本書紀には、伊以易異怡等を用ゐたれど、第二卷に以嗣箇播(石川)第四卷に伊辭務邏搗(石村)第三卷に於費異之(大石)などあるが如く、韻鏡によれば、必ず阿行に屬すべき伊と、也行に屬すべき以異を同言に通用せる類少からず。古事記にウ音に宇汗の二字を用ゐたるが、汗は、唯一處に用ゐて、其他は悉く宇を用ゐ、日本書紀の歌には、ウ音を宇于汗紆禹にて記せり。これらは、皆和行の音のみなれば、此二書共に、二つのウ音を分別せざること明なり。此二書にして既に然り、これより以下の書は推して知るべし。 然れども、唯阿也二行の音のみは、確かに分別して記せることは、既に、奧村榮實加賀前田家重臣なりの古言衣延辨に辨じたるところなり。其書は、文政十二年の著述にして、解くところ極めて確實なりといへども、八十年後の今日に至るまで、人の注意を惹くことの深からざりしは、何なる故にか。

抑も、古典に、この二音を分別して記せることは、契沖眞淵本居の諸翁より始めて、其流を酌める人々に至るまで孰れも皆之を認めざりし所にて、富士谷父子の如き、其北邊隨筆に、

あがりての世には、人のこゑ五十ありけらし、そののちふたつはやうやううせて、あめつちの歌のころは、四十八になりぬ。それがまた、一つうせたる世に、いろはの歌はいできたり云々。

とあるを見れば、四十八になりぬといひて、音に二つありしに、稍々心着けるが如くなれど、實際に之を記し別てることまでは思ひ及ばざりしものの如し。伴信友は假字本末を著はして、假字の上の事ども何くれとなく論じたれど、絶えて此事に及ばざるのみならず、比古婆衣の安米都知誦考のところに、

ある遠き國人の、源順家集にあめつちの歌といふがあるに、もとあめつちほしそら云々と音のかぎりをつくしととのへたる古文のありしことしるく、其はめでたきことばかりときこゆる由をくはしく考出たる説あり。そこには、いかにか見つるといひおこせたるに 中略 今まづ件の端詞の意を按ふるに、そのかみ四十七音を物事の言にととのへて、あめつち云こと唱ふる文のありて其發端の言をとりて、あめつちと稱あるがありけるを、その文によりて、藤原有忠朝臣と藤六と二人して歌によまれたりけるに順朝臣其返しに此歌をよみ賜へるよしなり 中略 かくてもとの歌とはあめつちの文を一もじづつ、次第のままに歌毎に起句の上にすゑてよみたりけるを順ぬしそれを競ひてさらに其もじを起句の上と結句の下とにすゑて、四季と思戀の六題に分ちてよみ給へるなり。さて件の歌の次第のままに、起句の上のもじを、結句の下のもじも書つらね見るにかくの如し。

あめ、つち、ほし、そら、やま、かは、みね、たに、くも、きり、むろ、こけ、ひと、いぬ、うへ、すゑ、ゆわ、さる、おふせよ、えのえを、なれゐて

然るに、戀部えの位に、えもいはで云々、おふる松がえと有りて、次にのこりなく云々、その次に又えもせかね云云、山はつくばえとありて、四十七音の外にえもじの歌一首あまれり。相模集なる此あめつちをよめる歌にも然る次第に見えたるがうへに此順集の歌の題の下に四十八首ともあれば全文にえもじ二つあるに合へり。さるはいかなることにかさらに心得がたし。しひてたすけていはば、もしくはあめつちほしそらといふごとく二音づつととのへて四音を一句として唱へむには四十七音にては一音足らざれば其句をととのへむとして、え音を一つ()へて唱へなれたるにもやあらむ。

などといひてあめつちの歌の中に、音の二つあるを「いかなることにか更に心得がたし、四音を一句として唱へんとして、え音を一つ()へて唱へなれるにもやあらむ」といへるを見れば、古代に此二音に分別ありしをなど思ひも寄らざりしさまなり。敷田年治は、音韻啓蒙を著して、古典より五十音に當れる眞假字どもを引き出でて、詳しく論じたるが、其開卷のはじめに

正音は、上古より五位十行に定れりけるを何の程より混初めむ、その五十音の中、三音を除き、四十七音もて言通はし來れり。 中略 しかるに古書等の中には、隱ろひたる古音も假名に傳へて存りやつらむと、記紀萬葉風土記其餘の書ども心を用ゐて讀試るに、更に其俤たる見えざるを思へば、記紀を撰びし和銅養老の頃にすら然る定めは既く失ひしにこそ。

と見え、榊原芳野の文藝類纂には、其假字々音總論に、

上に擧げたる五十音中、ヤ行の ワ行のの三音、これを排列するに方りて、必無きことを得ざる音にして支那字音には、これを別りてど、我國の古書載する所、凡べて之を分たず。是他なし、ヤ行のイ、ワ行のウは、各々其原音皆 を冒ふるを以て、イィ ウゥにて、口稱にては實に分別し難きを以て、我國古來これを別たざるなり。上音に惹れて自其音に協ふ者はあれど先其ヤ行のの別なきを擧げて、これを辨ずべし。諸古書中殊に古事記日本書紀萬葉集を擧ぐる者は、其最古たるを以てなり。是より以下は、彌多く引くに堪へず。古事記上()袁登古袁(ヲトコヲ)とあるは、古來あり、人の知る所にして、吉男(エヲトコ)の義なるを、()は、ヤ行にして、()は韻鏡十三轉影母第一位なれば、即ちア行に屬せり。 透云以下數行伊以の別なきことを論じるものなれば今之を省く。 其他、伊以混用せし例最も多し。但ヤ行の(イェ)は分別して、衣は混ずべからざるの如し。而して、これ又別用せず。得は、と活用せるを以て阿行なること著し。然れば萬葉集二に、安見兒衣多利(ヤスミコエタリ)又十四に衣可多岐可氣乎(エカタキカケヲ)、又十五に伊麻勿愛弖之可(イマモエテシガ)、又佛足跡歌に、和禮波衣美須弖(ワレハエミズテ)殊に判然たる如く見ゆれど、二十の卷 透云十八の卷の誤なり に、伊波禰布美也末古衣由岐(イハネフミヤマコエユキ)と活語の延に用ゐらるを見れば、是亦混用せしこと論なし。且要も二十六開轉合に作れる本は誤なり影母第四位に屬して、ア行のエ字なるを、五卷、十四卷、十九卷、廾卷等皆延と通じて、活語に用ゐたり。是衣江も別なき故なり。 透云以下宇音の事を論ふが故に畧す。

とありて、敷田氏は、「古典を旁く心を用ゐて讀み試みたれど更に其俤もなし」と云ひ、榊原氏は、古事記の()袁登古袁(ヲトコヲ)()字、萬葉の也末古衣(ヤマコエ)の衣字あると、多く要字を也行に使用せる等の諸點よりして、直に音も亦混用せりと斷定せり。いづれも、意を用ゐて穿鑿せし樣にはいへど、實は、其穿鑿唯 の二音に止り、 にして既に分別なきより、音も亦然るべく思はるる所に、一つ二つ例に違へるものあるが故に、深く究めずして止みたるものの如し。此他一般の國學者の、この音の分別に注意を怠りしは、盖皆この二氏と轍を同じくせしに由るなるべし。

