【第4回】・「第4日・平成14年4月27日 (土)」曇り (参考地図・第21図・第22図) スタ−ト・7時20分・八ヶ岳山麓・「ロッチ和田峠」・長野県和田村東餅屋 昨夜は季節の関係もあり泊り客は我々のみ。やはり場所柄、夏か冬だそうである。ロッチの主人も早起きは苦手のようであるが、何とか7時前には朝食を済ませ出発できた。 今日の歩きコ−スは、昨日のように獣道を行く予定であるが、ロッチの主人に聞くと和田村側は手入れが行き届き歩きやすいが、 下諏訪側は下草も刈らず道幅も狭く、ほとんど通行不能とのこと、国道を行くことにした。 写真の如く、左手の石畳が獣道に通ずる中山道で、直進する道路は国道142号は、左手に大きくカ- ブして和田峠トンネルを越す。 和田トンネルは以前、通ったことがあるが、当時はトンネル内は岩が露出したままのトンネルであったが、現在はトンネルも、前後の道路・法面・整備されているが、トンネル内は狭いままで信号機による片側通行である。 昨日の観音橋から新国道142号BPが完成し新和田トンネルも有料で通行できる。 お蔭さまで旧国道は交通量も少なく、ゆっくり下ることが出た。しかし道路は曲がりくねり九十九折の道路である。 和田峠トンネル中央が町境で小県郡和田村から諏訪郡下諏訪町に入る。 |
|
![]() 左手の石畳道は旧中山道・旧和田峠に至る道 右手の大きくカ−ブする道は旧国道142号・ 今回は旧国道を行く |
![]() 旧国道142号・和田峠トンネル・ 以前より大分改良され新国道のようであるがトンネルは 狭く片側通行 |
8時30分、西餅屋部落で、新和田トンネルを越してきた有料道路のBPと合流する。 合流点付近右脇に昔は、西餅屋茶屋本陣跡があったが、今はその碑だけがある。その碑も見当たらなかった。 しばらく歩くと左側ガ−ドレ−ル脇に中山道一里塚の標識が立っている。 「西餅屋・一里塚跡」・ 看板はあるが、塚がどこにあるのか判然としない。先ほどの唐沢一里塚と同様、道路が拡幅されて塚は宙に浮いてしまったか? 少し西へ歩くと、馬捨場跡がある筈だが見当たらない。文字通り荷運び中の馬が途中で死んだか、和田峠の急坂の登りにに堪えられず捨てられた馬跡であろう。 |
|
![]() 国道を下る途中見た・珍しい木の花か? |
![]() 同じく下る途中見た・山桜が咲き誇る |
![]() 西餅屋・一里塚跡・江戸より53里・看板あるが塚なし |
|
一里塚跡からおよそ3km余下った右手の法面下に浪人塚が見える。 「浪人塚・水戸浪士の墓」・ 元治元年(1864)11月20日、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち天狗党千人余は、攘夷延期を不満として上京する途次、松本・高島連合軍千余人が戦った和田峯碇澤合戦跡でもある。 主要武器は極めて初歩的で大砲十門ぐらい、猟銃少しだけで後は弓、槍刀が主な武器として使われた。半日戦に浪士軍に十余、松本勢四、高島勢に六柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。 天狗党はその後、敦賀で金沢藩に降伏、400人が斬罪となってしまった。この和田峠での死者のうち、六人しか名が分らない。 浪士墓入口には、峠道にあった念仏徳本碑、観世音碑が立つが、徳本碑は、表に南無阿弥陀仏と彫ってあり、文化十三丙子年(1816)の建立。 観世音碑中央に観世音、その左右に天下泰平 国土安全とある。 |
|
![]() 水戸浪士殉難石碑(元治甲子水戸浪士殉難こと 水戸東海棉列奉書 |
![]() 水戸浪士六人の墓碑 右 横田巳之助 岡本粂郎 中 不動院金治 鈴木當之助 左 鈴木 金蔵 大久保茂兵衛 |
![]() 浪人塚・水戸浪士の墓 (和田峯碇澤合戦跡) |
![]() 地元民に感謝をこめて水戸梅 標柱と梅樹 ”水戸尊襄志士の鎮魂と当地の皆様の 厚志を感謝し謹んで水戸の梅樹を献ず” と記されている |
![]() 樋橋茶屋本陣跡・下諏訪町樋橋 ・標石 跡地と説明板が立つ |
