【第1回】・「第5日・平成5年4月5日(火)」 晴れ時々曇り (参照地図・第4図・5図) 6時50分、月の家旅館を出発。ここの旅館のおかみさんは、朝早くから朝食などの準備をしてくれて感謝の念でいっぱい。四国遍路での宿を思いだす。お蔭で早い朝出しができた。 近露部落を過ぎ、日置川を渡るとすぐ右手の山道に入る。この道が熊野古道で、桜が見ごろだが、かなり急な山道である。 やがて標高380mぐらいの箸折峠に着く。 ここには、花山法皇宝篋印塔と牛馬童子像が説明板と一緒に立つている |
日置川を渡り右手の山道に入る 箸折峠への道 |
箸折峠・花山法皇の宝篋印塔と牛馬童子像がある |
箸折峠の宝篋印塔・牛馬童子像 |
「宝篋印塔」・説明板 箸折峠の傍らにあるこの小丘は、花山法皇の経塚と伝えられ、「紀伊続風土記」にも「花山法皇の熊野行幸の時御経を収め給ひし処といふ」と記されているという。 ここに立つ宝篋印塔は鎌倉時代のものとされ、県指定の文化財である。 入口の礎石には「花山院法経塔御旧跡跡」(寛政二年)と刻んである。 牛と馬にまたがった牛馬童子はかわいい姿の珍しい石仏として知られ、その傍の石仏は役行者像である。 |
箸折峠を更に登ると1km弱で大阪本王子社跡に着く。逢坂峠旧道トンネル入り口坂下にある。 「大阪本王子社跡」・ この王子社は、建仁御幸記に出ている。大部分の王子社は高台にあるが、この王子社だけは坂下にある。 県道脇の杉木立の中に壇の跡があり、礎石がひっそりと立っている。 「逢坂峠」・ この峠に、”旅人の 徒歩行き交ひしげきとき 父祖ここに住み茶屋いとなめし”の句碑が立っている。 「三体月鑑賞地」・ 11月23日この地で、三体の月が見られるという。 「上田茶屋屋敷跡」・ 大正期まで人家があり、墓もある。 |
大阪本王子社跡・壇の跡と礎石がひっそりと立つ |
三体月鑑賞地・11月23日三体の月が見られるという |
悪四郎山(H=782)への尾根道 |
悪四郎山の屋敷跡・標柱のみ立つ |
「悪四郎屋敷」・9時30分着 享保七年(1722)熊野道中記には、親孝行で機知に富み強力無双であつた悪四郎のことが記されている。 悪四郎山までは、登りの連続でかなり疲れたが、途中には箸折の宝篋印塔・大阪本王子社・三日月鑑賞地など見る場が多く飽きることなく頂上まで来ることができた。 悪四郎山を下る坂を、十丈坂という、その途中に小判地蔵があり、続いて十丈王子社がある。 「小判地蔵」・ 嘉永七年(1854)この場で小判をくわえて絶命した人を供養したもの。戒名・道休蝉定門。 「十丈王子社跡」(H=596)・ 建仁元年(1201)の御幸記では、天明山中の宿を出て重點王子に参ると出ているという。 明治の末期に大塔村下川の春日神社に合祀された。 以後荒廃したままで、今はわずかに 宝篋印塔の破片をとどめるのみ。 王子社跡は一面に笹竹が生い茂り、この辺り一帯は山林化しつつある。近くに今は廃村となった峠下の宿場跡がある。 |
十丈坂・小判地蔵・小判をくわえ絶命した旅人の 供養した |
十丈王子社跡・十丈峠付近にある |
十丈王子社跡・入り口付近 |
十丈王子社跡・「十丈王子」と彫られた石碑のみ 昼でも暗い山中にある |