音の分別に對して、從來の國學者の通説は、大率右の如くなるにて、衣延辨の如き、一小册子の、よく動し得べき所にあらざるを覺るべし。況や、未嘗て國學者を以て廣く知られざりし人の手に成れるに於てをや。然ども、衣延辨の説く所は、其澂證歴々として古典の上に存し、確乎として浚移す可からず。唯惜らくは、立證の方法宜しきを得ず、澂證となるべき材料の乏しき所ありて、未だ以て、世間の耳目を聳動するに足らざるのみ。是に於て、余は、其立證の方法を更め、澂證となるべき材料を加へ、以てその説の主意を擴充して、古典に於て、正しく阿也二行の音を分別せることを確定せんと欲す。是れ、若しこの事にして確定せば、之れに由て、假名遣の沿革上は勿論、古書古文の鑑別等に對して少からざる便益を與ふべければなり。

第二 古典中音分別の證例

古典に於て阿也二行の音を分別して記せることを明さんとするには、徒らに區々の論辨を費すに及ばず、唯讀者をして、古典中に此二音を記したる實況を通覽すべき便を得しむれば足れりと爲す。故に、余は、先づ衣延辨に引用せる古典は勿論、それに漏れたるものにつき、假字を以て、此二音を記せる辭句を索ねて、悉く之を抄出し、而して其書の年序に從ひて、之を列記して左の一表を製したり。即ち表中上欄に排列せるは、抄出せる辭句にして、下欄を兩分して、其假字の阿行に屬するものを上層に、也行に屬するものを下層に、各々音訓を分ちて之を摘記せり。又兩層の上部には、其假字を用ゐたる語の意によりて、常用の漢字を掲げて、讀者が、之を檢出する便に供せり。讀者、通覽の際同意の諸語は、皆同層に在り、同音の假字は、皆同層の諸語に通用して、異欄に混入すること極めて稀なるに注意すべし。又常例に違へるは、其語を、常の處に記し假字を其違へる處に記して、傍注を施せり。通覽の際、常用漢字の下に假字なきと、傍注あるものとを目標として、之を檢出して可なり。