浪士跡を後に、暫く行くと樋橋部落に出る。 茶屋本陣跡のあったところ。標石と説明板が立っている。 「樋橋茶屋本陣跡」・(説明板) 江戸時代のはじめ、中山道は五街道の一つに指定されて幹道になり、宿駅の整備が行われ、その時、下諏訪・和田両藩間、五里十八丁(約22km)の峠路に立場茶屋として造られた一つがこの樋橋で、茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に何軒かの茶屋が出来た。 本陣には御殿と呼ぶ小建築があって文久元年十一月六日、和宮の休息所となった。 和田峯合戦の戦場になるなど交通の要地なるがゆえの事件が多くあった。 標石には”樋橋茶屋本陣跡”と記されている。 反対側に観音堂があり、背後に樋橋の人々の墓地がある。 |
以前は、この樋橋部落に国道に沿い旧中山道があったようであるが、今は殆ど通行不能で国道142号を歩く。 茶屋本陣跡から1km余に54里目の一里塚跡があるが、この塚も碑が立っているようであるが、見当たらなかった。 比較的人家の込み合う町屋敷部落を過ぎると、「木おとし坂」に出る。 「木おとし坂」・ 諏訪大社の御柱祭の際、伐り出した御柱を坂の上から落とすところがる。実際に伐りだすところは、国道から300m位山に入ったところ。 伐りだした御柱を国道から運び出し、142号を下る。 ここから里曳きまで常時公開している。 ”注連掛”(しめかけ)・昔は砥川を挟んだ向かいの山腹にあったが、山抜けのため此処に移動したという言い 伝えが残っている。あの荒々しい御柱祭山しも此処に終え里曳き迄の一ヶ月間注連掛けに休む。 里曳きは優雅できらぶやかな雰囲気が漂っているが、開始早々この段差で山出し同様に気の抜けな い祭りである。御柱はこの先、国道142号を下り、春宮・秋宮へと引き出される。 |
|
![]() 里曳き箇所・広場に置きここから ”坂おとし”の荒々しい行事がはじまる |
![]() 里曳きまでは常時公開している この坂を一気に落とす行事 |
木おとし坂を過ぎると落合部落で一部落を形成している。中山道は国道142号で、南へ1.5kmほど下ると左手に慈願寺、右手の法下を見ると諏訪大社・春宮が見える。右手が旧道(春宮の参道と思われる)で、その坂を下ると道標がある。 「慈願寺」・ 春宮の鬼門除けに建てられたもので、正安2年(1300)下社大祝金刺満貞が建長寺の一山一寧を招いて開山した禅寺。 鐘楼を兼ねた山門は、安永8年(1779)に諏訪の名工村田長左衛門の建立。 鐘は応安元年(1368)の作。この門の百華山の額は一山の筆。 左手に、和田義盛の刀石がある。この石は元和田峠にあった石で、刀で刺したような穴があいている。 慈願寺からは、右の坂道を下り春宮・万治の石仏をみて旧道(春宮参道)を下り、中山道へ戻るコ−スを取った。 |
|
![]() 慈願寺・参道と山門 |
![]() 慈願寺・二層式の山門 鐘楼を兼ねる |
![]() 慈願寺・本堂前の松 |
![]() 慈願寺・本 堂 |
29「下諏訪宿」・ 「諏訪大社・下社・春宮」・ 日本全国に、5,000余の分社をもつ諏訪神社の総本社で、社殿は諏訪市の上社本宮・茅野市の上社前宮・下諏訪町の下社秋宮 同春宮の4社に分れている。 どの宮も山や神木を社殿的に見なすという原始的な神社の形態を残している。 春宮と秋宮について、古書には”坂をくだり口に、下の諏訪大明神あり 是を春宮といふ 是町の北の方なり 其先町のひだりにも大明神の社あり 是秋宮といふ 東の方なり 大明神を正月朔日に春宮にうつし 七月朔日に秋宮に移し奉る毎度神輿にのせ参らす 元日には祭礼なし七月朔日に祭りあり 春宮にましますとき 秋宮は空社なり 秋宮にましますは春宮は空社なり” 今は正月は二月一日、七月は八月一日に変わり、八月一日はお船祭りとも呼んでいる |
|
![]() 春宮・鳥居前と参道 |
![]() 春宮・社 殿 |
![]() 春宮一之柱 (左側) |
![]() 春宮一之柱 (左側) |
![]() 万治の石仏・ |
「万冶の石仏」・ 春宮鳥居前から120mほど、砥川の橋を渡り川沿いに北東へ入ると、畑の奥にある。 高さ2.5mの自然石に手や衣文が陽刻され、その上にユニ−クな仏頭をのせている。 石仏の横に”南無阿弥陀仏”と、万冶3年(1660)の年号を刻んでいる。 春宮の鳥居を造るための石にノミを入れると血が流れたので、霊の宿る石であるとされて阿弥陀如来をまつったといわれる。 |