十丈王子社より東へ1.5km、なだらかな下りの山道を下ると、大門王子社に着く。 この辺りは標高568m、まだかなりの高地である。 「大門王子社跡」・ この王子社は、鎌倉時代には小規模であるが存在していたとう。建仁元年(1201)の御幸記には、記録にはないそうである。 享保8年(1723)に紀州藩が当時、すでになくなっていた王子社跡に緑泥片岩の石柱を碑を立てた。 中辺路町の上地部落には、休憩所があり、お茶の接待がある。一息入れるには格好の場所であり、お蔭で20分ほど休憩ができた。 また、上地部落には昔ながらの石畳道が現存している。中辺路町は「平安村」と称して、熊野古道の保存に力を入れているそうである。 上地・下地部落を過ぎると、高原熊野神社がある。 「高原熊野神社」・ 平安時代の創建といわれ、春日造りの社殿は貴重なもの。境内には楠の大樹が繁り往時の面影を偲ばれる。岩王子の懸仏「御正体」ともいう、猿田彦神を祀る。 |
大門王子社跡・祠と石柱碑が立つ |
大門王子社・説明板 |
中辺路町上地部落の休憩所 |
中辺路町上地部落に今も残る石畳道 |
上地部落より見た国道311号・朝来平部落 |
上地部落は、標高350mほどだが、右手には国道311号・栗栖川朝来平部落・北部の山々が望める。 中辺路町の熊野古道は、終点付近に来て飯盛山(340)を越すが、ここを過ぎた辺りに剣山経塚跡があるというが、位置不明で見ることは出来なかった。 「剣山経塚跡」・ 経塚は、仏法の経文を経筒(法華経・願文・名簿などを納めた銅製の筒)に入れ、埋葬したところで、乱掘にあい詳細は不明。鎌倉時代の常滑焼きが埋められている。 ここを過ぎると、不寝王子社跡・滝尻王子社跡・滝尻部落・富田川・を過ぎ国道311号と合流する。 |
「不寝王子社跡」・ 高原熊野神社から東へ3.3kmのところにあるはずだが所在不明。 「滝尻王子社跡」・ 富田川左岸の滝尻部落にある。五体王子の一つ。由緒ある王子社である。 ここで垢離をとり御歌会や神楽が開かれた。旧社地は明治22年の洪水で流され、その対岸に社祠を移した。 明治には、神社合併が行われたが戦後は各集落に御神体を持ち帰ったため、実質的にもとの滝尻王子社に戻っているという。 |
滝尻王子社跡・富田川左岸堤にある五体王子社の一つ |
滝尻王子社跡・ 「滝尻王子」と彫った石碑が立つ社殿も立派である |
滝尻王子社を出て、長かった熊野古道中辺路の歩きも終わる。 富田川を渡ると国道311号と合流する。 合流地からよそ2km余国道歩きとなり、中辺路町真砂部落に清姫の墓がある。 |
清姫の墓・全景・清姫は中辺路町の生まれという |
「清姫の墓」・ 富田川と国道に挟まれた、ほの暗い木立の中にある。 小堂に祀られ、その左手に石造の板碑が立っているが、土地の人は、これを清姫の墓として手厚く供養している。 清姫は、”娘道成寺縁起”名高い悲恋の主人公。彼女の生誕地は中辺路町の真砂と伝えられている。 富田川には、清姫が垢離をしたところという”清姫ヶ淵”がある。 町内には清姫にまつわる遺跡が散在しているという。 |
清姫の墓・祠と石碑がある |
祠の横にある石碑・”煩脳の焔も消して今ここに 眠ります” 清姫の魂 |
清姫の墓から鮎川温泉バス停まで、距離2.2km。 途中、北郡トンネルが町境で中辺路町から大塔村に入る。 大塔村能登平部落が今回の終点。鮎川温泉バス停からJR紀伊田辺駅バス利用で帰宅。 本日の行程 L=20.8km 30,200歩 第1回 計(5日間) L=82.2km 134,800歩 鮎川温泉バス停 → JR紀伊田辺駅・JR和歌山駅・JR天王寺駅→近鉄難波駅→近鉄名古屋・JR安城駅 (発14:59 (バス) (発15:57) くろしお22号 (着17:46) (地下鉄) (近鉄大阪線) (着21:00) |