エ音ある語を假字して記せる辭句并に書名 阿行 也行
記せる語
常用漢字
假字 記せる語
常用漢字
假字
上宮聖徳法王帝説
止美能乎河波乃多叡波許曽(トミノヲカハノタエバコソ) (タエ)
彌奈和須良叡米(ミナワスラエメ) ()
古事記
阿那邇夜志愛(アナニヤシエ)袁登古袁(ヲトコヲ) 可愛()
阿那邇夜志愛(アナニヤシエ)袁登賣袁(ヲトメヲ) 可愛()
阿那邇夜志愛(アナニヤシエ)袁登古袁(ヲトコヲ) 可愛()
阿那邇夜志愛(アナニヤシエ)袁登賣袁(ヲトメヲ) 可愛()
愛比賣(エヒメ) 可愛()
阿遠夜麻邇奴延波那伎(アヲヤマニヌエハナキ) (ヌエ)
惠美佐迦延岐弖(ヱミサカエキテ) (サカエ)
怒延久佐能賣邇志阿禮婆(ヌエクサノメニシアレバ) (ヌエ)
葦那陀迦(ヰナダカノ)神亦名八河江比賣(ヤカハエヒメ) (ハエ)
條忽(マシ)遠延(ヲエ)
御軍(ミイクサ)遠延而伏(ヲエシコヤシキ) (ヲエ)
盈々志夜胡志夜(エエシヤコシヤ) 盈通本疊と作す。今古事記傳の説に从ふ。 (エエ)
加都賀都母伊夜佐岐陀弖流延袁志麻加牟(カツガツモイヤサキダテルエヲシマカム)
此天皇娶河俣毘賣之兄縣主波延(ハエ)之女阿久斗比賣 (ハエ)
又娶倭健命之賣孫名須賣伊呂大中日子王之女訶具漏比賣御子大枝(オホエ) ()
此迦具漏比賣大江(オホエ) ()
山代之荏名津比賣(エナツヒメ) ()
此天皇娶大江(オホエ)王之女大中津比賣 ()
又娶丸邇之比布禮能意富美之女名宮主矢河枝(ヤカハエ)比賣云々又娶其矢河枝(ヤカハエ)比賣之弟袁名辨郎女 (ハエ)
(ハエ)
又娶日向之泉長比賣生御子大羽江(オハエ)王次小羽江(ヲハエ) (ハエ)
(ハエ)
本都延波登理韋賀良斯志豆延波比登々理賀良斯(ホツエハトリヰカラシシツエハヒトヽリカラシ) ()
()
岐許延斯迦柕母(キコエシカトモ) (キコエ)
夜賀波延那須岐伊理麻韋久禮(ヤカハエナスキイリマヰクレ) (ハエ)
久佐迦延能伊理延能波知須(クサカエノイリエノハチス) ()
御陵在河内之惠賀長枝(ナガエ) ()
美延斯怒能袁牟漏賀多氣爾(ミエシヌノヲムロガタケニ) (エシ)
阿理袁能波理能紀能延陀(アリヲノハリノキノエタ) ()
毛々陀流都紀賀延波本都延波阿米袁淤幣理那加都延波阿豆麻袁淤幣理志豆延波比那袁淤幣理本都延能延能宇良婆波那加都延爾淤知布良婆閇那加都延能延能宇良婆波志毛都延能宇良婆波(モモタルツキカエハホツエハアメヲオヘリナカツエハアツマヲオヘリシヅエハヒナヲオヘリホツエノエノウラハハナカツエニオチフラハヘナカツエノエノウラハハシモツエニノリフラハヘシツエノエノウラハヽ)云々 ()
()
()
()
()
()
()
()
()
()
()
()
又娶阿部之波延比賣(ハエヒメ) (ハエ)
美夜麻賀久理弖美延受加母阿良牟(ミヤマガクリテミエズカモアラム) (ミエ)
出雲風土記
鳥上山郡家東南卅五里 伯耆與出雲之境有鹽味葛 蒲萄(エビ)
遊記山郡正南卅七里 有鹽味葛 蒲萄(エビ)
室原山郡家東南卅六里 備後與出雲之境有鹽味葛 蒲萄(エビ)
御坂山 中略 故云御坂 備後與出雲之境有鹽味葛 蒲萄(エビ)
故云琴引山 鹽味葛 蒲萄(エビ)
日本書紀
可愛此ヲバ() 可愛()
天津彦々火瓊々杵(アマツヒコヒコホノニヽギ)(カミサリマシヌ)、因(ヲサメマツル)筑紫日向可愛 可愛此ヲバ()之山陵 可愛()
愛瀰詩烏毗儾利毛々那比苔(エミシヲヒタリモヽナヒト) (エミシ)
渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)皇后 一書云磯城縣主葉江(ハエ)女川津媛 (ハエ)
爲皇后 一云磯城縣主葉江(ハエ)弟猪手女泉媛 (ハエ)
志邏伽之餓延搗(シラカシガエシ) ()
梅珥志彌曳泥麽(メニシミエテバ) (ミエ)
辭豆曳羅波比等未那等利保蒐曳波(シツエラハヒトミナトリホツエハ) 中略 那伽蒐曳能(ナカツエノ)云々 ()
()
()
伽破摩多曳能(カハマタエノ) ()
(アエタマヘリ)皇后爲雄裝之負㆒㆑肖此云阿叡(アエ) (アエ)
伊弉佐伽麽曳那(イササカハエナ) (サカハエ)
大葉枝(オホハエ)皇子小葉枝(ヲハエ)皇子 (ハエ)
(ハエ)
那餓波曳灘須(ナガハエナス) 十一 (ハエ)
婆利我曳陀(ハリカエタ) 十四 (エダ)
娑柯曳嗚(サカエヲ) 十四 ()
枳擧曳儒阿羅毎(キコエズアラメ) 十四 (キコエ)
矩儞々播枳擧曳底那(クニヽキコエテナ) 十四 (キコエ)
彌曳儒哿謨阿羅牟(ミエズカモアラム) 十五 (ミエ)
母曰荑媛 荑此云波曳(ハエ) 十四 (ハエ)
蘆雚者此家長御心之平也(タヒラカナルナリ) 蘆雚此云哀都利(エツリ) 十五 (エツリ)
府曳儞都倶利(フエニツクリ) 十七 (フエ)
輔曳輔枳能朋樓(フエフキノボル) 十七 (フエ)
枳擧曳倶屡(キコエクル) 廾四 (キコエ)
耶麻古曳底(ヤマコエテ) 廾六 (コエ)
於能我曳多(オノガエダ)々々 廾七 (エダ)
美曳之弩能曳之弩能阿諭(ミエシヌノエシヌノアユ) 廾七 ()
施麻倍母曳岐(シマヘモエキ) 廾七 (エキ)
愛倶流之衞(エクルシヱ) 廾七 ()
多拖尼之曳雞武(タタニシエケム) 廾七 ()
續日本紀
如是醜事者聞(カヽルシコゴトハキコ)曳自(エシ) 云々 (キコエ)
萬物萠毛延始(メクミモエソメ)() 云々 (モエ)
佛足跡歌
和禮波衣美須弖(ワレハエミズテ) ()
萬葉集
奴要子鳥(ヌエコトリ) (ヌエ)
安見兒衣多利(ヤスミコエタリ) ()
夏草之念思奈要而(ナツクサノオモヒシナエテ) (シナエ)
宿兄鳥之片戀嬬(ヌエトリノカタコヒツマ) (ヌエ)
百兄槻木(モヽエツキノキ) ()
墨吉之得名津爾立而(スミノエノエナツニタチテ) ()
()
可久由既婆比等爾伊等波延可久由既婆比等爾邇久麻延都伎提美延許曽(カクユケバヒトニイトハエカクユケバヒトニニクマエツギテミエコソ) ()
()
(ミエ)
伊米爾之美延牟(イメニシミエム) (ミエ)
意枳都布可延乃(オキツフカエノ) ()
烏梅我志豆延爾(ウメカシツエニ) ()
伊麻勿愛弖之可(イマモエテシカ) ()
美流爾之良延奴(ミルニシラエヌ) ()
和周良延爾家利(ワスラエニケリ) ()
奴延鳥乃(ヌエトリノ) (ヌエ)
住吉能濱(スミノエノハマ) ()
住吉之岸(スミノエノキシ) ()
住吉乃粉濱之四時美(スミノエノカハマノシジミ) ()
住吉之岸乃黄土爾(スミノエノキシノハニフニ) ()
山葉左佐良榎壯士(ヤマノハノサヽラエヲトコ) (サヽラエヲトコ)
左散良衣壯士(サヽラエヲトコ) (サヽラエヲトコ)
住吉之岸乃黄土(スミノエノキシノハニフ) ()
住吉之岸因云(スミノエノキシニヨルトイフ) ()
住吉之岸之黄土(スミノエノキシノハニフニ) ()
住吉爾往云道爾(スミノエニユクトイフミチニ) ()
墨吉之岸爾(スミノエノキシニ) ()
住吉之名兒之濱邊爾(スミノエノナゴノハマベニ) ()
住吉之遠里小野(スミノエノトホサトヲヌ) ()
住吉之奧津白浪(スミノエノオキツシラナミ) ()
住吉之岸之松根(スミノエノキシノマツガネ) ()
住吉之波豆麻君之(スミノエノナミツマキミカ) ()
住吉出見(スミノエノイデミノ) ()
住吉小田苅爲子(スミノエノヲダカラスコ) ()
墨吉之淺澤小野之(スミノエノアサヽハオヌノ) ()
左和良妣乃毛要出春(サワラヒノモエツルハル) (モエ)
五月乎近美安要奴我爾(サツキヲチカミアエヌカニ) (アエ)
望者多要奴(ノソミハタエヌ) (タエ)
墨吉之岸爾出居而(スミノエノキシニイデヰテ) ()
墨吉爾還來而(スミノエニカヘリキタリテ) ()
此河楊波毛延爾家留可毛(コノカハヤキハモエニケルカモ) (モエ)
住吉之里(スミノエノサト) ()
奴延鳥之(ヌエトリノ) (ヌエ)
奴延鳥浦嘆居(ヌエトリノウラナケヲレハ) (ヌエ)
春者毛要(ハルハモエ) (モエ)
水草花乃阿要奴蟹(ミヅクサノハナノアエヌカニ) (アエ)
於君戀之奈要浦觸(キミニコヒシナエウラフレ) (シナエ)
住吉之岸乎田爾墾(スミノエノキシヲダニハリ) ()
住吉之津守(スミノエノツモリ) 十一 ()
住吉之城師之浦箕爾(スミノエノキシノウラミニ) 十一 ()
住吉之濱爾縁云(スミノエノハマニヨルテフ) 十一 ()
上爾種蒔比要乎多(タネマキヒエヲオホミ) 十一 (ヒエ)
住吉之敷津之浦乃(スミノエノシキツノウラノ) 十一 ()
住吉乃岸爾向有(スミノエノキシニムカヘル) 十二 ()
忘枝沼鴨(ワスラエヌカモ) 十三 ()
之良久毛能多延都追(シラクモノタエツヽ) 十四 (タエ)
美胡之能佐吉能伊波久叡乃(ミコシノサキノイハクエノ) 十四 (クエ)
和爾奈多要曽禰(ワニナタエソネ) 十四 (タエ)
許登奈多延曽禰(コトナタエソネ) 十四 (タエ)
衣可多岐可氣乎(エカタキカケヲ) 十四 ()
比氣波多延須禮(ヒケハタエスレ) 十四 (タエ)
阿杼可多延世武(アトカタエセム) 十四 (タエ)
許登奈多延曽禰(コトナタエソネ) 十四 (タエ)
安是加多延世武(アセカタエセム) 十四 (タエ)
手兒乃欲妣左賀古要我禰弖(テコノヨヒサカコエカネテ) 十四 (コエ)
母登奈見要都追(モトナミエツヽ) 十四 (ミエ)
於由爾美要都留(オユニミエツル) 十四 (ミエ)
手兒乃欲婢佐可古要弖伊奈波(テコノヨビサカコエテイナバ) 十四 (コエ)
楊奈疑許曽伎禮婆伴要須禮(ヤナキコソキレバハエスレ) 十四 (ハエ)
安乎許等奈多延(アヲコトナタエ) 十四 (タエ)
思比乃佐要太能(シヒノサエダノ) 十四 (エダ)
見延奴己能許呂(ミエヌコノコロ) 十四 (ミエ)
多延武能己許呂(タエムノココロ) 十四 (タエ)
安路許曽要志母(アロコソエシモ) 十四 (エシ)
安是可多要牟等(アゼカタエムト) 十四 (タエ)
思良久毛能多要爾之(シラクモノタエニシ) 十四 (タエ)
佐可故要弖(サカコエテ) 十四 (コエ)
伊蘇乃和可米乃多知美太要(イソノワカメノタチミダエ) 十四 (ミダエ)
波伴爾許呂波要(ハハニコロハエ) 十四 ()