春宮から南へ下る道が国道142号の旧道で、春宮の参道とも思われる。 この旧道には、かなり年代の古い家も見られ、昔の旅籠も見られる。なかでも諏訪温泉三大元共同浴場(且過湯・児湯・綿の湯)の一つ、且過湯が見える。 「且過湯(たんかゆ)」・慈雲寺の雲水のための且過寮に属した湯で、58度という高温で湯量も豊富。ここから引き 湯している旅館も多い やがて旧道も中山道・国道142号・と合流する。 合流地からすぐ南に、元共同浴場の一つ児湯があり、その手前に元旅籠うらかめやがある。 また、中山道と甲州街道の分岐道になっている、綿の湯・諏訪大社秋宮・鳥居前辺りが追分である。 「児 湯」・泉質がよく、伝馬宿内のものだけが使用して公開しなかった。旅籠屋に内湯できたのは明治直前 のことで、それまでは旅人もみな、この共同湯を利用していた。今もこの共同湯は盛んに利用され ている。 「元旅籠うらかめや」・今も旅館として営業しているようである。 この先左手に、昔の旅籠中川、その隣が本陣跡・亀屋ホテルがあり、南隣の綿の湯前に、石標と綿の湯がある。 綿の湯の西隣は檜物屋、綿の湯前に桔梗屋、その西隣は旅籠みなとやなどがある。 「昔の旅籠中川」・ 本陣門の北にある。入口の土間など昔のまま欄間の透かし彫りも残っているそうである。 「本陣跡・亀屋ホテル」・ 本陣と私宅は区分されていたが、今は一部が亀屋ホテルとなり、門は文久年間(1861‐64)のもので、表から見ると立派なものである。 庭園は中山道随一といわれ、確か有料で拝観できる。 「石 標」・ 綿の湯前に立っていて道標の役目も果たしている。 ”中山道下諏訪宿問屋場跡”と刻まれている。 同じく ”甲州街道終点 右 江戸へ五十三里十一丁”・”江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁” と刻まれている。 「綿の湯」・ 諏訪明神の神湯とされ、上社の諏訪明神夫妻が喧嘩をして、女神が下社に別居させられることになった折、女神は”私の化粧の湯だから”といって、綿に湯を浸して持ち、諏訪湖を船で渡られた。 その途中で雫のこぼれたところから、それぞれ湯が湧き、持っていた綿を置いたところからも湯が湧いた。それが今の綿の湯で、このために上社の湯という伝説がある。 今はすっかりぬるくなったという。 「檜物屋」・ 綿の湯の西隣、今は民家であるが、昔は下問屋を勤めたこともある格式高い旅籠屋だった。 ここには膝栗毛の十辺舎一九も泊ったことがあるそうである。 「桔梗屋」・ 綿の湯前にある。今も同じ場所で旅館を続けているが、建物は大分改良された。 「みなとや」・ 民芸風の店で、桔梗屋の西隣り、江戸時代からの旅館で、店先には古い看板を下げている。 「塩羊羹の新鶴」・ 追分から秋宮よりにある。朝など列を成している。 「追分」・ 甲州街道(国道20号旧道)と、中山道・諏訪大社秋宮で合流する地点をいう。 先の綿の湯そばに立つ石標には、”甲州道中終点 右江戸へ五十里十三丁”また、”江戸より五十五里七丁 正面京都へ七十七里三丁”と記されている。 春宮からの旧道が国道に合流する地点から、中山道の北方面(木おとし坂方面)は歩いてないので主要地のみ挙げると、 一里塚跡・江戸から55里。 来迎寺・などがある。 |
|
![]() 下諏訪宿・”旦過湯”・(右側赤字の看板) 中山道旧道(春宮参道?)・正面・春宮鳥居 |
![]() 下諏訪宿・”児湯”・(白壁の看板がある) 手前の建物・昔の旅籠うらかめや) |
![]() 下諏訪宿・本陣 兼問屋場跡・今は一部が亀屋ホテル 庭園は中山道随一 門は文久のころのもの |
![]() 下諏訪宿・”綿の湯” 手前は石標立つ |
![]() 諏訪大社・秋宮 四社の一つ |
![]() ”追 分”・甲州街道(国道20号旧道・写真正面の狭い道) 中山道の合流地 |
これで今回の日程は無事終了した。出発時の天気予報は2日は雨降りとの予報に、覚悟して出かけて来たが、雨に降られることなく何よりであった。しかしこの冷え込みには驚かされた。 13時20分着。 JR下諏訪駅 塩尻・名古屋経由で帰宅。 今日の記録 L=15.3 km 31,300歩 第4回 計 L=78.1 km 136,800歩 |