宝 珠 寺(ほうしゅじ)
住 所 東海市富木島町貴船
宝珠寺観音堂とその奥が本堂 |
在原業平坐像 (高さ42pの木彫り) |
業平塚(五輪塔) 宝珠寺から少し離れた所にある |
宝珠寺と観音堂(市指定文化財)
平安時代に在原業平が創建したと伝えられています。平安時代末に融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人が、その父である藤原道武の帰依によって正法山一心院を建立し、藤原家累代の墓所(正法塚/市指定)としたといい、藤原道武は業平塚(市指定)の脇に開基を在原業平とする寺院(宝珠寺)を復興し、業平等の菩提塔を建立したといわれています。
室町時代の天文2年(1533年)に長源寺の開祖である大中一介の法嗣(ほっす)二世静室興安禅師が宝珠寺を曹洞宗に改宗し、江戸時代になると元禄年間(1688年〜1704年)以降、富田城跡で良忍上人の誕生地とされる現在の場所に、寺本城主播磨守花井勘右衛門信忠の末裔の花井勘右衛門が移建したと伝えられています。
宝珠寺観音堂は棟札によって正徳5年(1715年)に建てられたことがわかり、建物の様式的にも江戸時代中期のものと思われます。大工は平島村の杉江忠右衛門と記されています。観音堂の一部は改修されていますが、内も外も当初の姿をよくとどめており、伝統的な技法を守って建てられ、三間堂としても形が整っており、建築の質も高く、江戸時代中期の建築として高く評価されています。
在原業平坐像(市指定文化財)
高さ42pの木彫りで、衣冠束帯に笏を持ち、2段の基壇の上にすわっています。厨子に安置され、彩色美しい像です。厨子の中から発見された木板の墨着によって、天明期(1781年から1789年)の造象寄進であることがわかっている。平安時代初めの在原業平(825年から880年)とは時代があいませんが、この地には多くの業平伝説が残されている。
業平塚・五輪塔(市指定文化財)
業平塚は,平安時代に六歌仙の一人に数えられ,『伊勢物語』の主人公となった在原業平を祀ったものとされる五輪の供養塔である。伝説によると,業平が東国に下るとき,この地にたどり着いた。このことを聞いた女官が,京から後を追ってきたので,業平はとっさに椎(しい)の木に登り身を隠した。しかし,根元にあった井戸の水鏡に映った業平の顔を見て,女官は我を忘れて井戸に飛び込み死んでしまった。これを憐れんだ業平はこの地にとどまる決心をした。業平の死後,彼らの霊を弔うために五輪の供養塔を建て,「業平さま」と呼んで大切にしたという。
また,『張州雑志』(ちょうしゅうざっし)には,「昔,業平が伊勢からこの地に移り,しばらくとどまった。この時,寺を建立し一心寺とした。この寺は廃寺となったが,本尊及び石塔,位牌は宝珠寺に移した」とある。宝珠寺には,業平の守り本尊で行基の作と伝えられる寄木造りの観音菩薩像と,業平の位牌がまつられている。