見要受等母(ミエズトモ) 十四 (ミエ)
兒呂我可奈門欲由可久之要思母(コロガカナドヨユカクシエシモ) 十四 (エシ)
衣我多伎可氣乎(エカタキカケヲ) 十四 ()
伊故麻山古延弖曽安我久流(イコマヤマコエテソアカクル) 十五 (コエ)
故延弖曽安我久流(コエテソアガクル) 十五 (コエ)
安乎楊疑能延太伎里於呂之(アヲヤキノエタキリオロシ) 十五 (エダ)
多延無日爾許曽(タエムヒニコソ) 十五 (タエ)
多延受安良婆(タエズアラバ) 十五 (タエ)
美延奴我其登久(ミエヌカコトク) 十五 (ミエ)
久毛爲爾美延奴(クモヰニミエヌ) 十五 (ミエ)
伊米爾美要都流(イメニミエツル) 十五 (ミエ)
伊能禰良延奴仁(イノネラエヌニ) 十五 ()
可里乎都可比爾衣弖之可母(カリヲツカヒニエテシカモ) 十五 ()
伊能年良延奴爾(イノネラエヌニ) 十五 ()
伊能年良要奴毛(イノネラエヌモ) 十五 ()
於毛比多要弖毛(オモヒタエテモ) 十五 (タエ)
久毛爲爾見延奴(クモヰニミエヌ) 十五 (タエ)
伊都可故延伊加武(イツカコエイカム) 十五 (コエ)
夜麻治古延牟等(ヤマチコエムト) 十五 (コエ)
世伎毛故要伎奴(セキモコエキヌ) 十五 (コエ)
麻許等安里衣牟也(マコトアリエムヤ) 十五 ()
伊米爾毛伊母我美延射良奈久爾(イメニモイモカミエサラナクニ) 十五 (ミエ)
世伎夜麻許要弖(セキヤマコエテ) 十五 (コエ)
山乎故要弖(ヤマヲコエテ) 十五 (コエ)
美要奴君可聞(ミエヌキミカモ) 十五 (ミエ)
春雨爾毛延之楊奈疑(ハルサメニモエシヤナギ) 十七 (モエ)
水緒多要受(ミシタエズ) 十七 (タエ)
山谷古延氐(ヤマタニコエテ) 十七 (コエ)
曽許登母見延受(ソコトモミエス) 十七 (ミエ)
伎美我於母保要婆(キミガオモホエバ) 十七 (オモホエ)
於母保要之伎美(オモホエシキミ) 十七 (オモホエ)
山坂古延弖(ヤマサカコエテ) 十七 (コエ)
情波母要奴(ココロハモエヌ) 十七 (モエ)
多麻豆佐能都可比多要米也(タマツサノツカヒタエメヤ) 十七 (タエ)
夜麻古要奴由伎(ヤマコエヌユキ) 十七 (コエ)
奴要鳥(ヌエトリ) 十七 (ヌエ)
伊米爾美要家里(イメニミエケリ) 十七 (ミエ)
於毛保要武可母(オモホエムカモ) 十七 (オモホエ)
麻都太要能奈我波麻須義氐(マツダエノナガハマスギテ) 十七 ()
可多加比我波能多延奴期等(カタカヒガハノタエヌゴト) 十七 (タエ)
加婆之多要受波(カハシタエスハ) 十七 (タエ)
多氐流都我能奇毛等母延毛(タテルツガノキモトモエモ) 十七 ()
伊里延許久(イリエコク) 十七 ()
伊波禰布美古要(イハネフミコエ) 十七 (コエ)
山登妣古要氐(ヤマトヒコエテ) 十七 (コエ)
火佐倍毛要都追(ヒサヘモエツヽ) 十七 (モエ)
麻追太要乃波麻由伎多良之(マツダエノハマユキタラシ) 十七 ()
多太古要久禮婆(タダコエクレバ) 十七 (コエ)
安須古要牟夜麻爾(アスコエムヤマニ) 十八 (コエ)
可氣爾見要都追(カケニミエツツ) 十八 (ミエ)
伎許要牟保登等(キコエムホトヽ) 十八 (キコエ)
故敷等伊布波衣毛名豆氣多理(コフトイフハエモナツケタリ) 家持作 十八 ()
御調寶波可蘇倍衣受(ミツキタカラハカソヘエズ) 家持作 十八 ()
左可延牟物能等(サカエムモノト) 十八 (サカエ)
御代佐可延牟等(ミヨサカエムト) 十八 (サカエ)
多知佐加延 十八 (サカエ)
波都波奈乎延太爾手乎理(ハツハナヲエダニタヲリ) 十八 (エダ)
伊夜佐加波延爾 十八 (サカハエ)
也末古衣野由支(ヤマコエノユキ) 家持作歌 十八 (コエ)
登思波佐可延牟(トシハサカエム) 十八 (サカエ)
須理夫久路伊麻波衣天之可(スリフクロイマハエテシカ) 家持作 十八 ()
吹風能見要奴我其登久(フクカゼノミエヌガコトク) 十九 (ミエ)
之奈要宇良夫禮(シナエウラフレ) 十九 (シナエ)
伊麻太伎己要受(イマダキコエズ) 十九 (キコエ)
松栢乃佐賀延伊麻佐禰(マツカハノサカエイマサネ) 十九 (サカエ)
毛淂奈民延都々(モトナミエツヽ) 十九 (ミエ)
天地與相左可延牟等(アメツチトアヒサカエムト) 十九 (サカエ)
山人乃和禮爾依志米之(ヤマヒトノワレニエシメシ) 二十 ()
加其佐倍美曳弖(カキサヘミエテ) 二十 (ミエ)
和伎米故等不多利和我見之宇知江須流河乃禰良波(ワキメコトフタリワガミシウチエスルガノネラハ) 二十 (エスル)
和須良延努可毛(ワスラエヌカモ) 二十 ()
多要受伊比都々(タエズイヒツヽ) 二十 (タエ)
阿禮波久江由久(アレハクエユク) 二十 (クエ)
久江弖和波由久(クエテワハユク) 二十 (クエ)
見都々古要許之(ミツヽコエコシ) 二十 (コエ)
山乎故要須疑(ヤマヲコエスキ) 二十 (コエ)
安之幤毛美要受(アシヘモミエス) 二十 (ミエ)
多延爾氣流可母(タエニケルカモ) 二十 (タエ)
宇須比乃佐可乎古延志太爾(ウスヒノサカヲコエシダニ) 二十 (コエ)
和須良延奴加母(ワスラエヌカモ) 二十 ()
須美乃延能(スミノエノ) 二十 ()
比毛多要波(ヒモタエバ) 二十 (タエ)
和我世奈乎都久志波夜利弖宇都久之美叡比波登加奈々(ワガセナヲツクシハヤリテウツクシミエヒハトカナヽ) 二十 (エビ)
美夜古母美要受(ミヤコモミエズ) 二十 (ミエ)
麻都我延乃(マツガエノ) 二十 ()
夜敞也麻故要弖(ヤヘヤマコエテ) 二十 (コエ)
爾保抒里乃於吉奈我何波半多延奴等母(ニホドリノオキナガヾハハタエヌトモ) 二十 (タエ)
保里延故要(ホリエコエ) 二十 ()
(コエ)
麻都能左要太乎(マツノサエダヲ) 二十 (エダ)
波布久受能多要受之努波牟(ハフクズノタエズシヌハム) 二十 (タエ)
伊氣美豆爾可氣左倍見要底佐伎爾保布(イケミツニカケサヘミエテサキニホフ) 二十 (ミエ)
日本現報靈異記
皮呂可爾美縁弖(ハロカニミエテ) (ミエ)
ヲビエ (ヲビエ)
竿 ウ反フエノ名 (フエ)
比曽米ラ縁丶 ()
比己江 ()
蝦夷 衣比須 (エビス)
續日本後紀 興福寺大法師長歌(内閣慶長寫本)
此之所爲態(シワザヲ)邇志弖(イカニシテ)江牟止(キコエムト) (キコエ)
百種(モモクサノ)(カツラニ)藤花(フチノハナ)開榮睿弖(ヒラキサカエテ)(イカニ)以聞大東本作得(キコエム)汗流兢恐以聞睿牟(キコエム) (サカエ)
(キコエ)
(キコエ)
三代實録
大枝(オホエ)フナリ大兄(オホエ) ()
延喜式祝詞
伊加志夜久波叡(イカシヤクハエノゴトク)仕奉(ツカヘマツリ) (ハエ)
佐加叡志米賜(サカエシメタマヘト) (サカエ)
伊賀志夜具波江(イカシヤクハエノゴトク) (ハエ)
彌若叡(イヤワカエニ)御若叡坐(ミワカエマシ) (ワカエ)
(ワカエ)
新撰萬葉集
松裳見江藝禮(マツモミエケレ) (ミエ)
見江須見江須裳(ミエスミエスモ) (ミエ)
(ミエ)
色者滋雲見江那國(イロハアヲクモミエナクニ) (ミエ)
絲鞆不見江(イトトモミエズ) (ミエ)
雨砥聞江手(アメトキコエテ) (キコエ)
思保江沼倍杵(オモホエヌベキ) (オモホエ)
見江亙氣禮(ミエワタリケレ) (ミエ)
見江鶴者(ミエツルハ) (ミエ)
色裳江那申(イロモエナマシ) (モエ)
公丹見江牟(キミニミエム) (ミエ)
荏許曽堰敢禰(エコソセキアヘネ) ()
貫手見江南(ヌキテミエナム) (ミエ)
今朝者不見哉(ケサハミエズヤ) (ミエ)
新撰字鏡十二卷本
古江豆知 (コエ)
阿伯 父之兄 江乎知 ()
古江奈良不 (コエ)
衣乃木 (エノキ)
衣乃木 ()
奈波江 ()
須波江也 ()
衣豆利 (エツリ)
比古江 ()
衣豆利 (エツリ)
衣乃木 ()
()
衣比須久佐 (エビス)
比古波江 (ハエ)
犬衣 ()
衣加佐 ()
木防己 神衣比 蒲萄(エビ)
比古江 ()
比江 (ヒエ)
比古波江 (ヒエ)
衣女䖝 巤姑(エメムシ)
衣比 (エビ)
奴江 (ヌエ)
黿 江加米 ()
衣比 (エビ)
衣比 (エビ)
波江 (ハエ)
憮然 失意㒵 怍愕之辭也 意未言 比江天 (ヒエ)
蹴然 敬也 豆萬 己江 (コエ)
蝦夷 衣比須 (エビス)
鹽増絮 江牟保宇之 (エン)
新撰字鏡二卷本
阿古江 (コエ)
奈加江乃波志乃久佐比 ()
古江太利 (コエ)
耳玉 江良 (エラ)
乃美乃江 ()
勺藥 衣比須艸 (エビス)
澤柒 大戟苗生時 波衣 草苗 (ハエ)
乎乃不江 (フエ)
奴江 (ヌエ)
衣比 (エヒ)
延喜六年日本紀竟宴和歌
那褒幾裔奈麻志(ナホキエナマシ) (キエ)
要多母須惠々爾(エダモスヱヽニ) ()
多江奴加支美加(タエヌカキミカ) (タエ)
阿麻乃比津支波衣氐之支美奈利(アマノヒツキハエテシキミナリ) ()
本草和名
龍膽 和名衣也美久佐 (エヤミ)
決明 和名衣比須久佐 (エビス)
芍藥 和名衣比須久須利 (エビス)
鹿藿陶景注云葛根之苗 和名久須加都良之波衣 (ハエ)
紫葛 和名衣比加都良 蒲萄(エビ)
鵯 和名比衣止利 (ヒエトリ)
鱓 和名衣比 (エヒ)
王餘魚 和名加良衣比 (エヒ)
蝦 和名衣比 (エヒ)
尨蹄子 和名世衣 海蠶
蒲陶一名蘡薁 和名於保衣比加都良 蒲萄(エビ)
㮈 和名奈以一名奈江 (ナエ)
蘇 和名以奴衣一名乃良衣 ()
()
假蘇 和名乃々衣一名以奴衣 ()
()
香薷 和名以奴衣 ()
表中同語に用ゐたる假字
阿行也行
書中に記せる語假字 書中に記せる語假字
可愛() 愛、哀、埃 也行活語尾 延、要、曳、叡、縁、裔 江、枝
() (エヽ)
() 愛、衣、依 () 延、要
(サヽラエヲトコ) (エラ)
(エミシ) 愛、衣 (エスル)
(エビ) () 延、要 吉、枝
(エヒ) () 江、枝
海蠶(セエ) (ハエ)
巤姑(エメムシ) (ヌエ) 延、要 江、兄
(ヒエトリ) (ハエ)
() 得、荏 () 延、曳、要
蒲萄(エビ) 衣、 (ヒエ)
(ハエ) (ナエ)
() (フエ) 江、エ、曳
(エツリ) ()
(エヤミ) (エビ)
(エン)

第三 古典中の音分別に對する辨疑

前章の表中には、古典中に於て、音を假字にて記せるものを、殆ど之を網羅せり。其全數三百三十四語、中阿行に屬するもの六十八語にして、也行に屬するもの二百六十五語なり。而して其大部分は、阿行には衣、也行には要延及び江等を用ゐて、畫然一定せるを見ば、思慮を廻らさずして、直に古典には、阿也二行の音を分別せるを覺らん。然ども、猶前に擧げたる文藝類纂に謂ふところの

  1. (一) 古事記に()袁登古袁とある()吉男(エヲトコ)の義なれば、也行の音なるを、阿行に屬せる愛字を以て記せるは、混用の證なりと云ふこと。
  2. (二) 要字は、韻鏡二十六開轉影母第四位に屬して、阿行の字なるを、萬葉に夥多之を也行に用ゐることは、混用の證なりといふこと。
  3. (三) 萬葉十八に、也末古衣野由支とありて、(コエ)を古衣と記したるは、混用の證なりといふこと。

の三項を囘想し、又表中につき、左の諸點を留意せば、未だ鏡心に幾許の點翳を留むるものあるを覺えむ。

  1. (四)出雲風土記に蒲萄を鹽味葛と記して、也行の鹽字をエビの阿行のに用ゐること。
  2. (五)續萬葉二十に、帶を叡比としたるは、阿行のの轉じたるものなれれば、阿行の音なるべきに、也行の叡を用ゐたること。
  3. (六)續日本紀第一卷天武四年に、

    六月庚辰薩末(サツマノ)比賣、久賣、波豆、衣評督(コホリノカミ)君縣、助督(スケ)君弖自美、又肝衝難波、從肥人等兵剽-劫覓國使刑部眞木等坐志惣領決行セシム

    といふ條あり。此中なる衣評、衣君等の衣は、從來の諸説、皆薩摩國なる穎娃()郡なりといへり。穎は、韻鏡喩母に屬する文字なれば、也行のなり。今これに、阿行の衣を用ゐたり。二音混用せるに非ずや。然るに、之を表中に擧げざるは如何といふこと。
  4. (七)新撰字鏡に、澤柒 大戟苗生時 波衣 草苗とありて、本草和名に鹿藿陶景注云葛根之苗 和名久須加都良之波衣 とあり。此波衣は、(ハエ)(ヒコバエ)などのハエと同じものの如くなれば、それらと同じく(ハエ)の義にて、也行に屬するべきに似たり。然るに、かく阿行の衣を用ゐたるは、混用にはあらずやといふこと。

然れども、猶心を平靜して、前表を反復熟覽し、而して後、下に説くところを讀過せば、一拭して淨面を開くの快を取る、亦難からざるべし。

(一)に於て、()袁登古袁、()袁登賣袁の愛を()()女の意なりといへるは、これ古事記傳の説に據れるものにして、其説は、吉若くは善の義は可愛可美などと相類似せるが上に、偶々書紀の一書に、美哉(アナヱヤ)善少男(エヲトコ)妍哉(アナニヱヤ)可愛()少男乎(エヲトコヲ)とあるより、本居翁は、少しも古典に此二音の分別あるに心着かざりしかば、事もなく(シカ)釋かれしなり。これ決して無理ならぬことながら、若し一たび眼を轉じて、此語の外に、確かに、也行の諸音を知らるるもの、古事記に三十六七、書紀に二十七八、併、これは六十餘あるに、唯一つだにも、此愛字及び他の阿行の假字、哀埃衣依等を用ゐたるところなきと、書紀、天浮橋のところに、可愛此ヲバ()、天孫崩御のところに、葬筑紫日向可愛()可愛此云之山陵とあるが如く、阿行の音なる哀及び埃を以て注したる可愛に當る此語に限りて、この愛字を用ゐたるとに注意せられたらむには、斯く容易にも釋き去られざりしならん。然るに、文藝類纂には、眞に之を以て阿也二行のを混同せる證とせしは、すこしく雷同の態あるを免かれず。案ふに、縱令神武天皇の御歌なる、延袁斯麻加牟(エヲシマカム)の延と、此處の愛とは、共に、吉若くは美若くは可愛の意にして同語なりと假定すとも、特に此處に限りて呼法に差別あればこそ、斯の如く異なる假字を用ゐたるならめ。そは、熟々()袁登古袁とある()延袁斯麻加牟(エヲシマカム)とある延に比べ見るに、愛の方は、書紀二十七愛倶流之衞(エクルシヱ)()と同じく少しく詠嘆の意を含めるを以てなり。されば、此他にエシヌ吉野若くはタエキエの如き全くの也行の音に、愛哀埃等の假字を使用せる例證の多く發見せられざる以上は、決してこれのみを以て二音混用の證と爲すべからず。

(二)要字を以て、韻鏡二十六開轉影母第四位に屬して、阿行の音なりといへども、是れ甚しき誤なり。そも韻鏡の影喩二母の第四等に在りては、内外開合の論せず、皆也行の定位なることは、漢語音圖に於て論定せるところにして、復疑を容る可からず。縱しや、韻鏡に於て、要字は、阿行の位に在りとするも、これ偶々韻鏡時代の音の萬葉時代の音と差異あるを示すに足るのみにして、決して韻鏡の音によりて、萬葉の音を左右すべきにあらず。何となれば、若し韻鏡制作時代を唐末とせば、萬葉よりも遙かに後なれば無論のこと、たとひ沉約の頃のものとすとも、其發音を知るは、到底我國の古字音と悉曇とに依るの外なき者にして、韻鏡の上に何なる音を示すとも、萬葉に於て、也行にのみ用ゐたらば、也行の音と定めざる可からざれば也。

(三)に、萬葉十八なる也末古衣(ヤマコエ)の衣一字を以て、此エ音混用の證とすれども、今前表について見るに、萬葉集中に、(コエ)といふ語の、假字にて記されたるもの二十五あり、然るに其中の二十四まで、也行の延要曳衣兄等の諸字を用ゐたるに、此一語にのみ、阿行の衣字を使用し、又集中百七十餘の也行語尾の、假字もて記されたるものあれども、一も阿行の假字を用ゐざるに、此一語に限りかく記されたり。殊に、この違例は、家持卿の作歌にあるなれど、集中夥多なる同卿の作歌中、これより以外、一も違例を見ず。然るに、今唯此一個の例に違へるものあるを执へて、直ちに混用の證とするは、これ猶同集に、爾太要(ニホエ)とあるべき所に、要字を用ゐたるを證として、萬葉に波行也行の假字紊れたりと謂はんが如し。顧ふに、此違例を決して本來のものにあらず、必ず此二音混用時代に至りて、偶々寫し誤れるが、後世に傳はれるものなること疑ふべからず。

(四)なる出雲風土記に、蒲萄(エビ)を鹽字にして記したるは、甚だ奇なりと云べし。蒲萄は、其同語源なる(エビ)(エビス)と共に、前表中并に下に擧ぐるものを合して、二十四個あるに、悉く阿行の假字を用ゐたり。然るに、此風土記に限り、如斯あるは、何なる故か、恐くは、こは當時の出雲の方言には、蒲萄を也行に呼べるを、其ままに記せるものならん。然るときは、之あるが爲めに、古典中に於ける二音の分別を無視すること能はざるなり。

(五)萬葉二十なる帶を叡比として詠める歌は、武藏の防人の作なれば、方言を其ままに記したるものなり。故に出雲風土記の鹽字と同じく、毫も二音分別の反証たる値なきものなり。

(六)抑も薩摩の郡名なる穎娃は、書紀の可愛之(エノ)山陵の可愛と同名なりといふことは、古事記傳の十七及び日本通釋の十六八百二十に説かれ、又續紀の衣は薩摩の郡名なる穎娃と同じきことは、村尾元融が續日本紀考證邨岡氏の地理志料に見えたり。されども是等諸先輩の説は、皆この二音に分別ありしことを念頭に置かずして考へられたるにて、既に表中に見えたる如く、衣愛埃哀は共に阿行の音にのみ用ゐたること、又穎は韻鏡喩母に屬して也行の音なることの明なる以上は、直に從ふこと能はず。殊に此續紀の文は、決して諸先輩の見られしが如く、文首に在る薩末は、其下に連れる各人名に繋れるものにあらず。何とすれば、若し衣評(エノコホリ)云々の()が果して穎娃()にして、上の薩末はこれにかかれるものとせば、其次なる肝衝難波を何とかすべき。そは、肝衝は、肝屬、肝坏などと書きて、大隈の郡名なればなり。されば薩末を國名として、衣を其郡名の穎娃なりとせば、必ず肝衝の上に、大隈を加へざるべからず。今然かせざるは、薩末、衣、肝衝の三は同列の地名にして主屬の別なければなるべし。案ふに續紀なる此記事は、日向の國が大隈薩摩に分たれざりしほどの事なれば、恐くは當時の國司などの、管内各地より出たる賊どもの姓名を書き列ねて具伏せる文のありけるを、其ままに載せられたるにて、初めなる薩末比賣、久賣、波豆は、薩摩地方の者ども、末なる肝衝難波は大隈地方のもの、中なる衣評(エノコホリ)(カミ)(アガタ)助督(スケ)()弖自美(テジミ)とは今の日向の地方より出でたる者どもにて、其()は即ち書紀に筑紫日向可愛()之山陵式に日向()山陵天津彦火瓊々杵尊在日向國とある可愛()()と同地名にして、決して薩摩の穎娃にあらざるべきとはここの文勢を熟々味へなば疑ふ所なかるべし。既にかく見るときは、書紀と式とに正しく日向と記されたるにも、續紀に薩末と衣とを竝べ記せる上にも、阿也二行の音に分別ある他の諸例と一致する點にも、邨岡氏の地理志料に郡有大江曰池田湖云々其名盖取此江也とあり表中()に也行の延、要、吉、枝等の假字を用ゐると一致すれば穎娃の名義の江なることの確なる上にもいづれにも、齟齬するところなければ、余は斷然此衣は可愛()なりとして表中に記入せんとせしかども、猶地理上實際の研究に俟つべき所もあれば、姑く本書の凡例に、地名人名等の語源明かならざるものは、之を省くといふ類と做して、故らに表中には載せざりしなり。

(七)新撰字鏡及び本草和名に、苗を波衣とせるを、醫心方には波江に作れり。之れに從ふときは、(ヒコバエ)(ハエ)(ハエ)等の波江と一致して、同名なるべく思はるれど、醫心方は、二音混用時代のものなれば據るに足らざるに、共に二音の分別確かなる字鏡と本草和名とに、波衣とある上は、其原義は明かならざれども、草苗を稱する波衣といふ名のありしものと見ゆれば、姑く苗字を以てこれに充てて、違例中に筭入せざることとせしなり。

第四 阿也二行の音を混用するに至れる時代

古典に於て、阿也二行の音を分別して記せることは、上來謂ふところによりて、既に之を否定する餘地はあらざるべし。然る上は之を今日の如く混用せるに至れるは、(イヅレ)の時代よりなりしかは、讀者の知らんと欲するところなるべし。

前表中に擧げたる證例は、延喜六年の日本紀竟宴和歌を以て最後に置けり。而して、其以上に於て、古事記の愛字は必しも也行の場合に用ゐたりといはるまじく、風土記の鹽字は、方言の也行の音に使用せるものなること、萬葉の違例は、誤寫なること、前述によりて明かなる上は、延喜以往に於ては、絶えて混用の俤もなしと云て可なり。然るに、今天慶六年の日本紀竟宴和歌を見るに、

阿也二行の音ある辭句 常用の漢字 音假字 訓假字 常用の漢字 音假字 訓假字
多仁野宇仁飛止爾古衣太留(タニヤウニヒトニコエタル) (コエ)
許許呂兒加奈布都摩袁衣天(コヽロニカナフツマヲエテ) ()
微與毛多裔勢數(ミヨモタエセス) (タエ)
豫魯莵與萬羝珥多愛努那利氣利(ヨロツヨマテニタエヌナリケリ) (タエ)
與呂都與賀禰亭衣都留賀那(ヨロツヨカネテエツルカナ) ()
阿麻能比都幾仁裳江萬散留賀那(アマノヒツキニモエマサルカナ) (モエ)
意氣美都耳倶邇散嘉江計流(イケミツニクニサカエケル) (サカエ)

右の如く二つの違例ありて、其末の一つは、大江維時の作れる歌のうちに在り。維時此時齡六十に達し、寛平延喜の間に長りし高名の博士なり。然るに、其作中に、かかる違例あるは、此頃より既に二音混用の端を發けるにや。さりながら、音の語ある歌六首あるが中に、唯二首のみ違へるが上に、此年に五十四歳なる石山座主淳祐内供の如き、確かに之を分別せるあり。こは、其手ら音譯を施せる大悉曇章石山寺所藏を見るに、音の阿行なるは必ず衣を用ゐ、也行なるにも必ず江を用ゐること、左の如く、

也乚江乚尹由无江迷
ア乚乚衣乚乚尹夜坐江足尹
夜婆江て尹ア乚坐衣足尹

此書は、一大卷子本にして、卷中阿也二行にかかれるもの甚だ多しと雖も、悉く江衣を以て書き別けたり。今悉く擧ぐるに堪へず。僅に、各行中衣江の假字を含める綴りのみ少しばかりを拾ひ取りて、其一斑を示せるのみ。其衣の阿行なるは、其上の綴りに阿行の音あり、其江の也行なるは、其上の綴りに也行の音あるにて、之を知る可し。

此外、天暦五年中、石山内供奉に候して授かりし由の奧書ある蘇悉地羯羅經略疏に、補桃果に左傍に衣ヒノ大ソとあり。是らにて、推せば、此時代に於ては、悉曇章の如き音を正しく移す必要あるものは勿論、苟且(カリソメ)の訓點にも此二音を分別せるものの如し。

然るに淳祐より六歳の長者なる維時にして、上の如き違例あるは甚だ疑ふべし。今の世に流布せる竟宴和歌は契沖阿闍黎が鎌倉中書王の眞蹟と傳ふる熊本本妙寺の藏本を寫して今井似閑に與へしものの由なれば、或は其本は天慶の原本のままならで二音混用時代に誤寫にる者なりしか亦知るべからず。然れども猶再考する時は、全く混用せる證ある天祿を去ること、三十年前に於て、斯の如き程度を以て混用せしことは、寧ろ自然の順序として疑ふまじきに似たり。とにかく、此年代の澂證たる實例の猶多く出でざる間は、現在の事實の示すがまま、少しく推測を加へて、天慶より天暦若は天祿の間に、二音分別より混用に至れる過渡の年代にして分別する人と、混用する人と共存せるものと見ば、大過なかる可きか。

何が故に天祿を以て二音の全く混用にる證ありとするかといふに、先づ衣延辨に混用せりといへる和名鈔を取りてこれを檢するに、左表の如くなり。但し、國郡の部には混用の状態最も著るけれど、これ既に狩谷氏の説ありて後人の補足せるものと覺しければ、之を省ける天文本につきて物したり。

衣夜美 (エヤミ)    
衣夜美 (エヤミ)
瘼卧 日本紀私記云々 乎江布世利 (ヲエ)
鴨柄 加毛江 ()
奈加江 ()
毛江久比 (モエ)
三衣匣 俗云佐牙江乃波古
角 楊氏漢語抄云大角 波良乃布江 (フエ)
小角 久太布江 (フエ)
爲佐利乃江 ()
乎乃乃衣 ()
竹刀 日本紀私記云 阿乎比江 竹刀(ヒエ)
横笛 與古不江 (フエ)
高麗笛 俗云古末不江 (フエ)
俗云象乃不江 (フエ)
裛衣香 俗云衣比 葉皮(エビ)
和久乃江 ()
比衣止利 (ヒエトリ)
沼江 (ヌエ)
鳥乃布江 (フエ)
阿古江 (コエ)
衣比 (エヒ)
衣比 (エヒ)
伊乎乃布江 (フエ)
榮螺子 左太江 榮螺(サダエ)
乃良江一云沼加江 ()
()
香菜 楊氏漢語抄云 和名以奴江 ()
比衣 (ヒエ)
昆布 衣比須女 (エビス)
芍藥 衣比須久須利 (エビス)
決明 衣比須久佐 (エビス)
地楡 衣比須禰 (エビス)
紫葛 和名衣比加豆良漢語云衣比加豆良乃美 蒲萄(エビ)
蒲萄(エビ)
衣乃木 ()
比古波衣 (ヒコハエ)
枝條 江太 (エダ)

表中音ある語數三十九ある中、例に違へるもの僅かに七個に過ぎずして、殆ど混用時代のものとも思はれざるが如し。されども、編者順朝臣の集中なるあめつちの歌を首尾に居ゑて詠める歌を見れば、衣の江榎の枝の二つのを同音として、

()もいはで戀のみだるる心かな いつとやいはにおふるまつが()
のこりなくおつるなみだは露けきを いづら結びしくさむらのし()
()もせらで泪の川のはてはてや しひてこひしきやまはつくば()

とありて、全く混用の證を示せり。又天祿元年、即ち順五十八歳の時に當りて、源爲憲といふ人の作れる口遊(くちずさみ)大須眞福寺所藏原本國寶となれり。影字印行せるもの世に流布せり

大伊爾伊天(タヰニイデ)奈徒武和禮遠曽(ナツムワレヲゾ)支美女須土(キミメスト)安佐利比由久(アサリオヒユク)也末之呂之(ヤマシロノ)宇知惠倍留古良毛(ウチヱヘルコラモ)波保世與(ハホセヨ)衣不禰加計奴(エフネカケヌ) (コレ)借名文字(カナモジ)

今案世俗スル阿女都千保之曽里女之訛説也此スルヲレリト

とありて、四十八字のあめつちの歌を、里女の訛説と斥け、四十七字なる此歌を誦すべきことを教へたるも亦此時既に二音の別なきことを示せり。順のあめつちにて歌を作りし年代定かならねど、恐くは口遊の成れる天祿の前後遠からざるほどなるべし。これ乃ち天祿を以て、全く混用せる證ありといひし所以なり。猶順の中年頃の作と覺しき即ち此時より以前なる和名抄に、違例少く、此後なる永觀中に成れる醫心方、長保四年訓點法華疏以下の古經訓點類、并に本願寺歌仙色紙の類のものは、總て其分別なく之を用ゐたる片假名の如きも一字となれるなどにても之を證すべし。歌のいひかけに、例に違へるは紫式部以下には見ゆれど、後撰以上には絶えてなきなども亦ここの證となるべし。

以上の事實に據りて概言せんに、眞の二音混用は、延喜以往には絶えて無く、天慶前後より寢く混用し、天暦の末までに全く混用し了れるものと推定せば大過なかるべし。

第五 此説確定の結果

上古に於て、阿也二行の音を分別せしこと、既に確定し、隨て其混用の時代も略々推定することを得たり。然るときは、其結果として、向後延喜以上の語彙を作らんとするものは、必ず阿也二行の音の部門を設けざる可からず。古言の原義を論ずるもの、又は解釋を下すもの、古代の地名を考證するものは、皆二音の分別に注意せざるべからず。又其時代に於ける擬古の歌文を作るものは、必ず此二音を分別して書かざる可らず。

右の外、これによりて、從來作者年代未詳なりし古書古文にして、時代及び眞僞の決定せらるるものもまた少からず。今其一二を擧れば、石山寺一切經藏所在、金剛般若集驗記及び智恩院華頂祕閣所在大唐三藏玄奘法師表啓等は、書寫訓點の年代詳かならず、唯傍訓と假名の躰とによりて、その極めて古きを知るのみなりしを、其訓點中に衣江を以て明かに二音を分別せるによりて、愈々其延喜以上のものたることを斷定することを得たり。今その般若集驗記に於ける二音分別の状態を示せば左の如し。

怕怖(オヒ江) 夷獠(衣ヒス) 忙怕(アワ天オヒ江) 點入(衣ラハレ天)清徳府 痊復(尹江大ヒラ久)

因云、撰字の眞假字に記せるもの、古典中に見えず。されど、衣延辨には、俗語にルと云ふによりて也行と定めたり。然るに、此書に衣字を用ゐたるより見れば、阿行の音なることを知るべし。先の萬葉二十なる防人の歌なる帶を叡比とし、北陸の方言に榎實をヨノミといへど、古言は阿行の音なることなどを思へば、古言に於けるこの二音の分別は方言又は俗語によりて推定すべからざることを知るべし。

五十音圖を、吉備大臣の作の如く世に傳ふれど、時代の確かなる古圖見當らず。賀州温泉寺明覺の記せるものの中に五十音縱行の形の散見するより古きものなければ、或は其頃成りしには非るかと思はるるに至れり。然るに、近きほどまでに、余が目に觸れたる五十音圖中、眞假名に記せるもの、管絃音義を除く外、四圖なるに、皆共に於乎の所屬正しきのみならず、阿也二行のを衣と江とを以て分別せること、阿也和三行のみを擧げて左に示すが如し。

こは、天台座主良源の傳本とて、藤原葛康朝臣の寛文五年手寫せる五音次第谷森善臣翁所藏の初めに載せたるものなり。

こは醍醐三寶院所藏文永六年寫本沙門宗命の集めたる密宗肝要抄下に載せたるものなり。

こは文明中一條禪閣の著せる假名遣近道の初に擧げたるもの。

こは天文本和名抄の卷一の首に載せたるものなり。

右の四圖共に大同小異なるにて考ふれば、元と同一原圖の、其傳を異にせるものたるや疑ひなし。而して、其原圖は、恐くは、五十音圖の始めて形を爲せる時のものにして、音を衣江若くは依江を以て分別せるものたることも、又疑ふべからず。然るときは、五十音圖の成れるは、確かに二音分別時代、殊に衣と江を以て分別せる、即ち寛平より天暦の中頃までの間に成れるものたること、亦疑を容る可らず。 猶五十音諸圖につきての考証は別に五十音圖考に於て詳述せんとす。

此他あめつちの歌の如く、二音を分別せるより、其古きことを自證するものあるに反して、之れなきが爲めに、其傳説の信ずるに足らざるを證し、或は其僞作たるを暴露するものあり。例へば、空海は寶龜より天長の間に生活せし人にして、其寂年延喜元年より六十七年の前にあり。其二音分別時代たる疑ひなき時に於て、いろは歌を作るに、之を遺れて四十七字とするの理なし。是れいろは歌の空海の作ならざることを證すべし。 いろは歌の空海の作ならざることにつきては、傍證多し。それいろは考に於ていふべし。 又これによりて、日文歌、大同類聚方などの、全く僞作たるを暴露せるは論なく、先の世に貫之の筆跡と稱する古今集萬葉集の類は、皆この二音を分別せざれば、悉く後人の筆跡なること、他證を俟たざるに至れり。

第六 二つの音を分別すべき假名字躰の撰定

上古に於て、二つの音を分別せしことの確定せる結果として、語彙を作り、古歌古文を擬作し、古文古語に傍訓を施す等、苟も假名にて古語を記するに當りては、必ず此二音の別を明かにせざる可らざることは、既に前章に謂ふが如し。既に然るときは、從來の平假名を以て、此二音を分別すべき時代を一定するの必要ありと思はるるが故に、今其字躰の撰擇を論及するは、又徒事にあらざるべし。

從來、古典の上の例證の有無に拘らず、五十音圖の上に於て、理想上必ず其分別あるべきものとして、間々或る字躰を充てたるものあり。其二三を左に擧ぐれば、

安然和尚のものと稱する五十音圖 是は明了房信範記といへる僞書に出せるものなり。
片假名阿行衣字の下躰の一部を取る
也行
冨樫廣蔭の五十音分生圖
片假名阿行衣字の頭を取る
也行
奧村榮實の古言衣延辨
平假名阿行
也行
片假名阿行衣字の下躰の一部を取る
也行
白井寛蔭の音韻假字用例
平假名阿行
也行盈字の草躰
片假名阿行衣字の下躰の一部を取る
也行延字の旁の一部として之を取る
敷田年治の音韻啓蒙
平假名阿行
也行
片假名阿行衣字の下躰の一部を取る
文部省五十音圖明治初年出版
片假名阿行
也行延字の旁の一部を取る
辰巳小次郎氏のかなつかひ
平假名阿行
也行

以上數家の取れる字躰を通觀して考ふるに、平假名に在りて、阿行はえを用ゐ、也行はを用ゐんには、諸家大抵一致し、且つ此二躰は、現時通用のものなれば、更に異論あるまじく、又既に、平假名に於て、江の草躰を也行に用ゐる以上は、片假名において、其旁なるを、同じく也行に用ゐるべきは、當然の事と云ふべし。唯、片假名に於ける阿行のに至りては、古來慣用のものなきが故に、新なる撰定を要すべし。

今、諸家の取れる數種の中について、之を求むるに、最も簡易にして、他の片假名と融和すべきものは、冨樫氏の、即ち衣字の頭の外なかるべし。正し少しく筆勢を強くするときとは、となりて、ユと紛るる虞あり。故に少しく行躰を取りと、とせば可ならん。乃ち余は、前項の諸体に合せて、平假名片假名に於ける音の字体は、後來左の如く一定せんことを望むなり。

平假名阿行
也行
片假名阿行
也行
古言衣延辨證補